四品目:ワイバーンの唐揚げ定食(前編)
ハイノ草原――街の北に広がる広大な平原。
どこまでも続く草の海は風に波打ち、穏やかな陽光が差し込んでいた。
普段なら、薬草採取の初心者たちで賑わう平和な場所。
だが、今は――張りつめた殺気と、血の匂いが漂っていた。
討伐隊は、既に現地入りしていた。
その日も、オスカーはいつものように冒険者ギルド【翼竜の鉤爪】を訪れていた。
応接室の奥、古びたソファに腰掛け、ギルドマスターのリリアナと向かい合う。机の上には、【妖精の宿り木】から届いた依頼書が数枚、山のように積まれている。
「……クリムゾンブルの討伐、シラトネ草とオラノの実の採取、か。全部、俺が受けよう」
「はいよ。そういや、ロージュのヤツも【妖精の宿り木】に通ってるらしいぞ」
「ロージュ? ロージュ・デミンスか。懐かしい名だな。【業火のリリアナ】と【猛雷のロージュ】――今じゃ、おとぎ話みたいなもんだろ」
その圧倒的な破壊力と制圧力から、彼に付けられた異名は――【猛雷のロージュ】。
その名を知らぬ冒険者はいない。
「誰がおとぎ話じゃい。あの飲んだくれ、まだ元気にしてるようじゃ」
「……昔の顔は覚えてるが、今は知らないな」
「会ったら話し相手にでもなってやれ」
「話し相手って……」
「人見知りを直すのにちょうどええじゃろ」
リリアナが愉快そうに笑い、オスカーはわずかに眉をひそめる。
彼女から受け取った依頼書を懐にしまい、立ち上がろうとしたそのとき――。
ドタドタと慌ただしい足音が廊下を駆け抜け、勢いよく扉が開いた。
受付嬢のリベットが転がるように応接室へ飛び込んできた。
「おばあちゃん! 大変です!!」
「おばあちゃん言うな、仕事中はギルドマスターと呼べと――」
「ハイノ草原に、
リリアナが息を呑み、勢いよく立ち上がる。
ワイバーン――小型の翼竜ではあるが、目についたものすべてを襲う獰猛な性格。
爪や牙には麻痺性の毒を持ち、動けなくなった獲物を嬲り殺す、残忍極まりないモンスターだ。
だが、本来は強い縄張り意識を持ち、同族同士で争うこともしばしば。群れで行動するなどあり得ない。
「ワイバーンの群れじゃと!? 馬鹿な、あれは単独行動が基本じゃろうが……!」
「ハイノ草原か……あそこは平原だ。隠れる場所もない。格好の餌場だな」
「規模は!?」
「報告によると、少なくとも二十体以上です!」
「なっ……!」
リリアナの表情が一瞬で引き締まる。
ワイバーン一体の討伐にBランク冒険者が一人必要とされる。それが二十体以上――もはや災厄のレベルだ。
「状況は?」
「ハイノ草原で別の依頼を受けていたAランクパーティが遭遇。逃げようとしましたが、ほとんど麻痺して行動不能。逃げ延びた一名が報告を――」
「救助隊は出す必要はない」
「えっ!? どうしてですか!」
リベットが詰め寄る。
オスカーは低く息を吐いた。
「……もう食われてる」
「っ……!」
短く突きつけられた現実に、リベットは唇を噛み、視線を落とす。
リリアナはすぐに思考を切り替えた。
「今は対策が先じゃ。ハイノ草原は街から近い。群れがこっちに来てもおかしくない。すぐに討伐隊を――」
そのとき、別の受付嬢が駆け込んできた。
「ギルドマスター! 追加報告です! 群れの中に……角を持つワイバーンがいたと!!」
な……!」
場の空気が一瞬で凍りつく。
角を持つワイバーン――それは、ただの個体ではない。
「……【悪角のリドルゥ】か」
その名がリリアナの口から漏れた瞬間、室内に重苦しい沈黙が落ちた。
【悪角のリドルゥ】。三年前、突如現れた特別個体。
当時のSランクパーティを罠で分断し、麻痺毒で動きを封じ、狩るように一人ずつ殺していった“狩人のワイバーン”。
討伐隊が結成されたが、姿は消え、以降、現れては冒険者や商人を惨殺しては消える――それを繰り返してきた。
「今、動かせるSランクパーティは?」
「え、ええと……【
「よし。2パーティを招集。ベオウルフには伝令を。早急にこの件を伝えよ」
「了解です!」
リリアナの声が応接室を震わせた。
そして、オスカーへと鋭い視線を向ける。
「……どう思う、【孤高の鉄剣士】」
「【悪角のリドルゥ】が群れで行動している……妙だな」
オスカーの表情が険しくなる。
彼はかつて、その“悪角”と一度だけ対峙したことがある。
帰還途中、単独で現れたあの個体に襲われたが、なんとかバスタードソードで攻撃をいなし、渓流へ飛び込んで命を拾った。
「あのワイバーンは狡猾で、何より誇り高かった。他のワイバーンと群れるなんてありえない」
「つまり……使役している?」
「ああ。群れを操るほどの知能を持つとしたら……より厄介だな」
リリアナはしばし沈黙し、決意を込めて口を開いた。
「【孤高の鉄剣士】、いや――オスカー・アンダルク。頼む。【悪角のリドルゥ】討伐隊に加わってくれ」
「俺が?」
「うむ。【黒鉄の蹄】は防御が強みだが機動力がない。【三賢者】も魔術師三人で、空戦は不利じゃ。お主がいれば、戦線が締まる」
「だが、俺は……」
「パーティを嫌う理由が、ただの人見知りじゃないことくらい、わかっとる」
図星を突かれ、オスカーは思わず目をそらす。
しかし、リリアナはさらに一歩踏み込んだ。
「せめて、【白き狼騎士】が到着するまででいい。頼む」
「お願いします、オスカーさん!」
リベットも深々と頭を下げた。
オスカーはしばらく沈黙し、そして小さくため息をつく。
「……わかった。あくまで繋ぎ役だ」
「助かる……! すぐに討伐隊を結成する。行くぞ、【悪角のリドルゥ】を討つ!」
ハイノ草原――街の北に広がる、見渡す限りの草の海。
いつもなら冒険者たちが薬草を摘み、風の音に包まれる穏やかな場所だ。
だが今、その草原は異様な静寂に包まれていた。
討伐隊が、すでに陣を敷いている。
オスカー、【
合計九名の精鋭が草むらに身を潜め、息を潜めた。
「まさか、【孤高の鉄剣士】と共闘できるとはな」
「光栄です。名前は聞いていましたが、まさか本物とは」
【黒鉄の蹄】のリーダー、オックス・ドルガが笑う。
筋骨隆々の体躯に黒鉄の鎧、背中の戦斧は人の背丈ほどもある。
その豪放な声は、緊張に包まれた空気をわずかにほぐした。
一方、後方で地図を広げているのは【三賢者】の魔導師、ネスコ・トリシュ。
眼鏡の奥の瞳は冷静に光り、杖の先に淡い魔法陣が浮かんでいた。
「敵影、上空に二十三体。角付きは、今のところ確認できません」
「……ってことは、“あいつ”はまだ姿を見せていないってわけか」
オスカーが短く応じる。
ネスコは静かに頷いた。
「はい。ですが、群れの中心部に異常な魔力反応があります。おそらく、そこが本体です」
「了解。俺が囮になる。お前たちは、奴らが降りてきた瞬間に仕留めろ」
その言葉に、オックスが目を剥いた。
「おいおい、本気か? 一人で二十体を引きつける気か!」
「問題ない。逃げ足には自信がある」
淡々と告げ、オスカーは腰のポーチから小さな鉄球を取り出した。
「閃光弾だ。これを合図に動け」
「……了解しました。各自、詠唱を準備してください」
ネスコが指示を飛ばし、仲間たちが位置につく。
空気が張りつめ、風が止む。
その瞬間――オスカーが駆け出した。
草原を切り裂くように走る。
彼の頭上で、甲高い咆哮が響いた。
群れを成すワイバーンたちが、黒い影となって空を覆う。
「来たな……!」
オスカーが鉄球を高く投げ上げる。
次の瞬間――。
閃光が爆ぜた。
白光が空を裂き、視界を奪われたワイバーンたちが混乱して翼をばたつかせる。
その隙を逃さず、オスカーの剣が閃いた。
「一体……二体……」
剣筋は無駄なく、正確だった。
刃が肉を裂き、翼を落とし、地に叩きつける。
「おいおい、囮どころか、狩ってやがるぞ!」
「くっ……我々も行きます! 全員、前進!」
オックスが咆哮し、戦斧を振るう。
その一撃で、ワイバーンの胴が粉砕された。
後方ではネスコたち【三賢者】が詠唱を重ねる。
「――
「
「
三重詠唱。
水、風、土――三つの魔法が空を切り裂き、群れを撃ち落としていく。
炎のような光と爆音が草原を染めた。
オスカーはその隙を縫って次々と斬り伏せる。
討伐隊は確実に優勢へと傾いていた。
だが――。
「うわぁぁっ!!」
突然、悲鳴が響く。
一人の【黒鉄の蹄】のメンバーが、ワイバーンに掴まれて宙へ舞い上がった。
「しまった! 撃ち落とせ!」
「――
ネスコが即座に詠唱を放つが、別のワイバーンが盾のように割り込む。
水弾は弾かれ、狙いを外した。
「……群れの動きが変わった?」
オスカーが顔を上げると、上空の影がわずかに蠢く。
掴まれていた冒険者が、空中から投げ落とされた。
「嘘だろ……!」
重装鎧のまま、地面に叩きつけられる。
鈍い音が響き、土と血が舞い上がった。
全員の動きが一瞬、止まる。
「気を抜くな! 次が来る!!」
オスカーの怒声。
次の瞬間、別の隊員が掴まれる。
同じ動き――狙いすましたような連携。
ネスコが即座に詠唱を紡ぐ。
「――
落下してきた仲間の下に、水の壁が生まれた。
衝撃は緩和されたが、毒の影響で体が動かない。
「全員、後退! 上を警戒しろ!」
オスカーの指示に全員が散開する。
その上空で、群れが渦を巻いた。
渦の中心に、一体。
禍々しい黒鱗と、鋭い二本の角を持つ巨体がゆっくりと姿を現す。
風が唸り、空気が震えた。
その咆哮は――笑っているように聞こえた。
「……まさか、あれが……!」
ネスコの声が震える。
オスカーが剣を握り直し、低く呟く。
「――【悪角のリドルゥ】」
その名が放たれた瞬間、草原の空気が変わった。
冷たい圧力が地を押しつぶす。
誰もが、呼吸を忘れた。
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