第18話 まるいというには、あまりにも重たげに柔らかくふるえ、痴情をそそるかたち


「ハダシュが裏切った、だと」


 豪奢なカーペットを敷き詰めた床に、月光の作る桟の影がくっきりと映り込んでいる。

 傍らに愛用の安楽椅子を置きつつ、今はソファに腰を下ろして膝に毛布を掛けた男は、パイプの煙を悠然とくゆらせながら、窓の外にゆれる港のあかり、眠らぬ快楽の街を見おろしている。

 その肩に黒い指輪をはめた手が置かれた。

 探るような仕草で胸元へと進んでいく。


「見張り役の男に重傷を負わせ逃走したとのこと」


 華奢な手から、淡く鳴るグラスが手渡される。

 ラウールはパイプを離し、グラスを受けとった。深いワインの薫りが立ちのぼった。


「見ていただけか。それを、お前は」

 ラウールが問うと、闇は乾いた笑い声をあげた。

「邪魔が入りましたの」

 ラウールはやや不興げな面持ちでさえぎった。

「エルシリアの犬か」


 ソファに深々と身を任せ、目を半眼に閉じて、ワインを空ける。


「ハダシュの始末はお前にまかせる。犬には手を出すな。先に片づけねばならん目障りがいる。分かっていよう」

「黒薔薇、ですわね」


 暗い色の唇が、ほんのりと扇情的に吊り上がる。

 ラウールは自身の背筋に走ったであろう冷たい感覚を別の衝動と誤解した。


「何がおかしい」

「いいえ、別に、何も」


 女の手のひらが、ラウールの太い首回りを、まるで猫を撫で回すように滑ってゆく。

 闇は身をかがめ、髪の毛が逆さまに流れ落ちるのもいとわず、背後から野葡萄色の唇を押し当てた。


「ハダシュから貴方という後ろ盾を奪ってしまったような気がして」

「馬鹿を言え」


 ラウールは太い指をヴェンデッタの髪の毛に差し入れ、そのたっぷりとした匂いを嗅いだ。


「それより、”あれ”はお前の仕業か」

 ヴェンデッタは微笑を浮かべたまま答えない。


「バクラントの竜薬だな。どこで手に入れた。イブラヒムの毒屋か」

「死も、絶望の海に身をゆだねる際には甘美ないざないとなりますわ」


 ヴェンデッタはラウールの背後で衣服を脱ぎ払った。

 着ていたものをテーブルに投げかけ、身体をよじりながら、黒い下履きをつまさきに滑り落とす。

 ラウールはガラスに映る妖艶な裸身と、その半身を覆い尽くす黒薔薇の刺青とを、飽くことのない欲望の視線で見つめた。


「お前の魂は闇と氷と裏切りの毒に満ちている。業が深いぞ」

「それも貴方を思えばこそ」


 ヴェンデッタは意味深に微笑した。薔薇の香りがくちびるを赤く染める。


「すべては、貴方のため。私を深い闇の底から救い出してくださった貴方の。絶望に囚われ、犯され、氷の海のような憎しみと痛みに切り苛まれ続けてきた私に、貴方が、愛という名の快楽を教えてくれた」


 黒猫のような仕草でもたれかかり、背後からラウールのガウンの胸をそっとはだける。

 互いがガラスを通して、舐めるような視線を絡ませる。

 完璧な肉体をいろどる闇が、屍蝋のごとく浮かび上がった。まるいというには、あまりにも重たげに柔らかくふるえ、痴情をそそるかたち。


「今宵も、また」


 触れれば消え、滴る毒に変わって溶ける微笑にも似て。

 ラウールは膝掛けを床に払いおとした。


「来い」

 ヴェンデッタはガラスに身を映したまま、くねるようにしてかしずいた。

「外から見られます」

 挑発する瞳が、黒く濡れて輝く。

 添えられた唇から、透き通りそうなほど白く歯がのぞいて、それもまた酷くなまめかしい。

「見られたく、ないのか」

 甘く洩れる声が、ラウールの声を深々と呑み込んだ。

 ラウールは手を伸ばし、女の髪を鷲掴む。


 ヴェンデッタはかすかな苦痛の声をたてて男から唇を放し、なすがままに引きずられて裸身をのばした。

 ゆったりと腰をすり寄せる。男の餓えたくちびるが揺れる女の乳房を無闇にまさぐる。老いた指が放たれる熱と香りをむさぼった。上気した喘ぎ声があふれる。


「愛しています」

 ぼんやりと射す薄明に照らし出され、妖艶な影が床に揺れる。

「貴方だけを」

「わかっておる」


 ラウールは、いつになく扇情的なヴェンデッタの行為に視界をふさがれ、身体をふるわせた。


「お前はわしのものだ」

 老いた鷹が、そう力なくうめいたとき。


 闇色の瞳に、暗い軽蔑が走った。虚空に白く手が伸びて、テーブルに脱ぎ捨てられた黒衣の下をまさぐった。冷酷な微笑が口元をかすめる。


「永遠に」


 声だけをあやしくかしずかせながら、ヴェンデッタの手がゆっくりと──すべてを凍りつかせる赤い毒の刃を引きずり出す。

 ラウールは深いためいきをついた。


「お前だけだ、わしを裏切らぬのは」


 その、刹那。

 声のない絶叫がほとばしった。水際立つ切れ味のナイフがラウールの喉を一文字に薙ぎ払う。喉から、口の端から、目もさめる驚愕と怨みの色が、凄絶な奔流となってあふれ出す。まるで引き倒された偶像のようだった。

 倒れていくラウールの眼だけが、茹で上がった魚眼のように裏返りつつヴェンデッタを追いかけた。手が虚しく空を切る。肉の骸が床へと倒れ込んだ。鈍い音がした。噴き上がった鮮血をヴェンデッタはのけぞって避ける。


 怨みの血のひとしずくだけが、ヴェンデッタの頬に奔りつく。


 月の光さえとどかない漆黒にまみれて、それはもはや何の意味もなさぬ老いさらばえた肉の塊となり果てていた。音もなく床にひろがる黒い弛み。残された安楽椅子が、ぎし、ぎし、今にも壊れそうな軋みをあげて揺れている。


「手応えのない男」

 ヴェンデッタは氷の微笑を浮かべ、死んだラウールめがけてナイフを振り捨てた。音もなく刃が背に突き立つ。


 柄に刻まれた蠍の彫り物が月明かりに浮かび上がった。冴え冴えと光を映す刃から赤く、ねっとりとした滴が伝い落ちていく。


「業が深い、か」

 おもむろに指の背で頬の血をぬぐう。かすれた指先の汚れを、あやしくも美しい微笑みが見下ろしていた。

 狂騒状態で揺れる安楽椅子。忍び込む闇と風。しんと凍りつく、静寂。それらが一点に収斂し、残酷な棘を秘め隠す美しい黒薔薇の花弁となって、匂うがごとく凄絶に咲き誇る。


「笑わせないで」

 ヴェンデッタは冷ややかに吐き捨てる。激しく追いすがる渇望をたたえた瞳に、ぞっとするほど希薄な色がさした。

「貴方には何の価値もない。ただ、それだけのことよ」

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