エピローグ リターン・トゥ・ベース
12.
「――の船団の大規模襲撃から一ヶ月経ちましたが、その後も各地で散発的な船団による戦闘介入が強行されており、各企業は戦争の安定した遂行を確保するべく、電話会談を行っている模様です。各地の戦争管理会社は、各地の利権争いを一時的に凍結する提案を各社に行う予定です」
眠っていた。
私はソファから身を起こす。まだ夜明け前だ。空調が効いているから少し肌寒く、喉が酷く乾いていた。
ロビーは最低限の照明だけ残して、ラジオの音声だけがどこからか流れている。多分、受付か警備員の詰め所だろう。
ウォータ・サーバから水を拝借。三杯ほど飲み干してほっとひと息。コーヒーはまだいいかな。久しぶりに……本当に久しぶりに煙草を喫おうかと思ったけれど、私の好きな銘柄は最近、もうどこにも見当たらない。
「結果として、両者の利権は動かず、経営的には寧ろ好都合ではあります。今回の係争は地域の担当者同士が、一歩も面子を譲らなかったことに端を発したとも言えますので……」
ぼんやりした頭でコメンテーターの言葉を聞き流しながら、今、何時だろうかと考えた。考えても仕方ないので壁時計を見る。いちいち動作が鈍くて、これはまだまだ寝ぼけているなと自覚。
外で頭を冷やそう。
その建物を出ると、流石にまだまだ冷え切った空気が私を出迎えた。変なところで寝ていたから、伸びをすると躰のあちこちから音が鳴る。
バスまでの時間は三十分ほど。星を見て過ごした。そういえばシラユキも、暇さえあれば空を眺めていたっけ。こうして星を見る習慣は、父の影響もあって小さい頃はやっていたけれど、忙しくなってからは長いこと忘れていたものだ。
バスの中には、これから仕事に出るものや、帰宅する郵便連盟の職員でそれなりに混んでいた。何とか座れる場所を見つけて、鞄を抱きしめるようにして目を閉じる。誰かの嚔が聞こえた。
前の座席からぼそぼそと会話が聞こえてきて、聞くとはなしにそれを聞いている。会話からそれが郵便連盟の職員のものだと分かる。
「昨夜、メルケルが剣山連峰から戻らなかった」
「へえ、戻らなかったんですか」
両方とも男の声で、片方は陰鬱で、もう片方は酷く軽薄に応じていた。
「戻らなかったんですね。それで、連絡はありましたか?」
「いや」
ああ。
私はその言葉に沈んだ気分を味わう。
会話はそこで途切れた。
何故ならそれ以上の情報はないからだ。
「いや」という言葉の後、何も続くことはないからだ。
メルケルという名前は知っている。仲が良いというわけではなく、仲が悪いわけでもない。単に仕事が一緒だから、時折言葉を交わし、連盟の建物や、空港近くのレストランでたまに一緒に食事をしたりしただけの人だ。かれはベテランの郵便飛行士だ。それが連絡を絶ったきり夜明けまで沈黙を続けたということは、私たちにとってたった一つの事実しか意味しない。
こうして、私たちの僚友の一人がまた静かに、山々の向こう、空の果てに飛び立ち、それきり姿を見せなくなることがある。私たちはその喪失の事実をしばらく受け入れることはない。もしかしたら。もしかしたらと思いながら、やがて三日経ち、一週間経ち、ひと月も経った頃に悟るのだ。共に食事をした僚友は、風の具合、山の機嫌を交換し合った同胞は、もう永遠に私たちと同じ食卓を囲むことはないのだと。
私たち飛行士の仕事とはそういうものだ。ひとたび地面を離れたなら、無事に帰る保証など誰にも出来はしない。風の気紛れ、鳥たちの群れ、発動機の機嫌。そういった、人類の力ではどうにも出来ない何かのために、一人の人間が所有していた世界がひっそりと消え去る。
どれだけ腕が良くても、どれだけ人望があっても。
どれだけ大切な人でも。
憂うつな気分を押し殺し、耳を塞ぐようにフライト・ジャケットの襟に顔を埋めた。
バスのもたもたしたエンジン音の合間、蘇る声がある。
――それで、近日中に大規模な作戦があると?
――はい、我々はそこに急襲を掛けます。
――戦闘機を無差別に撃墜し、利権争いを抑止する?
――然り。
――何故そんなことを。
――それを聞かないのがあなたのルールです。
私は賭けに出て、半分勝ち、半分、今も勝負がつかないまま今日に至る。
あの時。
既に予感があったのだろう。
シラユキはここからいなくなると。
複座のフレガータの、前の座席はまだ空だ。
荷物を積もうと思えば、人間一人分くらい増やせる。それは経営的にはプラスのはずだけど、祖父もトーヤもそれを許容してくれた。
多分、今もまだ。
心の整理がついていない。
もしかしたら。
そう思って、もう一ヶ月になる。
連絡は何もなく。
私は大切な人をまた失ったのだろうか。
父を失ったのは、物心もついていない頃。
温かい手と、抱きしめられた時のフライト・ジャケットの革の匂いが、父に関する記憶の全てだ。
シラユキのことを、やがては煙草の匂いだけで思い出す時が来るのだろうか。
そして、私もいずれ。
ある朝、出掛けるよと会社の二人に手を振って、そのまま夜の空に溶けて消えてしまう日が来るのだろうか。
一人のフライトはいつも怖い。
不安で、寒くて、静かで。
フレガータのエンジンの震えだけが私の芯を支えてくれていた。
そんな時、ほとんど喋らない相棒のいることがどれだけ偉大だったことか。
シラユキはきっと、思いも寄らないだろう。
そういう顔をしていたことを思い出す。
友達だと言われると、いつも変な顔をして、少し困ったように言葉を濁す、あの様を。
バスは進む。夜明けが来て、少しずつ人が降りて車内は閑散としていく。
前の座席に残っている人だけだ。
今回はフレガータは定期メンテナンスでお休み。私は別の用事で街まで行った。そういう日は、こうして夜明け前のバスを使うのが習慣になっている。
会社兼自宅近くのバス停には何もない。民家もない。だだっ広い荒野に、ぽつんとベンチと標識と時刻表が置いてあるだけ。生まれて十五年くらいここを見ているけれど、会社の関係者以外で使っている人を見たことは一度だってない。
バスを降りた。背中で扉が閉まり、走り去っていく音。
夜明けが右手に見えて、私は鞄を抱えたままぼんやりと、昇りつつある陽光を見つめていた。
ふと、左手で何かを擦る音が聞こえた。それから、深く息を吸う気配。
煙草の紫煙が流れてくる。
その匂い。
「あ……」
振り返ると、そこには鳥打ち帽を目深に被った白髪頭のそいつがいた。
煙草をゆっくりと吹かし、私の方を見ると軽く手を上げて見せた。
「やあ。同じバスだったの、さっきまで気づかなかった」
「シラユキ」
そこに思いも寄らない顔があって、私は間抜け面で立ち尽くすしかない。
「何で」
「うん?」
「何で声、掛けないの」
「いや、どうせここで降りるだろうと思ったから……その後のほうが慌ただしくないんじゃないかな」
まだ、息が苦しい。何を言って良いのか分からず。
ただ、気づく。シラユキの右足はギプスで厳重にぐるぐる巻きにされていた。杖をついて、中くらいの鞄を足下に置いている。
「怪我、したの?」
「うん。一ヶ月くらいずっと入院。足はあと二ヶ月くらいでギプスが取れて、走ってもいいって」
「あそう……」
「病院は恐らく世界で一番退屈な場所だ。二度と行きたくない」
「煙草が喫えない?」
「それもある。でも動けないのに、看護師にあれこれ話しかけられるのが一番我慢ならない。用事を思い出して席を外すことも出来やしない」
「ああ……」
その口ぶりに、やっと実感が湧く。
驚きすぎて、声が詰まっていたのも、涙腺が一瞬潤んだのも忘れてしまった。
代わりに出てきたのは、
「なら連絡くらい頂戴よ! 出撃してから全く音沙汰なかったじゃない!」
怒鳴り声で、シラユキはびっくりしたように目を開いて、それから。
「ああ……そういえばそうだね、思いつかなかった。悪かったよ」
「ああもう。すごく心配したんだから」
「悪かったって」
「出撃で怪我?」
「詳しくは言えない」
「どうしてここに?」
「クビになった」
「何で⁉」
「いやほら、ご覧の通り全治三ヶ月でさ……契約期間の半分以上が怪我や病気で本来の契約の業務が出来ない場合、解雇できるルールなんだ。でも、仕事の報酬はきちんと貰えたし、いろいろ、やったことの対価として、お金は結構もらえた」
「いや、何でここにいるのっていう質問。あたしの訊き方が悪かった」
するとシラユキはどう切り出したものか迷った風だった。それからしばらく唸って、返答はこう。
「行くところがないんだ。空に行こうと思ったら、思いもかけない怪我で地上に戻らないといけなくなった。どこか泊まるところがないかと思ったんだけど、怪我で長期だとちょっと貯金が心許なくて」
「うん」
何だか話が怪しくなってきた。私は腰に手を当てて次の言葉を待つ。流石に自覚はあるのか、申し訳なさそうに白髪のパイロットは続けた。
「怪我が治るまで泊めてくれないかな、宿泊費は払う。それから」
「それから?」
「腕の良いパイロットを雇わない?」
「足、折れてるじゃん。ラダー踏めるの?」
「いや、無理……」
私は今度こそため息をついた。盛大に深く、深く。
そしてこみ上げる笑いを抑えきれず、身を折ったままくつくつと笑い出して、ひとしきり声を出して笑った。
呆れた顔のシラユキが見ていたので、軽く咳払い。
でも、やっぱりそう簡単には頷けない。ロッカ社は思わぬ形でパイロットがいなくなって、私一人では業務量も減って、機体を改修した分のお金の補填がまだ終わっていないのだ。シラユキが去った後、新しいパイロットを雇わなかったのは、そのお金がなかったからに他ならない。
「いいの?」
「何が」
「ここはあんたがいるべき場所じゃない」
「いるべき場所にいないと駄目かな」
「いるべき場所があるとしたら、そこにいるべきじゃないの?」
「いつかは。でも今、僕はここにいたい」
思わぬ素直な言葉に面食らう。こういうことを言う子だっただろうか。
「地上は嫌い。でも敬愛する友人のもとなら、僕はいてもいいと思う」
友人。
確かにそう言った。
私にとってはそれで十分だった。
「分かった。爺ちゃんに話をしてみよう。一緒に行こう」
シラユキの鞄を拾い上げると、会社までの道に顔を向ける。
「でも何で尊敬?」
顔を背けたのは、多分朝焼けで分からないとは思うけど、赤面を見られたくなかったのもある。
「魔法使いは尊敬するか畏怖するかのどっちかだろう」
「詩的すぎ。もっとちゃんと言って」
「どうやって襲撃を知った? あのメモ、簡単な暗号だったけど、機密である会社の作戦や、黒の船団の襲撃の情報まで書いてあった」
「ああ……船団の航空艦に着艦した時、あったじゃない」
「うん」
「あたし、艦長と少しだけ二人で話したよね。あの時」
「何て?」
「地上から郵便連盟の情報を流してあげるから、私の望む情報を対価にくれって言ったの」
「それ、連盟の規約に……」
「違反してるよ、もちろん」
「スパイになって、企業を敵に回すの、ロッカ社?」
「だって、黒の船団も企業のスポンサードで動いてるし」
「まあ、そうだけど……」
航空艦の内装、戦闘機の形状。そういったものから、ロゴが描かれていなくてもどこの企業から買ったのかは大体把握出来る。その企業の所属や傾向が偏っている場合、スポンサーがついていると考えるのが当然だろう。
私はそれを知っている。
シラユキは多分、戦闘機からそれに思い至っていたのだろう。
「今回の襲撃だって、結局、どこかの企業の依頼で戦争の邪魔に入ったんでしょう?」
「下手をすると、戦争の片棒担いでいた企業かもね……そんな話を同僚としていた」
難しい話をしているうちに、顔の火照りはだいぶ収まっていた。
「シラユキ、ナビを覚える気、ある?」
「飛べるなら何でも覚えるよ」
「天測航法は?」
「興味はあった」
即答だ。私は笑うしかない。いつだってそう。地上ではまるで使い物にならないのに、空のことになると貪欲で敏捷。
だから言ったのだ。水の中を自由に飛び回るペンギンのようだって。
「それじゃあ、行こう。トーヤも爺ちゃんも、きっと驚く。驚くし、喜ぶ」
「そうかな」
「うん。――いいんじゃない? 行くべき場所と行きたい場所が違っても。長い人生、そういう寄り道が許される時だってあるよ」
空に道はない。その気になれば、いつだって真っ直ぐ飛んでいける。
シラユキはそうやって、これからも不意にいなくなるだろう。きっと……
人を縛るもの、それは地上の重力と人の絆。
けれどそれは、人が人であるために必要な
広すぎる遊星の広すぎる大陸の片隅で、私とシラユキが出会い、共に空を飛ぶのも、きっとその縁が繋いでいたのだろうから。
遊星飛行 Flight on the Planet イーグル・プラス @ittakiri
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