幕間 記憶の断片 ――約束
第36話
それから俺は彼女を見かける度に話しかけるようになった。
最初はよそよそしかった彼女も、出会って一週間もすれば彼女の方から喋ってくれるようになったし、笑ってくれるようにもなった。
話題は彼女の通う高校のことが多かった。俺がそれを好んで訊いたからだ。
楽しそうな彼女の学校生活を聞く度に、俺は憧れていた高校生活への夢想を膨らませた。無機質な白一色に塗り潰された退屈な毎日を過ごす俺にとって、彼女の話は多彩な色に満ちていて、彼女と話している間だけは自分の境遇を忘れることができた。
電話番号も交換した。
家族からしかなかった俺のスマホの履歴は瞬く間に彼女の名前で埋まり、彼女と会えないときはそれを眺めてニヤニヤするのが日課となった。メールなんて幾度も読み返して、完璧に文面を暗記していた。
一日中、彼女のことを考えていて、彼女との時間以外の全てが上の空だった。
だから、あの日の彼女を見たとき、世界が崩壊するかと思った。
窓ガラスの割れる音、悲鳴、何かの破壊音……。
遠巻きにしている人の隙間から、丸イスを振り回す男と対峙する彼女を見つけたとき、俺は咄嗟に駆け出していた。
無理をしちゃいけない。そう言われていたことが一瞬、脳裏を掠めたが、そんなことで俺は止まれなかった。
男に横からタックルをかます。が、運動不足の俺では体格のよい男を引き倒すことはできず、逆に跳ね飛ばされた。壁に叩きつけられ息が詰まる。彼女の叫ぶ声が聞こえた。
目を上げると、男はイスを彼女へ振り上げていた。
無我夢中だった。
走った。彼女を庇うように押し倒す。来るべき衝撃に備えて身を固くした俺は、だが、一向にやってこない打撃に訝しんだ。
身体の力を抜く。すると、今まで意識していなかった腕の中の柔らかさが急速に実感を持ち、
「……どいてくれる?」
「ふおぉっ!」
腕の中から声がして俺は飛び退いた。どうやら彼女をぎゅっと抱き締めていたらしい。
身体を起こした彼女は頬を真っ赤にしていた。
ドキドキが止まらない。俺も目を逸らすと、倒れている男がいた。意識を失っているのか、ぴくりともしない。傍には丸イスが転がっている。
「怪我はない?」
訊かれたのは俺だった。彼女が俺を覗き込んでいる。
「おまえこそ! なんで逃げなかったんだよ……!」
俺には彼女が男に立ち向かっているように見えた。彼女はスカートの裾を払うと、ふっと諦めたように言った。
「これがわたしの幽霊退治よ」
「幽霊じゃないじゃないか! あの人は絶対、幽霊じゃないぞ!」
「幽霊に憑かれていたのよ。だから、わたしが祓ったら大人しくなったでしょう?」
俺はもう一度、男を見た。確かに俺たち以外の第三者が介入して男を昏倒させた形跡はない。
それでも俺は怒ったような表情になるのを抑えられなかった。彼女は寂しそうに笑う。
「……やっぱり信じられない、かな?」
「そんなことが言いたいんじゃない。幽霊退治って、こんなに危ないことなのかよ」
「大丈夫よ、組織で訓練も受けてるわ。これくらいは平気……」
「平気じゃないだろ! やめろよ。幽霊退治なんて、おまえが危険な目に遭ってまでやることじゃねえだろ! おまえに何かあったら俺は……!」
その後は続けられなかった。
彼女があまりにも呆然としていたから。
言い過ぎたか。別に彼女とは付き合っているわけでも何でもない。ただ、夕方のひとときを同じ場所で過ごし、互いの身の上を話すだけの間柄だ。携帯の番号を交換したのだって、特別なことじゃないはずだ。
少なくとも、彼女にとっては。
だから俺が、彼女に幽霊退治をやめろなんて言う権利はないのだ。
後悔していると、思いがけない優しい声がした。
「心配してくれるのは嬉しいけど、やめられないわ。わたしにも事情があるから」
「ああ……」
事情は以前に聞いていた。
彼女は幽霊退治をやめられない。なら、それならば――
「俺が守るよ」
思わず言っていた。
彼女が瞬く。
けれど、言い出した言葉は止まらなかった。誇張でも何でもなく本心だった。俺の中で彼女は何より大切で、決して失いたくない存在になっていたから。
「おまえがいなくなった世界に、きっと俺は耐えられない。だから俺は、全てをかけてでもおまえを守るよ」
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