第02話 02

「うむ、まあ、六郎であれば、仕方がない」

 幸村は、佐助の心中を察して、少し大袈裟なくらいに、六郎のことを説明いたします。

 海野うんの六郎ろくろう――。彼女こそ、真田の草の者たちを束ねる、頭領でありました。瞠目すべき天稟てんびんを具え、よわい十八にして、父の跡をぎ、父の名であり、頭領の名である、『海野六郎』を襲名した、天才忍者でありました。それ以来、表に出る機会の減った六郎は、忍具やの製作に傾注しておりましたが、(そしてその方面でもまた、卓出たくしゅつした才を発揮しておりました。)昼間の一件で、前線での忍び働きも、いまだ超一級であることを示しておりました。

「であるから、佐助、そんなに気を落とすことはないぞ?」

「はい、ありがとうございます」

 気づかいを示してもらい、落胆する気持ちはかなり中和されました。面映ゆく、それを隠すように、佐助は平坦に感謝を述べました。

「それに小助を含め、その他の者たちには、完全に圧倒していたではないか」

「……でも、小助さまだって、いくさしのびが本業ではないのでしょう?」

「まあ、そうだな」

 と、そこで想い出したのか、今までの憂いた表情かおは何だったのかというくらいの笑顔を一転して浮かべ、佐助は愉しそうに言いました。

「ほんっと、幸村様そっくりでございましたわねっ!!」

 幸村の恰好をして、真田家の屋敷に赴く小助を、脳裡に浮かべたのでしょう、そんな手放しな讃辞を述べておりました。

 そして続けて、

「でも幸村様の女装姿も、とってもお似合いでございましたわっ!!」

 昂奮ぎみに言いました。

「女装、というか……、小助のかぶっていたを、被っただけであるが……」

「でもでもっ、いざっていうときは、女性のお着物、着られるのですよねっっ?!」

「さあ、どうかのう……」

「わたしは着たほうが良いと思いますっっ!!」

「そ、そうであるか……」

 熱っぽい視線と共に畳みかける彼女に気圧され、幸村は曖昧に答えます。うふ、うふうふ、と気色の悪い笑いをとこぼしながら、彼女は何やら、妄想にふけり始めました。いや~ん、倒錯的~、と身もだえしている姿に、

(…………、そっと、しておこう。)

 幸村は、賢明な判断を下しておりました。


 ……。

 ……。

「――のう、佐助よ」

 そう頃合いを見計らって、幸村は佐助に声をかけました。いまだ夢想の世界に旅立っていた彼女も、主人の呼びかけに、はい、と立ち返っておりました。

「はい、何でございましょう」

 うむ、一泊おいてから、幸村は別所の湯でした会話について、彼女が憶えているか、尋ねました。

「はい、幸村様。たしか……、ながくなるお話が、おありになるとか」

「うむ、そうだ」

「して、それはどのような――」

 問い尋ねるその言葉を、幸村はさえぎります。

「その前に一つ、了承してもらわねばならぬのだが」

「はい」

 ただならぬ雰囲気に、佐助も意識を緊張させました。誠実さを込めて、主君を見つめます。

「……これからする話は、わがいえにかかわる、重大な話である」

「…………」

「であるから、佐助も、みだりに口外せぬよう、約束してもらいたいのだが、」

 守ってもらえるか? 幸村は念押しをいたします。

 応えて彼女は、軽くを下げました。

「もちろんでございます」

 確然かくぜんとした声を用いて、答えます。

「幸村様がそうお望みとあらば、この佐助、誓って口外いたしませぬ」

「そうか、済まぬな、佐助」

「いえ、そのようなお言葉、もったいなく」

「…………、――では」

 黙して仕切りなおしてから、彼は厳粛に唇を開きます。

「この話は、じつは真田の家中では、なかば公然の秘密として噂されているものであるが、それはあくまで噂ていどのもので、その真偽を知る者は、おそらくほとんどいないであろう」

「…………」

「この自身でさえ、今日の今日まで、信じられずに……、いや、信じたくはなかったのであるが……」

「…………」

「……は、この源次郎げんじろう幸村ゆきむらは、」


 ――兄上とは、母が違うのだ――……。


 絞り出すように、佐助に告げておりました。


 ……父である、真田さなだ安房守あわのかみ昌幸まさゆきには、山之手殿やまのてどのという正室せいしつが一人、おりました。違う表現を用いれば、

 ――山之手殿という正室いがいには、妻は一人もおりませんでした。

 ……この苛烈な戦国時代、いつ戦場いくさばで、あるいは謀略によって暗殺されるか知れない、命懸けであったこの時代、家の当主たる者は皆、子供を、嫡嗣ちゃくしを残すことに、懸命でありました。また、他国に娘をとつがせたり、他国の娘をめとったりという、そのような“縁組外交”も、当然のものとして、行なわれておりました。そのために子は、何人いてもいすぎるということはなく、必然的に当主には、複数の妻、つまり側室そくしつがいるのが、当たり前でありました。

 にもかかわらず、小さないち豪族ごうぞくにすぎない昌幸まさゆきには、側室は一人もおりませんでした。

 ……この山之手殿という女は、公家くげである菊亭晴季きくていはるすえを父とする、とうとい血筋の、女でありました。そのような高貴な生まれの娘を迎えるにしては、真田家はあまりにも家格が不足しておりました。それでもその婚姻は、結ばれました。なぜならそれは、――そのときの主家である、武田たけだ法性院ほうしょういん信玄しんげん斡旋あっせんであったからです。……破竹の勢いを誇っていた、そのときの武田家にとって、公家の娘を貰うことなど、造作もないことでした。それを、過分に目をかけていたとはいえ、明らかに身分の釣り合わない昌幸に添わせることも、信玄なら容易になせることでした。

 ですが当事者たちにとって、それは必ずしもよろこばしいものでは、なかったのです。

 山之手殿やまのてどのにとって、その婚姻は、きぬせぬ言い方をすれば、屈辱でありました。どうしてわたくしが、このような身分の者と――、という不満がありました。そう思っても仕方ないくらいに、両者の家格は、隔たっておりました。そのように最初から不承不承であった彼女は、しかしあの信玄公のめいには逆らえず、昌幸のところへ嫁いでいきました。そんな高貴な身柄であった彼女が、夫である昌幸に、尊大な態度をとったことは、自然な流れでありました。

『わたくしは、お前さまがわたくし以外の妻をめとることを、断じて許しませぬ――』

 そんな非常識なことを述べたとしても、それは決して、不思議なことではありませんでした。

 ……では夫である、昌幸まさゆきはどうだったのでしょうか。

 彼も当然、主君である信玄の申し出を辞退することなど、できるはずもありませんでした。明らかにくらいの上である、公家の娘をあてがわせたことが、信玄なりの配慮であったことも、理解しておりました。近習きんじゅうとして仕え、出世街道を昌幸の、その地位をさらに固めるための、主君のはからいでありました。そうして、実力に見合った家柄を与えようと、(平たく言えば、はくをつけようと、)信玄は画策していたのです。(実際そのときの昌幸は、武田家にゆかりの深い、『武藤むとう』姓を信玄からたまわって、武藤むとう喜兵衛きへえ昌幸まさゆきと名乗る特権も受けておりました。)

 ですがここに、知られざる悲恋ひれんがあったのです。

 ……幸村は、幼少のころより、たびたび耳にしておりました。いわく、父上には、母上と妻夫めおとの契りを結ぶ前から、想いを交わし合った女がいた――という、噂を。そして、その女が産んだ子こそが、この源次郎幸村である――、と。

 実際それは、かなりの信憑性をもって、幸村の胸に落ちておりました。父である、昌幸の接し方が、まずありました。昌幸は、まるで嫡男ちゃくなんが幸村であるかのように、彼を可愛がっておりました。それに反して、長男であるはずの伸幸のぶゆきには、何かと難癖をつけて、冷遇しておりました。その態度は、強く出られないが妻に対する、当てつけのようにも、思えました。

 そして反対に、母である山之手殿は、兄の伸幸を寵愛し、弟の幸村には無関心を貫いておりました。そんな境遇のもとで育った幸村は、自然、のちに村松殿むらまつどのと称される、自分たち兄弟の姉を、慕うようになっていきました。

 幸村は、常常疑問ぎもんに思っておりました。

 おれは、何ゆえ、『源次郎げんじろう』幸村と名づけられたのかと。

 兄上は、何ゆえ、『源三郎げんざぶろう』伸幸と名づけられたのかと。

 真田家は、代代、長子が早世そうせいしてしまう家系ゆえ、『太郎』、『一郎』、という名は避けたというのが、一応の理由として挙げられておりました。しかしそれは、兄上が『三郎』で、自分が『次郎』であることの説明とは、なっておりませんでした。

 では、一体――?

 そうして彼は、ある一つの“仮説”に、至っていたのです。

 すなわち、

(この源次郎幸村は、兄上より先に、産まれたのではなかろうか――?)

 と。

 しかし、その仮説には、無理がありました。幸村は、兄伸幸のぶゆきと、一歳ひとつちがいで産まれたと言われてきました。ですが、父上と母上は、結婚してすぐ、長女の村松殿むらまつどのを授かったはずでした。そして翌年、兄上である伸幸を、出産したはずでした。なれば、このおれが兄上より先に産まれることは、不可能である――、そのように論理的に考え、その仮説を否定しておりました。……いいえ、努めて否定しておりました。おれが弟、それで良いではないか、名前など、些細な問題ではないかと。……なぜなら、彼は気づいていたからです、その“仮説”が、矛盾しない“条件”に。

 つまり、

 ――――、

 という、そのことに。

「…………」

 想像します。もしもそれが真実だったら――。少なからぬ悶着があっただろうことは、容易に想像できました。何しろ、母上にしてみれば、己が身ごもった同じときに、ほかの女性には子を産ませていたのだから。(なぜか幸村は、自分は姉上よりは年下だと思っておりました。もしも自分が姉上より先に、つまり二人が夫婦になるよりも前に産まれていたとすれば、いくら主命とはいえ、母上とめあわせようとするそれを、父上は断わっただろうと、漠然と考えておりました。)……かんの強い母上のことだ、よほど手ひどくに違いない。それでも、そう、それでも……。

 想像力の翼を拡げます。三男坊であり、家督の相続とは無縁だったゆえに、己のためのみに、のびのびと生きていたであろう、その時代の父上を。やや小柄であるとはいえ、息子から見ても精悍な顔つきの父上に、想いを寄せる女の一人、いたとしても不思議ではありませんでした。そして父上も、彼女を憎からず想っていたのではなかろうか、と。

 しかし愛し合う二人は、突如として舞い込んできた縁談に、泣く泣く別れを告げたのではないのかと。きっと、母上とは、太刀打ちできない、名もない家の娘であったに違いない。父上のために、みずから身を引いたのではなかろうか。……だが、おそらく、父上も最初は、その娘を側室に迎え入れるつもりだったのであろう。しかし母上が、それを許さなかった。母上に強く出られない父上は、それを呑まざるを得なかった。そうして二人は、引き裂かれてしまったのだ、と。

 いや、二人のえにしは、切れてはいなかったのだ。

 そうして産まれてしまったこのおれを、真田家の正統な息子としたい父上と、そんなことは認められない母上との間で、はげしいいさかいが、おそらくあった。そしてこれが、落とし所だったのではあるまいか。

 すなわち、

『真田家の後継者は、自分が産んだ男子であること』

 これが母上の要求で、対して、

『先に産まれたこの息子に、源次郎と名づけること』

 これが父上の要求であったのだろう。


「……こうして、先に産まれたが次男に、後に産まれた兄上が長男に、という、な家族関係ができあがった――」

「…………」

「――それが、が聴いて、そして導きだした結論である」

 ……蠟燭ろうそくはもうすっかり、己の丈を縮めておりました。口を結ぶと、迫るほどの静寂が、場を侵しました。そんな無音の世界で、二人はじっと、見つめ合っておりました。

「……でっ、ですがっ」

 その沈黙を、佐助が破ります。

「それはあくまで噂、ってことですよね? 別に、確認されたわけでは――」

「ああ、確かに、確認はしていない」

「でしたら――」

 明るい表情を作る彼女を、幸村は二たび、さえぎります。

「いや、確認はしてないが、間違いないであろう」

「っっ!! どうして――?!」

 反射的に叫びました。ですが、対坐する主君は、それに答えません。ただ、意味深長な眼差しを、向けるのみでありました。その視線に捉まります。複雑な表情いろをしたその瞳は、彼女の心をざわめかせました。何か言いたげな、そんな瞳でありました。ですが、それをためらっている、そんな瞳でありました。数瞬、佐助も逡巡します。それはおそらく、後退できない一歩であると、理によらずに解します。それでも意を決します。幸村様の心に、少しでも近づきたい――!! その願いに押され、彼女は口を開きます。

「幸村様、どうぞ、ご遠慮なさらずに」

「えっ?」

「この佐助に、何か申したいことが、おありなのでは?」

「あっ、いや、その……」

「わたくしは、構いません。どうぞ、お話しに――」

 言って、膝を進めます。距離を縮めます。その瞳に己の姿が映るほどに近づいて、彼女は言葉を待ちました。

「…………」

 数秒後、ふう、と幸村は、息をつきました。体内に溜まっていたおりを、吐き出します。改めて、彼女を見ます。身を引き締めたままでいる、彼女を見つめます。

(……どうやら、決意は堅いようだ。)

 毅然とした態度に、幸村も応えました。気を悪くするやも、という憂いを断ちました。

「……では、尋くが」

 そうゆっくりと、言の葉を拡げました。

「佐助よ」

「はい」

「そなた、……その、気を悪くするなよ?」

「はい」

「その……、――本当に、母親のことは、何ひとつ憶えておらぬのか?」

「――――」

 思いがけないひと言に、佐助は瞬間、言葉を喪います。

(ど、どうして……?)

 頭の中が、疑問符で満ちました。

(どうして今、突然そんな話を……?)

 ――と。

「そなたの……」

 再び語り始めた幸村に、彼女は集中いたします。聴き逃してはならない、なぜだか心の奧から、そんな声が、際限なく届きます。

「そなたの、『声』――でな、」

「…………」

 心臓の音が、耳許で鳴りました。うるさいくらいに、鳴りました。

「そなたの『声』で、憶い出したのだ」

「…………」


 ――の、産みの親の、その『声』を――


(そうだ。ずっと、この胸の奧から、優しく語りかけてくれる、この『声』――。理想として、一からつくりあげたにしては、あまりにも生生しい、実感のこもった、この『声』――。、『――。それがだれだか、今日まで判らずにいた。だが、佐助の声を聴いて、憶い出した。

――。

 、『』、――。)

 幸村は、今日まで、確信をいだけませんでした。その噂を。己が、違う女から産まれたという、その噂を。

 父昌幸まさゆきには、ほかの女の匂いが、ありませんでした。時折するものの、両親の関係は、傍目には悪くありませんでした。もしも他所よそに違う女を囲っていたならば、その痕跡が、あるはずです。たとえおれが気づけなくとも、母上が判らぬはずはない、そう思っておりました。

 だから、初めからそんな女、いなかったのだと、自身に言い聞かせておりました。もしいるのなら、必ずその残滓が、あるはずだと。

 ……。

 ……。

 違いました。

 そうではありませんでした。

 彼は、真田源次郎幸村は、


 


 


「……だが、だが違ったのだ――!!」

「幸村様っ?!」

「……ああ、そうだ、そうだったのだ……」

 佐助の声が、遠くなりました。意識のヴェクトルが、反転します。己の内側へと、向けられます。自我の水底みなそこから、まばゆい光が、忘れられていた記憶が、蓋を破って、ほとばしりました。その女性ひとに抱かれていた、幼少の、原初の記憶を、幸村は取り戻しておりました。

『   』

 まだ言葉は理解できません。それでも質感が、耳心地の好い彼女の声が、幸村を安堵させました。咽喉を鳴らします。単音で、感情を表現いたします。

 その声を聴いて、彼女は、笑みを深めます。ああ、その表情かおは、なんと慈しみに富んだものだったのでしょう、幸村は贈られる温かな感情を、全身で貪るように受け取ります。

 両腕を振って応えました。じらうことを知らない、赤児あかごであった幸村は、隠すことなく喜びを表現します。あー、うー、ときゃっきゃっと弾んだ声で、彼女に話しかけました。

『   』

 無邪気なその様を瞳に映していた彼女は、しかしなぜか突然、雪融けのように、己の笑顔を崩しました。

 見上げる幸村の、丸い頬が、熱を感じました。熱いしずくが、降り落ちました。彼女の両眼りょうがんから生まれる、想いの詰まったかけらが、幸村の上にこぼれては、心を穿うがちました。

 たちまち彼女の感情が伝染うつります。幸村は、火がついたように泣き出します。まるで、声を嚙み殺している彼女の代わりを務めるように、全霊を尽くして、泣き声を挙げました。

『   』

 懐に、しまわれました。甘い乳の香りのする、彼女の胸に搔きいだかれました。現金な幼児は、泣いていたことを即座に忘れ、柔らかなふくらみに顔をうずめました。そのいただきに吸いつきました。

『   』

 なにかを語られました。夢中であった幸村は、まったく聞き流してしまいます。ですが細胞が、一生涯かわることのない、心ノ臓が、彼に代わって、記憶します。

 彼女の、幸村の母の、――振り絞るようにして紡がれた、“別れ”の言葉を。

「……そう、彼女は、――『母上』は、おれに、このおれに――!!」

 声が詰まりました。昂った感情が、気道をせばめます。咽喉を塞がれ、これ以上の告白は、かないません。出口を喪った、それらほとばしる激情は、それでもぐちを求め、暴れます。ありとあらゆるものが攪拌かくはんされ、混濁こんだくされました。自分を保てなくなるほどに蹂躙じゅうりんされました。

 呼吸いきを荒げます。濃度の薄い大気を吸っているかのように、大きくあえぎます。それでもをなくした濁流は、収まりません。体内で大蛇だいじゃのような感情に、ずたずたに犯されます。

 傷が、開きました。じくじくと膿む、えることない古傷が、ぱっくりとその口を開けました。


 ……母上の、よそよそしい、無表情な仮面。しかしその下でうごめく、熱くて冷たい、おれに対する憎悪。けがれたものを見るかのような、恐ろしい視線。

(――オレノセイダ。)

 ……父上に認められようと奔走する、幼い無垢な兄上。それを羽虫のように振り払う、無関心な父上。取り残され、傷つき、立ちすくむ兄上。

(――オレノセイダ。)

 ……不意に合った視線、覗き見られていたことに気づいた兄上。その瞳に灯る表情(いろ)。


『――オ前ノセイダ』


(――オレノセイダ。)

『――オ前ガイルカラ』

(――オレガイルカラ。)

『――オ前ナンカ、』

(――オレナンカ、)


 ――消エテシマエバ良インダ――!!


「――――――――っっ!!」

 無音の絶叫が木霊しました。塞いだ咽喉を切り裂きました。心臓を握りつぶされたかと錯誤するほどの痛みに、幸村は己がからになるまで叫びました。

 不意に、目頭が熱を帯びました。眼球が圧迫されました。秘匿し、だまし続けていた本心が、とっくに許容量を超えていたその心が、この瞬間、彼の母の言葉を憶い出したこの瞬間、遂に――決壊したのです。

「『母上』っ、『母上』っ、何ゆえこのおれを置いて行かれたのですかっ?!」

 泪が溢れました。結晶化した想いが、しずくとなって垂れ落ちました。

「『強く生きてほしい』と、『幸せになってほしい』と、そう願ってくださったあなたが、なにゆえこのおれを見捨てたのですかっ?! 泣いて別れを惜しむくらいならば、いっそ連れて行ってほしかったっ!! たとえそれが、父上に対する裏切りになったとしても、それでも、――それでもっっ!!」

 血を吐くようにして吐露される、口に上らせてはならない、それら鬱積うっせきした感情は、しかしひとたび口火を切ると、もう止まりませんでした。まるで欠落した歳月を補おうとするかのように、記憶の中の彼女に、幸村は想いを叩きつけておりました。

「そうすれば兄上も、父上に正しく才を認めてもらえるはずだったっっ!!

 母上だって、心安らかな暮らしを送れるはずだったっっ!!

 なのにおれが……、このおれがいたから……。

 このおれのせいで、みんな、みんなっ、みんなっっ――!!」

 自身の制御ができません。狂おしくたける獣のように、幸村は背を丸めて、声を嗄(か)らします。失念します。この行為の、原動たる素因を。濁流に呑まれた幸村は、見失ってしまいます。ただ眦からこぼれる泪と共に、胸に巣くうもやを、彼は吐き出したく思っておりました。

 ――ですが、しかし。


「――そんなことございませんっっ!!」


 鋭く、しかし温かな一声いっせいが、心の闇を両断しました。


 抱き締められました。ひしと、抱擁されました。

(『母上』っ?!)

 転瞬、彼の意識は混線します。声の正体を、誤ってしまいます。ですがただちに、正気に戻ります。

(――あ、……。)

 すがるように、顔をあげました。彼女を、瞳に入れようと。そうだった、想い出しました。彼女と、佐助と、話をしているのだった――。その事実を認識して、幸村は落ち着きを取り戻しました。

 別所の湯でしたように、お互いの存在を、肌で確かめ合いました。幸村も、佐助の背に両腕をまわしました。抱き合いました。実感を、確かな実感を得ていました。

 潤んだを彼女に向けます。瞳に映った彼女は、清らかなで、輪郭を縁取ふちどっておりました。

「幸村様――」

 その彼女が、泪色の声で、主君の名を呼びました。……ほかの忍びたちと同様、佐助もまた、万が一のときに備える、訓練を受けておりました。万が一、捕虜として捕まったとき――それはすなわち、訊問という名のもとに行なわれる、拷問を意味していましたが、それに備えて、彼女はありとあらゆる苦痛に耐える、そんな訓練を施されておりました。直接肉体に訴える種類のもの、あるいは、不眠、不食、不動といった、精神を折ろうとするたぐいのもの、それらすべてを、佐助は不屈の精神力と、反復とによって、克服しておりました。たとえ躰が壊されようとも、己の精神は、ごうほども揺らぐことはない、そう自負をいだくまでになっておりました。

 その彼女が、一秒も耐えられませんでした。

 心臓を貫かれました。劇痛が奔りました。気絶さえも許されぬ、それは痛みでありました。

 主の苦しむ姿に、佐助はいたみました。傷つきました。手酷てひどい傷を負いました。人と深く接する機会がほとんどなかった佐助は、そのことを初めて知りました。

 大切な人のかかえる苦痛が、自分にどのような影響を与えるのかを。

 ……分かってもおかしくはありませんでした。昼間、あれほど、主君の明るい感情に手を曳かれていたのに、それでも彼女は、には、思慮が至りませんでした。結果、彼女はまったく無警戒の心に、致死量の一撃を受けていたのです。

 想像するが、あだとなりました。あらゆる痛みに対する抗体こうたいを身につけた彼女は、当然、それらに耐えることが可能となりました。ですが今、目の前で歯を食いしばる主君に、幸村様が感じている痛みは、きっとそれ以上なのだわと、想像力を働かせてしまいました。それはきっと、わたしには耐えきれない、それくらいの痛みなのだわと。

 そしてそれに、想像上の、幻想の痛みに、――実際に灼かれました。耐えきれない痛みを想像した佐助は、それを忠実に構築して、そしてそれを浴びました。鍛錬を重ねた強靭な精神は、その強靭さゆえに、正しく彼女を撃ちました。一切の妥協を許さずに、“耐えきれない痛み”を創り出したのです。

 目の前で、閃光がまたたきます。痛覚を、一寸ごとに切り刻まれます。あまりの痛苦に、佐助は呻きを洩らします。

 でも。

 それでも。

 彼女は残されたすべてを振り絞って――、


 ――幸村を支えました。


 わたしと同量の痛みをかかえているだろう主君に、手を差し伸べました。

 優先させました。患苦かんくの沼に沈んでいる主を、救おうとしました。そのために、自分が手遅れになっても、構いませんでした。主君がそこから脱すれば、それで充分でした。幸村様がこの苦しみから解放されるなら、代わりに無間地獄むげんじごくに堕ちても良いと、躊躇ためらいなく思いました。

 それはいわゆる、“二人は一体”的な発想からは、遠く隔たっておりました。主君を回復させることによって、間接的に自分を癒す、そのような考えではありませんでした。ただただ懸命でした。ひたすら無私でした。……そのような生命体の本能にそむく振る舞いは、ですが彼女には、当然のものとして腑に落ちておりました。彼女の胸底むなそこで、結晶が耀かがようておりました。虹色に光る、美しい結晶体を、佐助ははっきりと自覚します。それに名はありません。あえて名づけようとはいたしません。理性が、とどめておりました。してはいけない、警句がありました。なので佐助は、その正体が判りません。ただ、別所の湯での幸村との交わりで生まれ、そして育み、磨かれた『それ』に――その『感情』に、従いました。彼女は確信しておりました。そう、この温かな『光』を指針とすれば――、と。

 そう、そうすれば、きっと、きっと――…………。

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