第38話
「つまらないな。恋愛感情というのは様々なことの強い動機となりうる。それを放棄するのはもったいないよ」
「先生、俺が幽霊だって忘れてませんか?」
「幽霊だから恋はできない? 誰がそんな理不尽なことを決めたんだい? 恋とは、しないと決めてどうにかなるもんじゃないだろう。気付いたら深みに嵌まってるもんだ。自覚するか無自覚を貫くかは、本人次第だけどね」
……返す言葉もない。
「恋愛が成就するかどうかはさして重要なことじゃないんだよ。それに向かって努力できるかどうかが大事なんだ。それとも、ああ、そうか、思春期の男子にとっては恋愛より性欲の方がモチベーションとしては……」
「もういいです。俺、失礼します」
保健室に来たのは失敗だったようだ。俺は無用な感情を掻き立てられる前に立ち上がり、先生の机の脇を抜けようとして、
「キミは肉体が欲しくないの?」
思いがけない言葉に足を止めた。
横を見ると、雲林院先生の机の上にはずらりと本が並んでいた。幽体離脱、前世との対話、輪廻転生……。背表紙から察するにスピリチュアルな本ばかりだ。その脇にペン立てやメモ帳、そして時代錯誤のレターセットが申し訳程度に置かれている。
霊感のある人はやっぱりこっち側に興味を持つんだな、なんて納得をしながら俺は口を開く。
「欲しかったらくれるんすか? 無理ですよね。不可能なことを考えるのは馬鹿らしいですよ」
「馬鹿らしくはないさ。人間の強い願望をナメちゃいけない。強固な意志というのは時として限界を超える力を発揮するものよ」
そもそも幽霊自体がそういう存在でしょう?
言われて俺は口を噤んだ。
強い未練を残した魂は還ることを拒否し、自然の摂理に反して現世に留まり続ける。それが、幽霊。
「そして、実はそれはそんなに難しいことじゃない。憑依、という言葉を聞いたことくらいはあるだろう?」
「でも、それは……」
危険だって、と言いかけた俺は、眼鏡越しに見上げてくる瞳にぞくりとして言葉を呑んだ。見透かすような光を湛えた瞳が俺を捉えて離さない。
「キミは本当に幽霊のままでいいの? 実体のない身体でキミは満足できるの?」
「――」
息が詰まった。
現状に不満はない。でも、もし生身の身体が手に入るのなら。そんなことができるのだとしたら――。
そのとき廊下から声が聞こえた。
「せんぱーい! いるんですかー? いるなら返事してくださーい! いなくても返事してくれないとどこにいるかわかりませんよー!」
無茶苦茶な呼びかけに雲林院先生は眉を持ち上げた。同時に瞳の魔力から解放された俺は、脱力しながらも歩き始める。
聞いてしまった以上、理科準備室の前で叫ぶ陽來を放置しておくわけにはいかないだろう。
「相談があったらまた来なよ、青少年」
雲林院先生の言葉を無視して保健室のドアを開けると、陽來が勢いよく振り返り、ぱっと表情を明るくさせる。
「あっ、先輩!」
「いない奴に向かって返事を求めるな」
「いるじゃないですかー、先輩。どうして三日も来てくれなかったんですか? 合鍵を持っている先輩がいないおかげで、わたしたち、理科準備室使えなかったんですよ」
「それは悪かったな」
後ろをちらりと見ると、雲林院先生は我が子の成長を見つめるかのごとく微笑んでいた。
俺は陽來の八割方的外れな文句にため息で応え、後ろ手でドアを閉めた。
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