第20話 誰もが若く熱しやすく、思うがままに乱暴に生き、年老いて穏やかに生きる術を知る前に命を落とす
「ここで食事をとった者が、街で次々死んでいるとの報告がある」
天幕に入ろうともせずそう決めつけたのは、腰で膨らんだ貴族風のキュロットに胴着を身につけ、オリーブ色の肩マントをなびかせた男だった。
せっぱ詰まった状況が見えているのかいないのか、神官全員を強引に呼び集め、もったいをつけて話し出す。
総督配下の役人と思われるその男は、油でねじったナマズひげをつまみながら色の薄い唇を疎ましげに吊り上げて、天幕の内から聞こえてくるうめき声に鼻をゆがめた。
「よいか、総督命令を伝える。施しなどと言う偽善的な行為は今後一切、禁止だ」
役人は尊大に言い放った。
「貴様等の所業は大量殺人に値するぞ。不衛生な環境下において汚染された食物を配り歩いた結果、浮浪者どもがのたれ死んだのであるからな。ま、その方がシャノアの街の浄化になって良かったわけだが。とにかく、本来なら全員しょっ引いて罪に問うところであるのを、総督閣下のご厚情でお見のがし下さるというのだから、ありがたくご命令に従うがいい。施しなどという口先だけのきれい事をやってはみたものの、本心ではそろそろ懐具合が苦しくなってやめたいと思っていたのではないのか」
その言葉を聞いたギュスタの顔がみるみる青白い怒りに染まった。
ラトゥースはギュスタの握りしめた拳が震えるのを見て、静かに前へと進み出た。
足下で砂利がざくり、と鳴る。
「何だお前は」
身長の差は頭三つぶんほどもあるだろう。
だが、ここで退くわけにはいかなかった。
侮蔑する眼差しをくれた役人に向かい、ラトゥースはまず大きく深呼吸した。
「あまりにもそれは礼を失した発言だとお思いになりませんか」
役人は憎々しげな嘲笑をうかべた。
「黙れ、女。総督の名代として来てやったこの私に」
無礼にもラトゥースを突き飛ばそうと肉厚の手で押しやりかけ、触れる寸前、凍り付く。
ラトゥースは首に下げた鎖を指にからめ、ゆっくりと引っぱり出した。
細い指先に、金銀の象嵌を施された勲章が、きらりと反射しながら回転する。
真実、あるいは悪を見抜く力を与する太陽と月の神、マイアトールとヌルヴァーナのしるし。
精緻な魔法円の中、背中合わせに重なり合う二つの翼──陰と陽、光と闇──を意匠したその刻印は、この国を統べる高貴な血統をあらわす紋章そのものだった。
「お前ごとき木っ端役人を相手にしている暇はない」
たじろぐ役人を前にラトゥースは恐ろしく静かに言ってのけた。
「総督に伝えよ。大法官シド・サズュールの名において、今後この事件は王国巡察使クレヴォー隷下にて改めるものとする。手出し無用。しかと心得よとな!」
「は、ははあっ! 申し訳ございませぬ!! よ、よ、よもや巡察使さまとはっ」
役人はこめつきばったのように平伏し、たるんだ頬肉をひくひくと痙攣させながら逃げ帰った。
その背中に向けてラトゥースは土を蹴り、邪な印を切る仕草をしてみせた。
「何て言いぐさなの、あいつ!」
「私が愚かでした」
今にも消え入りそうな、小さい声が応じる。
うつむいたギュスタの顔は目を疑うほど青白く血の気を失っていた。今にも倒れそうだった。
「クレヴォー閣下、シェイル隊長より伝令」
どうしようもなく重い空気をかきわけて、密偵の男が駆け寄ってきた。略式の敬礼をし、失礼と断ってからラトゥースに何事かを耳打ちする。
「
鋭い視線で舌打ちし、伝令を見やる。
「分かったわ。私も行く。案内して」
言い置いて歩き出そうとし、ラトゥースはギュスタを振り返った。ほっそりと優しかった眉が険しく引き絞られる。
打ちのめされたていの神官をひたと見つめる。
そのまなざしは、さながらヌルヴァーナの翼先に灯る青白い鬼火のようだった。
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月さえもが顔を背ける、泥のような夜空の下を、ハダシュは熱に浮かされた足取りでふらふらとたどっていた。
目指すのはラウールの屋敷。
頭の中にあるのは、自我を奪っていく赤い煙のことだけだ。
行き先は地獄。
それが自分の首を真綿のように絞めることになると分かっていた。分かっていても、向かわずにはいられない。
手が震え出す前、幻聴が聞こえ出す前に、どうしてもそれが必要だった。
周囲に人の気配はない。港の花街ならともかく、夜のシャノアをうろつくなど、まっとうな人間のすることではない。
誰もが鎧戸を堅く閉ざし、光すら漏れないようにして閉じこもっている。
たとえ隣人が強盗に襲われようと助けに駆けつけるなどもってのほか、それどころか火事場泥棒に成り下がり、金目のものを根こそぎ剥ぎ取ってあざ笑うのだ。
欲望の街。
暴力の都。
誰もが若く熱しやすく、思うがままに乱暴に生き、年老いて穏やかに生きる術を知る前に命を落とす。
それでもこの街には、王国の大部分に残された封建制度とは異なる、自由と活気、解放された文化の象徴という表の顔があった。
シャノアでの生活は、街の外に住む大多数の人々が置かれている半奴隷的な農奴暮らしと比べれば、はるかに魅力的で変化に満ちた生き方といえただろう。
表と裏の顔。光と影をあわせ持つ街。シャノアとは、そういう街だった。
ラウールの邸は奇妙なほど静かだった。
シャノアの闇を統べる男の住処にしては閑散としすぎている。外から見える窓に灯りのついているところは一つとしてない。
ハダシュは邸の裏手へ回り、先端を鋭利に尖らせた鉄柵を越えて忍び込んだ。
しばらく息をひそめ、気配を探る。いつも庭に放たれているはずの番犬たちは、今夜に限ってなぜか鎖につながれたまま深く眠っていた。
植え込みの影をつたって、ラウールの居間へつづく小部屋の下に立つ。
いやな胸騒ぎがした。
何かがおかしい。
ハダシュは黒々と繁った木によじのぼり、枝伝いにバルコニーへと跳躍した。
跳ね返った枝がざわりと揺れる。
それでもまだ誰かに気付かれた様子はない。窓に鍵はかかっていなかった。
そっと引き開けてみる。ちょうつがいが短く軋んだ。
足音をさせないよう忍び入る。
息を殺して隣の部屋をのぞいた。ラウールの安楽椅子だけがぽつんとあった。見慣れない純白の毛皮が敷かれている。
いつもとは明らかに様子が違う。あれでは足の悪いラウールがつまずいてしまうだろう。車椅子も寄せられぬはずだ。新しく入った下働きの者が手際の悪い真似をしたのか、それとも──
中途半端に閉じられたカーテンのドレープから半分はみ出した白いレースが、そぞろに膨らんではそよいでいる。
隅の飾りテーブルには白亜に金蒼彩を施した壺が置かれ、異様に強く香る薔薇がたっぷりと生けられていた。
誰もいない。
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