09 私が野外で失禁。

 ――死にたい。むしろ、誰でもいいので私のことを殺してください。


 我慢できずに失禁をしてしまったというショックで燃えかすも残さずに燃え尽きてしまった私は、村長宅の板張りされている壁に背中を預けて、俯きながら見事な体育座りをしていた。オシッコをちょろっと漏らしたのだ。それも注目されている衆人環視の中で、立ったままオシッコをちょろっと漏らしてしまったのだ。


 漏らしてしまったオシッコの量が少しだったから、私の周囲にいた護衛の騎兵達や侍女達には気付かれなかったと思うけど、人払いされて無人になった村長宅のトイレで脱いだパンツは失禁したことを否定したくても出来ないぐらいジットリと湿っていた。そして、そのオシッコが染み付いているパンツをアレクシアにゴシゴシ手洗いされてしまった……もう消えてしまいたい。


 この村の村長も村長だ。


 私が提案して建設させた木炭や薪を使わない(正確には消費量を節約することができる)公衆浴場の簡易風呂で乳幼児の死亡率が減少したからって、あんなに感謝の気持ちを示さなくてもいいと思う。大恩ある私に感謝の言葉を直接伝えたい、暗殺の危険性があるので会わせることはできない、そんなしょうもない押し問答で外交官と揉めないで欲しかった。


 貴重な時間が無駄に浪費された結果、私が野外で失禁。……本当に笑えない。


 これ以上落ち込んでいても起きてしまった過去は変えられないのだから、違うことを考えないと駄目だ。オシッコ漏らした……違う、自分が野外で失禁したことを早く忘れないと精神的な土壺どつぼまってしまう。楽しいことを、もっと楽しいことを考えないと。そうだ、アレクシアと一緒にお風呂に入って、添い寝もしなきゃ。


「……シア姉?シア姉、どこ?」


「フランの目の前」


 私の現実逃避があまりに酷かったらしい。


 心配そうに私のことを見詰めているアレクシアが目の前にいたのに、私の脳細胞が一時的に機能停止の状態に陥っていて認識できなかったみたい。衆人環視の中で立ちながら失禁したというショックから復活できそうにない。だから、早くお風呂に入りたい。ガタガタ揺れ続ける馬車に一日中乗っていて、お尻と背中も痛いし。


「お風呂に行かない?」


「もう少し待ってて。侍女達がお風呂場の安全確認をしている最中だから」


 少し困ったような表情のアレクシアにそう言われてしまった。


 そういえば、村長宅に入る前にもベイツ伯爵家の侍女達が家の中を隈無く安全確認してたよね。魔物の襲撃については比較的安全が確保されていると言われているだけで、私の暗殺については安全と言い難いといったところか。早くもホームシックになりそう。すぐにでもリーフェンシュタール王国の内乱が終わればいいのに。


「ごめんね、私のパンツを洗わせちゃって」


「……そんなこと気にしてたの?」


 気にしてます。物凄く気にしてます。

 

 部屋の中で洗濯ひもに掛けられて陰干されている、かぼちゃパンツみたいな白いドロワーズが視界の中に入ってくるだけで居たたまれない気持ちになる。村長宅の粗末なトイレ(穴が開いた箱型の木枠と水が張られた汚物を入れる壺しかない)で、膀胱に残っていたオシッコを出した後、太もものところまで垂れていた失禁したという証拠をタオルで拭き消してる時は惨めすぎて本当に泣きそうになったし。


「そんなことじゃないよ。私、オシッコ漏らしたんだよ?」


 何でも卒なくこなすことができるアレクシアに、立ったままで野外放尿をしてしまった私の気持ちなんてわかるはずないよ。


 私達が乗車している馬車の馬と騎兵が騎乗している軍馬の水分補給(体重八百キロから千キロの重種と呼ばれる馬が一日に飲む水の量は大体二十五リットル前後。馬は腸が長いため、疝痛せんつうと呼ばれる便秘を起こしやすい。最悪の場合は死に至るから、便秘予防のためにこまめな水分補給が必要)をさせる休憩時間に、「オシッコしたい」とアレクシアに言い出さなかった私が悪いんだけど、あの無駄に待たされた時間さえ無ければ、ギリギリのタイミングで村長宅のトイレに辿り着いて間に合うはずだったのに!


 あの村長のせいだ!

 あの村長が必死に尿意を我慢している私を足止めしたせいだ!


 トイレの中で呆然としすぎて、悪臭がする壺の中へ置かれていた消臭用の草木灰そうもくばいをぶちまけちゃったのも村長のせい!トイレのドアの縁に靴の爪先をぶつけて、顔から土間の地面にスライディングしたのも村長のせい!大好きなアレクシアに洗濯板とタライでドロワーズのパンツをゴシゴシ洗われたのも村長のせいだ!


 この恨み、晴らさずにおくものか……。


「また百面相になってる。フランは感情の起伏が激しいタイプなんだから、外に出る時は感情を読み取られないように気を付けていないと農民達が不安がるよ」


「身体の起伏はほとんどないのに、感情の起伏だけはある女。それが私」


 自嘲気味に呟いたら、頬っぺたを人差し指でぷにっとされた。


「膝枕してあげるから、ベットのほうへ来て」


「……うん」


 乾燥させた麦藁むぎわらが敷き詰められているベットの上で、アレクシアが足を崩して、にっこり笑いながら膝のところをぽんぽんと叩く。馬車に乗っている時もアレクシアに膝枕をしてもらったけど、ありえない醜態のショックから中々立ち直れない私は言われた通りに頭を乗せて体を横にした。


 飼い主の膝の上で寛いでいる子猫のように体を丸めて、柔らかな優しい手つきでゆっくり頭を撫でられるとささくれ立った気分が落ち着いていく。


「……オシッコ、漏らした。お姫様なのに、立ったままオシッコを漏らした」


「グラードル卿と初めて会った時も、フランはオシッコを漏らしてたじゃない」


「三歳になったばかりの美幼女が、ムキムキの熊みたい人に遭遇したんだよ?」


「グラードル卿、出会ったばかりの頃は無口だったよね」


「あの無口さと強面の顔を見て、オシッコをチビらない子供はいないと思う」


 何時の間にか私の悲惨で情けない話から、とても懐かしい昔話に変わっていた。


 熊みたいな外見のハンスに初めて挨拶された時、屠殺寸前の豚みたいな悲鳴を上げて、物凄い量のオシッコを漏らしてしまったことがある。転生して間もなかった三歳の頃の私はおっちょこちょいのお馬鹿すぎる子供だったから、オシッコを漏らしながら後ずさりして、子供用のドレスのすそを踏みつけて、転んだ拍子に後頭部を強く打ちつけてしまったのだ。強打した後頭部を両手で押さえながら、痛みのあまり尿塗れになっている床の上でゴロゴロと転げ回る三歳児。大惨事、そう……あれは自分でも信じられぐらいの大惨事だった。


「懐かしいね、シア姉」


「そうだね、知ってる?あの後、グラードル卿が鉄拳制裁されたこと」


「ううん、知らない。そんなことあったの?」


「お母様が大激怒。フランの後頭部に大きなタンコブができちゃったから」


「あのベアトが怒ったの?私の前では、いつもニコニコ笑っていたのに」


 人生に失敗はつきものなのかもしれない。問題があるとしたら、その失敗を受け止められるかどうか。挽回することができる失敗なら、好きなだけ失敗を繰り返せばいい。私が衆人環視の中で少量のオシッコを漏らしたとしても、私の恥ずかしい失敗を知っているのはアレクシアだけなのだ。


 アレクシアと顔と顔を突き合わせて、昔話に花を咲かせる。もちろん私の忘れられない失敗談も話題に出す。クスクスと笑いながら穏やかな時間を過していたら、急にアレクシアの雰囲気が変わった。


「アレクシア様、お風呂場の安全確認が完了いたしました」


「了解しました。フランツィスカ様、お風呂場に参りましょう」


 侍女らしき女性の足音が一切しなかったんだけど、アレクシアはどうやって周囲の気配を探っているのだろうか。ベイツ伯爵家の謎が更に深まる。あの領地は武勲を尊びすぎて、変な方向に突き進んでいるような気がするんだよね。お母様がベイツ伯爵家を上手く制御できればいいのだけど。制御することができなかったら、どこまでも際限なく戦い続けている変なイメージが私の中で出来上がりつつある。


 村内の地理を一瞥しただけで早くも把握したアレクシアに先導されて、私はゆっくりとした足取りで農民共同のお風呂場を目指す。王族という存在に幻想を抱いている農民の視線があるから、お姫様の演技をしないといけない。清楚可憐で慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、常に余裕のある態度を取り続けなければならないのだ。突いたら壊れるハリボテの威厳を全開にしながら、村内の様子を垣間見る。


 護衛の騎兵達と侍女達は厚い防壁で守られている農村内部で、各自テントの設営を開始していた。失禁の一因でもある四人組の外交官が組み立てる前のテントの部品を持ちながら途方に暮れていたけど、私の知ったことではない。


 そんな異様な光景を不安そうに見詰めていた農民達が、村長宅から姿を現した私に気づいて一斉に跪いてきた。お互いの幸せを守るために、心を鬼にして無視を決め込む。王族と農民では身分の差が違いすぎるし、下手に交流を持ったとしても最悪の結果になるだけ。


 お風呂場の脱衣所に近づくにつれて、私は自分の失敗を悟った。


 糞尿の醗酵熱を利用したお風呂場は風向き次第で……かなり臭い。熱を失った糞尿は肥料にもできるから、いいアイデアだと思ってたけど。これって、究極の選択だよね。汗臭いのを我慢するか、この臭いに耐えてながらお風呂に入るか。お風呂場の窓にある木蓋(ガラスは一般化されていない高価なもの)を閉めれば、我慢できそう?いえ、外の臭気がお風呂場の中まで入って来なければ大丈夫そうかも?


 鼻をつまみたくなる衝動に駆られるけど、何とかこの臭いに耐えてみせる。私の長年の戦友でもある猫被りの猫達が何匹も鼻を押さえながら、集団脱走しているのが分かる。臭い、臭い、臭い、その臭さを素直に表現できないのがもっと辛い。


 先導してくれていたアレクシアが脱衣所の扉を開けてくれたので、漂っている臭気のあまり顔色を悪くしそうだった私は急いで中に逃げ込んだ。


 ◇◇◇


 公衆浴場の構造上の欠陥が最悪の形で露呈したみたい。


 多分だけど地下に埋め込んである銅パイプが、断熱材もない剥き出しの状態のままで地中に埋められているっぽい。連結した銅製ドラム缶と銅パイプを地下に埋め込む循環式の簡易風呂の構造そのものは良かったけど、銅パイプの熱放散能力を甘く見ていた。


 そういえば、銅パイプの周りに敷き詰める断熱材のことを、公衆浴場の建設を指示した王党派の文官に伝え忘れていたような気がする。収穫を終えた後でライ麦や大麦から出てくる藁くず、木造住宅を建てた後で大量に残されるおが屑はカビが発生しやすいけど、使い捨てることができる便利な断熱材の代わりになる。


 私のイメージした公衆浴場は、外側から冷たい土⇒塗り固めた凹状のモルタル⇒断熱材の藁くず⇒お湯が循環している銅パイプだったはずなのに、銅パイプが剥き出しの状態のままになっているなんて想定外。鉄に比べて高価な銅パイプを農民に盗ませないため、公衆浴場の建設が終わるまで文官に見張るよう伝えていたけど、肝心な断熱材のことを失念していた。


 想像力が欠如している文官に、公衆浴場の循環する仕組みと銅パイプの組み立て方しか教えなった私のミスだ。土の中が冷たいのだから、お湯を温める場所が遠ければ遠いほど、銅パイプの中を通るお湯の温度が下がってしまう。それを避けたいのなら、お湯を温める場所をお風呂場に近づければいい。


 結論――温かいお湯に入りたいなら、醗酵する汚物の臭いを我慢しろ。


「シア姉……臭かった、臭かったよ。死ぬかと思った」


「確かに臭かったね」


 お湯に肩まで浸かりながら、アレクシアの巨乳に顔を埋める。お風呂場の窓を木蓋で閉め切っても、まだ臭ってくるのだ。早めにお風呂から出て、アレクシアと二人っきりで添い寝がしたい。


「シア姉、また頭を撫でてくれないとグレてやる」


「よしよし、いい子いい子」


 お風呂に入るという習慣のなかった平民に、公衆衛生の概念を教えることは難しいことなのかもしれない。けれど、リーフェンシュタール王国の王族として、平民を導かなければならない私はこんなことで諦めるつもりはない。


 農民の貴重な財産である家畜を住居の中に入れることも将来的に禁止させる。


 不衛生な住居環境は免疫力が低い乳幼児の死亡率に直結(家畜の糞尿は腸チフスの原因になる)するからだ。目を覚ましたら、目の前に豚さんと牛さんと鶏さんがいました――そんな劣悪な住居環境は無理にでも捨てさせてみせる。


「この簡易風呂は、薪でも使えることを村の人に伝えないといけないね」


「そうだね。フラン、大切なことを忘れてない?」


「大切なこと?」


「行きがあの臭いなら、帰りもあの臭いがすると思うんだけど」


「……吐かないように気をつける」


 誰にも気づかれなかった尿漏れと違って、衆人環視の中での嘔吐は農村全体の責任問題に発展しかねないのだ。私を足止めして公衆の面前で失禁させた農村の村長に、「公衆浴場周辺の臭いがきつ過ぎたせいで、嘔吐してしまいました。その原因を長年に渡って放置してきた村長に、王族に対する不敬罪として重い処罰を与えたいと思います」とは言えない。


 けれど、現在の権威ある立場を維持しなければならないリーフェンシュタール王国の王族として、断固とした手段を取らざる得ない場合もある。もっと具体的に言ってしまえば、真実味のある噂が平民達の間で広がる前に、嘔吐してしまった私を目撃したと思われる農民の皆殺し。死人に口なしを前提とした、血生臭い口封じをするしかなくなる。だから、人死にをなるべく見たくない良い子の私は、胃の底から込み上げてくる嘔吐欲求を無理やり抑え込んで、必死になって我慢した。


 ◇◇◇


 リーフェンシュタールの王城にある自分の天蓋付きのベットとは比べ物にならない粗末な代物に疲れ切った体を沈める。大きな木枠の中に敷き詰められている乾燥させただけの麦藁むぎわらが私の肌をチクチク刺す。麦藁の上に大きめの毛布を敷いても意味がなかったみたい。寝心地は悪いけど、アレクシアと一緒に寝れるのは嬉しい。


 手と手を合わせて、深い眠りにつこうとする。


“自分の望むものが手に入らないなら、壊してしまえばいい“

“自分が手に入れられないなら、好きに壊していいんだ。好きに捨てていいんだ“

“泣いても、笑っても、叫びながら苦しんでも、それ自体に意味なんてない“

“相手に存在する価値を見出せないなら、それは生きているだけの物にすぎない“


 全ての優しさを否定するような冷たい声が響いた。


 アレクシアと懐かしい話をしたせいか、封印していた前世の記憶も同じように思い出しそうになる。今日、この場所で語られた懐かしい思い出は、大切な存在を全て失い後悔と絶望に満ちた灰色の世界の中で起きた出来事。


 誰かの命を救いたい――この行為そのものが自分自身に科している愚かすぎる贖罪しょくざいなのかもしれない。それとも傲慢すぎる自己満足なのかもしれない。整理することもできない激しい感情が私の中でくすぶり続ける。


 忘れられない大切な記憶。呪いにも似た甘い生活。失われた命の価値。


 前世の記憶は忘れられない出来事が多い。幼い頃に出会った親友。その親友が目に入れても痛くない妹と結婚したこと。可愛い妹と鬼畜すぎる義弟の喧嘩とも呼べない攻防戦。けれど、いつも犠牲になるのは巻き込まれた無関係の私だった。


 






 圭吾。


 笑うこともできない、泣くこともできない、自分の感情を素直に表すこともできない不自由な王女殿下という立場。暗殺未遂ばっかりの気が休まらないクソみたいな日常。そんな八方塞がりの現実を必死に逃げ回ってる今の俺の姿を見たら、お前はどう思うんだろうな?唇を歪めて嘲笑するか、変わり果てた今の俺の姿を見て大笑いするか、それとも救いようのない愚かな俺を優しく慰めてくれるのか。


 でもまぁ……鬼畜で容赦のないお前のことだから、こっちの世界で俺が女に生まれ変わっていても関係なさそうだ。お前が大切にしている奏を守り切れなかった俺は今も生きている。この救いのない狂った世界の片隅で、まだ生き残っている。


 だから、俺を殺しに来いよ。その時はお前に喜んで殺されてやるからさ。

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