5.夢もなく未来もなく
第19話 骸布
シャノアの闇を切り裂いて流れる猛々しい炎の帯。土煙と蹄鉄の音を蹴立てて疾駆する馬影が、聖堂の門前に猛然と突っ込んでくる。
眩しく、人通りも多かった昼間の様子とはうってかわって、今は不気味などよめきに満ちている。
正門へと続く通りの左右に広がる木立の足下に黒々とした影が落ち、それがざわざわと、まるで寄り集まった亡霊の姿でもあるかのように形をなしては散り、また現れては縁からほどけるように消えてゆく。
ゆるやかに、不穏に。風が騒ぐ。
ラトゥースは正門に立つ二体の聖騎士像の手前で手綱を引いた。
血染めのドレス姿のまま悍馬にまたがり、胸甲騎兵としての正式な装備である二丁騎銃の代わりにガンベルトを巻き付け、ピストルをぶち込んでいる。
四方に配された青銅の灯籠が、やや青みを帯びた光を放って像を浮かび上がらせている。夜の色に照らされ青ざめて立ちつくす聖者の像は、どこか張り詰め、怒りにうちふるえているかのように見えた。
風影におびえたか、馬は前足を踏みならし、何度も頭を弓なりにそらして黒いたてがみをふるう。神経質な蹄の音が響き渡った。
ラトゥースは馬に声を掛け、首をかるく叩いてから飛び降りた。ふわりとドレスの裾が舞い上がる。
白のペチコートに半ば埋もれる革のガーターベルトが見えた。掌に入るぐらい小さな護身用ナイフが留め付けられている。
衛視に手綱を預け、正門をくぐる。
すこし離れたところに、手を結びあわせうろうろと落ち着かない様子で歩きまわっている神官が見えた。
いったん立ち止まり、荘厳な灯籠の列に照らし出される聖堂を仰ぎ見る。
無数の小窓から砂金のようにこぼれる光が、闇にそそり立つ鋭い形を静謐にいろどっていた。どこか遠くから、ひそかに階調を変えて忍び寄る不協和音の連なりのような、聞く者の落ち着きを失わせる音が伝わってくる。ラトゥースは身をふるわせた。耐えきれず、手を結びあわせて祈る。
音に気付いて神官が振り向いた。
「どちらさまで」
明らかに怯えている。
ラトゥースは口元を引きしめた。
「王国巡察使のクレヴォーです。院長どのにお逢いしたいとお伝え下さいませ。何があったのです」
「おお、神よ」
神官は手で口を覆い、かぶりを振った。節くれ立った指がぶるぶる震えている。
「私どもは何も存じませぬ。誓って本当でございます」
ラトゥースはこわばった顔で周囲を見渡した。
広場左手の奥に、さながら野戦病院のようなかがり火に照らされ不穏に浮かび上がる天幕が見える。
その周囲を豆粒のような人影がいくつも行き交っていた。何人もの神官が手にさまざまなものを持ってあわただしく出入りし、こわばった顔で怒鳴りつけたり、右左と指さしては指示を飛ばしている。
何かが天幕に運び込まれている。それも次々と。
ラトゥースは嫌な予感にさいなまれつつ足早に駆け寄った。天幕に入ろうとしていた神官が、ラトゥースを認め、表情を変えた。水の入った手桶の縁に折り畳んだ布をかけ、それを脇にかかえている。それは昼間、出会って話をしたばかりのギュスタと名乗る神官だった。
「ラトゥース姫」
ギュスタは後悔の枷に繋がれた罪人のような声をあげて立ち止まった。
口を開きかけたとき、ギュスタの背後から恐ろしい呻き声が聞こえた。異臭が立ちこめている。ラトゥースは挨拶もせずギュスタを押し退けて天幕へと入り込もうとし、凍りついた。
凄惨な光景が目に飛び込む。
戸板に寝かされた数十人が苦しげな表情で喉を掴み、体をねじ曲げて呻いている。
絶えることのない苦悶の呻吟、すすり泣き、悲鳴。天幕の内側は吐瀉物の突き刺すような酸と排泄物の臭いに満ち、この世の地獄のようだった。
筆舌に尽くしがたい惨状に、ラトゥースは言いようもない恐怖に襲われ、絶句した。
「これは、どういう……」
手で口元を押さえ、かぶりを振る。
「何なの、これは」
突如、背後が騒然となった。
「道を空けてください」
また新たに戸板に乗せられた患者が、乱れる足音とともに運び込まれてくる。粗末な板の端から腕だけがはみ出して、だらりと垂れ下がっていた。
幼いその頬はもはや土気色で、目はうつろに濁ったまま見開かれ、吐いた血と汚物がどす黒く変色して口元を埋め尽くしていた。緑色に濁った泡がこぼれおちる。
その子の顔を一目見たとたん、ギュスタは声を詰まらせた。
「リカルド」
駆け寄って取りすがろうとするのを、別の神官が払いのける。
「吐いた物を取り除くのが先だ。胃の中のものを全て吐かせろ。そのあと洗浄」
せっぱ詰まった声が次々に響きわたる。
「リカルド、ああ」
ギュスタはその場に膝をついてくずおれた。髪を掴み、顔を掻きむしる。絶望のうめきがこぼれた。
「私のせいだ。私の」
ラトゥースは総毛立つ眼差しをギュスタへ向けた。
「そこを、退いて下さい」
ギュスタは弾かれたように顔を上げた。
言葉の意図を掴めなかったのか、苦悶の視線で愕然と問いかける。
ラトゥースは何も答えず、いきなりずかずかと天幕の奥へ踏み込んだ。
生と、死。わずか衝立一枚で隔てられた生と死の狭間を前に、ラトゥースは立ちつくした。隅に追いやられている《死》に、険しい目を走らせる。一歩踏み込めば、そこは死の領域だ。
「いけません」
ギュスタが駆け寄ってきてとどめようとする。貴族が直接の《死》に触れることは許されない禁忌だった。
だがラトゥースはギュスタの手を振り払い、汚れた白布に覆われた者の横にひざまずいた。マイアトールの聖印を切り、額に指を押し当ててから、胆を据えてゆっくりと骸布を剥いでゆく。
無言で死体を見下ろす。
手足の末端や顔面などにに紫斑。緑がかった色の吐瀉物に汚れた唇の色。これは伝染病でも、ましてや食中毒などでもない。如実なまでの毒物反応。
怒りが身体の奥底からこみ上げた。決して激しく燃えて爆発する怒りではない。はりつめた氷にも似た涙。理不尽な無言の暴力、罪なき者を見境なく殺す卑怯な手口に対する、それは根元的な怒りだった。それが逆にラトゥースを変えていく。
悲しみを、怒りを、鉄の意志に変えて。ゆっくりと立ち上がる。
ふと昼間の情景──揉みあう男たちに叩き出される浮浪者──が思い出されて、ラトゥースは顔を上げた。
「あの鍋は、もう洗われましたか」
静かに逆巻く声でつぶやく。
ギュスタは眼を押し開いて立ち上がった。
「余りを別の鍋に残してあります」
そのとき。
「どいつもこいつも不衛生きわまりない死に方しおって。浮浪者どもにエサを与えるのは勝手だが、その連中がそろって食あたりで死ぬのは、はなはだ迷惑な話じゃないかね」
傲岸な胴間声が天幕を揺らした。
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