第55話


 ノックがした。




「お茶を持って来ました」


 陽來の母親が顔を覗かせる。

 さっと立ち上がった姫条が「ありがとうございます」とそのお盆を受け取ろうとする。と、母親は「あら、いいのよ。座ってて」と部屋に入ってきた。


「お気遣いなく。大丈夫ですので」


 それでも姫条は手を伸ばしたが、母親はそれを制すとグラスに入った麦茶を姫条の前へ置き、もう一つのグラスを陽來の方へ置いた。それから、テーブルの真ん中にクッキーの入った皿を置く。


 当然、俺の前には何も置かれない。


「お母さん……?」


 母親の手元をキョトンとして見ていた陽來が瞬きをしながら口を開く。


「先輩の……」

「あああ、俺はお茶はいいって最初から言ってあったんだ! 喉、全然渇いてないから……」


 咄嗟に言っていた。「え?」と陽來が俺を見る。

 だが、母親には俺の声も聞こえていないわけで。


「陽來ちゃん、どうし……」

「あ、あの! 陽來さんにメロン渡したので、よろしければ召し上がってください」


 姫条の声に、母親は陽來からその手元の箱へと目線が移り、「まあ!」と口元に手を当てた。


「すみません、こんないいもの頂いて」

「いえ……」


 姫条のこめかみに微量の汗が見えるのは錯覚ではないだろう。


 母親は「じゃあ、ごゆっくり」と言うと、お盆を持って出て行く。ドアが閉まるガチャ、という音と同時に俺と姫条はふうーと長い息を吐いていた。



「先輩、ほんとに飲み物いいんですか? あ、コーヒーだったら飲みますか? うちにありますよ」

「いや、いい。最近、胃が荒れてるみたいなんだ。コーヒーもあんまり飲みたくない」


 と、「えっ」と陽來が顔色を変えた。


「それ、大変じゃないですか! カッコつけてブラック飲むからいけないんですよ。うちに胃薬あるはずです! お母さーん!」

「「いいってば!」」


 同時に言って腰を浮かす俺と姫条。

 陽來がぱちくりと瞬きをした。


「なんで姫条先輩まで……?」


 コホンと咳払いをして姫条が腰を下ろす。



「ところで、神々廻さん。こんなときで悪いけれど、やっぱりあなたが死神になるのはやめた方がいいわ。死神になるには、あなたは優しすぎる。死神は自縛霊と接して未練を叶えるけれど、同情したり仲良くなったらいけないのよ。マユリの件でわかったでしょう。その増幅器も渡してもらえるかしら」


 言うなり姫条の手が陽來へ伸びた。刹那、


「嫌だっ! ダメっ!」


 悲痛な叫びが響いた。陽來が手首を押さえて身体を丸くする。その過剰な反応に姫条も俺も呆気にとられた。


「神々廻さん……?」

「……これは、ダメなんです。これだけは、どうしても……」


 陽來は涙声だった。

 姫条は中途半端に手を持ち上げたまま、困惑顔になる。


「……そこまで言うならわかったわ。でも、これに拘る理由だけは聞かせて」


 座り直した姫条が訊く。けれど、陽來の緊張は解けなかった。布団に包まったまま陽來はくぐもった声で言う。


「……これは、わたしのじゃなくて、お姉ちゃんの、だから……」



 お姉ちゃん。



 時折、陽來の口から出てきていたその単語。


「それは本当に神々廻さんのお姉さんのものなの? あなたはお姉さんがそれを使うのを見たの?」


 食いついた姫条に陽來は応えなかった。拒絶するように陽來の布団は丸くなる。


「……もう帰ってくれませんか?」


 陽來にしては珍しい言葉だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る