第49話


 けれど、俺の役目はそれで終わらない。



 意識を失った陽來の身体が遠ざかる。

 フェンスをすり抜け、俺は懸命に腕を伸ばした。

 距離が縮まる。けれど、倒れるのが早い。


 指一本分。


 俺の指先は陽來のブレザーに届くことなく、空を切る。


 食い縛った歯の隙間から息が洩れた。無我夢中だった。気が付けば、俺も陽來と一緒に空中にダイブしていた。



 耳を切る風が、迫る地面が、恐怖を呼び覚ます。鳥肌が全身を駆け抜けた。呼吸する間もなく、必死に伸ばした指がブレザーの袖を捕える。

 それを手繰り寄せた矢先、俺は校庭に激突していた。


 同時にドサッと陽來の身体が土っぽい大地に乱暴に投げ出される音を聞いた。俺は身体を起こすなり陽來に這い寄る。


「陽來っ! おいっ、陽來!」


 かろうじてブレザーの袖は掴めたから直撃はしていないはずだ。

 はだけたブラウスを掴んで揺することしかできないもどかしさに苛立っていると、陽來の眉がひそめられた。次いで「ん……」と呻きが洩れる。


「陽來!? 大丈夫か、陽來!?」

「……せ、んぱい……?」


 陽來がゆっくりと目蓋を開けた。

 ほっと俺は安堵の息を洩らす。


「あれ? わたし、なんで寝てるんですか……? ここ、校庭……?」


 首を横に倒して辺りを見渡した陽來が身体を起こしかけた瞬間、硬直した。


「どうした、陽來。どこか痛むのか?」


 訊いた俺に陽來はカクカクという擬態語が相応しい動きで顔を向ける。



「せ、先輩……わたし……先輩と、その、どこまで……」

「は? 何言って……」



 言いながら俺ははたと気が付いた。押し倒されたように校庭に投げ出された陽來の身体。ブラウスはマユリのせいでボタンが開けられたまま大きくはだけていて、状況を知らない人が見たらそれは陽來の傍らにいる俺がやったみたいで……。


「違う! 俺じゃない! 断じて俺は何もしてない!」


 慌てて後退る。

 ズザザザと距離を取った俺の前で、陽來が熟れたリンゴみたいに顔を赤らめる。


「ううぅ、ひどいです、先輩。わたし初めてなのに、いきなり屋外なんて……」

「誤解だってば! てか、そういう問題かよ!」

「神々廻さん!」


 ハアハアと荒い呼吸音と共に姫条の声がした。陽來が俺の後ろに目を留める。


「姫条先輩! わたし……ったー」


 身体を起こそうとした陽來がその場で身体を丸める。


「陽來!?」

「大丈夫、神々廻さん? 立てる?」


 姫条が陽來の傍へ駆け寄る。


「だ、大丈夫です……。先輩にちょっと激しくされたみたいで……」


 してねえよ。


「保健室へ行きましょ。打撲している可能性があるわ。私の肩に掴まって」



 陽來の腕を自分の肩に回させ、姫条は陽來を起こす。


「姫条先輩、初めてってこんなに全身痛くなるんですね。二回目もこんなに痛いんですか?」

「何の話をしているのかよくわからないのだけれど、その分だと頭は打っていないようね」


 一回、頭を打ったくらいがちょうどよかったのかもしれない、と思いつつ、俺は二人の後をとぼとぼと追った。



 風が吹き、桜の葉が一斉に揺れる。



 俺は無人の校庭をぐるりと見渡した。当然のことながら、どこにもマユリの姿は見当たらなかった。



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