第02話 03
……。
……。
結論から言えば、彼女の起こした行動は、まったく正しいものでした。自己を犠牲にして、幸村を
「…………」
徐徐に熱が引き、正常さを取り戻した佐助は、夢中であった数分前の自分を顧みる、そんな機会に恵まれます。無意識のうちに放たれた、己の本心と、向き合います。
途端、血汐が引きました。体温が下がりました。自身の物言いに、彼女は全身を引きつらせました。
『――そんなことございませんっっ!!』
『――幸村様は何も悪くはございませんっっ!!』
『――ええ、たしかに、わたしは何も存じてはおりません、ですがそれが何だというのでしょう』
『――この佐助では、不足でしょうか。幸村様の慰めとは、なれないでしょうか』
『――この佐助、幸村様のために、何でもいたします。幸村様の手足となって、何でもいたします』
『――ですからどうか、お心をお休めくださいませ』
『――わたしは苦しむ幸村様など、見たくはございません。悲しむ幸村様など、見たくはございません』
『――どうか笑顔にお戻りくださいませ、この佐助、そのためでしたら、どのようなことでもいたします。ですからどうか、幸村様っ、わたしは、このわたしは、笑っている幸村様が、そんな幸村様が――っっ!!』
「~~~~~~~~~っっ!!」
あまりにも礼を失したせりふに、彼女は全身を
「すすすっ、済みませんっっ!!」
弾かれたように身を引きます。ですが、幸村の拘束は、彼女の予想を上回るものでした。ちからを加えたら折れてしまいそうな
「なっ?!」
「きゃっ?!」
同時に声を挙げました。そして幸村を上にして、二人、折り重なるようにして、磨かれた床に倒れました。
視界が転回します。取り乱していた佐助は、受けを忘れてしまいます。後ろ向きに倒されて、ぎゅっと躰を縮めるのが、精いっぱいでありました。
(…………?)
ですが、予想していた痛みは、ありませんでした。恐る恐る細胞を開きます。と、ただちに気づきます。とっさの機転を利かせて、幸村が、彼女の頭と肩に手を移動させておりました。それを緩衝にして、佐助は衝撃から保護されていたのです。
ほっと気持ちを弛めます。良かった、そう佐助は胸をなで下ろして――、
(ん?)
違和感に気づきました。妙に息苦しく感じました。何かしら、ゆっくりと、視線を下ろしました。
倒れた拍子にはだけたのか、丸い肩が露出しています。ずり落ちた小袖は、
――主君の顔が埋まっておりました。
「っっっっっ!?」
どんっ、心臓が跳ねました。上に載っている、幸村の頭を跳ね上げるくらいの、震動でした。全身が、紅く染まります。視界も、紅く染まります。毛細血管が破れたのではと思うほど、彼女の映す景色には、
(――だっ、だめでございますっ。)
(あっ――、)
目の前で、星が散りました。下から上へ、波が押し寄せました。身震いしました。その感情に
ダメ、いけないわ、何が駄目なのかも判らず、それでも佐助はその波にさらわれまいと、懸命にもがきました。ですが、首から下は、まるで別の生き物のように、行動を起こします。腕が、ゆっくりと伸びました。十指が開きます。そしてそれは、そのまま、――幸村の後頭部へと降下を始めました。
(――っっ!!)
真意を理解します。欲望を悟ります。何をしているの、止まって、止まりなさい――、もう一人のわたしの行動をとどめようと、声を張り上げます。ですが二本の腕は、統率者の命令を、まったく無視します。見透かされていました。そんなこと、本当は望んでないくせに――、くつくつと
(ああ、幸村様、佐助は、佐助はもうダメでございます――。)
びくびくと、小刻みに震えました。荒く呼吸をするたびに、硬く尖った花の芽が、
一方、幸村は、懐かしい安寧に、身を浸しておりました。佐助の葛藤など露知らず、浮かぶ記憶の揺りかごに、優しく揺られておりました。佐助を媒体として喚起される、彼の『母』の記憶に、陶然といたします。懐かしい匂いを、胸いっぱいに吸い込みます。甘い甘い匂いを、存分に味わいます。
(ああ、そうだ、この、匂い……。おれの
……ならば、ならばやはり、そうなのではあるまいか。あまりにも共通項の多いこの娘は、やはりそうなのではあるまいか。……おれの、この源次郎幸村の――……。)
今一度、確認したくなりました。たとえそれが、絹糸ほどにか細いものであったとしても、それを手繰り寄せたく思いました。
「のう、佐助?」
すっと身を起こします。両手を巧みに引き抜いて、彼女をまたぐように膝立ちます。
――まさにその直後。
「幸村様ーーーっっ!!」
腕をとらばさみみたく交差して、佐助が自分を抱き締めました。……理性の
ですがその企みは、空振りに終わりました。するりと彼女の懐から、幸村は脱しておりました。捕らえるべくして放たれた、彼女の二本の腕は、
「ん? 佐助、何をしておるのだ?」
悪気がない分、余計にたちの悪い主君の言葉に、
「……見なかったことにしてください」
顔を
「――わっ、わたしがで、ございますかっ?!」
頓狂な叫び声を挙げる佐助に、幸村はゆっくりと頷きます。遂に告げておりました。初めての邂逅の
対する彼女は、あまりにも畏れ多いその“可能性”に、接ぐ言葉を喪っておりました。ひと言そう発した後、まるで魂を抜かれたかのように、固まってしまいます。
幸村は辛抱強く待ちました。先ほども、彼女が立ち直るまで、
「…………」
主君の紡いだひと言は、彼女を千千に乱します。思案をやめて久しい、己の出生について、あまりにも大胆な“仮説”を告げられていたのです。
すなわち、
『そなたは、それがしの、“妹”かもしれぬ――』
含めるようにして言われたそれに、彼女の意識は故障しました。
「…………」
『初めて耳にした
「…………」
『そなたの境遇も、そうであることを示唆していた』
「…………」
『なれば、そうであれば……、こう、言えるのではないだろうか。……すなわち、」
「……とっ、突然そのようなことを申されても、その、」
なんと答えれば良いのか――、困惑顔を作ります。ですが、彼女の双つの瞳には、微塵も変ずることのない、主君の
(…………、いいえ、違うわ。)
正常に作動し始めた頭脳が、鋭く捉えました。主君の、心の動静を、的確に把捉しておりました。……そう、幸村様は、その“仮説”を、信じているのではなく、信じたいのだわ。幸村様のお母君と似ているわたしに、想い出を投影して、事実化させたいのだわ。それを。つまり、幸村様のお母君が、まだご健在であるということを――。いずこにて、穏やかに暮らしていると、いつの日か、また会えるだろうと、そう信じたいのだわ――。
「…………」
願いを、期待を、託されました。沈思しました。主君の願う、その“可能性”に、彼女は想いを巡らせました。……ですが、あらゆる先入観が、それを妨げてしまいます。それはまるで、土砂降りの雨の中を、走るようなものでした。濡れずに目的地に到達することなど、不可能でありました。
ですので佐助は、発想を転換します。とりあえず、真偽は留保することにいたしました。(実際それは、考えたから結論が出る
「幸村様」
静かな声で、切り出しました。
「もし幸村様が、わたしにそうお望みでございましたら、この佐助、以後そのようにいたしますが、」
いかがいたしましょう、そう決定権を委ねました。……彼女は、画策いたしました。個人の意思で左右することのできない決定を、送り返しました。そしてその上で、それでも主君が求めるのであれば、それを受け容れよう、そう決意いたしました。私(し)を滅して、
(……でも。)
それでも、願いはありました。秘匿したそれは、幸村から見れば、完全に
そう、わたしたちの『それ』は、もうこれ以上、
……。
……。
「済まぬ、どうかしていた」
あっさりと詫びました。
「血縁がどうとか、そんなもの、関係はなかったな」
「幸村様……」
「そなたがあまりにも似ていたので、つい嬉しくなってしまって……。余計な負担をかけてしまったな」
佐助、悪かった――、幸村は穏やかに言いました。
「いいえ、幸村様、そのようなお言葉、もったいなく」
応えて佐助も、こうべを垂れました。瞑目して、礼を尽くしました。
……しばらく二人、無言でありました。再び、同じ静寂を共有しておりました。言葉は要りません。お互いの気配を感じ合えれば、それで充分でした。耳を澄ませずとも聞こえる、お互いの吐息と、大気を微妙に揺らがせる、躰の熱とで疎通しました。この瞬間、まさに二人は、
「――――」
「――――」
同時に顔を挙げました。お互いの願いを、お互いの望みを、同時に把握しておりました。
見つめ合いました。決然とした眼差しを、互いに向け合いました。
二人は、まるで合わせ鏡のようでした。相手の瞳に、自分のそれが映され、その瞳に、また相手のそれが映されます。その光景が、
ちりと、神経が灼かれました。未練が、
ですが、しかし。
「…………」
努めてゆっくりと、息をつきました。それと共に、その願望も、体外へと吐き出しました。新鮮な空気を古い空気と入れ替えるかのように、――想い出にしがみつくのをやめました。そっと指を開きます。静かにそれは、彼の許から浮上します。ようやく気づきました。
おれが想い出に囚われていたのではなく、おれが想い出を囚えていたのだと。
辛いことがあっても、それを逃げ口上として、真剣に向かい合うことを避けておりました。いつでも進んで身を引いておりました。それは一見、争いごとを好まない、平和な気質でありましたが、しかし、それだけではありませんでした。
逃げでした。ひたすら逃げに徹していたのです。頭では忘れていても、心が憶えていた、借り物の、
すなわち、
おれの本当の『居場所』は、ここではない――、と。
……そして、無意識のうちに露呈していたそれ――その本心が、兄に、そして母に、影響を与えていたのです。
皆、敏感に察知しておりました。そう、拒絶していたのは、遠ざけていたのは、
――まったく幸村の側だったのです。
「…………」
ようやくその事実に至りました。佐助に自身の心を投射して、遂に幸村はそれに思い至っておりました。
「…………」
天を仰ぎます。墨を流したかのように暗暗たる天井を見上げます。ひと
その闇を、濃い暗闇を――、幸村は『
(……そう、まるで、『この世』を象徴しているようではないか。一寸先は闇、まさにそのとおりではないか。……そんな中を、一体どのようにして歩めば良いのだろうか。目を
幸村は、まさしく子供でありました。巣立ちのできぬ、雛でありました。安全な巣の周り、すぐに逃げ帰れるその範囲で、ぬくぬくと育っているにすぎませんでした。
そしてそれは文字どおりの意味だけではなく、精神的な意味においてもそうでした。退路を確保して、いつでも戻れる距離でしか、人々と接しておりませんでした。彼自身は、こう思っておりました。おれには本心から語り合える、そのような腹心の友はいないと。
違いました。そうではありませんでした。彼は、幸村は、――そのような友を欲していながら、同時にそれを、拒んでもいたのです。恐れていました。心底(
《こころ》から望んだ、その願いを拒まれてしまうことを。
拒絶を恐れ、ゆえに拒絶しました。
ただただ孤独に、立ち竦みました。
理性では、判断できていました。このままでいるのは良くないと。ことに、いずれの日、兵を率い、将として
ですがそれに、感情が
多すぎる愛情と、少なすぎる愛情にさらされて育った幸村は、人格形成の、その根幹が、不安定でありました。自我はまるで、湿地を土台にして建てられた屋敷のようでした。
父に評価され、称讃されても、同様のことを
母に冷たくあしらわれ、それでも温かい愛情を求めて、恐る恐る、まるで腫れものを触るかのように近づいては、余計に相手を苛立たせておりました。そしてそれを浴びては、柔らかな心に傷を負っておりました。
そんな、自信や自己肯定に繫がる経験を奪われた幸村は、自然、他人との距離を置く、そのような少年になっていきました。穏やかで心優しい気質を、生来より具えていながら、それをまったく間違えて用いておりました。人々の目に映る幸村は、いつでも愛くるしい笑顔をたたえている、天真爛漫な少年でありました。自由奔放で腕白な、少年でありました。
ですが、その印象は、必ずしも正しいものではなかったのです。
確かにそれは、彼の人格の一部分として、定着しておりました。ですがそれは、彼を形成している、側面の一つでしかありませんでした。人々は知りませんでした。彼が、幸村が、
その笑顔の裏で、どれほどの恐怖に耐えていたのかを。
嫌われまい、嫌われまいと、彼は必死でありました。それはまるで、ちぎれそうなほどにしっぽを振る、子犬のようでありました。拒まれることを、病的なまでに恐れていました。さらに、“真田の若様”であった幸村は、逆にそのために、人々に受け容れられているという事実を、信じることができませんでした。
父上の息子だから受け容れられているのだ。
卑屈になっておりました。愛されるにふさわしい幸村を、皆しっかりと認めて、正しく愛しておりましたが、その事実を、幸村本人だけが、信じられずにおりました。
母上にさえ愛してもらえないこのおれを、どうして他の人が愛してくれようか。
……及び腰で、およそ肉親に対する態度とは思えない接し方をしていた幸村が、母である
ですが、幸村の場合は、また特殊な事例であったのです。
坊ちゃまには本当のお母さまが、
その明確すぎる『理由』に、自分が愛されない『理由』に、幼い幸村が飛びついたのは、言うまでもありませんでした。幸村自身は、その『噂』を、口さがない者の流す、
(そうか、道理で――。)
と。
……果たして、“鶏”はどちらだったのでしょうか、“卵”はどちらだったのでしょうか。
家中の不協和音は、すべて己のせいだと信じ込んでいる幸村は、当然自分のせいだと思っています。ですが本当に、その『噂』を鵜呑みにして、母に対する態度を硬化させた幸村が、“先”だったのでしょうか。それを信じるに足る下地が、先にあったのではないでしょうか。(しかしこと家中問題には、自虐的にすぎるほどの負い目を感じていた幸村は、それさえも自分のせいだと信じていました。おれがちゃんと甘えられなかったから、だからおれが悪いのだと、自覚のない乳児期にまでさかのぼり、自己否定をしておりました。)
その真偽は定かではありません。ですが、ただ一つはっきりと言えることがありました。
すなわち、
この世で最も深い絆である、“血”の絆を、幸村は神聖視することとなり、そして――、
――なればこそ幸村は、佐助にそれを求めたのです。
彼女と、断ちがたい、“血縁”という名の絆を求めました。結束を固め、二人の関係を、より
「…………」
ですが、しかし。
「佐助、今一度、聴かせてはもらえぬか」
あえて言いました。非礼なせりふを吐きました。――幸村は、確かめたかったのです。二人の――その『強度』を。もう充分だと、信じられるように。本当にそうであるのなら、これくらいでは揺らがないはずだ、そう幸村は、彼女を試していたのです。
「そなたは、それがしと、ずっと共にいてくれるのだな?」
その問いに、佐助ははっきりと答えます。
「はい、幸村様」
床に触れている指先に、ちからを込めました。再び、前屈姿勢をとりました。ですがこのたびは、顔は仰向いておりました。首をもたげ、主君をしっかりと見据えました。
「この佐助、
誓いを、二たびの
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
じっと二人、見つめ合いました。どちらも、譲ろうとはしませんでした。このまま夜明けを迎えそうな勢いでした。
幸村は、心ゆくまで、彼女を探りました。影ひとつ、塵ひとつ見逃さぬよう、彼女の心を、
佐助は無抵抗で、応えます。主君に、すべてをさらします。一つ一つ
露出しました。
“二人はもはや一体”
だったら恥じらう必要なんて、あるわけないじゃない――、そう彼女は、境地に至りました。……ですが彼女は、それだけにとどまりません。盲信して、思考を停止させたりはいたしません。そう、佐助は、まったく理性的に行なっていたのです。隅隅まで見られ、覗かれ、調べられることを、完全に理解したうえで、承知したのです。自身が解析されることに、無反応ではいられませんでしたが、それでも、主君を優先させたのです。
(幸村様に信じていただけるのなら、この程度のこと――。)
頬に
そう、ずっと、ずっと。
愛するわが主が、
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