「……しかし、源次郎よ、」

 父昌幸まさゆきの、いぶかしむ声が、幸村に向けられます。

「何もこんなときに、その、」

 他国へ赴くなど――、とな意見が、述べられます。

 しかし幸村の決意は、剛いものでした。

「いいえ、父上。こんなときだからこそ、です」

 ……あの晩、あの本堂での一晩を経てからの、幸村の転身は迅速なものでした。早速佐助さすけの師である白雲斎のもとに赴き、彼女をもらい受ける了承を取りつけておりました。そして幸村は、兄である伸幸のところへと向かいました。それは実に、初めてのことでありました。幸村は、兄と腹を割って話し、自身の案に協力を求めてることにしたのです。

 それに対する伸幸の反応は凄まじいものでありました。ただちに彼は、皆を説き伏せて回りました。弁の立つ彼に押され、非常識ともいえる幸村の願いは、ここに結実していたのです。

「……それにここには、兄上が居られるではありませぬか」

 納得しかねる父に、万感の思いを籠めて言いました。

『……源次よ』

 脳裡で、兄の声が、まるで今まさに告げられているかのように、鮮明に甦っておりました。

『思えば、お前がこの兄に、頼みごとをしたのは、これが初めてであるな。……お前はいつだって、自分ひとりで解決していたからな。……正直、おれはそれが悲しかった。少しは他の者に、寄りかかっても良いのだぞ? ことに、……ことに我らは、兄弟ではないか。遠慮する必要など、ないのだからな』

 頼りにされることを、喜ぶ者も、いるのだぞ――、微笑みながら告げる伸幸は、間違いなく肉親のそれ――温かい眼差しで、幸村をつつんでおりました。おれもその一人だと、瞳が告げておりました。

 幸村は、その場に平伏して、謝辞を述べました。思いがけない、優しい言葉を贈られて、感涙しそうになりました。幸村は知りました。己の過度な謙遜が、逆に兄を苦しめていたことを。

 ――そう、答は、こんなにも簡単なものだったのです。

 目を向けるべきは、『過去』ではなく、『未来』なのだと――。

『今まで』のわだかまりに縛られるのではなく、『これから』に向けて関係を構築していけば良いのだと――。

 そのことを幸村は、佐助から教わっておりました。……彼女は、あの晩、身を呈して示してくれました。心の結石を、取り除いてくれました。そして彼は、理性を得てのち初めて、――他人をしんから信じることができました。彼女を、佐助を、心の底から信頼しました。まさにあの夜は、彼にとっての転換点となったのです。


 そうして今、幸村は兄である伸幸の尽力によって、諸国へと旅立とうとしていたのです。


「しかし、のう……」

 それでも昌幸の言は、歯切れの悪いものでした。それもそのはず、織田家の庇護を喪った今、真田家は再び、領地の確保に奮闘しなければならず、そんな危急のときに、のんびりと漫遊したいというのは、いかにも父にとっては、りょうしがたいものでした。

「心配いりませぬ、兄上が居られるではありませぬか」

 幸村は、二たび強調して述べました。

「それに、目的がないわけではありませぬ」

 そう続けて言いました。


「――有能な人材を探しに参るのです」


 そう、それこそが、幸村が永年続けていた、“願い”――であったのです。


 ……幸村は欲しておりました。父と家臣のような、堅い絆で結ばれた、そのような者たちを。そして彼らを、己自身で見つけたく思っておりました。父の、真田家の威光によるのではなく、このおれ自身の手によって、発掘したいと思っておりました。……ですがそれは、夢想でしか許されぬ、そのような願いでありました。そんなこと、そもそも実行不可能でありましたし、それよりもまず、彼自身が、己にはそのような才覚は具わっていないと、自虐的な想いをいだいておりました。おれにそんなもの、人々を惹きつけるような、そんなものないではないかと、感じていたのです。

 その想いが、佐助との交わりによって、反転しました。

 自信を、自負を、いだけました。彼女の無限の温情によって、過剰に卑下する悪癖が、消失しておりました。己の値打ちを、客観視することができたのです。

「良い人材は、多いに越したことはないでしょう?」

「まあ、それはそうだが……」

 なおも渋る父に、幸村は説得を続けます。

「それに六郎が、一緒ですから、」

 危ないことはありませぬ、そう続けました。

 幸村は、こたびの同行者に、佐助と共に、海野うんの六郎ろくろうをも、招聘しょうへいしておりました。彼女は礼を尽くした求めに即座にこたえ応じ、隠居していた父を引っ張り出して、後のことを任せ、身軽ないち忍びに戻っておりました。

『若様が望まれるなら、喜んで』

 そう頭領の座を未練なく降りておりました。

 幸村は、姉のごとき慕っていた彼女の好意的な反応に、すっかり嬉しくなっておりました。そして、思い至っておりました。――彼女にも、頼みごとをするのは、初めてであったな、と。

「……心配はいりませぬよ、父上」

 不意に脇から、声が上がります。一同が目を転じると、

源次げんじには異変を感じる、第六感がありますからね」

 涼しげに立っている、兄の姿がありました。

「兄上……」

「見送りに来たぞ、源次」

 ひと言そう述べてから、伸幸は父に向き直ります。

「大丈夫ですよ。六郎には、各国の忍び小屋に、随時ずいじ寄るように申しつけてありますし、万一こちらで何か呼び戻す事態が起こったならば、すぐに草の者を送れば良いのですから」

「ふむ……」

 そう唸ってから、ようやく昌幸も、仕方なしに首を縦に振りました。何といっても、草の者を束ねていた、海野六郎には、安房守昌幸は、圧倒的なまでの信を置いておりました。その六郎が、共にいていってくれるのであれば、間違いはないだろうと、決断を下しました。

「しかしくれぐれも、気をつけるのだぞ?」

「はい。……では、父上、兄上。行って参ります」

 幸村一行は、深深とを下げました。そして、しっかりとした足取りで、屋敷を後にいたしました。


 二人の出会いから、およそ一か月が過ぎておりました。初夏を迎えた上田の地は、この日も門出かどでにふさわしい、快晴でありました。

「……それで、若様。まずはへと参られる予定でございますか?」

 内内うちうちでの行動ですので、皆は徒歩でありました。幸村も、馬は置いておりました。

「ああ、とりあえず、越州えっしゆうのほうに行ってみようかと」

「『えつ』……、『北』――ですか……」

 上田からの道程を脳裡に描いた六郎は、はっとを挙げました。主君の目的地に、思いが至ったのです。

「――『飯縄権現いいづなごんげん』……」

 驚きをみなぎらせて、語りました。

 応えて幸村も、大きく頷きます。

「ああ、まずは、『戸隠忍者とがくしにんじゃ』に会ってみようかと思う。草の者の話によれば、何でも、武田忍びだった者の一団が、そこにいるとか」

「ええ、確かに、真田のくさもの一族に加わらずに、放浪した者たちがいるという話は、聴いてはおりますが……」

 ですがしかし、と六郎は表情を曇らせます。武田家壊滅かいめつおりにこちら側へ混ざるのをよしとしなかった者たちが、果たしてこのたびは仲間となってくれるであろうか、危惧の念をいだきます。

 ――しかし、そんな憂いは、暢気な一声いっせいに払拭されておりました。

「はいはーい、幸村様、わたし知ってまーす。それって、『飯縄いづなつかい』のことですよね?」

「ちょっと佐助、源次郎さまと六郎さまが、大事なお話、してるんだから、あんた邪魔するんじゃないわよ」

「ええー、どうしてですかー。幸村様も、良いですよね、わたしが混じっても」

「ダメだって」

「もうっ、小助さまには尋いていないですよ。っていうか、こういうときのための、『影武者かげむしゃ』じゃないんですか? なんで小助さまも、一緒に随いてきてるんですか?」

「いっ、良いじゃないの、別に。源次郎さまだって、六郎さまだって、了承してくださったのですから」

「良くありませんよ。お屋敷の皆さまは、どうされるんですか? 幸村様の出立しゅったつは、皆さまには秘密のはずですのに。小助さまが代わりにいなくては、困るのではないですか?」

「大丈夫だいじょーぶ。身代わりを置いてきたから」

「…………」

「それに何かあっても、源三郎にいさまが、ちゃぁんと助けてくれるはずだから」

 だから心配ないもんねー、楽天的に言いながら、小助は幸村の隣へと躰を寄せました。

「源次郎さまだって、そう思いますよね?」

 気安く語りかける小助は、ですが有無を言わせぬ圧力を秘めた、そんな笑みを浮かべます。

「あ、ああ」

「ほーらーね。解ったら、佐助は従順おとなしく、あたりを警戒でもしていなさい? 何かあってからじゃ、おっそいんだからー」

 そう言ってから、一転、

「源次郎さまのお傍は、わたしがお護りいたしますから、どうぞご安心ください」

 口調を改め、腕を絡め、幸村にそう述べました。

 そしてこの横暴に、感情を炸裂させたのは、もちろん佐助でありました。

「ちょっ、ちょっ、待ってくださいよっ、そんなの勝手に決めないでくださいよっ。幸村様のお傍をお護りするのは、わたしの役目なのですからっ」

 師である戸澤白雲斎より賜った、椿の髪飾りを揺らして、抗議の声を挙げました。

「役目……って、佐助こそ、ナニ勝手に決めてんのよっ」

「勝手ではありませんよ。幸村様と、二人で、決めたのですから」

「何ですってー」

「何ですかー」

「きー」

「むー」

 延延と続くやり取りに、幸村と六郎は、やれやれと苦笑しておりました。


 これが、彼らの物語の、始まりでありました。後の世に、十名の可憐な勇士たちを従え、歴史にその名を轟かす、真田源次郎幸村の、これが、初めの物語で、ありました。

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真田乙女十勇士 星と菫 @star_and_violet

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