第37話 前半終了間際の攻防

 兵藤の動きがこれまでと違う、前半の終わりも間近になって筧はそう感じていた。彼へはほとんどの局面で井上が厳しくプレッシャーをかけにいくため、ボールをもらってもすぐ周りへはたくプレーが大半だったが、ここへきて持ちすぎるくらいにキープするようになってきている。

 筧や暁平、両ウイングバック、そのうちの誰かが井上に加勢しても、兵藤は澄ました顔のまま踊っているような軽やかさでボールキープを続けていた。

 両足を使ってとにかく小刻みに足元でボールを動かす。うかつに奪いにいこうものならたちまちかわされて逆にピンチを招いてしまうことだろう。鬼島中学の守備としても慎重な対応になるしかない。

 前半最後の5分間、姫ヶ瀬FCはひたすら兵藤にボールを集め続けた。片時も気の抜けない彼を相手にしての井上の健闘は光っていたが、徐々に前方へパスを通されるケースが増えてきた。


 筧と兵藤とでは同じパサーというくくりでもまったくタイプが異なる。筧のパスは主として攻撃を組み立てていくものであるのに対し、兵藤は起点になりつつもゴールへと直結するラストパスを狙う。鬼島中学にとっては危険なパスだ。

 運動量ではさすがに兵藤よりも井上のほうが優っている。それなのに井上がマークに付ききれないシーンが出てきだしたのは、兵藤が巧みに間をずらしているからだと筧は気づいた。緩急をつけたフェイントやいくつものさりげないフェイクを駆使することで、井上の普段のリズムが知らず知らず狂わされていっているのだ。

 テクニックとは誰の目にもわかる、鮮やかで華麗なプレーばかりを指すわけではない。むしろテクニックの本質はその技巧を隠し、あたかも地味なプレーであるように見せかけることだ。

 筧の目から見て、兵藤は本物のテクニシャンであった。


「タクマ、フリーをつくってもいいからカズと二人で10番にあたれ! 空いたスペースはおれがみる!」


 暁平からの指示が飛び、目線だけ送って筧は了解の意を示す。時計は前半のアディショナルタイムに入っていた。

 左に開いたジュリオとパス交換を繰り返している兵藤を前にして、井上とともに筧は中には行かせまいとする位置どりで間合いを測る。するとジュリオのさらに外側を姫ヶ瀬FCの左サイドバックがオーバーラップしていく。

 ボールを撫でるようにしてキープしていた兵藤は、右足インサイドで彼を使うそぶりをみせた。サイド深くへのボールを出させまいとして井上の体の重心がわずかに右へと傾いた。

 その一瞬で兵藤は右足インサイドから右足アウトサイドへと急激に切り返した。逆エラシコと呼ばれる技で井上と筧の間に割って入って強引に抜きにかかる。

 しかし井上はなおも食い下がった。ほとんど抜き去られた形となっていたがあきらめず足を懸命に伸ばしてボールに触れようとする。

 兵藤はまるで後ろに目がついているかのようだった。わずかにボールを動かし、井上の足が届かない絶妙な場所に置いていた。そしてそのまま自分の足にだけスライディングを受けてピッチに倒れる。

 見事なファウルのもらい方だった。主審が笛を吹き、後ろからの危険なプレーだとして井上にはイエローカードが提示されてしまう。

 ペナルティアークの外側、ほとんど中央の位置。少し距離はあるものの、鬼島中学としては危険なフリーキックを与えて前半のラストプレーを迎えることとなる。

 筧はフリーキックに備える壁に入ろうとしていた暁平を呼び止めた。小柄な筧は壁には加われない。


「兵藤くん、そんじょそこらの選手じゃないよ。やけに勝負慣れしてるっていうか、あそこまで落ち着いて計算づくのプレーができる人はそういないと思う」


「ああ、たしかに巧いだけじゃない。あいつ、どことなくストリートサッカーの匂いがするよな」


 そう頷いてから暁平も壁におさまり、弓立の指示に従ってそれぞれの選手の配置を念入りに整えていく。

 筧から見てキーパーの弓立は平静そのものだった。とにかく度胸が据わっており、ペナルティキックやフリーキックにはめっぽう強い。この場面は彼に託すしかなかった。

 ボールがセットされている場所には兵藤一人が立っていた。姫ヶ瀬FCも彼に託したようだ。大勢の視線が注がれるなか、わずかにボールの向きを直す。

 それから間を置かずさほど長くない助走をとり、左足でこすりあげるようにして兵藤が蹴った。無造作な、とも思えるような蹴り方だった。

 しかしボールは暁平たち壁の頭上を越え、大きく曲がり落ちながらゴール右上隅ぎりぎりのところへと吸いこまれていった。弓立も反応はできていたのだが、それでも触れることすら叶わなかった。

 兵藤がシュートを放った瞬間、こぼれ球に備えて兵藤の近くにいた筧は「入った」と直感した。あたりまえのことをあたりまえにやっただけ、そんな淡々とした凄みが彼にあるのを思い知らされてしまう。

 1―2、最後にめぐってきたワンチャンスを兵藤はきっちり沈めてきた。攻守は違うが前回の試合と酷似した展開を、前回にはいなかった選手にやられてしまった。

 ここで主審は前半のタイムアップを告げる笛を吹いたものの、ケルベロスらFCサイドの応援のボルテージが上がりに上がっているせいで音がまったく耳に届いてこない。ヒョードー、ヒョードーの大合唱だ。


 最後の最後での失点は本当に痛い。本来ならばこちらが2点差、3点差と突き放していてもおかしくない展開だったのだから。

 やっぱりサッカーは怖い。筧がそう思うのも久しぶりだ。

 フリーキックを与えた責任を感じている井上が青ざめた顔で呆然と立ち尽くしていた。それを見た暁平がしきりに励ましながら彼の肩を抱いている。

 しかしキャプテン然として振る舞う暁平といえど、前半で受けたダメージは体力面でも精神面でも小さくないはずだ。明らかなオーバーペースを覚悟で攻勢に出たにもかかわらず、スコアボードには1―2という数字が表示されている。結果は非情だ。


「おれたちはキョウにどこまで頼れば気がすむんだろうな。自分が情けないよ」


 いつの間にかそばにきていた政信が、筧にそう声をかけてきた。

 現状ではおそらくチームで最も冷静であろう政信に、筧はひとつの提案をしてみることにする。


「マサくん、はっきりいってぼくとカズくんじゃ兵藤くんは手に余る。だからキョウくんを中盤の下がりめに固定して、ぼくが前に上がろうと思う。で、時折スイッチ。これならキョウくんの負担も減らせるし、ディフェンスを考えればとりあえずベターな気がするんだけど、どうかな」


「むしろおれからタクマに打診するつもりだったよ。キョウが駄々をこねてもおれがどうにか説得する。貝原先生に話を通してそれでいこう」


 衛田が入院して以降、練習時から暁平には鬼気迫るものがあった。筧はそれを単純に意気込みだと受け止め、彼から「自分を中心とした攻撃サッカー」を提案されたときは喜びもした。

 けれども、このままゲームが終わってしまえば絶対に悔いが残る。そう思うだけの理由が筧にはある。

 バランスを崩しかけている暁平の危うさに気づいてあげられなかったツケは、今、ここで支払わなければならないのだ。

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