別の人間になりきって、別の人生を歩む

 いつものようにマグカップにインスタントコーヒーを入れ、お湯をそそぎ、ミルクを入れてからスプーンでかき回します。それから部屋に音楽をかけて、執筆の準備完了!ここまでが私にとっての小説を書くための儀式。

 その瞬間、別の人生を歩み始めます。私はこことは別の世界で結婚していて、夫とはあまりうまくいっておらず、それでも懸命に努力して、どうにかこうにか折り合いをつけながら生きているのです。そうして、様々な人々と出会いながら、夫と共に成長してゆくのでした。

 もちろん、そんな経験をしたことなど一度もありません。それでも書かないといけないんです。別の人間になりきって、別の人生をあゆむ。まるで本当にその世界で生きているかのように。それこそが小説を書くということなのですから。

 

 あの人は「女優になりなさい」と言いました。「作家というのはなんでもできなければいけない。ストーリーを書くだけでは駄目。別の人間になりきって、さもその人生を歩んでいるかのようにリアリティを持って物語を描かなければならない」と。

 私はその言葉に従って生きています。最初はうまくいきませんでした。頭の中で考えて小説を書いていたために、なんだかギクシャクした文章になってしまっていました。でも、何日かするとコツがつかめてきたんです。空の飛び方のコツが。

 そう!あの人は、私に空の飛び方を教えてくれたのです。


 あの日から私の人生はガラリと変わりました。

 それまで「なんだか物足りない。何かが欠けている。ポッカリと心のどこかに穴がいているみたい」と感じながら生きていた私の人生に、突然光が差し込んだのです。それも目一杯めいっぱいのお日様の光が!


 それからの私の人生は最高でした。

 もちろん大変な日もあります。「なんだか調子が出ないな~」とか「今日は、あんまり書きたい気分じゃないな」なんて思う日もあります。それでも、ペースに乗り始め、指の先から自然と言葉があふれだしてくると、たまらなく気持ちがよくなってくるのです。天国に登っていくようなあの気持ち、あの感覚を一度でも味わったら、もうやめられません。二度と元の人生に戻ることはできないでしょう。

 きっと、麻薬依存症になった人ってこんな感じなのでしょう。もちろん、そんな経験は一度もありませんが、それでもその人たちの気持ちは手に取るようによくわかります。いつか、そんな人たちの物語を書く時も来るでしょう。その時は、私の今のこの気持ちを精一杯にぶつければいいのです。それで最高にリアリティのある麻薬依存症患者の小説が生まれるはず。


 そんな風に何もかもが私の人生に影響を与えてくれるようになりました。経験すること全てが、新しい小説を書くための役に立ってくれているのです。

 そのことをあの人に話すと、こう言われました。

「きっと、君はこの世界に向いていたんだよ。君は選ばれたんだ。小説の神に」

「小説の神様に?」と、私は問い返しました。

「そうさ。多くの人たちは選ばれない。口ではどんなに『小説を書くのがこんなにも好きなのに!』などと言っていても、実際には行動しない。なんだかんだとイイワケをして、結局は物語をつづることをしない。君のように毎日小説を書き続けられるというのは、それだけで特殊な能力なんだ」

「そうかしら?私だって書きたくない日はあるわよ。それでも無理をして机の前に座ると、なぜだか言葉があふれ出てくるの」

「それこそが神に選ばれた証拠さ!そんなことができる者は、この世界にほとんど存在しない。1万人に1人か。10万人に1人か。もっと少ないかもしれない。しかも君は止まることを知らない。毎日毎日成長し続けている。内容だって良くなってきている。書ける分量も増えてきている。スピードだってそうさ。1時間あたりに書ける文字数は格段に増えているじゃないか!」

 この人は、またおおげさなことを言っている。そう思いながらも、そんな風にめられると私も悪い気はしません。気分を良くして、また小説の続きを書き始めるのでした。

 きっと、この人は天才なのです。人を褒める天才。私以外のいろんな人に同じことを言って回っているのでしょう。

 でも、それでもいいんです。その言葉を信じて有頂天うちょうてんになって書き続けていれば、いつか本当にあの人の言う“一流の作家”にだってなれるかもしれないじゃないですか。

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