第40話


「……その様子だと死神は説得できなかったようだな」




 ずうーんと重たい空気を背負って入ってきた陽來に、俺は手元のコーヒーを見つめながら言った。黒鳶色の液体は湯気を立てて、理科準備室に香しい匂いを充満させている。


「すみません、先輩……! 先輩に寄せて頂いた多大な期待を裏切る結果になってしまって、なんてお詫びしたらいいか……」

「うん、全く期待してなかったから、いい」

「ええぇぇっ!」


 陽來が悲鳴に近い声を上げる。


「ひどいです、先輩! わたしが姫条先輩相手に敵うはずがないって決めつけてたんですか!? それは、姫条先輩の方が美人だし、スタイルもいいし、いろんな経験してそうですけど……」


 おまえは一体、何を説得してきたんだ?


「実際、あいつは聞く耳も持たなかっただろ?」

「そ、それは……」


 幽霊に幽霊成仏の協力を仰いでいることを知らない陽來が口ごもり、うなだれる。それから力なく座ると布巾へ手を伸ばした。沸いているお湯を取る。




「……ちょっぴり、マユリちゃんが羨ましいです」




 コポコポとカップにお湯を注ぎ、陽來はビーカーを三脚の上に戻した。ふわりと漂ってきた湯気がアッサムティーの香りをつれてくる。


「考えたんです。もしわたしが死んで幽霊になったとして、死神がわたしを消そうとしたときに、誰かがわたしを守ってくれることなんてあるのかなって」


 アルコールランプの青い炎が静かに揺れている。外からは準備運動でもしているのか、サッカー部のかけ声が響き始めた。



「消えないでって言ってくれる人がいるって、幸せなことですよね。幽霊だから世間的には消えてることになるんでしょうけど、誰かが認識しているってことは生きてるのと同じじゃないですか。もちろん、生きてる人間と同じ生活は送れないけど、誰かがわたしの存在を認めて、放課後に集まったり休みの日に一緒に遊びに行ってくれるって、幽霊にとっては……ううん、幽霊じゃなくたって、恵まれたことだと思うんです」



『なんかね、わかるんだ。あたしも生きてるとき、クラスで一人ぼっちだったから』


 不意にマユリの言葉が甦った。



 陽來はティーバッグの紐をしきりに引きながら、紅茶を出している。次第に濃くなっていくカップの中。出しすぎくらいの色になって、ようやく陽來はバッグを引き揚げた。



「……あの、先輩。やっぱりはっきり訊いちゃってもいいですか?」



 紅茶を一口飲んだ陽來は、意を決したように切り出した。首を傾げた俺に、陽來は硬い表情のまま言った。


「先輩は、どうしてあのとき、マユリちゃんを庇ったんですか?」

「そりゃ、マユリは俺の友達だから……」

「本当にそれだけですか?」


 その言葉は俺の胸へ、すっと刺し込まれた。

 陽來は俺の表情の機微を逃すまいと、じっと視線を据えていた。切実な瞳が俺を映し出す。


「先輩は言いました。マユリちゃんが消えたら一人になるって。マユリちゃんがいない毎日は退屈で嫌だって。あんなに必死になってる先輩、わたし初めて見ました……」


 俺は渋い表情になっていた。


 我ながら醜いエゴだと思う。それを他でもない陽來にほじくり返されるのは痛かった。


「いつもやる気ない感じの先輩が、あんなに必死に叫んでいたってことはつまり、そういうことなんじゃないですか? 先輩にとってマユリちゃんはかけがえのない存在で、先輩はマユリちゃんのこと……!」

「ああ、そうだよ。おまえの言う通りだ。マユリのためじゃない。俺は俺のためにマユリの成仏を止めたんだ」


 もう勘弁してくれ、と遮るように。自嘲気味に言った途端、陽來の瞳が揺れた。



 ――え?



 呆気にとられた俺の前で、双眸は急速に潤み始める。俺の動揺などおかまいなしに陽來の瞳には涙が溜まり、


「やっぱりそうなんですね。なんとなく、そんな気はしていたんです。わたしより早くマユリちゃんは先輩の傍にいましたし、先輩もマユリちゃんには親しげに接していたから。でも――」


 嗚咽混じりの声。陽來の手が机の上で、ぎゅっと握り締められた。



「……マユリちゃんは幽霊なんですよ? 手を繋ぐこともできないし、抱き締めることも、触ることもできないって知ってますよね。先輩がどんなに頑張っても、マユリちゃんと結ばれることは絶対ないんですよ!? それでも先輩は……!」



 ぽたり、と雫が落ちた。まるで夕立ちのように、大粒の水滴は瞬く間に激しさを増して陽來の手を濡らしていく。


「陽來……?」


 何故、彼女が泣いているのか、そして彼女が何を伝えたいのか、俺にはよくわからなかった。だが、長い睫毛を伝って流れる煌めきは何よりも純粋で、女の子を泣かせているという状況も忘れて綺麗だと思ってしまった。


 見惚れた刹那は永劫を錯覚させ――。


 気付いたら複雑な表情になっていたらしい。陽來が俺の顔を見てはっとする。


「……すみません、先輩。わたし、こんな意地悪を言うつもりじゃ……ごめんなさい、失礼します!」


 オロオロとした陽來は乱暴に目元を拭うと、逃げるように理科準備室のドアに向かい、



「陽來」



ドアノブを握ったまま、びくりと立ち止まる陽來。その首が恐る恐るこっちを向く。




「……おまえは、結ばれないんだったら諦めるのか?」




 陽來の表情を直視することはできなかった。

 答えを返すことなく勢いよくドアを開けた陽來が身を翻し消える。バタンとドアが大きな音を立てて閉まった。


「何、訊いてんだ俺は……」


 呟いた俺は、残された陽來のカップを見つめた。


 飲みかけのアッサムティー。俺は飲めもしないそれにそっと口をつけようとして、結局バカらしくなり全てを流していた。


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