エンジェル様

江渡由太郎

エンジェル様

 晩秋。黄昏が堕ちて星が瞬き始める。凍える手を擦り合わせ指先を必死に温めていた。


 父が亡くなり、馴れ親しんだ実家から荷物を運び出し引っ越しの準備に追われていた。拳太郎はこの家にはもう二度と帰られないのだと噛み締めながら荷造りを再び始めた。帰る場所があるのとないのではこんなにも心が乱されるとは思ってもいなかったのである。


 クローゼットの奥に一つ段ボール箱があり、その中には幼稚園の思い出の品々や小学校の卒業アルバム等も入っている。拳太郎は何となくその箱を開けてみた。箱の中にはやはり幼稚園時代のクレヨンで描かれた当時飼っていたウサギの絵や小学校時代の文集や中学校時代の修学旅行のしおりや卒業式の記念品、卒業アルバムが所狭しと箱の中に閉じ込められていた。


 懐かしさに高校の卒業アルバムを手に取り、自分のクラスのページを開いた。あの当時のままのクラスメイトたちがそこには居た。その瞬間、拳太郎は思い出が押し寄せる海の波の様に鮮明に色々な事が蘇る……




 その日、前田真希はずっと、誰かに呼ばれているような感覚を抱いていた。


 朝のチャイムが鳴る前の教室。ざわめき、笑い声、机を動かす音。けれど、そのざわめきの奥に、何かもっと柔らかく、しかし確かに存在する「声」のようなものがあった。


「ねえ、真希。昨日のノート、持ってきた?」


 そう話しかけてきたのは、クラスメイトの永井花音だった。髪をおさげにした細身の女子。真希とは小学校からの友達で、オカルト好きという点でも波長が合っていた。


「うん。ちゃんと書いてきた。ほら」


 真希はスクールバッグから何の変哲も無いごく普通の一冊のノートを取り出した。高校に入ってから学校指定のスクールバッグを使っている。皆は黒いスクールバッグに各々の個性を出すために色々な可愛いキャラクターマスコットをたくさんぶら下げている。真希のスクールバッグには何もマスコットは付けていない。むしろ、この古風な雰囲気が「呪文を書くノート」には相応しいとさえ感じていた。


 ノートの表紙には「エンジェル様」と油性ペンで大きく書かれている。中には、降霊術の手順、友達と試したときの記録、そして最近流行っているという「エンジェル様」の召喚方法がびっしりと書き込まれていた。


「これ、本当に動いたの?」


「うん。昨日の夜、ひとりでやってみたんだ。そしたら……すごく優しい声が聞こえたの。『寂しかったね』『大丈夫だよ』って」


 花音は少し眉をひそめた。「一人で降霊術なんて、危ないんじゃないの?」


「でも、エンジェル様って悪霊じゃないって書いてある。優しい霊だからって」


 真希の瞳は熱に浮かされたように潤んでいた。その目を見て、花音はそれ以上言葉を継げなかった。


 昼休み。教室にはまだ数人の生徒が残っていた。部活動が始まる前の、束の間の自由時間。真希と永井花音は、三人目の仲間である水泳部の常磐圭太を呼んで、教室の隅の机を寄せ集めた。


「これ、マジでやるの?」


 圭太は少しビビりながらも、興味本位で参加するタイプだった。ゲームや都市伝説、心霊動画が好きで、LINEのグループにも毎日のように怖い話を投下してくる。


「ルールは簡単。十円玉の代わりに私は鉛筆を使うの。エンジェル様はこっくりさんより優しくて、願いも叶えてくれるって噂。信じてくれればね」


 真希はそう言って、ノートのページをめくった。そこには、ひらがな カタカナ、はいといいえ、そして「こんにちは」「さようなら」などの言葉が並んだ手作りの降霊術ボードがノートに描かれていた。


 その中心に、「羽の生えた小さな天使のマーク」が貼られていた。折り紙を指で千切ったであろう素朴でどこか不気味な天使の形。三人は人差し指を軽くその天使に乗せた。そして、前田真希と一緒に鉛筆を軽く指で摘んだ。


「……エンジェル様、エンジェル様……いらっしゃいますか?」


 真希の声が教室に響いた。外からは部活動の音、グラウンドの歓声が微かに聞こえていたが、教室内には妙な静寂が広がりこの場に満ちていった。


「……」


 何も起きない。ただ、風もないのに、どこからかカーテンがわずかに揺れた。


「なにも起きないじゃん。やっぱデマで……」


 そのときだった。


 プランシェットの代わりに使っている鉛筆が、すう……と動いた。


 アルファベットの「は」の上で止まる。


 続いて「い」……はい。


「うわっ……マジで動いた……」


 圭太が指を引っ込めそうになるが、真希が静かに制する。


「お願いが、あるの……」


 真希の声はささやくように低く、まるで別人のようだった。


「もう、寂しくなりたくないの……」


 その瞬間、鉛筆が激しく動いた。


 はい いいえ はい いいえ はい


「真希っ……? 大丈夫?」


 花音が声をかけるが、真希の目はどこか虚ろで、指は震えているのに離れようとしない。


 突然、教室の照明がチカチカと不規則に明滅を繰り返し始めた。掲示板の画鋲が小刻みにカタカタと揺れ、机の脚が金属が軋むようにギシ……ギシ……と鳴った。


「なんだよこれ?! やばいって!」


 圭太が立ち上がった瞬間、ガタッ!と黒板のチョーク箱が落ちた。その音に、真希は激しく肩を震わせ叫び声を上げた。


「やめてっ!!! 来ないでっ!!!」


 花音と圭太が見たのは、真希がノートの上で何かと必死に戦っているような姿だった。誰もいない空間に向かって手を振り回し、机を叩き、そして、自分の爪で腕を激しくかきむしっている。


「せ、先生を呼んでくる!」


 圭太が駆け出す。花音は震えながら真希の肩を掴んだ。


「真希! 大丈夫!? やめよう、もう終わりにしようよ!」


 だが、真希は何かを見ていた。彼女にしか見えないものを。


「見えるの……エンジェル様……すごく、綺麗……」


 花音が目をそらした一瞬の隙に、真希は指で「さようなら」に触れた。すると全ての動きが止まった。


 照明は元に戻り、風も音も静まった。ただ、真希の顔からは表情が消えていた。


「……真希?」


 真希はゆっくりと顔を上げる。瞳は白目がなくなり全てが闇色に染まっていた。その闇の中は空っぽで全てを呑み込む程の深い闇であった。


 そして、口元には小さな笑みが浮かんでいた。


「……エンジェル様は、わたしの中にいるの」




 それからというもの、前田真希はほぼ毎日のように、放課後の教室に残っては「エンジェル様」という降霊術を行うようになった。


 最初の降霊術の騒動のあと、クラスでは奇妙な噂が立った。


「前田、なんかやばくね?」


「マジで憑かれてんじゃない?」


「教室で一人でブツブツ言ってた」


 担任の先生は、真希に軽く注意をしたものの、それ以上踏み込むことはなかった。なにより、真希の成績は悪くなく、規律違反をしたわけでもない。だが、真希の中では確実に何かが「変わって」いた。


 最初に離れたのは、永井花音だった。


 花音はあの一件以降、真希との距離を取るようになった。声をかけても返事は曖昧で、目を合わせようともしない。


「……エンジェル様、信じてくれなかった」


 真希は、いつものようにノートを開いて、羽のマークに指を乗せた。誰もいない教室。夕暮れの斜陽が黒板を赤く染めている。


「エンジェル様……花音ちゃんは、わたしから離れていきました。……どうすれば、いい?」


 鉛筆がゆっくりと文字を一文字また一文字と次々と示していく。


 こ-ろ-し-て-し-ま-え


「え……?」


 真希は、首をかしげた。エンジェル様がそんな指示をするなんて……


 でも、なぜだか不思議な納得があった。


「そうだよね。あの子がいなくなれば、また静かになる」


 翌日、花音は階段から落ちて腕を骨折した。誰も見ていなかったが、「誰かに押された」と訴えていた。


 そして、その日を境に花音は登校してこなくなった。




 次に誘ったのは、図書委員の岡部凛だった。真希は彼女にもエンジェル様を紹介した。


「……願いが叶うんだって。誰にも言えないこと、ここでなら話しても許されるから」


 凛は最初こそ戸惑っていたが、「少しだけなら」と指を乗せた。


「……わたし、親が離婚するかもしれないの。どっちについていくか決めろって言われて……エンジェル様、どうすればいいですか……?」


 鉛筆は小刻みに激しく揺れた。


 そして鉛筆は雪山を滑走するかのように滑らかに次々と文字を紡ぎ出した。


 あ-な-た-の-せ-い


「あなたのせい」と文字が浮かぶように現れた。


 凛は蒼白になり、一筋の涙が頬を伝う。憤りのため机から手を離してそして叫んだ。


「そんな…… そんなはずない! なんで?! なんでよ! 違う! 違う!! 違う!!」


 それきり、凛は真希の前に姿を見せなかった。図書室にも来なくなった。学校も、休みがちになった。




 三人目は、常磐圭太だった。


 あの最初の降霊術の日以来、圭太は真希を避けるようにしていたが、放課後の教室の扉の前の廊下でばったり会ったとき、彼は逃げなかった。


「……また、やってんの?」


「うん。エンジェル様、毎日来てくれるんだよ」


「……やめたほうがいいって。あれ、お前を壊してる」


 真希は無機質な表情で微笑んだ。


「壊れてなんか、ないよ。エンジェル様は、わたしの味方だもん」


「……じゃあ、俺も連れてってくれよ。今度、やるとき」


 それが、最後だった。


 教室で以前三人でやったときと同じように今度は二人で再び降霊術を始めた。


 真希と圭太は指をプランシェット代わりの鉛筆に乗せた。


「エンジェル様、圭太くんを連れて行ってもいいですか?」


 鉛筆は、はいに進んだ。


「えっ、なにそれ、やめ……」


 教室の電気がバチッと切れた。窓の外はもう夜。


 風もないのに、黒板の盤面に爪を立てる不快な音がギィ……と鳴る。


 常磐圭太の目が見開かれ、彼の口が声にならない悲鳴を上げる。


 次の瞬間、彼は叫びながら逃げ出した。


「うわああああああっっっ!! なにか見えた!! あれ、あれは人間じゃねえ!!」


 廊下を駆け抜ける彼の背中を、真希はただ見送った。指先には、まだぬくもりが残っていた。


 圭太はその日の夜にスイミングスクールへ行ってから行方不明となった。




 それから、誰も真希に話しかけなくなった。


 昼休みも、誰も隣に座らない。授業中も、誰も目を合わせようとしない。


 ノートには、びっしりとエンジェル様との会話が綴られていった。


 わたしだけがあなたを見ているよ


 ともだちは要らない。わたしがいればいい


 さびしいときは、いつでも呼んで


 あなたは特別な存在。選ばれた子


 日にひに真希の髪はぼさぼさになり、制服のボタンは曲がっていた。頬はこけ、目は落ちくぼみ目の下にはくまができ、何処か虚ろで目には生気がなく、ただ静かに微笑んでいた。


 誰にも、わたしに話しかけられない。


 誰も、わたしの隣に座らない。


 誰も、わたしのノートを覗こうとしない。


 ノートの最後のページには、こう書かれていた。


「この世界で、わたしを必要としてくれるのは……」


「エンジェル様だけ」




 あっという間に高校一年生の夏休みが終わった。


 まだ通常の生活リズムに戻らないまま、拳太郎の体は倦怠感を引きずりつつ新学期の学校生活が始まった。


 教室では夏休みに海へ行ったとか山でキャンプをしたなどの話題の他に、夏休みの宿題は終わったかどうかなど友人たちと話で盛り上がっていた。


 夏休み明けで生徒たちの緊張感のない雰囲気を感じた担任の奥村先生は、大人の女性としてはやや低い声で一つの提案をしたのである。それは、心機一転ということで二学期に入って直ぐに教室内の席替えを行うというものであった。


 席替えの方法としては黒板に教室内の座席配置を描き、そこに順不同に数字を割り当てくじ引きで席を決めるというものであった。


 それから教卓の上に広げられた四つ折りの小さな紙をくじ引きで、窓側の席の人から順番で生徒たちは引くことになる。引き当てた数字が新しい座席になるというもので、公平的なやり方で進められたのだった。各々がくじを引き終わると喜ぶ者もいれば落胆する者もいた。


 そして、全員がくじを引き終わると、己の荷物を抱えて新しく決まった席へと席替えを開始しましたのだった。


 拳太郎は教室の後ろの位置に当たる新しい席に着くと、一番後ろの席には前田真希という名の暗い性格の女子が席に着いた。


 前田真希には教室に友達もいなかったため、いつも一人で学習ノートに何かを黙々と書いているといった印象しかなかった。それに、クラスメイトの誰一人として、前田真希のその行動についてそれ以上詮索もしなかったし興味も持たなかったのである。


 誰も前田真希に対して関心がなかったというか、同じ空間に存在しているのかさえ気にならないほど空気みたいな透明人間のような存在であったことは確かである。


 誰もが、前田が一人で毎日のように学習ノートに向かっている姿を視界の隅にとらえても、宿題をしているとか漫画の絵でも描いているのではと勝手に都合よく解釈して決して確かめることもしなかった。


 そんなある日の授業中、担任の奥村先生が生徒に国語の教材プリント用紙を配り始めた。前の席から後ろの席へと配布さられたプリントを拳太郎は前田に渡した時、彼女のそのノートが視界に入った。


 そのノートは見開きで使われており、そこには平仮名や片仮名が語音順に記載されていた。


「それ何?」


 拳太郎は好奇心からついそのノートについて訪ねてしまった。


「笹本君……これは……エンジェル様」「何それ!?」


 前田の聞き取りずらいボソボソとした小さな声から聞こえた”エンジェル様”という初めて耳にする不可解な単語なるものが何なのか、更に好奇心が駆り立てられた。


 前田は恐縮したようにエンジェル様がお告げをしてくれるのだと話してくれた。


 自分を守護してくれる守護天使又は守護霊と呼ばれる霊的な存在がその場に降霊し、降霊術の手段として用いられる交応盤に守護霊なる目に見えない霊的な存在が、その言葉をプランシェットとウィジャボードを使って示してくれるというものであった。


 拳太郎は半信半疑であったが、母親から以前、小学生の頃にコックリさんという恐ろしい降霊術の話を聞いたことがあったため、それと同様のものなのではないかと勝手に思ったのだ。


 だが、実際にコックリさんをやったこともなければその儀式を心霊番組や怪談の本でしか見たこともなかった。


 ましてや、コックリさんの儀式の正式なやり方すら知らないため、前田のエンジェル様が名前こそ違うがコックリさんなのだろうと勝手に結論づけた。


 そんな拳太郎と前田の会話を盗み聞きしていた周りの女子たちは、授業と次の授業の合間にある短い休憩時間になると前田の周り群がりはじめた。


 前田真希のエンジェル様という言葉に対し、興味本意で近づく者もいれば半信半疑で近づく者もいた。教室の中は、遠目でその光景を見て馬鹿にしている者や関心がない者と様々であった。


 前田は今まで誰からも相手にされず声もかけてもらえなかった存在だったが、今この瞬間は教室の中で一番注目されている存在となっていたのだ。


 女子たちはしきりに前田にお告げとも占いともとれるエンジェル様という霊的な何かを実践して欲しいとおねだりした。休憩時間が短いため一人だけならと引き受けた前田はノートに手書きの交応盤に向かって意識を集中させていた。


「エンジェル様。 エンジェル様。 今ここにいらっしゃいますか?」


 前田は文字盤を見つめながらそう呟いた。


 前田の手に握られているプランシェットの代用品として鉛筆が”はい”という単語に向かって移動して示した。それを見ていた周りの女子たちからは黄色い声が飛んだ。


 星川舞子は前田に一番最初に占って欲しい内容を告げていた。それは、星川が好意を抱いてる男子は何処にいますかという内容である。星川の女子友達はそれがこの教室に居ないことを知っていた。


 ペテン師のインチキ占いなら無難な答えとして”この教室にいます”と答えるだろうと、星川は意地悪な質問をしたのだ。


 前田の手に握られている鉛筆は平仮名を一文字ずつ示し始めた。


「と」「な」「り」


 前田はか細い小さな声で読み上げた。


 前田の手に握られている鉛筆はノートの上に記されている平仮名や片仮名の文字を次々と示していきやがてそれは止まった。その間、教室内の生徒たちは前田の姿に釘付けであり、一秒さえも永遠に感じる程の緊張感が満ち満ちていた。


「となりのクラスにいる」


 そう前田が答えた時に星川を含めた女子たちは半信半疑という感情から驚愕の表情へと変貌し、彼女たちはあきらかに動揺していた。


 そして、授業が始まるチャイムの音で前田を取り囲んでいた女子たちは一斉にその場を立ち去った。その光景は猫の集会が終わって解散するように見えて滑稽であった。


 授業中でも前田はあのノートに夢中であった。まるで恋人であるかのように大切にノートを扱っていた。


 授業が終わり給食を食べ終え、昼休みになると再び前田の周りに女子たちが集まりだした。


 拳太郎も見物人の一人として前田が行う降霊術を見ていた。女子たちは我先にと言わんばかりに前田に未知なる占いをこぞってせがんだ。


 前田は次々とそれに対応しては、女子たちは喜びの声をあげている。前回のテストの点数を質問しては、前田が答えた数字が当たっていると喜び、明日の天気を聞いたりと本当に正解しているのかさえ疑わしいものばかりでだった。


 拳太郎はその光景を見ていて女子たちが前田をかついでいるようしか見えなかった。テストの点数は本人しか分からないことだし、片想いや両想いかなどはどちらでも関係ない質問である。好きな色や食べ物などは間違っていても前田の答えた答えに対して当たっていると言っているようにも受け取れた。


 そんなことが数日の間続くと、拳太郎がいる教室には知らない顔の生徒たちまで集まるようになっていた。


 隣のクラスの同級生から他階の上級生のクラスの生徒まで前田のエンジェル様がよく当たるという噂を聞き付けて、多くの野次馬が集まるようになっていた。教室に集まり過ぎて教室内には収容しきれず、廊下にまで列ができるほどであった。


 誰からも相手にもされなかった前田が、今では有名人さながらに学校内で最も知られる存在となっていた。


 あまりに毎日繰り返しエンジェル様という降霊術を行っているために、ただでさえ華奢な体格の前田は益々窶れていき顔にも疲労が表れていた。


「何か体調悪そうだよ。もうエンジェル様するのはやめたら?」


 ある日、拳太郎がそんな前田を心配してそう言った。


「やめられない……皆がして欲しいって言うから……」


「断ればいいよ」


 拳太郎はそう提案した。


「そんなことはできない……」


 そう言った前田の眼は虚ろで、何か悪しき存在に操られているとか憑依されているのではないかとさえ思えたのだった。


 前田はその後も益々エンジェル様にのめり込み続け、授業中もずっと交霊術を一人で続けていた。何をエンジェル様に訪ねているのかも分からないが、拳太郎を含めて周りの生徒たちもその前田の姿に次第に嫌悪感しか感じなかったのだ。


 エンジェル様による交応盤を用いた降霊術にも飽き始めた女子たちは前田に他のことは出来ないのかと持ち掛けた。


 同じ降霊術でも自分の体にエンジェル様の霊を直接降臨させたものがあると前田は言った。


 エンジェル様を降霊させるのはとても危険なのだと最初は躊躇しがちに断っていたが、周りの女子たちに半ば強引に押し切られる形でエンジェル様の降霊を始めた。


 拳太郎はそれを近くで見ていたが、前田に何かが憑依する瞬間も分からなかった。


 瞼を固く閉ざしたまま、前田はノートに鉛筆で円が連なった螺旋を描き始めた。初めて見る不思議な光景に皆が固唾を飲んで前田のその姿を見守っていた。


 円を描く筆圧が徐々にではあるが高くなり始めた。前田は体を前後左右に揺らしながら如何にも異常な光景である。


 ノートに円が描かれ続けていくたびに、何か教室内には異様な雰囲気が充満して、息苦しさえ感じるほどである。


 そして遂にノートに描かれた文字は蚯蚓が這ったようなものであった。


「やめろ」


 そこにはそう記されており、握られている鉛筆が前田の手の内で真ん中からへし折れた。


 そして、椅子の背もたれに寄りかかりながら白目を向いて天井を見つめた状態で口から泡を噴いている前田は意識を失っていた。


 女子の一人が震える手で、前田の肩を恐る恐る触れてから声をかけた。


「前田さん……」


 教室の後ろにあるフックにかけてあった生徒たちの上着や荷物が一斉に床の上に落下した。


 そして、網に入れて吊るされていたサッカーボールがゆっくりと転がりながら、開けられていた教室の後ろ扉から廊下へと出て行ったのだ。


 その光景に教室の誰もが凍りつき身動きすることさえできずに見入っていた。




 異様な沈黙が教室を支配していた。


 まるで時間が凍りついたようだった。誰一人、言葉を発することもできず、ただ前田真希の白目を剥いたまま泡を吹く姿に呆然とするばかりだった。


「せ、先生呼んできて!」


 誰かがようやく声を上げると、それを合図にしたように生徒たちは一斉にざわめき始め、何人かが廊下へ駆け出した。拳太郎も反射的に席を立ったが、なぜか前田から目を逸らすことができなかった。


 泡を吹いている彼女の唇が、かすかに動いている。


 それは、呻き声のようでもあり、何かを唱えているようでもあった。


 彼女の声にならない囁きは、拳太郎の鼓膜をくすぐるようにして、頭の奥にまで響いてくる。


(や……め……て……)


 確かに、そう聞こえた。


「前田さん……?」


 拳太郎が近づこうとしたその時だった。――前田の体が、痙攣するようにビクンと大きく跳ねた。


 次の瞬間、教室の天井から「ガタン!」という大きな音が響いた。音の出どころを探すように皆が見上げた。蛍光灯が一つ、今にも落ちそうなほどグラグラと揺れている。まるで、教室全体が生き物のようにざわめいているかのようだった。


「やばいって……これ、マジでヤバいよ!」


 女子の一人が泣き出しそうな声で叫び、騒然とする生徒たちの中で誰かが「呪いだ!」と叫んだ。


 教室に飛び込んできた担任の奥村先生は、前田の異常な姿を見るなりすぐに救急車を呼ぶよう指示し、生徒たちを廊下に避難させた。


 拳太郎だけが、なぜかその場を動くことができなかった。


 前田のノートが、開かれたまま机の上に残されている。――螺旋のような円の中心には、今も「やめろ」という文字が不気味に残っていた。


 その文字から視線を逸らそうとした時だった。


 視界の端に、何かが見えた。


 黒い、人影。


 それは教室の片隅、ロッカーの陰にじっと立っていた。顔は見えなかった。ただ、それがこちらをじっと見ているということだけは分かった。まるで、“見つけた”とでも言うように。


 拳太郎は反射的に目を瞬かせた。だが次の瞬間には、その影はもうどこにもいなかった。




 前田真希は、しばらくして意識を取り戻した。だが、何も覚えていなかった。自分が気を失ったことも、あの時のことも。


 医師の診断では一過性の失神と過呼吸による軽い痙攣とのことだったが、教室でそれを目撃した者たちの多くは「絶対に普通じゃない」と口を揃えた。


 それ以来、学校の雰囲気は一変した。


 かつて前田を取り囲んでいた女子たちは、まるで彼女に関わったことを忘れたいかのように口を閉ざし、距離を置いた。前田は再び教室の隅で、独りきりの存在に戻ったが、今度は「気味が悪い」「呪われる」といった陰口が付いて回るようになっていた。


 拳太郎は、そんな彼女に声をかけることができなかった。あの日のことを思い出すたびに、あの教室に現れた“何か”の影が脳裏に焼きついて離れなかったからだ。


 だが、それだけでは終わらなかった。




 その週の金曜日、隣のクラスの男子である佐野涼が、突如学校に来なくなった。星川舞子が“好きな人の居場所”としてエンジェル様に尋ねた、まさにその「隣のクラスの男子」だった。


 最初は風邪や体調不良かと思われたが、三日経っても四日経っても佐野は登校してこなかった。担任教師も家庭訪問を試みたが、誰も応答がなく、結局、学校側が警察に通報する事態となった。


 佐野の家の玄関には鍵がかけられており、郵便物が溜まっていた。警察官が中に入った時、部屋の中には誰もいなかった。だが、リビングの壁一面に、子供の手で書かれたような無数の“ぐるぐるとした円”が描かれていたという。


 そして、壁の中央にはただ一言……


「みつかった」


 と、赤いクレヨンで書かれていたという。


 佐野涼の失踪は、町のニュースにも取り上げられ、学校は一時的に保護者説明会を開く騒ぎとなった。


 だが、拳太郎は気付いていた。


 前田のノートの中心に記されていた「やめろ」の文字。


 あれは、前田が書いたものではない。エンジェル様と呼ばれた“何か”が書いたのだ。


 そして、それは警告だったのかもしれない。――本当は、誰にも見せてはならなかった何か。




 日曜の夜。拳太郎は、自室の机に置いたままの一冊のノートを取り出した。


 それは、前田が彼に「これを読んで」と渡したものだった。あの事件の翌日、誰にも見られないようにこっそりと手渡された。


 ノートの最初のページには、こう記されていた。


『エンジェル様との会話記録』


 拳太郎はページを捲った。




 エンジェル様は、最初はとても優しい存在だった。どんな悩みも聞いてくれた。お母さんが病気になったときも、そばにいてくれた。


 でも、ある時から“質問してはいけないこと”を尋ねてしまった。


「あなたは、誰なの?」


 それから、エンジェル様は少しずつ変わっていった。


 夢に出てくるようになった。夜になると窓の外からノックする音が聞こえるようになった。家の鏡に、自分じゃない誰かが映るようになった。


 そして、ある日のやり取りの中で、エンジェル様はこう言った。


「代わりが欲しい」


 拳太郎は、ぞっとしてノートを閉じた。


 代わり――それは、前田に代わる“器”のことなのか? それとも、自分たちに降りかかる呪いの犠牲者のことなのか?


 ノートの最後のページには、震える手で書かれたような走り書きが残されていた。


「このノートを見た人へ お願いです もう 誰も エンジェル様に触れないでください」


 ページの隅には、薄く滲んだ涙の跡のような染みがあった。


 拳太郎はノートをそっと閉じ、引き出しの奥にしまった。


 だが、その夜。拳太郎の夢に、白いワンピースの女の子が現れた。


 顔は見えなかった。ただ、じっと拳太郎を見つめながら、口を動かしていた。


 音は聞こえないのに、なぜか彼には分かった。


「……つぎは……きみ……」




 翌朝、拳太郎はひどく寝覚めの悪いまま、学校へ向かった。


 夢に現れた“白いワンピースの少女”の姿が、頭から離れない。顔が見えなかったのに、どうしてだろう――彼女が“怒っている”ことだけは、確かに伝わってきた。冷たい視線、呟かれた「つぎはきみ」という言葉が、拳太郎の心を締めつける。


 学校に着くと、校門の前で騒がしい人だかりができていた。女子たちの怯えた声が飛び交い、教師たちも慌ただしく指示を出している。


「……また、出たらしいよ」


 耳に入ってきたのは、そんな囁き声だった。


 昨夜、一年生の教室の黒板に、赤いチョークでびっしりと「やめろ」「やめろ」「やめろ」と書き殴られていたというのだ。担任が朝一番に教室へ入ったときには既にその状態で、生徒たちは教室に入れず、職員室に集められていた。


「落書きにしては異常すぎるだろ……」


「しかも、教室の鍵は閉まってたって……」


 周囲の声が恐怖と疑念に染まっていく中、拳太郎は背筋に冷たい汗を感じていた。


(前田の“エンジェル様”と……関係がある?)


 答えは出なかった。ただ、偶然と呼ぶにはあまりに連続した不可解な出来事だった。


 教室に入ると、前田真希はすでに席にいた。


 ……だが、様子がおかしかった。


 両手を机の上に乗せてじっと動かず、顔を伏せたまま、まるで何かを待っているようだった。


「おはよう……」


 勇気を振り絞って声をかけると、前田はゆっくりと顔を上げた。


 その顔に浮かぶのは、いつもの無表情ではなかった。


 ……微笑んでいた。


 笑っていた――だが、それは拳太郎がこれまで一度も見たことのない、不気味な“作り物のような笑顔”だった。


「……おはよう、笹本君」


 なぜか“君”づけで呼ばれたことにも違和感があった。今まで彼女は名前を呼ぶことすらほとんどなかったのに。


 そして、前田の手元には、あのノートがあった。螺旋の円が描かれたページの上に、昨日折れたはずの鉛筆が、元どおりに置かれていた。


(……なんで、直ってる?)


 その疑問が頭をよぎるより先に、前田がぼそりと呟いた。


「昨日の夜、エンジェル様が来たの……」


「……え?」


「私の夢に……来たの。今度は拳太郎君の番だって。そう言ってたの」


 拳太郎の心臓が、一瞬止まったかと思うほどに強く鼓動を打った。


「……冗談だろ?」


 声がかすれて出た。だが、前田はその質問に答えず、ただ一点を見つめる。


 教室の後ろの黒板だ。


 拳太郎が振り向くと、黒板の端に、何かが書かれているのを見つけた。


 そこには、チョークで一言。


 


「つぎは、きみ」




 それは、拳太郎が夢で聞いた言葉と、まったく同じだった。


「うわっ……なにこれ……誰が書いたの……」


 周囲の生徒たちも次第に気づき始め、ざわめきが広がる。奥村先生が慌てて教室に入り、その文字を見て顔を青ざめた。


「……誰が、こんなことを?」


 教師の声も生徒の声も、拳太郎の耳には遠く感じられた。


 まるで自分が、何か目に見えない渦の中に飲み込まれそうな感覚。


 このままでは、本当に“何か”に引き込まれてしまう。拳太郎はそう感じていた。




 放課後。


 拳太郎は一人で、図書室へ向かった。


 エンジェル様、その存在の正体を知るためには、何か記録や文献が必要だと思ったのだ。担任や誰かに相談することも考えたが、それよりもまず、自分自身で知るべきだと感じた。


 図書室の奥にある古い郷土資料の棚。埃のかぶった書物の中から、拳太郎はある一冊のノートにたどり着いた。


 それは、十年以上も前にこの学校に通っていた生徒の手記だった。


 日付は、平成十九年。


 手記の内容は次第に、拳太郎の読み進める目を凍らせていった。




 クラスの女子が始めた“天使様”という儀式。ノートに文字を並べ、鉛筆で霊を呼ぶ。


 最初はみんな面白がっていたが、ある日から「誰かが毎晩部屋の窓をノックする」「夢に同じ女の子が出てくる」という話が出始めた。


 そして、一人の女子が、体育館の裏で倒れていた。口から泡を吹き、目は見開いたまま。


 その日を境に、参加していた生徒たちは口を閉ざし、卒業アルバムにも写真が残らなかった。


 そこには一枚の写真が貼られていた。


 画質の悪い、ぼやけた集合写真。その最後列、中央に写る白っぽい服の少女だけが、明らかに“顔がなかった”。


 拳太郎は震える手でページを閉じた。


(これは……エンジェル様じゃない。最初から、そんなものはいなかったんだ)


 “それ”は霊でも天使でもない。


 名もなき、“何か”。


 呼び名など関係なく、人の願いと欲望を媒介にして、自らの存在を現実世界に根付かせる“存在”。


 前田真希は、それを“呼んでしまった”のだ。




 その夜。拳太郎は、夢の中で再び“彼女”と対面した。


 白いワンピース。顔のない女。


 彼女は拳太郎の目の前に立ち、微動だにせず、ただその場にいた。


「……どうして、僕に?」


 そう尋ねると、女は音のない口の動きで、答えた。


「あなたが、見たから」


 次の瞬間、女の顔に“何か”が浮かび上がった。前田真希の顔……否、それは“前田のようで前田でない”顔だった。眼球が真っ黒で、口元は裂けたように歪み、不自然な笑みを浮かべていた。


「みつけた……」


 その瞬間、拳太郎は目を覚ました。


 心臓が激しく脈打ち、全身から冷や汗が流れている。


 だが、夢ではなかった。部屋の窓が、ゆっくりと“コツン、コツン”と音を立てて、叩かれていた。




 窓を叩く音は、まだ続いていた。


 コツン、コツン。静かな夜の闇に溶けていくような小さな音。けれど、その音は拳太郎の鼓膜に焼きつくように響いていた。


(まさか……)


 拳太郎は息を殺しながら、そっとカーテンに手を伸ばす。だが、引く勇気が出なかった。カーテンの向こうに“誰か”がいることを、彼の直感が告げていた。


 もし、それが夢で見た“白いワンピースの女”だったら?


 彼の脳裏に、前田真希が口にした言葉が蘇る。


「エンジェル様が、次は拳太郎君の番だって……」


 拳太郎は意を決して、勢いよくカーテンを開いた。


 ……だが、窓の外には誰もいなかった。


 ただ、夜の静寂と、街灯のオレンジ色の光が、ぼんやりと外の景色を照らしているだけだった。胸をなでおろそうとしたその時、彼はあることに気づいた。


 窓ガラスに、小さな手形がついていた。


 子どもの手のひらくらいの大きさ。それが、五つ、六つ、七つ……無数についていた。まるで、何人もの“何か”が窓の外から覗き込んでいたかのように。


「……うそだろ……」


 拳太郎はガタガタと震えながら、窓を閉め、鍵をかけた。その夜は布団の中で目をつぶったまま、朝を迎えるまで一睡もできなかった。




 翌朝の学校では、さらなる異変が起きていた。


 隣のクラスの女子、生田美月が登校途中に交通事故に遭い、意識不明の重体となったという知らせが入った。事故現場には、奇妙なメモが落ちていたらしい。それは、学習ノートの切れ端に、黒いボールペンで書かれたもので、こう書かれていたという。


「あの子は、しつこく訊いたから」


 教室では誰もが、もう“偶然”とは思っていなかった。あのエンジェル様を境に、次々と不幸が起きている。それはまるで、見えない鎖で繋がれた“儀式”のように。


「……あたし、もう無理……前田さんに近づきたくない……」


「やっぱアレ、霊だよ。呪われてる」


「見たってだけで“次の番”になるって話……あれ本当なのかな」


 教室のあちこちで囁かれる噂話。だがその中心にいるはずの前田真希は、まるでそれらを聞いていないかのように、黙々とノートに向かっていた。


 彼女は、以前にも増して痩せていた。頬はこけ、目の下には濃い隈ができている。けれど彼女の目は、どこか“別の世界”を見ているようだった。


 そして、その日。


 拳太郎の机に、一枚の紙が置かれていた。


 それは、前田のノートから切り取られたページだった。文字がぐるぐると円を描くように並べられ、まるで螺旋の呪文のようだった。


 だが、中央にだけ、こう記されていた。


「私を止めて。私じゃない、もう誰かが中にいるの」


 その言葉に、拳太郎は背筋が凍るのを感じた。


(……やっぱり、前田は……)


 彼女はすでに、“何か”に憑かれている。少なくとも、彼女の中の“本当の前田真希”は、助けを求めている。


 ならば――自分がやらなければならない。


 このまま放っておけば、次に何が起きるか分からない。




 放課後。


 拳太郎は意を決して、前田の元へと歩み寄った。


「……前田さん。話がある」


 彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、以前のような光がわずかに戻っていた。拳太郎は机の脇にしゃがみ、前田の目を見て言った。


「エンジェル様のこと、全部教えて」


 前田は、しばらく黙っていたが、やがてぽつりぽりと話し始めた。




 最初は、小さな“願い”だったという。クラスで無視される日々が苦しくて、「友達がほしい」とノートに書き始めたのがきっかけだった。


 ある日、夢の中に白い服を着た女の子が現れ、「助けてあげる」と言った。


 そこから、ノートに答えが浮かぶようになった。


 誰も見ていないのに、鉛筆が動くようになった。


 人気者になった。皆が笑って話しかけてきた。


 でも、それと引き換えに何かが、自分の中に入り込んできた。


 気がつくと、自分の体を使って“それ”が喋っていた。質問に答えていた。


「……止めたかった。怖かった。でも、もう遅かった」


「じゃあ、あの“女の子”は……?」


 前田はかすかに首を振る。


「あれは……“子ども”じゃない。“顔”は持っていないの。誰かの顔を借りて動いてるだけ」


 拳太郎は、ある疑問を投げかけた。


「――名前は?」


 その存在に名前があるなら、そこに“封じる”鍵があるかもしれない。何かを呼び出すには、名前がいる。逆に言えば、名前を封じれば、その力を断つこともできるかもしれない。


「……名前を聞いたことがある。でも、言っちゃダメって思った。言葉にしたら、もっと強くなる……」


 拳太郎は小さく頷いた。


「なら、言わなくていい。だけど、そいつを終わらせよう」




 その日の夜。拳太郎と前田は、学校に忍び込んだ。


 二人で“降霊ノート”と呼ばれた学習ノート、そして文字盤、プランシェットの代わりに使っていた鉛筆を持ち、かつて“真希がエンジェル様”を呼び出したあの机の上に座った。


 教室には誰もいない。ただ、月明かりが窓から差し込んで、黒板の文字をぼんやりと浮かび上がらせていた。


 拳太郎が呼びかける。


「エンジェル様……否、“おまえ”。今夜で終わりにする」


 前田は、手をプランシェット代わりの鉛筆に添える。


 教室の空気が、重く、冷たく変わっていくのがわかった。


 次の瞬間……


 鉛筆が動いた。


「また、呼んだね」


 ノートの上に、そう記された。


 そして……前田の目が……白目が真っ黒に染まった。


 まるで眼球が消えたかのように、深い闇のような黒だけがそこにあった。


 拳太郎は震える手で、ノートを持ち上げる。そして、ポケットから取り出した“火打石”母が昔使っていたライターを取り出す。


「これで……終わらせる!」


 火がついた瞬間、ノートの中心から“叫び声”が響いた。


 だが、それは誰の声でもなかった。


 男でも女でもない、“何か”の悲鳴。


 燃え盛るノートが文字を黒く焦がしながら崩れていく。その火の中で、前田は気を失った。


 そして、教室の空気は、静けさを取り戻した。




 翌朝。前田真希は、久しぶりに笑っていた。


 あの黒い瞳は戻り、ノートも、何もかもが消えていた。奇妙な出来事はそれ以来、学校から姿を消した。


 拳太郎もまた、夢に“彼女”を見ることはなかった。


 ただ一つだけ、残されたものがある。


 黒板のすみに、誰が書いたか分からない小さな文字。


「また 会いましょう」


 だが、それが誰に向けた言葉なのか拳太郎には、わからなかった。




 夏が終わり、季節は秋へと移り変わろうとしていた。


 台風一過の青空が広がるある日、一年三組に一人の転校生がやってきた。黒髪の長い少女で、名を一ノ瀬ひよりといった。透き通るような白い肌と、大人びた雰囲気。その存在感は、教室の空気を一瞬にして変えた。


「お、おれ……一目惚れしたかも……」


「やばい、モデルみたい」


 男子も女子も、誰もが彼女の登場に目を奪われた。担任の奥村先生が「後ろの空いてる席に」と促すと、ひよりは静かにうなずいて歩き出す。


 彼女が向かったその先は、拳太郎の隣の席だった。


(……あのとき、エンジェル様が言っていた。“となり”って)


 心の奥にわだかまっていた言葉が、不意に蘇った。


 拳太郎はひよりの横顔をちらりと見た。瞳は不思議な色をしていた。茶色とも灰色ともつかない、深い湖のような静けさを湛えていた。


「よろしくね、笹本くん」


「え……なんで俺の名前……」


 ひよりは柔らかく笑った。


「有名だったよ、いろいろと」


 “いろいろと”その一言が、まるで全てを見透かしているかのようで、拳太郎は背筋が冷たくなるのを感じた。




 前田真希は、あの日を境に“普通の女子”になっていた。


 もうノートに奇妙な文字を書くこともなく、誰かと一緒にお昼を食べたり、図書室で本を読んだりする姿も見られるようになった。あのエンジェル様騒動は、学年内では都市伝説のように語られていたが、噂も徐々に消えつつあった。


 しかし……


 拳太郎だけは、ある“違和感”を拭えずにいた。


 ある日の放課後、前田がこっそり旧校舎のほうへ向かっていく姿を見かけたのだ。


(……まさか、また……)


 心配になって後をつけると、旧図工室の前で彼女が誰かと話していた。


 その相手は一ノ瀬ひよりだった。


 廊下の陰に隠れて二人の会話を盗み聞きする。


「……やっぱり、前の“器”は不完全だったのね。これ以上は危険だわ」


「でも……あの時、わたしは……」


「忘れて。あなたはもう“抜け殻”。覚醒したのは彼の方。だから、今度はわたしがやる」


 拳太郎の鼓動が跳ね上がった。


(“器”? “彼”?……まさか、俺のこと……?)


 ギシッ、と床が軋む音がして、拳太郎は身を引いたが、ひよりはすでにこちらを見ていた。


「あら、笹本くん。どうしたの?」


 いつもの優しい口調、しかしその目の奥には冷たい光が宿っていた。


「……なんでもない。偶然通っただけ」


「そう。偶然って、時々意味深よね。たとえば、“選ばれる理由”とか」


 その言葉に答えられず、拳太郎はその場を逃げるように後にした。




 その夜。


 拳太郎は久しぶりにあの夢を見た。


 白いワンピースの少女。顔がない。


 だが今回は、彼女の背後にもうひとつの影があった。


 黒い影。髪の長い女。灰色の瞳。


 それは一ノ瀬ひよりだった。


 彼女は微笑みながら言った。


「目覚めてしまったのね。エンジェル様じゃない、もっと古い“名前”に」


「名前……?」


「この世界には、願いを代償にして“応える”存在があるの。ずっと昔から。“天使”という姿を借りて、人の願いをエサに存在し続けてきた」


「じゃあ……“エンジェル様”って、最初から……」


「偽名よ。本当の名前は、“ヨグ・ティエル”――忘却と代償を司るもの」


 拳太郎の足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。言葉にならない恐怖が喉を塞ぐ。


「あなたは“見た”から、繋がってしまった。でも、怖がらないで」


 ひよりが手を伸ばしてくる。


「あなたは“器”として、十分な資質がある。前田さんよりも、ずっと……」




 目を覚ました拳太郎の体は、汗でぐっしょりと濡れていた。


 だが、それ以上に恐ろしかったのは、枕元に置かれていたノートだった。


 燃やしたはずの、前田の降霊ノート。それとまったく同じ表紙。


 震える手で開くと、そこには一行だけ文字が書かれていた。


「ヨグ・ティエルへ捧ぐ。願いを叶える代償として、命を捧げよ」


 そして、その下に、自分の名前が記されていた。


 笹本拳太郎




 学校では再び奇怪な事件が起こり始めた。


 猫の死骸が校門前に並べられたり、誰もいない教室でピアノの音が鳴ったり、意味不明な記号が黒板に書かれたり。生徒の間では「本当に呪われている」と恐怖が広がっていた。


 拳太郎は、もう逃げることができなかった。


 あのノートを受け取った以上、儀式は始まってしまった。


 その夜、前田からメールが届いた。


「あの存在は、“忘れられる”ことで力を増す。忘れてはいけない。覚えていて、名前を呼び続けて――さもないと、誰かが代わりに……」


 その直後、ひよりからもメールが届いた。


「もう、抗わないで。あなたが望んだことでしょう?」


 拳太郎は、ノートを手に、鏡の前に立った。


 そこには自分の顔が映っていた。だが、目の奥に誰か“他人の意志”が宿っているのを、はっきりと感じた。


 指先が勝手に動き始める。


 ノートの中に、奇妙な文字を描いていく。


 ぐるぐると、渦を描くように。


 願いを叶えるために。


 代償を支払うために。


 拳太郎は、最後のページに名前を書いた。


 ヨグ・ティエル。


 そして、その隣に。


 ひよりと、記された。




 それは明け方だった。


 拳太郎の部屋の天井に、奇妙な音が反響していた。カサ……カサ……というかすかな音。まるで紙をめくるような、不気味な連続音。寝ぼけ眼のまま見上げると、天井の隅に“何か”が張りついていた。


 四つん這いのような姿勢で、女のようなシルエット。だが、頭がぐるりと一八〇度、逆さまを向いていた。


 そして、目が合った。


 黒い瞳。いや、黒い穴。底のない奈落。


「ひより……」


 口が勝手に動いた。呼ぶつもりはなかった。だが、あの目を見た瞬間、彼女の名が脳内を満たしたのだ。


 その影は、ゆっくりと天井から滑り落ちるように拳太郎へと迫ってくる。


「あなたが書いたのよ、拳太郎君」


 女の声が、耳の奥で囁いた。


「私の名をノートに……それは“契約”なの。あなたは、私を呼んだのよ」


 拳太郎はベッドから飛び起きた。額には冷や汗。心臓が乱打するように鼓動している。


 ……夢? それとも……現実?


 机の上には、例のノートが開かれたままになっていた。昨日の夜、自分が最後に記したはずの名前……


 ヨグ・ティエル


 そして、その隣に書いた「ひより」の文字が、いつの間にか……


 拳太郎


 に、書き換わっていた。




 


 学校へ行くと、前田真希が拳太郎を待っていた。


 彼女は以前よりもさらにやつれ、眼の下には濃い隈が浮かんでいた。だが、その目だけは異様なまでに澄んでいた。すべてを覚悟した者の目だった。


「……もう、限界みたい。彼女は、もう“姿”を必要としてない」


「彼女……ひよりが?」


 前田は首を振った。


「ひよりはただの“依代”。本当は……その背後にいる“何か”が、次の依り代を探してる」


 拳太郎は息をのむ。


「俺……選ばれたってことか?」


 前田は何も言わず、代わりに一枚の古びた紙を渡してきた。それは古文書のコピーのようだった。中には、こう記されていた。


 ヨグ・ティエルの契約


 願いを告げ、名を与えし者は、魂を捧げる者なり。


 忘却を選ばず、記憶を持ちし者は、供物となりて螺旋の扉を開かん。


 彼女は名を持たず、借りた顔で現れる。名を呼ぶたびに、門は開く。


 名を消し、名を封じ、記憶を絶て、さすれば門は閉ざされる。


「拳太郎君……あなたが“名前を書いた”から、もうすぐ“門”が開く。世界が……歪むの」


「じゃあ、どうすればいいんだよ……」


「名前を封じるしかない。“彼女”がいる世界ごと、記憶の中から消す」


「どうやって?」


 前田はポケットから、ボロボロになったノートを取り出した。


 それは、あの“最初の交霊ノート”だった。


 燃やしたはずのそれが、なぜかまた、前田の手に戻っていた。


「これを、封印の文字で埋めるの。“真名”を消すの」




 その夜、拳太郎と前田は再び学校に忍び込んだ。今度は二人だけでなく、以前エンジェル様に関わった数人の女子たちと星川舞子、笠井理奈らも無言でついてきた。


「本当に、終わらせられるの?」


 星川が怯えながら尋ねると、前田は小さく頷いた。


「これはわたしの罪。けど、私一人じゃ終わらせられない」


 教室の黒板には、すでに誰かが書いた文字があった。


「ヨグ・ティエル 此処ニ顕現ス」


 急に、教室の空気が冷たくなった。


 窓がガタガタと揺れ、教室のドアが軋みながら開閉を繰り返す。


 “何か”が入ってこようとしている。


 その瞬間だった。


 ひよりが現れた。


 スカートをなびかせながら、教室の奥へと歩いてくる。その瞳は、あの日の夢の中で見た“黒い穴”そのものだった。


「もう……時間切れよ、拳太郎君」


「お前……何なんだ!」


 拳太郎が叫ぶと、ひよりは微笑んだ。


「名前なんてどうでもいい。形を持つことが、目的じゃないの。“記憶される”ことが、私の存在理由」


「だったら……お前を忘れてやるよ!」


 拳太郎は前田のノートを掲げ、皆で封印の文字“忘却”の文字列をひたすら書き続けた。


「忘れる」

「忘れる」

「忘れる」


 その言葉を繰り返すたびに、ひよりの姿が霞んでいく。


 顔が曖昧になり、輪郭が崩れ、やがて“ただの闇”となった。


「や……め、な……さ……い」


 呻くような声が空間に響く。


 拳太郎は最後の一文字を、ノートに記した。


 無


 次の瞬間、教室の窓ガラスが全て一斉に砕け散り、冷たい風が吹き抜けた。


 そして……ひよりは、消えた。




 翌朝。


 その日の新聞には、“未明の突風によるガラス破損”とだけ小さく報じられた。


 学校は一日休校になったが、それ以上の騒ぎにはならなかった。


 奇妙だったのは……


「一ノ瀬ひより」という転校生の存在が、学校のどこにも記録されていなかったことだ。


 出席簿にも、転入申請書にも、名簿にも。誰もが彼女を見ていたのに――誰も、思い出せなくなっていた。


 拳太郎だけが、ただ一人、彼女の存在を覚えていた。




 放課後。


 拳太郎はひとり、図書室の奥にある記録棚を見ていた。前田の言葉が思い出された。


 忘れてはいけない。覚えていて、名前を呼び続けて……


 だが、もしそれが“彼女”を現世に留めることになるなら?


 拳太郎は、図書室にある“閲覧ノート”に、静かにペンを走らせた。


 彼女の名は、もう書かない。誰にも思い出させない。


 けれど、確かにそこにいた。ひとつの声として。


 ひとつの哀しみとして。


 そして、ペンを置いた。


 この物語は、拳太郎の中だけに残る“記憶”となった。




 だがその帰り道。


 夕焼けの商店街の一角で、拳太郎はある張り紙に目を止めた。


【心霊写真展:白いワンピースの少女】


 そのポスターの中で、笑っている少女の姿が確かに、そこにいた。


 放課後の薄暗いアーケード街。夕暮れの光が斜めに差し込む中、拳太郎は不意に立ち止まった。


 シャッターの閉まった店の隙間に、小さな写真展のポスターが貼られていた。


【特別展示:心霊現象の記録写真展】


《白いワンピースの少女》と名もなき守護霊たちの記録。


 そこに、確かに写っていた。


 あの“彼女”。白いワンピースに長い髪、灰色の瞳で笑みを浮かべた、一ノ瀬ひより。


 背筋を走る戦慄を抑えきれず、拳太郎は無意識にその展示会場へと向かっていた。




 翌日の日曜、拳太郎は一人でその展示へと足を踏み入れた。場所は商店街の外れにある古びた集会所。入口には受付すらなく、無人だった。手書きの「展示中」の札があるだけ。


 中は薄暗く、鉄の臭いと古紙の湿った匂いが満ちていた。


 壁一面には、無数の古びたモノクロ写真が展示されていた。いずれも、場所も人物も不明な、どこか異様な構図のものばかり。


 だが――ある一枚の前で、拳太郎の足は止まった。


 それは、昭和初期と思われる集合写真。


 ぼやけた画面の奥に、現在の自分と酷似した少年が写っていた。


「……これ、まさか」


 誰もが無視しそうな一枚だったが、よく見ると、背後のガラス窓の中に白い影が佇んでいた。


 長い髪。白いワンピース。覗き込むように笑っている。


「ひより……?」


 声に出した瞬間、背後から聞き覚えのある声がした。


「それはね、あなたの“祖父”だよ。拳太郎君」


 振り返ると、前田真希がいた。なぜここにいるのかと尋ねる間もなく、彼女は真剣な面持ちで告げた。


「この展示、ただの偶然じゃない。ここにある写真の一部は、呪いの系譜に関係してる」


「呪いの……系譜?」


 前田は頷き、小さなノートを取り出した。そこには見慣れた丸文字で、こう記されていた。


【天使を名乗る存在について】


 かつて、この地方の一部には“守護霊”を呼ぶ風習があった。


 しかし、特定の家系を媒介にして“異形の存在”が召喚された。


 それは、真の天使でも神でもなく、名を与えられることで“形”を得る存在。


 その名はヨグ・ティエル。


 唯一、契約を拒んだ家系が笹本家だった。


「……俺の家系?」


「そう。拳太郎君のおじいさんは“交霊術”の研究をしていた。でも、その中で“ヨグ・ティエル”に近づきすぎて、家ごと封印されたの。あなたの家が“先祖代々、この地にいたはずなのに誰も知らない”のはそのせいよ」


 拳太郎は言葉を失った。


 祖父は、亡くなったとしか聞かされていなかった。だが、記録は残っていない。写真すら、家にはなかった。


 その理由が、“忘却”の力によるものだったとは……




 その日の夜、拳太郎は実家の物置から埃だらけの箱を引き出した。


 中には、古びたアルバムと、分厚い木箱があった。


 アルバムを開くと、幼い自分を抱く母の隣に、ひとりの男性が写っていた。穏やかな顔。だが、その目の奥には、あの“ひより”と同じ灰色の光が宿っていた。


(……じいちゃん?)


 木箱の蓋を開けると、中には一冊の古文書と、何枚かの手紙が入っていた。


 そのうちの一通には、こう書かれていた。


 拳太郎へ


 お前がこれを読む頃には、私はこの世にいないだろう。


 だが、“封印”は未完のままだ。


 “彼女”はまた、姿を変えて戻ってくる。


 覚えておけ。名前を与えてはいけない。呼びかけてもいけない。


 ただ……


 忘れろ。忘れたふりをし続けろ。それが、お前に託された役目だ。


 忘れることが、最も強い“抵抗”なのだ。


 拳太郎は震える指でその手紙を読み返した。


 目の前に現れるのではなく、記憶の中に“巣食う”存在。


 それが、ヨグ・ティエルの正体。


 そして、自分はその存在を拒み続けてきた“血族”。




 それから数日後。


 拳太郎の周囲に、再び不穏な現象が起き始めた。


 教室の椅子が勝手に動く。


 トイレの鏡に、灰色の瞳の少女が写り込む。


 深夜、家の外でずっと鈴の音が鳴っている。


 だが、誰もそれを覚えていない。


 翌朝になれば、すべて“なかったこと”になっている。


 忘却。


 それは“彼女”の攻撃そのものだった。


「……もう、終わらせる」


 拳太郎は静かにノートを開いた。


 自らの手で、封印の文様を描く。


 祖父の文書にあった“対抗の式”四重螺旋の断絶印。


 それは、“記憶の中の記憶”をも断ち切る禁忌の術式。


 ひとたび成功すれば、自分さえも“何か”を忘れる可能性がある。


 だが。


 それでもいい。


 もう、誰も巻き込みたくない。


 最後の印を描き終えた瞬間。


 拳太郎の背後に、ふたたび“あの声”が響いた。


「思い出さなければ、よかったのに」


 振り返ると、そこには――“顔のない少女”が立っていた。


 いや、“顔を思い出せない少女”。


 そして、その姿は、やがて霧のように、音もなく溶けて消えていった。


 封印は、成功した。


 この世界から、ひよりは消えた。


 否、思い出せなくなった。


 拳太郎自身でさえも。




 九月の終わり。


 夏の名残が空の端に僅かに残っていた。だが、校舎の風はすでに秋だった。


 拳太郎は、どこか心にぽっかりと穴が空いたような感覚を抱えていた。


 理由は分からない。だが、この数週間、ずっと“何かを忘れている”ような違和感が離れなかった。


 時折、何の前触れもなく心が冷え込む瞬間がある。


 夜、自室で机に向かっていると、ふと視線を感じて振り向く。だが、誰もいない。


 夢を見る。真っ白な部屋にぽつんと佇む少女の影。


 その顔は、どうしても思い出せない。


 名前も、声も、何一つ。


 だが、その姿は涙ぐむように拳太郎に手を伸ばし……いつも、そこで目が覚める。




 その日、教室では朝からざわめきが広がっていた。


「転校生だってさ」


「え、こんな時期に?」


「てか、女子? 男子?」


 拳太郎は特に気にも留めず、自分の席に着いた。頭の片隅では、相変わらず“空白”がじりじりと広がっていた。


 やがて、担任の奥村先生が教室に入り、黒板の前に立った。


「はい、みんな席について。今日はひとつ、紹介があります」


 教室が静まり返る。


「新しく、このクラスに転入してきた生徒です。どうぞ、入ってきて」


 ドアが開いた。


 そして、彼女が現れた。


 静かな足音。肩まで伸びた黒髪。白に近い制服のブラウスが、やけに眩しく見えた。


 その少女は、黒板の前に立ち、控えめな笑顔を浮かべて口を開いた。


「…… 一ノ瀬ひよりです。よろしくお願いします」


 時間が……止まった。


 教室の空気が、ピンと張りつめた。誰も声を上げない。


 ひよりは、何事もなかったように一礼し、指定された空席である拳太郎の隣の席へとゆっくり歩いていった。


 その瞬間、拳太郎の中で、何かが砕けた。


(一ノ瀬……ひより……?)


 記憶が揺れた。


 呼吸が乱れ、手のひらに冷たい汗がにじむ。


 頭の奥に、あの声がこだまする。


「思い出してはいけない」


 心臓の鼓動が速まる。


 なのに、彼女は隣に座ると、拳太郎を見て、にっこりと笑った。


「……また、会えたね」


 その声は、小さな鐘の音のように、深い記憶の闇を揺らす。




 その日の放課後、拳太郎は校舎裏の空き地で、前田真希に再会した。


 彼女は相変わらず無口だったが、どこか以前より落ち着いた雰囲気を纏っていた。眼の隈もなく、表情にも怯えがない。


「……ひよりが戻ってきた」


 拳太郎の問いかけに、前田は小さく頷いた。


「封印は、完全じゃなかった。あの時、私たちは“記憶”を押し込めることで抑え込んだだけ。けど、あの子は“名前”を取り戻した。誰かが……呼んだから」


「呼んだ?」


「きっと、学校の誰かが、冗談半分で“エンジェル様”をまたやったのよ。あれだけ言ったのに……」


 拳太郎の脳裏に、あの交霊ノートが蘇った。机の隅に、まだそれがあるような錯覚。


「どうすればいい? もう一度、封印するには?」


 前田は少しだけ俯き、言い淀んでから、言った。


「今度は、代償が要る。“誰か一人の存在”を完全にこの世界から消さなきゃ、ひよりは二度と眠らない」


「……誰かを、犠牲にしろってこと?」


 前田は頷く。


「ひよりが戻ってきたってことは、世界のどこかに“彼女を記憶した誰か”がまだ残ってた。彼女は、その記憶を媒体にして形を得たの」


 拳太郎は息を飲んだ。


 なら……もし、自分が、最初の媒体だったのだとしたら?




 翌朝、教室で拳太郎はそっとひよりを観察した。


 彼女はノートに何かを書き続けていた。まるで、それが日課であるかのように。


 席替えの時、後ろでいつも何かを黙々と書いていたあの姿と、重なる。


 拳太郎の心の奥に、ひとつの言葉が浮かぶ。


「ノートを奪えば、ひよりは存在できなくなる」


 だが、それは同時に、“彼女を否定する”ということだった。


 机の上で静かに笑うひよりは、ただの少女にしか見えなかった。


「拳太郎君……ねぇ、何か、話したいことがあるよね?」


 ひよりは、まるで全てを知っているような声で言った。


「わたしはね、もう消えてもいいんだよ。でも、君が“そうしたい”って思ったら、わたしはまた、帰ってくる」


「なんで……俺に、こだわるんだよ……」


「だって、君が最初に“名前を呼んだ”んだもの。最初の契約者は、君なのよ。忘れたの? “あの夜”を」


 あの夜……ノートに彼女の名前を書いた。


 それが、すべての始まり。


 拳太郎の頭が割れるように痛んだ。


 記憶の底から、聞こえてくる。


 エンジェル様。エンジェル様。今ここにいらっしゃいますか?


「っ……!」


 立ち上がった拳太郎は、無言でひよりのノートを奪い取った。


 そのノートは、既に半分以上が埋まっていた。見開きのページには、何度も何度も、同じ名前が書かれている。


 一ノ瀬ひより 一ノ瀬ひより 一ノ瀬ひより……


「やめろ……もう、これ以上……!」


 拳太郎はノートを掴んだまま、校舎の裏庭へ走った。


 その背後で、誰かが静かに囁いた。


 「名前を忘れない限り、わたしは生き続ける」


 拳太郎はノートを開き、ライターを取り出した。


 火を灯し、ページの端に触れさせる。


 炎がじりじりと広がり、名前の連なりを飲み込んでいく。


 焦げた紙の匂いが、風に舞った。


 その瞬間……


 教室の窓ガラスがひとつ、静かに音を立ててひび割れた。


 そして、学校の時計の針が、午後一時四十四分で止まった。


 誰も、気づかない。


 だが、拳太郎は知っていた。


 この日、この時間、ひとつの名前が、世界から静かに消えたことを。


 だが、彼の心の奥に、ぽつんと残った“違和感”は、まだ……消えていなかった。


 彼は知らない。


 彼女が最後にノートへ書いた“もう一つの名前”の存在を。


 それは……拳太郎。




 ある日の放課後、男子生徒がコックリさんとの降霊術のやり方を図書館の本で見つけてきた。


 男子生徒二人で十円硬貨に触れながら数字や平仮名や片仮名など語音が書かれた紙の上で儀式を始めようとしていた。


 それを見物する拳太郎も含めてその場には三人であった。


 入谷と田口の二人はコックリさんとの交信も初めてであり何だかぎこちなかった。流石に見ている拳太郎にもこれは何も起こらないと思えた。


「コックリさん。 誰か死にますか?」


 入谷がふざけてそう質問した。


 すると、入谷と田口の指先にある硬貨がゆっくりと動き出した。


「ち」


 最初の文字を示した。


 入谷と田口はお互いにお前が動かしているんだろうと言い合っていると再び硬貨動き出した次々と文字を示している。「だ」 「ひ」 何か得体の知れぬ生き物が紙面を這い回っているかのように次々と文字を示していたが、やがてそれは微動だにしなくなった。


「ち- だ-ひ-ろ-え-し-ぬ」


 ”ちだひろえ”とは上級生でこの高校の生徒会長と同じ名前だったのだ。そう文字が示されると二人は慌てて硬貨から指を離してしまった。


 各々が明らかに取り乱していた。悪い事をして罪悪感を感じているというよりは何か得体の知れぬ恐怖を目の当たりにしたための畏怖が感情として押し寄せたのだ。


 そのため、コックリさんを儀式に従って帰すことも忘れて二人は慌てて家へと帰ったのだ。


 拳太郎は鳥居の描かれている紙を黒い瞳でじっと見つめていた。




 コックリさんの儀式から一週間ほど経過した。


 朝、奥村先生からこの学校生徒が亡くなったため、朝はこの場で校長から放送で伝えられるお話と黙祷をした後、体育館へ集合することとなった。


 千田広恵が亡くなった原因は上級生にお姉さんがいるクラスメイトの女子生徒の話で分かった。


 学校から帰宅後、千田広恵は母親と近くの大型ショッピングモールへ出掛けた。千田は母親と近所の女性が井戸端会議をしている間、疲れたと言って近くにあったベンチに腰掛けていたそうなのだ。


 母親が井戸端会議を終えて、ベンチで座りながら眠ってしまった娘に声をかけたら、亡くなっていたということであった。


 病院で死因を調べたり死亡解剖したが、何処にも異常がなかった。


 死因は原因不明の突然死とされた。


 拳太郎はあのコックリさんが原因なのではないかと一瞬脳裏を過ったが、あれは子供の遊びで現実に人が死ぬわけがないと恐怖心を抑えながら自分を納得させた。


 後日、入谷と田口にコックリさんのことを聞いたら儀式をしたことさえも覚えていないというのだ。


 あの時、周りにいた拳太郎以外はコックリさんをしたことさえ何故か忘れてしまっていた。最初は皆で自分の事をからかっているのかと思ったが、皆真顔で困惑していた。


 拳太郎だけが何故かあの日の記憶が残っているという謎を知ることが恐ろしくて、自分自身でもいつの間にか記憶を心の奥底へと封印していた。


 前田は相変わらず降霊術の自動筆記を授業中に行っていた。次の器が拳太郎であることを知ってか知らずか……抜け殻と言われた前田は再び器に選ばれる為にエンジェル様に固執していた。


 そして、この行為が自分自身の存在意義でもあるかのように、そこが自分の居場所なのだと前田はエンジェル様に執着していた。激しくノートに何かを書き綴る様子があまりにも異様であり、近寄りがたかった。


 奥村先生もそんな前田の行動に釘付けになっていた。


 次々とノートを捲っては何を書いているのか分からないが、前田自身が自分の行動を制御不能に陥っているようであった。


 教室中のクラスメイトの視線全てが前田真希に向けられている。


「止まってー!!」


 前田はそう叫びながらノートが裂ける程の筆圧で螺旋を繰り返し描き続けた。


 前田のノートがぼろ布のように変わり果て床に落ちると、今度は机の盤面に螺旋を描き続けた。


 ノートが落ちる音で奥村先生は我に返り前田の傍へ近づいて行くと、前田は白眼を向いて口から泡を泡を噴きながら椅子に座ったまま後ろ向きに倒れて動かなくなった。


 教室にいた女子生徒たち全員が一斉に悲鳴をあげたり泣き出した。


 隣のクラスで授業をしていた先生が慌てて拳太郎の教室に入ってきた。


 奥村先生も動揺して何をしていいのか分からなくなっていた。


 隣のクラスの男性教員は前田を抱き抱えて保健室へ行くと言って出て行った。


 皆に自習と告げて、奥村先生も後を追うように出ていくと暫くして副担任の年配の女性教員がやってきた。


 何も心配いらないと生徒たちを安心させたり、泣いている生徒や嘔吐してしまった生徒の対応をしていた。


 前田は救急車で搬送され一週間後に登校した。


 この事件は前田が発作を起こしたことと教室での出来事は集団ヒステリーで処理された。


 実際にあの場にいた者たちでなければ、あの異常な状況の本当の恐怖は理解できない。


 前田はこの事がきっかけで、彼女の周りには再び誰も近寄らなくなった。


 前田も親と先生からエンジェル様を今後決して行ってはいけないときつく注意されたそうである。


 そして、月日は流れ三年生になり大学受験勉強に追われる毎日を過ごした。あっという間に三月となりそれぞれの進路が決まった。拳太郎は高校卒業式の後に校舎の廊下で前田真希とすれ違った。


「卒業だね。大学は何処へ?」


 拳太郎の問に前田真希は俯いたまま何も答えなかった。 


「エンジェル様は……もうしてないんだよね?」


 息をしていないのではないかと思うほど蝋人形の如くその場に微動打もせず立ち尽くしていた。


 だが、前田真希のその口唇が妖艶に微笑んでいる様にも見えた。


「……つぎは……きみ……」


 それが彼女の姿を最後に見た記憶である。


 あれからかなりの年月が経過しているが、今でも時々ではあるが、前田真希と千田広恵の出来事を思い出すのである。それはとても遠く懐しいと呼べるほどの記憶でありながらも確かにそれは拳太郎の人生の一部となっている。それは余りにも切なく奇妙な記憶として深く刻まれているのである。


 高校生の頃に体験したこの出来事は本当にエンジェル様という何か得体の知れぬ存在がかかわっていたのだったのか、そしてもう一つの出来事はコックリさんが千田広恵の命を奪ったのではないのだろうかと二つの疑問を拭い去れない。


 それは未だにトラウマのようにいつまでも拳太郎に深い傷跡としてつきまとっているのだ。


 あの時、前田真希がノートに書いていた”やめろ”という文字は、エンジェル様からの警告などではなく、前田本人の”心の叫び”であったのではないかとさえ思えてならない。



#ホラー小説

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エンジェル様 江渡由太郎 @hiroy

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