閑話 厄災は世界に解き放たれた。

 神暦1513年4月14日


 ソルフィリア王国で当代一と言われているわしの剣技を避けるか。


 儂の理解が追いつかない、異なる世界から召喚されたという勇者。


 腰に帯びている長剣を鞘から抜こうともせず、剣聖と言われている儂の剣撃を苦も無く避け続ける勇者に強い嫌悪感を抱く。まるで、長年をかけて磨き上げてきた儂の剣技が児戯じぎに等しい無価値なものだとあざけられているようだ。鋭い剣撃を勇者が視認できない死角から打ち込んだとしても、剣筋を完全に見切られ、数cmの間隔を保ったまま必ず避けられている。


「自称剣聖さん?他称剣聖さんだっけ?」


 この儂が遊ばれている。数多の魔物を斬り裂いてきた剣技が愚弄ぐろうされている。


「……どっちでもいいか。老害を垂れ流しているアンタが、相手にならない雑魚であることは変わらない事実だもんな。訓練にもならない暇つぶしは、まだ終わらないの?」


 底知れぬ実力を持っている此奴こいつが納めたままになっている長剣を鞘から抜きさえすれば、繰り出している剣撃を未だにかすらせることもできない儂など一瞬で斬り殺せるはずだ。なのに何故か、質問してくるだけで反撃してこない。小馬鹿にして軽口を叩いている此奴こいつにとって、儂は殺す価値さえ無いゴミのような存在なのだ。


「この世界の住人って、本当に他力本願の面倒臭い奴らばっかりだよな。異世界から召喚された勇者なんだから、剣術の練習は真面目にやれって、剣聖(笑)のアンタは言うけどさ……自分より遥かに格下の相手と剣術の練習しても意味なんかないだろ?はっきり言って、時間の浪費をしているだけなんだよ」


「……それほどの腕を持ちながら、何故ソルフィリア王国を救おうとしない?」


 成果が出ない無理な出兵を繰り返している影響で、ソルフィリア王国は亡国への道を突き進んでいる。魔物が生息している魔境に侵攻しても何の益もない。我らは危険な魔境に寄り添いながら、生きるしかないのだ。儂が誠意を持って何度も諫言かんげんしたというのに、復讐を誓った王は聞き入れることもなく、逆に遠ざけられて騎士団長の座を追われた。老い先短い最後のご奉公だと思い、異世界から召喚されたという勇者の訓練を願い出たのだが……。


「俺には関係ないから。勝手に拉致っておいて、自業自得で滅びそうになっている国を救ってくださいとかなくね?」


「この国が滅びてもいいと申すのか?」


「だから、関係ないんだって」


「…………」


 自分でも止めなれなかった亡国の危機を無関係な異世界の人間に押し付けるのは確かに無責任なことだ。儂は構えていた長剣を下ろして、同じように動きを止めた勇者を睨み付ける。目の前にいる男は本当に不思議な存在だ。儂が訓練用の刃引きされている長剣を向けていたというのに殺気の一つも出さなかった。ありのままの自然体で、いでいる湖の水面ような平坦な感情しか表に出していない。


「と言うか、出来るだけ早く元の世界に戻してくれないと、俺がこの王国を滅ぼすから。臭いクソがあふれ返っている肥溜めみたいな国なんて、いらないだろ?」


「……何の冗談だ?」


 この城だけで、数百単位の騎士と兵士が常駐じょうちゅうしているのだ。それに国内指折りの宮廷魔導士達が有事の際、迅速に行動できるよう常時待機している。それを一人で制圧できるというのか?実現不可能な妄想のたぐいだと思うが、その言葉を見過ごすことはできない。儂は勇者の真意を読み取ろうと意識を向けた。


「お主は狂っているのか?」


「あれぇ~、気付いてなかったのか?」


「……そうか」


「でもまぁ……。誰かに帰れるかどうか質問するまで、皆殺しにはしないからさ」

 

 理知的な勇者が狂人だとは思えない。


 先程の物騒な物言いは、ただの狂言なのか?そんな面白くもない狂言を語った当の本人は何処どこからか椅子を取り出して、避ける気を失ったかのように座りながら、不思議な火の着いた紙のようなものを口に含んで紫煙しえんを吐き出しているが。


「愛する奥さんにお願いされてるんだ。無闇に人を傷つけたら、許さないって」


「できた奥方なのだな」


「お願いをやぶると物凄く怖いけどな。……で、俺は元の世界に帰れるのか?」


 相手に有無を言わさず、強制的に召喚できるよう作られていた魔法陣。宮廷魔導士の連中からは事実上の一方通行だと聞かされている。その事実を勇者に伝えてしまったら、召喚したソルフィリア王国に対して反逆を企てるかもしれない。これだけの身のこなしができる逸材なのだ、失うのは余りに惜しい。


「…………」


「そっかそっか、帰れないのかー。自称剣聖さんの処刑方法は細切れ決定かな」


 相手の真意を読み取ろうとしていたのは勇者も同じか。左前腕部に装備されている皮製の盾を勇者に向けて構える。少しでも早く相手に斬り込めるよう、防具を軽くしていたツケがこんなところで回ってくるとはな。


「最初は皮盾、その次が皮鎧、最後に自称剣聖さんの不味そうな肉。そういえば、奏に豚の細切れと牛の細切れを間違えて買ってきて怒られたことがあったな……」


 緊張感の感じさせない勇者の声色に全身の肌が粟立あわだつ。勇者は吐き気を催すほどの濃密な殺気を周囲にあふれさせながら、ゆっくりとした動作で長剣を鞘から引き抜いた。儂の目の前にいる勇者は心の底から愉悦ゆえつを楽しむかのようにニタニタとわらっていた。


「少しは耐えてくれよ?自称剣聖さんのことをサイコロステーキみたいな細切れにしたら、城の中にいる連中を皆殺しに行くから」


 前後左右から弾き飛ばされるような強い衝撃を皮盾に受けて、身体全体が激しく揺さ振られる。儂が構えている皮盾に剣を振るっているのは人間ではない。


 刃引きされているはずの長剣で徐々に輪切りにされていく皮盾を見ながら、こんな狂人を召喚した宮廷魔導士達のことを呪い殺したくなった。愛するソルフィリア王国を守るために異世界から召喚された勇者は、ソルフィリア王国そのものを滅ぼすことができる狂人だった。こんなたちの悪い冗談を誰が信じるというのだ?いや、これから始まる血生臭い城内での惨劇で全世界に思い知らされることになる。


 だが――


 せめて、一角ひとかどの武人として、最後の一太刀ぐらいは勇者に届かせてみせるわ!


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉ!」


「うるさい、お前を細切れするのに飽きた」


 儂が最後に見たものは、一瞬で四肢を切り飛ばされた自分の身体と回転を続ける周囲の風景だけだった。


 ◇◇◇


 うん、完璧。


 しわにならないようにベットのシーツを敷くのは大変だけど、勇者様の寝心地を少しでも良くするために自分が納得できない部分を何度も手直しします。ベットメイクをする前にしていた寝室内の掃除で、ようやく着慣れ始めてきた真新しいメイド服が汚れしまうのは諦めるしかないみたいですね。


 私の目的にために……日頃から怠け癖のある勇者様に、私の献身を認めてもらわなければならないからです。


 国王陛下から直々に入室する許可を得ている直系王族の方々以外、入室することが禁じられている王立図書館の地下にあった禁書庫。そんな禁書庫の中に残されていた異世界の勇者様を召喚する儀式の方法。難解な神代しんだいの言葉でつむがれていた儀式の仕方を解読した後で、禁書の発見に寄与することができた宮廷魔導士の姉と抱きあいながら共に喜び合ったものです。


 これで、悲嘆ひたん貧苦ひんくあえぐソルフィリア王国は救われる。


 事の発端は本当に些細なことでした。


 王位継承順位第一位を持つ王太子殿下の出兵。それは唯一立ち入ることが許されている魔境の外縁部で、殿下の武勇のはくをつけるために適当な強さの魔物を狩って終わるはずだったのです。けれど、魔境に出兵をした殿下達は予測することもできない魔物の暴走に巻き込まれてしまった。殿下が率いる二百名の遠征軍を含めて、魔境外縁部にあった六つの村落が瞬くまま全滅。最後まで魔物の大軍を村落のない方向へ誘導していた殿下率いる遠征軍は文字通りの意味で押し潰されました。


 それまで賢王と言われていた当代のソルフィニア国王は、安心して次代の王位を継がせられると信じていた後継者の無残な死に怒り狂ってしまいました。それからの出来事は国力の限界を越えた消耗戦の繰り返しだったのです。


 私の実家である子爵家の財政が破綻しかねないほどの多額の軍役負担金を王家から何度も要求され続け――ついに多額の軍役負担金を払えなくなった私の実家は、臨時徴集した農兵と共に領軍を率いて戦地におもむき、魔物の軍勢と戦い瓦解させられました。士気の上がらない領軍を率いての出兵は無駄死にを意味していたのです。


 ……魔境への第七次目の進攻で、私のお父様とお兄様は戦死しました。

 

 お父様とお兄様は戦列の横合いから突撃してきたオークの軍勢に生きたまま食われたというのです。


 私は送られてきたお父様とお兄様の死亡通知が信じられなかった。そう、私は遺体も残らなかった家族の死を信じることができませんでした。悲壮感もなく朗らかに笑いながら、生きて帰ることを私に誓ってくれた二人がもう帰って来ないなんて今でも信じられない。


 ……お父様とお兄様と共に魔境へ赴いていたお姉様は心が壊れていた。


 白髪が混じった髪を掻きむしりながら、意味もなく叫び続ける姉の姿を私は呆然と見つめていたのです。「前線から離れている後方に配備されていた魔導師だから、彼女は生き残ることができた」と、お姉様と同じ部隊に所属していた男性魔導士の方が私に視線を合わさないで語ってくれました。


「戦っているお姿を未だ拝見させてくださらない怠け者の勇者様には、戦えない私の代わりに魔物を沢山殺してもらわないと困るのに。そういえば、勇者様が剣術の訓練に向かう直前に仰っていたことは……どういった意味だったのでしょうか?」


 確か、こんな言葉だったような気がします――





 異世界から召喚された勇者様は戦うことについて意味を見出せていないようなのです。勇者様の意思とは関係なく、異世界から無理やり拉致同然で召喚された影響でしょうか。国王陛下から課せられている訓練にも参加せず、いつもご自身の寝室の中で視力を補正するための眼鏡のフレーム?というものを擦っています。


「それは大切な物なんですね」


「……そうですね。とても、とても大切なものなんですよ」


 含羞はにかむように微笑みながら、眼鏡をかけた勇者様は思慮深いとても好ましい方だと思いました。勇者様が召喚される前は、異世界から召喚された勇者様にどんな無体な仕打ちをされても我慢するよう言いつけられていたのです。それなのに勇者様は必要最低限なことしか私に要求しませんでした。


 そんなお優しい勇者様が唯一欲したものは、ご自身が勇者としてソルフィリア王国に召喚された理由だったのです。


「私が召喚された理由はあるのですか?」


「……………」


 私は勇者様がこの世界に召喚された理由から、ソルフィリア王国の悪化し続けている経済状況、遅々として進まない魔境の侵攻状況を勇者様にわれるまま嘘偽りなく答えました。国王陛下の復讐の為に屋台骨が傾いてしまったソルフィリア王国は滅びようとしていることを。


「貴女の言葉だけでは確証を得られませんね。その話が事実かどうかは、これから訓練予定の剣聖さんに同じ事を聞いて確かめてみます」


「剣聖のカルヴィン様は王族の方々の剣術指南役でもありました。勇者様の疑問にも答えてくれると思います」


「ああ、マリーヌさん。今も掛けている度なしの眼鏡は、私の誕生日に“妻“がプレゼントしてくれたものなんですよ。それじゃあ、訓練に行ってきますね」


「はい、わかりました。勇者様、お気を付けて行ってらっしゃいませ」


 その時の勇者様の瞳は全てを見下す侮蔑に満ちたものだったのです。失われてしまった家族の復讐を望んでいる私は、勇者様が侮蔑を浮かべている意味さえ理解しようとしませんでした。






 ――ガリガリと金属が廊下の地面と擦り合う耳障りな音が近づいてくる。


 恐ろしくなった私は全身を強張らせる。大丈夫、この城には異世界から召喚された勇者様がいる。やる気を見せないで、部屋の中で一日中ごろごろしているだけだけど自分の生死に関わることなら本気になるはず……。


 私はベットメイクをしていた勇者様の寝室で膝を折りながら、必死に天から見守ってくださっている女神様に祈りを捧げる。コンコンと私がいる寝室の扉をノックされても、私は胸の前で両手を合わせて目を瞑りながら必死に祈り続ける。


「マリーヌさん、ここにいたんですね」


 寝室の扉から姿を現したのは、剣術の訓練に行っているはずの勇者様でした。


 私は思わず安堵の溜息が零れ落ちてしまいました。親類縁者の死や給金の不払いなどで不平不満が溜まっている城内は、何が起こっても不思議ではありませんから不安だったのです。心優しくて頼れる勇者様が近くにいてくれれば、自暴自棄になっている暴漢の魔の手から私を守ってくれるはずです。


「……勇者様、剣術の訓練は無事に終わられたのですか?」


「ええ、終わりました。それよりも人体の神秘を探求したくありませんか?」


 ――勇者様の侮蔑に満ちていた瞳は、この世界そのものを呪い殺せるほどの強い憎悪に染まっていました。


「全力で逃げろ。そうでないと、解体のし甲斐がないからな」


 ◇◇◇


 その日も代わり映えのない日常になると思っていた。


 体内にある魔素の貯有量を少しでも多くするため、精神と肉体が疲弊し切るまで何度も魔法の訓練(魔素を枯渇すればするほど、魔素貯有量が増えると言われている)を繰り返し、自由になれる時間ができたら魔導書を読みふける日々。国内の反乱と魔境の氾濫に対処するための待機命令はどうしても退屈になりがちだ。


 以前は予定外の勇者召喚という神代の儀式もあったが、失敗することもなく無事に成し遂げ、国王陛下からの覚えめでたい御言葉をたまわることができた。帰属意識をほとんど持ち合わせていない雇われ宮廷魔導士の私は、経済破綻寸前で国家の体を成していないソルフィリア王国の国外へ脱出するために逃亡資金を貯めているので、本当は覚えめでたい御言葉よりも未払いになっている給金を支払われるほうが助かるのだが……それは言わぬが花だろう。


 所用で待機していた部屋の扉から出た直後も、牢獄の中に囚われているような息苦しい閉塞感があるだけで特に違和感は感じなかった。当たり前だ。その時はまだ、城内で何も起きていなかったのだから。人気のない城内の薄暗く長い廊下をある程度進んでから、私は最初の違和感を覚えた。


 長々と続いている廊下の中央辺りが何かで削り取られている。


 しゃがみ込んで廊下を確かめてみれば、取り回ししやすい剣か短槍の刃先で傷付けられているのが分かる。使い捨て同然の石切り奴隷や腕のいい石工職人を国内で探すのも一苦労だと言うのに……呆れ果てて溜息も出ない。


「支給されている剣で補修することもできない廊下を傷つけるなんて、どこの馬鹿の仕業しわざですか。今は石切りをしている奴隷でさえ魔境に動員されて、慢性的な人手不足の状況に陥っているというのに」


 給金の遅配ちはいれた兵士か、騎士の暴走かもしれません。


 高給取りの宮廷魔導師をしている私に支払われるはずの給金でさえ、数ヶ月単位の遅配か現物支給なのだ。買い手が見つからない絵画や開拓もされていない不毛の土地を給金の代わりに貰っても腹は膨れない。この城にいる騎士と兵士達(家族も含む)の食料だけは、平民から徴発という形で無理やり奪い取って何とか確保されているが、そんなギリギリな状態がいつまで保つか分かったものではない。


 度重なる魔境への出兵の影響で、他国との貿易が途絶えて久しい。


 舞踏会で面白おかしい噂話を興じていた下級貴族の婦人であっても、今では屋敷の庭を利用して使用人と一緒になりながら汗水を垂らしているのだ。広い庭付きの貴族屋敷や農村で開墾できる土地があるのはまだいいほうだ。農作用地を確保できなかった大都市部では、冬を越せなかった餓死者が大量に出た。


「処罰覚悟の愚かな行為をやらかした張本人――犯人を早く見つけ出して、誰にも気づかれない場所で八つ当たりをするよう注意しないと駄目ですね」


 器物損壊をやらかした今回の犯人も衛兵に突き出すつもりはありません。


 王城勤務の彼ら(犯人)や王都に住んでいる彼らの家族は、給金代わりに支給されている食料で飢えずに済むかもしれない。飢え死にしないで八つ当たりができる彼らは、まだ運が良い方なのだ。貴族が踏み入れない王都の裏道を歩けば、回収されていない痩せ細った死体がごろごろ転がっている。その死体が現物支給の対象外にされた彼らの親兄弟のものだったら、自暴自棄になって暴れたくもなる。


「殺気立っている相手に注意なんてしたくないのですが……仕方がない」


 それに彼らの罪を見逃すことで、私にも得られるものがありますしね。今のうちに恩を売れるだけ売って、私が王都から逃げ出す時に色々と便宜を図ってくれるだけでいいんです。立身栄達のためにソルフィリア王国へ来た私は配偶者もいない身軽な身の上ですから、稼げるだけ稼いで住み慣れた母国に戻るだけです。


「……この臭いは?」


 城内に似つかわしくない鉄錆びの臭い。


 それはまるで、騎士や兵士の損耗率が高くなる耐久性に優れた大型魔獣と戦った後のような濃密な血の臭いだった。余りにも濃い血生臭さに気付いた私は思わず眉をしかめる。私がいる場所は安全な王城の廊下であって、戦場に設置されている危険な臨時救護所ではないのだ。嗅ぎたくもなかった血の臭いがここまで漂ってくるなんて、通常ではあり得ない事態だ。


 宮廷魔導師の一人として、城内で起きた異変を看過することはできない。


 いつでも魔法が発動できるように詠唱を小声で呟きながら、血の臭いが濃くなっていく中心地へ向けて足を進める。同じ詠唱を何度も繰り返して、末尾あたりになったら呟くのを止める。そして、最初からやり直す。長い詠唱を間違えないで完全に言い終わらなければ、詠唱中の魔法が発動しないので比較的安全な行為だ。


 死体をズルズルと引き摺っていったような血の跡が廊下に残されている。


 血生臭い中心地に辿り着いた私が見たものは、仰向けに倒れている侍女を救助しようと膝を折っている勇者様の後ろ姿だった。


 ……私は安堵した。


 城内に忍び込んでいる賊だった場合、不意打ちで詠唱の完了が間に合わずに斬られていた可能性さえあったのだ。それに勇者様は、高齢を理由に騎士団長から引退されたカルヴィン殿の訓練を無傷で切り抜けられていると聞く。


「宮廷魔導師のベランジェです。彼女の容態はかなり悪いのでしょうか?」


「彼女の容態も何も死んでるからな。……人体内部の臓器は同じようなもんか?」


 倒れている彼女はもう死んでいる?人体内部の臓器とは一体何のことだ?勇者様の意味不明な返答に困惑する。勇者様の背中の影になって、廊下に倒れている侍女の姿がよく見えない。臓器云々は私の聞き間違いなのか?勇者様は膝を折って、侍女に何をしている?私の脳裏に無数の疑問が飛び交う。ここは振り返りもしない勇者様に直接聞いてみるしかなさそうだ。


「…………勇者様、一体何をしているのでしょうか?」


「知的好奇心の探究。それにしても、うるさいぞ。知りたければ見に来ればいい」


 ある程度の修羅場をくぐり抜けてきたという自負もある。損壊が激しい死体も見慣れている。勇者様が言われたように、侍女の姿を見ることができれば私の疑問はすぐにでも解決できるのだ。背中を向けたままの勇者様の近くまで移動して、死んだとされる侍女の体を見て……私は後悔した。


「おげえええええええええええええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ」


 込み上げてきた吐き気を我慢できずに嘔吐する。


 侍女の死体には内臓が存在していなかった。肺と胃、大腸と小腸、心臓と肝臓、腎臓と脾臓、胆嚢と子宮。全ての臓器が綺麗に取り出されて、瓶詰めにされている標本のように石造りの廊下の上に並べられていた。切り取られた肋骨が廊下の暗がりに転がり、侍女の死に顔は苦悶を浮かべたままになっている。


「私、侍女のマリーヌ。信じていた女神様に見捨てられて、自分の復讐の道具にしようとしていた勇者様に人体の隅ずみまで解体されちゃったの。きゃー、恥ずかしい!脈打つ心臓まで勇者様にじっくり見られちゃった♪」


 訳の分からない口真似で死者への冒涜ぼうとくを終えた勇者様は、胃の内容物を吐き出し続けている私のことを微笑み浮かべながら静かに見ていた。私が吐き終わったのを確認したのだろう、今度は楽しげに話しかけてくる。


「この女を解剖したのは俺なんだけどさ……ベランジェ君はどっちがいい?」


「うぅえぇ、げぇ、はぁはぁ……どっ…どっちがいい……ですか?」


「俺の知的好奇心を満たしてくれるドキドキが止まらない素敵な人体実験を見学してからあっさり死ぬのと、今ここで苦しみながら死ぬかを選ばせてやる」


「…………」


 勇者様は私の返答を待つことなく、足元にあった死体の頭部を踏み潰した。


「待つのが嫌いなんだよ。ちなみに次の実験は、人体の中にどれだけ水が入るか」


「……実験を見学します」


 苦しみ続けた後で迎える死より、苦しまない死のほうがいい。


 それからは悪夢の連続だった。


 金属鎧を着用していた騎士の一人は口から大量の水を流し込まれたせいで腹部が破裂して死亡した。文官の一人は全身の骨という骨を勇者様の拳で粉々に砕かれて死亡した。全裸にさせられた貴族令嬢の一人は女性器を槍で突き刺され、泣き叫びながら大量に出血して死亡した。王族の一人は全身の生皮を剥がされた後で治療もされずに放っておかれて、激痛のせいかゴロゴロと地面の上を転げ回る。


 繰り返されている惨劇のせいで、自分の精神が急速に蝕まれていくのが分かる。


 幾人もの騎士と兵士が廊下に立ち塞がり、勇者様の凶行を止めようとした。その努力は全くの無駄に終わり、新たな実験動物として命を弄ばれる。その繰り返し、その繰り返し、その繰り返し、その繰り返し、その繰り返し、その繰り返し、その繰り返し、その繰り返し、その繰り返し、その繰り返し、その繰り返し。


 精神が異常になりかけている私に気づいたのだろう、勇者様が満面の笑みを浮かべながら話しかけてくる。狂いたくない、狂いたくない、狂いたくない、狂いたくない、狂いたくない、狂いたくない、狂いたくない、私は絶対に狂いたくない!


「ベランジェ君、そっちの世界はつまらないだろ?こっちは世界は面白いぞ?」


「…………」


「殺したばかりの女の内臓は温もりと優しさに満ちている」


「……もう私を殺してください」


 勇者様の側に行ってしまったら、二度と戻って来れなくなる。


「連れ回すのも面倒になってきたな。城の中庭にいろ、そこにいれば楽に死ねる」


 そして、私の願いは叶えられた。


 ソルフィリア王国の王都ナミュールを覆うように広げられている、巨大な翼を持った炎の化身に身を焦がれながら。私はなんて幸せなんだ。私は人間として、この素晴らしい世界から去れる。


 全てを焼き尽くすような業火に抱かれながら、私は意識を失った。

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