第35話


「いいよ、ハル。ありがと」




 背後からの声に俺は足元がグラついたような気がした。


「マユ、リ……?」


 後ろを見ると、マユリは吹っ切れたような笑みを浮かべていた。普段のマユリからは考えられない、静かな微笑だった。


「あたし、未練叶ったからもう平気だよ。消えちゃうのも怖くない」

「何言ってんだよ!?」


 思わずその肩を掴もうとして、俺の手は空を切った。マユリはそれをすっかり受け入れたような表情で見つめる。そんなマユリに俺は苛立った。


「ふざけんな、なんで諦めてんだよ! おまえらしくもない。ここで諦めずに最後まで無茶苦茶な方法で抵抗するのがおまえだろうが! わかってんのか、消えちまうんだぞ!? おまえの存在が、この世界からなくなっちまうんだぞ!? おまえはほんとにそれでいいのかよ……!」


「楽しかったよ、ハルと過ごした一か月。人生で一番、楽しかった。ほんとだよ。あたし、このために生きてたんじゃないかって思ってるくらいだもん」



 もう死んでんだろうが。


 そんなツッコミは胸の奥で消えた。


 頭の芯が熱い。


 何が俺の感情をこんなにも乱しているのか、わからない。いや、わかりたくない、のか。



 そのとき左耳から緊張感のない声が響く。


「はわわ、姫条先輩!? 武器なんて出してどうしたんですか!? 幽霊退治ですか!? わたしも加勢を……!」

「神々廻さんは手を出さないで。黙って見てなさい」


 姫条の冷徹な声が響く中、俺は言っていた。


「っ、逝くなよ。逝くな……! 勝手に一人で満足してんじゃねえ! 残された俺はどうすりゃいいんだよ!」


 マユリがはっとした表情になった。



「おまえが消えたら、俺はこれから誰と孤独を分かち合えばいい? この退屈な生活を、いつまで続くかわからない日々を、俺に一人で過ごせって言うのかよ。おまえがいなくなったら、俺はどうしたらいいんだよ、マユリ……!」



 エゴだ。完全に俺のエゴだ。

 マユリはもう覚悟できてるっていうのに、俺がそれを許したくない。俺にマユリの成仏を止める権利なんてありはしないのに。


 気付いてしまった。

 そう、楽しかったのだ。

 マユリと過ごした日々。トラブルばかり起こすマユリに表向きは呆れつつも、救われている自分がいた。マユリがいたから俺は退屈で死ぬことはなかったのだ。




「神々廻さん、これが死神の仕事よ。どんなに親しくなったとしても、彼らは本来、還らなければならない存在なの」


 姫条がクロスボウを構える気配がした。




「逝くな、マユリ――――!」




 慟哭が青空に響き、鋭い風が俺の頬を掠めた。


 思わず閉じてしまっていた目蓋を恐る恐る開けると、マユリは何事もなく立っていた。矢が当たった形跡はない。


 左耳から姫条の「そんな……」と放心したような声がした。次いで、


「許さない……!」


 猪突猛進。いきなり駆けてくる姫条に、「ヤバっ」とマユリは空へ舞い上がった。


「ダメだ、マユリ! 飛んだら撃たれる……!」

「大丈夫! さっきの矢も平気だったし」


 え? さっき当たっていたというのか?


 ツッコミも忘れて呆然とする中、マユリはくたびれ始めた青空へ羽ばたいていく。

 それを見送った俺に草上を力強く駆ける危険な足音が迫り、



「死をもって償いなさい!」


 振り向きざま、俺の頭と胴体は漆黒のクロスボウによって一瞬離れた。だが、物騒な言葉とは裏腹に、俺には髪の毛一本ものダメージもなかった。せいぜい俺がびっくりして自分で尻餅をついただけだ。


「どうしてくれるの! あなたのせいでマユリはまた未練を作って還れなくなったのよ! そんなことして、あなたは……!」


 激昂する姫条を見上げ、俺はぽかん、としていた。

 何が起きたのかよくわからなかった。マユリが消されそうになって、でも、俺のせいでまた成仏できなくなった……?



「姫条先輩、アイス溶けちゃいますよ……?」



 アイスのカップを両手に駆け寄ってきた陽來に気力を削がれたのか、姫条は怒りを収めた。またいつもの氷の仮面へ戻り、俺たちに背を向ける。


「……あなたに協力させた私が馬鹿だった。マユリの新しい未練は私一人で対処するわ」


 言い捨てて歩き始める。


「姫条先輩! アイスは……!」

「あげるわ」


 追い縋ろうとしていた陽來の足が止まる。

 家族連れの麗らかな春の日暮れの中を一人、去っていく姫条。その姿を黙って見送った陽來はくるりと俺を振り返った。


「先輩。先輩が友達のマユリちゃんを庇ったのは間違ってないと思います! でもって、姫条先輩が幽霊のマユリちゃんを成仏させようとしたのも間違ってなくて……あれ? どっちも間違ってない?」


 ジレンマに首を傾げる陽來を見下ろし、俺はため息をついた。


「おまえは気にすんな。……溶けるぞ」


 陽來の手にあるカップでは、ピンク色のアイスの表面がかなり溶けている。


「え。あ。ああっ!」


 指摘され、陽來は両手のアイスの存在を思い出したようだった。慌てふためく陽來を横目に俺は芝生に横になる。


「ほら、早く食えよ。食い終わるまで待っててやるから」


 傾いた陽が俺に覆いかぶさってくる。今は何も考えたくなかった。目蓋を閉じて頭の中を空っぽにしようと努めていると、


「……先輩。一つ食べてくれませんか?」


 カップを持った陽來の顔が逆さまに映った。


「悪いな。甘いもの苦手なんだ」

「そうですか……」


 あからさまにショゲた陽來が俺の横にぺたんと座り、アイスを口に運び始める。俺の顔の横にはもう一つのカップが置かれている。



「……しゃっくりが出そうなくらい冷え冷えです」


 陽來の全くそそられないグルメリポートに、俺は「そうか……」と相槌を打った。


 空の向こうには夕闇が訪れようとしていた。

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