第5話
母のお芳が死んだ。まるで清次郎の帰るのを待ち焦がれていたような死に方だった。二年近く寝たきりの亡骸は、子供のように小さく枯れていた。北風が強い十一月の初めに、葬いを出した。清次郎は、宗吉を喪主にして、自分は控え目に葬いを手伝った。
お芳がいなくなると、家の中は急にガランとした。清次郎は殆ど毎日、毎晩のように家を空けた。帰ってきた翌日、「木でも買いな」と言って、宗吉に五両という大金を渡したが、よほど金を持っているのか、夜更けて帰ってくる兄は、したたかに酒が匂った。お咲の店に入り浸りだという噂もあった。足が遠くなった宗吉のかわりに、江戸仕込みの兄貴が、角政の市五郎とお咲を張り合っているのだ、という嘲りの声も耳にした。
宗吉は、そんな噂をよそに、せっせとこけし作りに精を出した。気に入ったものは、まだ出来なかった。簡単な造作なのだ。毎日描いていれば、わけもなく運人だ。だが、その中に気品を滲み出させる。これは難しいことだった。宗吉は、密かなあせりを感じてきていた。そんな宗吉を、清次郎は時折じっと視たが、何も言わないのだった。昼の間は奥座敷に敷いた万年床にごろごろ寝ていた。そうかと思うと、ある時は日射しの明るい南向きの濡縁に出、膝を抱いて、冬近い雲の流れに長い間呆然と眼を投げていることもあった。痩せた長身のまわりに、秋風が鋭い音を立てた。
今夜も清次郎は宵のうちから外に出た。
「兄ちゃん」
綱取りが一段落した後で、手を休めたお雪が呼んだ。目の周りに疲れが滲んでいる。
「疲れたか」
「あたし、上の兄ちゃんが恐いよ」
「どうした?」
宗吉は今仕上がったばかりの、肌の白いこけしの上から眼を挙げてお雪をみた。絣の袷の上から袖無しを着て、お雪はうつむいている。灯がゆらぐと、眼鼻が微かな影を帯びてハッとするほど美しかった。
「兄ちゃん、あたしはもらい子だったのね。ちっとも知らなかった」
「誰がそんなこと言った?」
宗吉はうろたえて早口に言った。
「上の兄ちゃん」
「つまらねえことを言ったもんだな、兄貴も」
「昼間、上の兄ちゃん、あたしの手をひっぱったのよ」
思わず宗吉は、こけしを下に置いて、あぐらを組み直した。
「それでどうした?」
「お前はもらいっ子なんだから、本当の兄妹じゃないから、いいんだ、いいんだって」
お雪は、その時のことを思い出したらしく、頬を青白くさせた。恐いのは、そのことばかりではなかった。四、五日前、庭の井戸端で水を使っている清次郎をみた。裸になった上半身は、すさまじいほどに筋肉の張りをみせていた。しかし、お雪を立ちすくませたのは、肩から背にどす黒く走る傷痕だった。気配に振り向いた清次郎は、さりげなく肩を入れながら、凄い眼をしていったのだ。
「宗吉に言うんじゃねえぜ」
「で、兄貴はその、何もしなかったのか」
「あたし、思い切りひっぱたいてやって、お菊さんの家に逃げたから」
お雪は笑いながら言ったが、また真剣な眼になった。
「宗兄ちゃん、隠さなくてもいいのよ。本当のこと言ってよ。もらい子だからって、今更、兄ちゃんの家を出ていくつもりは無いけど」
「困ったな」
「やっぱりそうなのね」
「だが、いや、本当言えばそうなんだ」
「やっぱりそうなのね。あたしは、ちっとも知らなかった」
「そんなことは、どっちでも大した違いはねえやな」
「ちがうわ」
お雪はうつむいたまま暫く黙っていたが、顔を上げて宗吉をみつめると、低い沈んだ声で言った。
「兄ちゃん、あたしのこと話してよ」
「何を話すんだ」
「あたしが小さい時の話し」
「そうだな、お前がこの家にきたのは、俺が七つか八つの頃だ。お前は生まれたばっかりで真っ赤な顔をしていたのを憶えているぜ。親爺が預かってきたのだ」
「どこから」
「秋田からだ。お前の両親は、家の親爺と同業の材木屋だったそうだ。いまは行方がわからない。みんな江戸に行ったという話だ」
「それから?」
「はじめは黒子だったのだ、お前は。だが両親がいなくなっちゃったから、この家の子供になっちまった。お前が二つ、三つになるとな、俺は毎日お前を背中に背負って外に出た。それが俺の仕事だったのだ。親爺も、おふくろも、兄貴も忙しかったのだろう。お前に構っちゃいられなかったようだ。ほかの子供はな、町外れに出て、戦ごっこや、矢投げ、根っ木遊びで、野っ原や川っぷちをどんどん走り回っていたが、俺はお前を背負っているから走れなかった。それで、いつも仲間はずれにされていた。だからな、お前なんかいなきゃいいのに、と何遍もそう思ったものだ。足をつねってな、赤ん坊のお前をわざと泣かしたこともある。一度、お前を野原に降ろして、矢投げで走り回ったことがあった。日が暮れて、家の近くに来るまで、お前のことを忘れていた。暗くなりかけた田道を、泣きながら走って戻った。お前が人さらいに持って行かれたに違いないと思ったのだ」
「あたしは、いたの?」
「うん。薄暗い田の畦に、置いたまんま笑っていたよ。俺をみるとな、ニコニコ笑い声を立てて抱きついてな。俺は安心して、腰が抜けたようになって、お前と抱き合っていつまでも笑っていたよ。その時から、俺はお前がもらいっ子だということを忘れちまったのだ」
お雪がうつむいて、鼻をすすり上げた。
「それに、お前は、背負っている俺の背中に何遍も、しょんべんをひっかけてな」
「それにお前は可愛かった」
お雪が顔を上げて座った
「だが、いや、本当言えばそうなんだ。ね、お雪。お前が妙なことおこさねえように、俺ははっきり言っとくが、お前の家はここよりほかは無いんだぜ。そうとも。お嫁に行くときも、俺が立派に支度して出してやる。心配することはねえ」
お雪の見開いた眼から、続け様に涙がこぼれた。
外から戸が開いて、清次郎が仕事場をのぞき込んだ。
「どうだ、はかどるか」
「いや、だめだ」
宗吉は重苦しく答えて、かたわらのこけしをとりあげた。清次郎が仕事場に入ってきた。
酒の臭がむせるようだ。
「宗吉、木は何を使ったんだ」
「アオハダだが」
「アオハダか」
清次郎は落ち着きなく、立ったまま身体をゆすっていたが、
「そいつはどうかな、中干しでよく鉋は乗るがな、ひびが入るぜ」
「だが、ギシャは節があるし、イタヤは中干しでは使えないし」
「やまつつじを、お前は知ってるか」
「知ってる」
「悪いことは言わねえ、あれにしろよ。あれを使うやつは、あまりいねえ筈だ」
「兄貴、俺はアオハダが好きなんだ」
「そうかよ。兄貴の意見なんざ、聞きたくもねえってわけか」
「ま、いいから、もう寝んだらどうだ。酒臭くてやり切れないよ」
「何だ?お前、俺が邪魔なような口振りだな。ま、いいや、そのうち、どうせ行っちまうんだから。おおきに、仕事の邪魔したな」
ふらりと茶の間に上がっていった清次郎を見て、お雪は眉をひそめた。
「大きい兄ちゃんて、昔からあんなだったの」
「馬鹿言え、昔はいい人だったよ。すっかり変わっちまったんだ。江戸で苦労しすぎたのさ」
宗吉は重い口調で、そう言ったのだ。
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