第21話 やわらかく、深く、呑み込まれ、うずもれてゆく
ハダシュは心ならずも安堵の吐息をもらした。おめおめ逃げ帰ったと知れれば、どんな扱いを受けるかしれたものではない。思わず力が抜ける。それよりラウールの隠し持つ麻薬を探し出さなければ。
部屋を見渡す。
煉瓦造りの暖炉からもれる消えかけた熾火が、灯りのない部屋を朱色に染めている。灰の山には火掻き棒が斜めに突き刺さっていた。透き通る赤と黒の火だけが音もなくゆらめいて、床に細長い影を伸ばしている。毛足の長い敷布が足音を吸い込む。
ほんの少量でいい。一日でもあの苦痛から遠のいていられるなら──
そう思って、油断した足を踏み出したとき。
「呆れたものね」
ひそやかな衣ずれの音が聞こえた。とっさに身をひるがえす。
刹那、みぞおちに強烈な棒状の一撃が食い込んだ。
ハダシュは胃が裏返りそうな痛みにつんのめり、がくりと膝を落とした。意識がかすむ。白い手が、甘い香りのする布をすばやくハダシュの鼻と口に押し当てた。
馥郁とする罪の香りにひきずられる。ハダシュはつい息を止めることも忘れ、ふかぶかと揮発する麻薬をむさぼった。眼がくらんだ。ため息がもれる。
「なぜ貴方がここにいるのかしら」
あえなくくずおれるハダシュを、ヴェンデッタは片手でかるく突き飛ばした。ハダシュはぐらりと体勢を崩して安楽椅子に倒れ込んだ。
「一人で生きるのがそんなに辛いの。そんなに脆い男だったかしら、貴方は」
頭の奥が鉛のように重い。理性が叫んでいる。
しかしもう脱力した身体も心も動かない。折れた意識が、深くよどんだ昏い海へと沈んでいく。
ヴェンデッタはドレープのタッセルを抜きとってハダシュの両手首を縛り、吊り上げて安楽椅子の背もたれにきつく結びつけた。
「少しは抵抗する素振りを見せなさいな。じゃないと嬲り甲斐がないわ」
冷然と眼を細める。
暗い微笑みが近づいた。
ぎしり、と木が鳴って、椅子が揺れた。手が触れる。ハダシュはぐらぐらと頭を振った。髪が甘くしなだれかかってくる。頭はぼんやりしていくのに、生身の感覚だけが何倍にも膨れ上がっていくような感じがした。ハダシュは震え、ヴェンデッタを肩で押しやろうとした。
「どうして。貴方と私の仲じゃない。今さら」
ヴェンデッタの喉が、小鳩のような血の笑いを含む。細い指先がベルトに触れた。
罪深い音が小さく鳴る。ほどかれ、手を差し入れられる感触だけで、身体が鋭敏な記憶に反応した。ほんの少し指先が触れただけで、ざわざわと総毛立ち、膨れあがってしまいそうだった。
「今さら何をおびえてるの」
ヴェンデッタは焦らすかのように姿勢を変え、斜に背を向けた。深いスリットの入った黒いローブを肩からゆっくりとすべり落としてゆく。白い肩。はりつめ、今にも水となってこぼれおちそうな重みに揺れる胸。ガーターベルトの黒レースが眼に飛び込む。赤い暖炉の照り返しをうけた背中に、壮麗な黒薔薇の刺青が、とろりと艶を帯びて光っていた。
官能の闇が匂い立つ。
ヴェンデッタが屈み込んできた。いざなう爪が喉をつたい、顎から頬へ、ざわざわとかきたてながら這いのぼってくる。妖艶な微笑みが耳元にささやいた。
「酷い傷ね。身も心も傷ついて、ぼろぼろ。私を殺すことも、逃げきることもせず、ぶざまに戻ってきた。生きるすべを失った奴隷のように」
突然、氷のように冷たいヴェンデッタの手が、以前負った深手の傷をつかんだ。
「……っ!」
傷をまともに握りつぶされて、ハダシュは苦悶の呻きをもらした。逃れようと身体を跳ね上がらせるたびに激痛が突き抜ける。耐えきれず息を乱した。身体全体が熱を帯び、朱に染まって、息苦しく耐え難く脈打ってゆく。
「支配にすがって、踏みにじられながら生かされる道を選んだ。安易に。何も考えずに」
闇の中にひそんだ暗い眼が、そそるようにぎらりと光った。
「そんなに欲しかったの」
意地の悪い含み笑い。こぼれそうな乳房が眼前を横切った。揺れる残像が焼き付く。限界だった。欲望が息を呑むほどうごめいた。
「こんなにして」
今にも触れそうなほどの確かさで、あばかれた下腹部に熱い息がかすめる。
たまらずうめきが洩れる。
誘うように。突き放すように。危険な欲望に満ちた愛撫が、波のようにのしかかってくる。欲望に濡れる影の向こう側から、潤みを含んで見上げる黒いまなざし。かすむ声で名を呼ばれ、毒の唇を寄せられて。
とろとろ燃える情火の奥にひそんだ、氷のような眼。熱泥のようなささやきが少しずつ、少しずつ、近づいてくる。
ハダシュは反射的に壊れた叫びを上げ、かろうじて自由な側の足を蹴り出した。踵がヴェンデッタの顔を狙って矢のように伸びる。
だが不自然な姿勢からの蹴りはむなしく空を切った。ヴェンデッタはわずかに顔を背け、ハダシュの蹴りをかわす。
髪が揺れている。軽蔑の表情が、ヴェンデッタのまなじりをうっすらと朱に染めた。
「まだそんな余裕があったの」
ハダシュは呻吟をもらし、歯を食いしばった。もう、意識の半分は麻薬の快楽に溶け、うつろに漂い流れて、姿形をなさなくなっている。
「嫌なひとね」
椅子が軋む。裸身が、肌にまとわりつく。
とろり、とろり、と。
抵抗を押しのけ、女の笑みが巨大に伸び、からみついてくる。苦みが口に広がる。すぐに感覚が消え、壊れ始めた。匂い立つ闇の情動に、全身がぶるぶると揺れ、崩れ落ち始める。狂気の感覚が薔薇の刺青の形を取って視界を覆い尽くした。うねりながら近づいてくる。逃れられない──
ヴェンデッタは、熱く濡れた吐息を漏らした。
「私なら、たかが千スーで貴方を買うような真似はしない」
何を言われても口答えできない。やわらかく、深く、呑み込まれ、うずもれてゆく刺激が、人間としての感覚をすべて奪っていく。渦巻く色、どろどろとゆがんだ熱気。一度でも、あのおぞましい享楽を呼び覚まされてしまえば、そこから逃れるすべはない。
ハダシュは堕ちた恨みがましい眼でヴェンデッタを見上げた。息が激しく荒れて、しとどにみだれる。
「……私なら」
ヴェンデッタは手に何かを持ち変える。それが何なのかようやく思い当たり、ハダシュは弱々しく逃れようとした。
多くの血を吸って、暗い赤みを帯びた柄の木肌。見紛うはずもなかった。蠍の浮き彫りが入ったハダシュのナイフ。
その刃が、まるで今しがた人を殺めて来たばかりの赤茶けた錆色に染まって、ハダシュの胸に突きつけられている。
「貴方の血で貴方を飼う」
ヴェンデッタは残酷に笑ってハダシュの胸を左の指先で押さえ、ナイフの先をぴん、と跳ね上げた。細い血がしぶく。針金のような痛みが身体を裂いた。
「憎悪と苦痛の鎖で貴方を縛る」
憐憫を表したつもりなのか、秀麗なかたちの眉をひそめてヴェンデッタが見下ろしてくる。華奢な指が傷をたどり、かと思うと爪をたてられ、ぎりぎりと傷を押し広げるほど力を入れられる。またナイフがひらめいた。今度はもっと深く一直線に身を裂かれる。ハダシュはうつろな声をもらして身をよじった。
身体の震えが止まらない。こんなに切り刻まれていながら──
濃密な牡と雌の匂いが血と汗にまみれ、たちこめていく。とっくの昔に壊された理性が、剥きだしの欲望をそのままに今はヴェンデッタの身体を求めていた。
「それが貴方の真実。貴方の望む姿」
ナイフを投げ棄て、ヴェンデッタは首にかけていた細い銀の鎖をはずした。逆さになった髪から白いうなじが妖艶にのぞく。少し力を入れれば切れてしまいそうなほど細い鎖を左右の指にかけて、ひややかにハダシュを見下ろす。びん、と張られた鎖が、弦の音のような震える音を立てた。
ヴェンデッタはハダシュの視線をがちりと捕らえたまま、唇に微笑みを浮かべて、その鎖をハダシュの喉にゆっくりとからめた。
ハダシュは醜悪に喘ぎ、頭を振った。妖艶に揺れる肢体の描き出す軌跡に視線を吸い付けられて、眼を離すこともできない。匂うがごとく咲き誇る黒い薔薇。ヴェンデッタの微笑がいっそう深まる。その瞳の奥がぎらぎらと黒くあやしく燃え──
鎖を引き絞られた瞬間、ハダシュは恍惚の呻吟をもらした。
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