5-2
飛行中は大抵、無口だ。
必要のないことは喋らないし、聞かない。
この日もそう。
僕がバス機に乗せて一緒に飛んでいる(変な言葉だ)男に対して、僕は特に何も言わなかった。言った台詞と言えば、「シートベルトを締めろ」「機内は禁煙」「座席は蹴るな」「吐きたくなったらエチケット袋がある。シートのポケット」。これだけ。
幸いなことに客のほうも無口なもので、僕の言葉に相づちを打った意外は特に何も訊いてこない。
バス機と言っても、そんなにたくさん乗れるわけじゃない。むしろ搭乗員は少ないほうだ。最大でパイロットを含めて三人。荷物もさして積めない。もっぱら人員の輸送にしか使われないから、バス機。
その割に馬力は強いけど、これは離着陸性能を高める役割を果たしている。速度はないし航続距離も短いから、フレガータみたいな長距離の輸送飛行にはまるで向かない。でもこうやって、一人か二人をどこか近くに運ぶには最適の飛行機だ。
何より滑走路を選ばない。その気になれば滑走路じゃないところに着陸して、そこから離陸することだって可能。ちょっとしたヘリコプタみたいな機体なんだ。
もうひとつ不満を言うなら、後方視界があまりないこと。これはちょっと頂けないかな。まあ、空賊が飛ぶような領域を飛行することは想定されていないから、あまり関係ない。といっても、一般的な連絡機の中では、これでもまだましなほう。九〇度以上の視界が確保されているのは、歓迎すべきことだ。
下界は何もない平野が広がる。降りようと思えば降りられる。そういう場所だ。ただし草原は駄目。ああいう地形には大抵、思いも寄らない小川が流れていて、不時着を余儀なくされた飛行士を待ち構えているものなのだ。降りるなら草ひとつ生えていない荒野が最もいい。この辺は道路もない。開発がされていないのは、あまりに何もなくてうまみがないからだろうか。
何もない。僕達はコンパスと地図だけを頼りに、ちっぽけな翼で空を右往左往。
方角さえ決めておけば、あとは飛ぶだけ、なんていうのは、本当に飛んだことのない人間の話で、ミモリのような航法の秘術を持たない僕にとっては、無線と、風の具合を操縦桿から感じ取っての微調整という、しんどい作業がずっと続く。これは根気のいる作業で、ミモリがいかにパイロットとして優秀であるかを思い知るのだ。
エンジンの音は一定。機上、静かであるという状況はとても大きい。音は重要なファクタなので、おしゃべりが長生きしないというのは空においてはまず正鵠を射ている。前の襲撃の時のような、敵機の音だけではない。わずかな確率で生じるエンジンの異音を聞き逃せば、僕達は迫り来る大地に向けてひたすら降伏を乞うしかなくなる。
ただし、これでも昔に比べれば楽になった部分は多い。昔の飛行機は今ほどの安堵を僕らに与えてはくれなかったから、飛行機乗りはフライトの無事をエンジンに、プロペラに、ランディング・ギアに祈るしかなかったのだけれど、今や発動機が止まることを心配するパイロットは随分と減った。一部の実験的、旧式もしくは整備不良な飛行機を除けば、安全性と稼働性こそが最重要の課題として設定されているし、メーカもよくそれに応えている。
かくして僕達は、自分達を空に持ち上げてくれる頼もしい発動機の存在を忘れる。人が自分の臓器の存在を常日は意識しないのと同じに。機械はその存在を忘れられた時、初めて自らの存在意義を完成させるのだ。手間の掛かる機械は全てが不完全で未完成なもので、人がそれを動かすことに熱中している間、何故それが作られたのかということは往々にして忘れられがちだ。
そしてエンジンに集中している間、不遜にも人間は自分が空にいるのだという重大な事実を忘れる。飛行の達成より墜落を気にし出す。
システムの維持に神経を割かなければいけないのは、それが未熟である何よりの証拠だ。これはエンジンに限った話ではないけれど。深刻なエラーが発生しない限り、時折のメンテナンスを除けば誰もが、扱っている当人ですら存在を忘れるほどになって、初めて機能というものは一応の完成を見る。その意味では、このバス機やフレガータは、まだまだ未完成の時代の血族と言える。幸いエンジンは整備士の高い技術によってその存在を忘れ去ることができたが、操縦する折、特にエンジンを一気に吹き上げた時に、ささやかな気遣いを要求される。翼の、フレームの強度を思い遣ることを要求される。
僕はスロットルを握りしめて出力を一定に保ちながら、やや低空をフライト・プラン通りに飛行。あまり低くしすぎると、管制塔の庇護下から外れてしまう。燃費を節約するためには低いほうがいいけれど、それは本当にぎりぎりの低空における話。
標準から言えばやや低空を僕は望んだ。まだ扱い慣れていない飛行機なので、出来るだけ地上近くを低速で飛びたかった。地形を確認できれば、いざというときに降りるべき場所を見出すことができる。そこまで慎重になっているわけではないけれど、空が決して安全なものでないことを僕に思い出させるに、山間部での襲撃は十分ではあった。
やがて日が沈み、群青に全てが消え去っていく。この辺りはまるで人類を拒絶する環境が広がっているので、翼端灯のかすかな灯火以外は星明かりを頼りにするほかない。
客の男も、色のない目を地上に、瀝青の空に向けている。髪が白くなったやや太った男だが、それは加齢ゆえの肥満であって不健康さは感じない。革製の鞄を大儀そうに抱えている。何の関係者なのかは知らないが、ロッカ社の伝手を使って便乗しているらしく、まあ、つまりおべっかを使う必要はないけれど、失礼を働いてもいけない相手。幸いなことにこうして何も喋らないので、こちらとしても、黙って飛行機の操縦に専念できるというものだ。
ところがそれもやがて終わりを告げてしまう。
前方にそれを確認したのはもちろん僕が最初で、前方、企業の航空艦にしては妙に低空の位置にちっぽけな影を見出した。
「飛行船だ」
遅れて気づいた乗客の男が呟く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます