8-2

 ヘルガ・ヴァーリとはエースであるらしい。


 僕はその情報も、彼女の顔も名前も知っていたから驚かない。


 テレビでやっていた。爆撃の際に活躍したエースなんて、メディアがネタにしないわけがない。よほど特殊な事情がない限り、頼まれなくてもテレビや新聞が、彼らの顔と名前を出してくれる。


 さて、そんな彼女が何故僕の目の前に座っているのか。

 彼女はあの時と同じ、けれど圧倒的に性質の違う微笑を僕に向けている。


「あなた達の機体の先導は私が引き受けることになりました。ルートは間もなく決まります」

「あ、はい。よろしくお願いします……で、いいのかな」


 ミモリが頭を下げるけれど、ヘルガは見向きもしない。ピンと背筋を伸ばして僕を見つめる。一瞬でも目を逸らしたら撃墜されそう。僕は彼女の一挙手一投足も見逃すまいと、しかし目をにらみ返す。


「シラユキさん、と仰るのですね」

「ええ、まあ」

「その名前ってあなたのもの?」

「さあ……」

「シラユキはシラユキです。彼女はちょっと記憶に混乱があって、昔のことを覚えていないんです」


 ミモリが口を挟んだ。やはりエースは見向きもしない。


「何故、その名前を名乗っているのですか?」

「ミモリが」


 と、僕は隣の相棒を仕草だけで示して、


「彼女が僕の髪を見て」

「それだけ?」

「僕の記憶にその名前がありました。それをぽろっと口に出したので、それ以来使っています。何か問題が?」

「いいえ」


 彼女は不躾ではあったけど尊大ではなかった。寧ろこちらに敬意を払っているのだろうか?


「シラユキという名前を私は知っています」

「へえ」


 無視されて頬を膨らませていたミモリまで身を乗り出した。


「とても偉大な名です。私はそれに憧れてパイロットになりましたので。それはエースの名前です。それもとびきりの、伝説の英雄の」

「大袈裟だな」

「確認されている撃墜数は五〇〇を超えると言われます。対地攻撃や対艦攻撃にも実績を残している。これがどんな意味か分かりますか?」

「正気じゃない人間なのは分かった」

「あなたはそれと同じ名前を名乗っている」

「有名なんだろう? じゃあ僕の記憶のどこかに引っ掛かっていたのかも」

「有名ですが古い名前です」

「どのくらい?」

「ざっと二〇年ほど前」

「ずいぶん昔だ」


 ちょっと笑う。


「僕の容姿を見れば分かると思う。僕はその、シラユキというエースとは関係がない。やっぱりその名前をどこかで聞いただけなんじゃないかな。もし、あなたがこの名前を使われるのが気に入らないというなら、別に変えたっていい。憧れの人の名前なら……」

「そういう意味ではないのです」


 ぴしゃりと告げられる。


「誰がどんな名前を名乗ろうが、興味はありません。現にあなたの髪を見てシラユキと名付ける人は皆無ではないでしょう。一〇〇人くらいに名付けさせたら、一人くらいはそう名付けてもおかしくない。その偶然に目くじらを立てるほど愚かではありません」

「では何故? ――煙草を喫っても?」

「ここは禁煙です」


 頭の中がぼうっと、霞がかかったような感じ。記憶を辿ろうとするといつもこうだ。今も僕は自然と記憶を引きずり出そうとしている。でも肝心のところがぼやけて、夢の中で雲に手を伸ばした時のように茫洋と覚束ない。


「シラユキの名前は偉大すぎて、その後何度も使われました。二〇年の間に。その間、あっさり撃墜されたり、中には不時着して捕虜になり、馬脚を現した偽者も多かった。けれど記録を注意深く辿ると、いくつかの『シラユキ』はメディアに顔も出さず、撃墜されることもなく――そして恐ろしい戦果を挙げていることが分かるのです。私はその中の何人かは『本物』ではないかと、そう思っています」


「分からないなあ。二〇年前からエースとして活動しているなら、ええと、その人は女性?」

「女性、と言われています。正確な情報は隠匿され、顔もメディアに一切露出しませんでした……本物は。偽者のうち何人かは、それらしい年齢の女性パイロットが使われていました。そうしているうちに、その名前が持つ神秘性や偉大さも薄れていきました。フィルムをコピィし続けると劣化していってしまうように」

「でもあなたのように憧れ続ける人もいたわけだ」

「一部の戦闘機乗りには、今でも伝説ですよ。私もその一人ですが、同じような経緯で空を目指した人は多いです」


 ふと知り合いの、粗野だけど誠実なエースを思い出す。彼にも僕はシラユキと名乗った。彼は知っていたのだろうか? 次に会ったら聞いてみよう。今は今を切り抜けることを考えないと。


「そういえばあなたは黒の船団所属なの?」

「いえ、航空傭兵です。前回の雇い主との契約が切れたので、オファーに従って自由船団に」

「あそう」


 話の腰を折ってしまった。彼女は気を取り直して続ける。


「回りくどい言い方になってしまいました。端的に言えばあなたが本当に伝説のシラユキなら、是非話をしたいと思った」

「それはないんじゃないかな」


 僕はぼんやりする頭を何とか働かせて反論する。反論する理由? さあ、何だろう。面倒を押しつけられそうだから? 少し違うかも。今の名前を捨てようという気持ちもない。

 どうも脳が処理を拒否している。眠気すら感じてきた。


「僕がその伝説のシラユキだというのは飛躍のしすぎじゃないかな。そんなに老けて見えるかな」

「老けていると言うなら老けているよ、シラユキは」


 嘴を挟んだのはミモリだ。何だか機嫌が悪そう。瞼を半分降ろして、傭兵のエースを見つめている。


 ヘルガ・ヴァーリは、そこで初めてその存在に気づいたかのように目を見開いてミモリを見た。それから少しだけ笑った。笑窪が出来て、見た目より歳を取っているのかな、とふと感じた。


「さらに言うなら、あなたがシラユキかどうかに関係がなく、私はあなたに会いたかったんですよ」

「え?」

「この艦に来た時、あなたのシックス・オクロックに着いていたのは私です」

「ああ……腕がいいなとは思っていた」

「あのコンバット・ピッチは素晴らしかった。戦闘用ではない飛行機であんな鋭いターン、初めて見ました。出来るものなんですね。あのまま失速して、艦に激突するかと思いました」

「二度はやりたくないな」

「でも成功させた。あなたは戦闘機乗りです、間違いなく」


 彼女はそっと目を伏せた。神に祈りを捧げる敬虔な信徒のように。


「あなたと戦いたいと思いました。心から」

「郵便飛行士と?」

「戦闘機乗りのあなたと」

「僕は今、郵便屋だ。転職しろと?」

「もし叶わないというなら、せめてあなたと一緒に飛びたい」

「あなたが郵便飛行士になればいい。結構、悪くないよ」

「いいえ」


 ヘルガは言う。戦闘機乗りの真理と信仰を胸に抱いて。


「あなたの心は分かりません。でもパイロットの躰のことなら少しは分かります。多分ですけど、心も本当は分かっている、きっと。他ならぬあなた自身が」


 僕は黙る。それには答えない。

 ミモリがそんな僕達を交互に見つめていた。

 女性士官が時間だ、と告げる。出立の準備が整ったのだ。


「分かりました、副艦長。わがままを聞いて頂き、ありがとうございます」


 彼女は副艦長だったのか。いや、この際そんなことは本当にどうでもよくて。


 僕は沈黙したまま、退出するヘルガを見送る。副艦長が釘を刺すように言った。


「ヘルガ・ヴァーリ。分かっているとは思いますが」

「大丈夫です」

「あなた達戦闘機乗りの性質を少しは知っているつもりです。くれぐれも彼らに手を出したり、挑発や脅迫のような真似をしないようにお願いします」

「しません。――郵便機に乗っている彼女を撃墜したところで、何も誇らしくありませんから」

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