何を書いてもいいけど、何も書かないだけは駄目

 新作を書き始めてから何日かが過ぎたある日。

 私は突然立ち止まってしまいました。そうして、何も書けなくなってしまったのです。

「何を書けばいいのか、さっぱりわからなくなっちゃったんです」

 そうメールで相談すると、すぐにあの人から返事が返ってきました。

「何を書いてもいいけど、何も書かないだけは駄目」

 メールには、そう書かれていました。

 私は即座に返信します。

「でも、クオリティは落としちゃいけないんでしょ?それって、何を書いてもいいってわけじゃないんじゃないですか?」

 あの人から、またすぐに返事が返ってきます。

「確かにクオリティは落としちゃいけない。でも、それは意識しなくていい。君が自然にありのままの姿で書けば、それは必ず質の高いものになる。ただ、小説を書くのをなめちゃいけないっていうだけのこと」

 私はあの人からの返事を何度も読み返しながら考えます。

 クオリティは落としてはいけないけど、それは意識しなくてもいい。でも、小説を書くのをなめてはいけない。

 考えれば考えれば頭がこんがらがってきます。そうして、ますます何を書けばいいのかわからなくなってしまうのでした。


 しばらくひとりで考えていると、今度はあの人の方からメールが送られてきました。

「じゃあ、ひとつヒントをあげよう。君は一体誰のために小説を書いている?」

「誰のため?読者、かな?」と、私は打ち返します。

「多くの人たちは、それで書けなくなってしまう。よくある症状しょうじょうさ。いい小説を書こう書こうとしすぎる。読者に喜んでもらったり楽しんでもらったりという意識が強くなりすぎる。だから、筆がパタリと止まる」

「確かに。それはあるかもしれません。いいものを書こうと思うと、『これじゃいけないかな?』『こういうこと書いちゃいけないかな?』っていろいろ考えちゃって、書けなくなっちゃうんです」

「そんなことは考えなくていい。考えるべきは、物語の世界のことだけ。そこで生きている人たちの感情だとか生活だとか、そういうのは考えてもいい。でも、その物語を読んだ人がどう思うかなんて考えなくていい」

 私はそこまで読んで、「わかりました。やってみます」と返事を打つと、再び小説の執筆に取りかかりました。


 再びノートパソコンの前に座ると、頭の中を真っ白にし、マグカップにインスタントのコーヒーを小さじ1杯ほど入れてお湯をそそぎます。ブラックは苦手なので、ミルクを入れてスプーンでかき回します。

 小説を書くようになってから、コーヒーを飲む量が極端に増えました。

 昔からストレスを感じやすい性格で、人の期待にこたえられないとすぐにイライラしたり悲しくなったりしてしまうのです。なので、常になんらかのストレス解消法を必要としていましたが、今回はそれがコーヒーでした。

 カラオケボックスに歌を歌いに行くこともあれば、美味おいしいものを食べたり、映画館に映画を見に行ったり、お部屋の中でストレッチをしてみたり、旅行に行ったり、洋服を買いに行ったり。その時々に応じてストレス解消法は違いましたが、今回はそのどれもうまくいきません。小説を書くというのは、これまでとは違う何か特殊なストレスの感じ方をするのです。

 そうして、たどり着いたのがコーヒーを飲むことでした。それと音楽を聞くこと。


 音楽の方はストレス解消のためというよりも、小説を書くのに必要な儀式ぎしきのようなものでした。激しい曲、悲しい曲、愛をかなでた曲、世界に戦いをいどむような曲もあれば、世の中のむなしさを歌った曲もあります。

 おもしろいのは、聞いている曲に関係なく小説の執筆が進むということです。激しい曲を聞いているからといって激しい内容ではなく、悲しい曲を聞いているからといって内容が悲しくなるわけでもありません。全然関係がないのです。


 そうこうしている内に筆が進み始めます。

 あの人に言われた通り、読者を意識するのをやめました。その他のいろいろなしがらみについて考えるのもやめにしました。誰に読まれるとか、どう評価されるとか、読んだ人がどう感じるとか、そういうのはもうどうでもよくなっていました。

 ここまで来れば、あとは簡単です。スラスラと指先から言葉がこぼれ落ちていき、まるで呼吸をするように自然に物語が誕生するのです。

 そうして、今日の分を書き終わりました。気がつくと、1時間の間に2000文字近くも進んでいました。どうやら執筆スピードの方も格段に上がってきているようです。


 そうして、私はまたひとつあの人の言葉を理解したのでした。

「何を書いてもいいけど、何も書かないだけは駄目」という言葉の意味を。

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