三品目:クリームシチュー(後編)
栃木県の山間にある老舗料亭「藤花」。
その厨房に立つ少年は、幼い頃から包丁を握り続けていた。
名は藤原晃彦。料亭の次男として生まれ、父から料理の基礎を厳しく叩き込まれた。
兄よりも遅くまで包丁を研ぎ、誰よりも努力を惜しまなかった。
技術では兄を超えた――そう信じていた。
しかし、ある日の父の一言が、すべてを変えた。
「料亭は長男が継ぐものだ」
その言葉で、晃彦の運命は決まった。
努力では覆せない家の掟。彼は兄の下で働くことを拒み、大学進学を機に東京へと出る。
昼は講義、夜はアルバイト。
和食だけでなく、洋食、中華、スイーツまで幅広く学び、経験を積んだ。
そして――三十歳を迎えた今年。
ようやく彼は、自らの夢を形にした。
知人の紹介で手に入れた中古の一軒家。
一階を店舗に、二階を住居に改装し、借金をせずに開業準備を整えた。
明日はオープン初日。
段ボールを片づけながら、晃彦は腰を軽く叩いた。
「ふぅ……これでひと通り終わりですね」
仕込みのため、煮物と味噌汁を作り始める。
包丁の音、出汁の香り、味噌のやわらかな香ばしさ。
そのすべてが、彼にとって何よりも心安らぐ瞬間だった。
「食材よし、道具よし、仕込みよし……うん、完璧です」
エプロンを外して伸びをすると、窓の外では雨が強く降っていた。
明日は晴れるはずだと天気予報で聞いていたが、雷鳴が遠くで響いている。
「ずいぶん強い雨ですね……」
店の灯りを落とし、二階の寝室へと向かう。
布団に潜り込みながら、晃彦は明日のことを思った。
「お客様……来てくださるでしょうか……」
土砂降りの雨が窓を叩く。遠くで雷が鳴った。
——ゴロゴロ……ゴロゴロ……。
「雷まで……今夜は荒れそうですね」
そう呟いた次の瞬間だった。
ガシャァァァァンッ!!
轟音とともに、家が大きく揺れた。
落雷だと直感し、晃彦は飛び起きて階段を駆け下りた。
電気はつく。冷蔵庫も問題ない。
どうやら被害はなさそうだった。
「……良かった」
安堵の息をつき、店の戸を開けて外を見た。
しかし、目の前に広がっていたのは、見慣れた商店街ではなかった。
薄暗い石畳の路地。古びた建物。
ランプの明かりに照らされた馬車。
人々は革の服やマントを纏い、腰には剣を下げている。
その光景は、まるで映画の中のファンタジー世界だった。
「ここ……どこなんですか……?」
晃彦は呆然と立ち尽くした。
翌日、混乱の中にいる晃彦のもとへ、一人の男が訪れた。
センブロム王国の使者を名乗るその男は、丁寧に頭を下げてこう言った。
「我々の転移魔法の実験中に、異世界と繋がってしまったのです。どうやら、あなたの店がその“接点”となっております」
「接点……?」
「ええ。あなたの店の正面入口がこちらの世界に、裏口があなたの世界に繋がっているのです」
男の名はロベルト・ヴィネット。センブロム王国の大臣であるという。
彼は真摯な眼差しで続けた。
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません」
「い、いえ……それより、どうすれば……」
晃彦は事情を聞き、開店を延期することにした。
裏口からはスマホの電波が通じたので、知人には連絡を入れておく。
もちろん、「異世界と繋がったので開店できません」とは言えないが……。
そのとき、兵士の一人が駆け寄ってきた。
「大臣! 報告します! 裏口から外に出ようとしましたが、何かに弾かれて通れません!」
「何……?」
ロベルトはすぐに裏口へ向かい、ドアノブを回そうとする。
しかし、見えない力に弾かれたように、ドアがびくともしない。
「まるで、見えない壁があるようだ……」
「えっ? 私は普通に外に出られましたが?」
晃彦がそう言って外に出てみせると、確かに問題なく通過できた。
ロベルトは驚愕の表情を浮かべる。
「……なるほど。あなたにだけ、この境界を通過する権利があるようですね」
「え、私だけ……?」
どうやら本当に、晃彦だけが二つの世界を行き来できるらしい。
「しかし、厄介なことになりましたね」
ロベルトが険しい顔をする。
「もしこのことが他国に知られれば、“戦争”になります」
「せ、戦争!?」
「未知の世界と行き来できる。それは莫大な価値を意味します。資源、技術、魔法……何が手に入るかわからないのです」
晃彦の背筋に冷たいものが走った。
まさか、自分の店が原因で争いを招くかもしれないとは——。
「私の店が……原因で?」
「ええ。しかし、争いは避けねばなりません」
そう言ったロベルトの背後から、一人の初老の男が現れた。
長い白髭にモノクルをかけ、深い青のローブを纏ったその人物は、落ち着いた声で名乗った。
「紹介しよう。こちらは魔法研究局の局長、ロージュ・デミンス様だ」
「初めまして、店主殿。ロージュ・デミンスじゃ」
「は、初めまして。藤原晃彦です」
「ふむ……その名は少々異世界の響きじゃな。こちらでは“アキヒコ”と名乗るのがよいじゃろう」
「わ、わかりました」
どこか飄々としながらも、ロージュには圧倒的な威厳があった。
「さて、店主殿。提案があるのじゃが」
「はい?」
「昼はお主の世界の客を迎え、夜はこの世界の客をもてなす——二つの世界を分けて営業するのはどうじゃ?」
「……そんなこと、していいんですか?」
「構わん。改装費はわしらが持とう」
「ロージュ様!? 本気ですか!?」とロベルトが声を上げたが、老人は笑って受け流した。
「よいではないか、ロベルト。もとは我々の失敗が原因じゃ。それに、互いの世界が干渉できぬ以上、害はない」
晃彦の胸の奥に、熱いものがこみ上げた。
夢と責任が、ひとつの道に交わった気がした。
「ありがとうございます、ロージュさん!」
「ふふ、よいよい。その代わり——わしにも異世界の料理を食わせてくれんか?」
「えっ? い、今ですか?」
「もちろんじゃ」
気づけば、兵士や研究員たちまでもが期待の目を向けていた。
「……では、せっかくですし。仕込み中の煮物と味噌汁があります。どうぞ、召し上がってください」
「おぉっ! 異世界料理だ!」
「よし、皆、食事にするぞ!」
歓声が広がり、晃彦は再び包丁を手に取った。
まさか最初の客が、異世界の大臣と魔法使いになるとは思いもしなかった。
「異世界で、自分の料理が通用するのか……よし、やってみましょう」
静かに呟き、晃彦は包丁を握り直した。
こうして、藤原晃彦は——
昼は現代日本で、夜は異世界で店を開く、
“二つの世界の料理店”の店主となったのである。
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