第02話 02
「うむ、まあ、六郎であれば、仕方がない」
幸村は、佐助の心中を察して、少し大袈裟なくらいに、六郎のことを説明いたします。
「であるから、佐助、そんなに気を落とすことはないぞ?」
「はい、ありがとうございます」
気づかいを示してもらい、落胆する気持ちはかなり中和されました。面映ゆく、それを隠すように、佐助は平坦に感謝を述べました。
「それに小助を含め、その他の者たちには、完全に圧倒していたではないか」
「……でも、小助さまだって、
「まあ、そうだな」
と、そこで想い出したのか、今までの憂いた
「ほんっと、幸村様そっくりでございましたわねっ!!」
幸村の恰好をして、真田家の屋敷に赴く小助を、脳裡に浮かべたのでしょう、そんな手放しな讃辞を述べておりました。
そして続けて、
「でも幸村様の女装姿も、とってもお似合いでございましたわっ!!」
昂奮ぎみに言いました。
「女装、というか……、小助の
「でもでもっ、いざっていうときは、女性のお着物、着られるのですよねっっ?!」
「さあ、どうかのう……」
「わたしは着たほうが良いと思いますっっ!!」
「そ、そうであるか……」
熱っぽい視線と共に畳みかける彼女に気圧され、幸村は曖昧に答えます。うふ、うふうふ、と気色の悪い笑いをぽろぽろとこぼしながら、彼女は何やら、妄想にふけり始めました。いや~ん、倒錯的~、と身もだえしている姿に、
(…………、そっと、しておこう。)
幸村は、賢明な判断を下しておりました。
……。
……。
「――のう、佐助よ」
そう頃合いを見計らって、幸村は佐助に声をかけました。いまだ夢想の世界に旅立っていた彼女も、主人の呼びかけに、はい、と立ち返っておりました。
「はい、何でございましょう」
うむ、一泊おいてから、幸村は別所の湯でした会話について、彼女が憶えているか、尋ねました。
「はい、幸村様。たしか……、ながくなるお話が、おありになるとか」
「うむ、そうだ」
「して、それはどのような――」
問い尋ねるその言葉を、幸村はあえてさえぎります。
「その前に一つ、了承してもらわねばならぬのだが」
「はい」
ただならぬ雰囲気に、佐助も意識を緊張させました。誠実さを込めて、主君を見つめます。
「……これからする話は、わが
「…………」
「であるから、佐助も、みだりに口外せぬよう、約束してもらいたいのだが、」
守ってもらえるか? 幸村は念押しをいたします。
応えて彼女は、軽くこうべを下げました。
「もちろんでございます」
「幸村様がそうお望みとあらば、この佐助、誓って口外いたしませぬ」
「そうか、済まぬな、佐助」
「いえ、そのようなお言葉、もったいなく」
「…………、――では」
黙して仕切りなおしてから、彼は厳粛に唇を開きます。
「この話は、じつは真田の家中では、なかば公然の秘密として噂されているものであるが、それはあくまで噂ていどのもので、その真偽を知る者は、おそらくほとんどいないであろう」
「…………」
「このそれがし自身でさえ、今日の今日まで、信じられずに……、いや、信じたくはなかったのであるが……」
「…………」
「……それがしは、この
――兄上とは、母が違うのだ――……。
絞り出すように、佐助に告げておりました。
……父である、
――山之手殿という正室いがいには、妻は一人もおりませんでした。
……この苛烈な戦国時代、いつ
にもかかわらず、小さないち
……この山之手殿という女は、
ですが当事者たちにとって、それは必ずしも
『わたくしは、お前さまがわたくし以外の妻を
そんな非常識なことを述べたとしても、それは決して、不思議なことではありませんでした。
……では夫である、
彼も当然、主君である信玄の申し出を辞退することなど、できるはずもありませんでした。明らかに
ですがここに、知られざる
……幸村は、幼少のころより、たびたび耳にしておりました。
実際それは、かなりの信憑性をもって、幸村の胸に落ちておりました。父である、昌幸の接し方が、まずありました。昌幸は、まるで
そして反対に、母である山之手殿は、兄の伸幸を寵愛し、弟の幸村には無関心を貫いておりました。そんな境遇のもとで育った幸村は、自然、のちに
幸村は、常常
おれは、何ゆえ、『
兄上は、何ゆえ、『
真田家は、代代、長子が
では、一体――?
そうして彼は、ある一つの“仮説”に、至っていたのです。
すなわち、
(この源次郎幸村は、兄上より先に、産まれたのではなかろうか――?)
と。
しかし、その仮説には、無理がありました。幸村は、兄
つまり、
――母が、別の女性であれば、矛盾はしない――、
という、そのことに。
「…………」
想像します。もしもそれが真実だったら――。少なからぬ悶着があっただろうことは、容易に想像できました。何しろ、母上にしてみれば、己が身ごもった同じときに、ほかの女性には子を産ませていたのだから。(なぜか幸村は、自分は姉上よりは年下だと思っておりました。もしも自分が姉上より先に、つまり二人が夫婦になるよりも前に産まれていたとすれば、いくら主命とはいえ、母上と
想像力の翼を拡げます。三男坊であり、家督の相続とは無縁だったゆえに、己のためのみに、のびのびと生きていたであろう、その時代の父上を。やや小柄であるとはいえ、息子から見ても精悍な顔つきの父上に、想いを寄せる女の一人、いたとしても不思議ではありませんでした。そして父上も、彼女を憎からず想っていたのではなかろうか、と。
しかし愛し合う二人は、突如として舞い込んできた縁談に、泣く泣く別れを告げたのではないのかと。きっと、母上とは、太刀打ちできない、名もない家の娘であったに違いない。父上のために、みずから身を引いたのではなかろうか。……だが、おそらく、父上も最初は、その娘を側室に迎え入れるつもりだったのであろう。しかし母上が、それを許さなかった。母上に強く出られない父上は、それを呑まざるを得なかった。そうして二人は、引き裂かれてしまったのだ、と。
いや、二人の
そうして産まれてしまったこのおれを、真田家の正統な息子としたい父上と、そんなことは認められない母上との間で、
すなわち、
『真田家の後継者は、自分が産んだ男子であること』
これが母上の要求で、対して、
『先に産まれたこの息子に、源次郎と名づけること』
これが父上の要求であったのだろう。
「……こうして、先に産まれたそれがしが次男に、後に産まれた兄上が長男に、という、いびつな家族関係ができあがった――」
「…………」
「――それが、それがしが聴いて、そして導きだした結論である」
……
「……でっ、ですがっ」
その沈黙を、佐助が破ります。
「それはあくまで噂、ってことですよね? 別に、確認されたわけでは――」
「ああ、確かに、確認はしていない」
「でしたら――」
明るい表情を作る彼女を、幸村は二たび、さえぎります。
「いや、確認はしてないが、間違いないであろう」
「っっ!! どうして――?!」
反射的に叫びました。ですが、対坐する主君は、それに答えません。ただ、意味深長な眼差しを、向けるのみでありました。その視線に捉まります。複雑な
「幸村様、どうぞ、ご遠慮なさらずに」
「えっ?」
「この佐助に、何か申したいことが、おありなのでは?」
「あっ、いや、その……」
「わたくしは、構いません。どうぞ、お話しに――」
言って、膝を進めます。距離を縮めます。その瞳に己の姿が映るほどに近づいて、彼女は言葉を待ちました。
「…………」
数秒後、ふう、と幸村は、息をつきました。体内に溜まっていた
(……どうやら、決意は堅いようだ。)
毅然とした態度に、幸村も応えました。気を悪くするやも、という憂いを断ちました。
「……では、尋くが」
そうゆっくりと、言の葉を拡げました。
「佐助よ」
「はい」
「そなた、……その、気を悪くするなよ?」
「はい」
「その……、――本当に、母親のことは、何ひとつ憶えておらぬのか?」
「――――」
思いがけないひと言に、佐助は瞬間、言葉を喪います。
(ど、どうして……?)
頭の中が、疑問符で満ちました。
(どうして今、突然そんな話を……?)
――と。
「そなたの……」
再び語り始めた幸村に、彼女は集中いたします。聴き逃してはならない、なぜだか心の奧から、そんな声が、際限なく届きます。
「そなたの、『声』――でな、」
「…………」
心臓の音が、耳許で鳴りました。うるさいくらいに、鳴りました。
「そなたの『声』で、憶い出したのだ」
「…………」
――それがしの、産みの親の、その『声』を――
(そうだ。ずっと、この胸の奧から、優しく語りかけてくれる、この『声』――。理想として、一から
『母親』だったのだ――。
おれの、この源次郎幸村の、『母親』、だったのだ――。)
幸村は、今日まで、確信をいだけませんでした。その噂を。己が、違う女から産まれたという、その噂を。
父
だから、初めからそんな女、いなかったのだと、自身に言い聞かせておりました。もしいるのなら、必ずその残滓が、あるはずだと。
……。
……。
違いました。
そうではありませんでした。
彼は、真田源次郎幸村は、
もしいるのなら、どうしておれに会いに来てくれないのかと、そう思っていたのです。
だから、会いに来てくれないのだから、だからいないのだ。そんな女性、いないのだと。
「……だが、だが違ったのだ――!!」
「幸村様っ?!」
「……ああ、そうだ、そうだったのだ……」
佐助の声が、遠くなりました。意識のヴェクトルが、反転します。己の内側へと、向けられます。自我の
『 』
まだ言葉は理解できません。それでも質感が、耳心地の好い彼女の声が、幸村を安堵させました。咽喉を鳴らします。単音で、感情を表現いたします。
その声を聴いて、彼女は、笑みを深めます。ああ、その
両腕を振って応えました。
『 』
無邪気なその様を瞳に映していた彼女は、しかしなぜか突然、雪融けのように、己の笑顔を崩しました。
見上げる幸村の、丸い頬が、熱を感じました。熱いしずくが、降り落ちました。彼女の
たちまち彼女の感情が
『 』
懐に、しまわれました。甘い乳の香りのする、彼女の胸に搔きいだかれました。現金な幼児は、泣いていたことを即座に忘れ、柔らかなふくらみに顔をうずめました。そのいただきに吸いつきました。
『 』
なにかを語られました。夢中であった幸村は、まったく聞き流してしまいます。ですが細胞が、一生涯かわることのない、心ノ臓が、彼に代わって、記憶します。
彼女の、幸村の母の、――振り絞るようにして紡がれた、“別れ”の言葉を。
「……そう、彼女は、――『母上』は、おれに、このおれに――!!」
声が詰まりました。昂った感情が、気道を
傷が、開きました。じくじくと膿む、
……母上の、よそよそしい、無表情な仮面。しかしその下でうごめく、熱くて冷たい、おれに対する憎悪。
(――オレノセイダ。)
……父上に認められようと奔走する、幼い無垢な兄上。それを羽虫のように振り払う、無関心な父上。取り残され、傷つき、立ちすくむ兄上。
(――オレノセイダ。)
……不意に合った視線、覗き見られていたことに気づいた兄上。その瞳に灯る表情(いろ)。
『――オ前ノセイダ』
(――オレノセイダ。)
『――オ前ガイルカラ』
(――オレガイルカラ。)
『――オ前ナンカ、』
(――オレナンカ、)
――消エテシマエバ良インダ――!!
「――――――――っっ!!」
無音の絶叫が木霊しました。塞いだ咽喉を切り裂きました。心臓を握りつぶされたかと錯誤するほどの痛みに、幸村は己が
不意に、目頭が熱を帯びました。眼球が圧迫されました。秘匿し、だまし続けていた本心が、とっくに許容量を超えていたその心が、この瞬間、彼の母の言葉を憶い出したこの瞬間、遂に――決壊したのです。
「『母上』っ、『母上』っ、何ゆえこのおれを置いて行かれたのですかっ?!」
泪が溢れました。結晶化した想いが、しずくとなって垂れ落ちました。
「『強く生きてほしい』と、『幸せになってほしい』と、そう願ってくださったあなたが、なにゆえこのおれを見捨てたのですかっ?! 泣いて別れを惜しむくらいならば、いっそ連れて行ってほしかったっ!! たとえそれが、父上に対する裏切りになったとしても、それでも、――それでもっっ!!」
血を吐くようにして吐露される、口に上らせてはならない、それら
「そうすれば兄上も、父上に正しく才を認めてもらえるはずだったっっ!!
母上だって、心安らかな暮らしを送れるはずだったっっ!!
なのにおれが……、このおれがいたから……。
このおれのせいで、みんな、みんなっ、みんなっっ――!!」
自身の制御ができません。狂おしく
――ですが、しかし。
「――そんなことございませんっっ!!」
鋭く、しかし温かな
抱き締められました。ひしと、抱擁されました。
(『母上』っ?!)
転瞬、彼の意識は混線します。声の正体を、誤ってしまいます。ですがただちに、正気に戻ります。
(――あ、……。)
すがるように、顔をあげました。彼女を、瞳に入れようと。そうだった、想い出しました。彼女と、佐助と、話をしているのだった――。その事実を認識して、幸村は落ち着きを取り戻しました。
別所の湯でしたように、お互いの存在を、肌で確かめ合いました。幸村も、佐助の背に両腕をまわしました。抱き合いました。実感を、確かな実感を得ていました。
潤んだまなこを彼女に向けます。瞳に映った彼女は、清らかなしずくで、輪郭を
「幸村様――」
その彼女が、泪色の声で、主君の名を呼びました。……ほかの忍びたちと同様、佐助もまた、万が一のときに備える、訓練を受けておりました。万が一、捕虜として捕まったとき――それはすなわち、訊問という名のもとに行なわれる、拷問を意味していましたが、それに備えて、彼女はありとあらゆる苦痛に耐える、そんな訓練を施されておりました。直接肉体に訴える種類のもの、あるいは、不眠、不食、不動といった、精神を折ろうとする
その彼女が、一秒も耐えられませんでした。
心臓を貫かれました。劇痛が奔りました。気絶さえも許されぬ、それは痛みでありました。
主の苦しむ姿に、佐助は
大切な人のかかえる苦痛が、自分にどのような影響を与えるのかを。
……分かってもおかしくはありませんでした。昼間、あれほど、主君の明るい感情に手を曳かれていたのに、それでも彼女は、その逆の可能性には、思慮が至りませんでした。結果、彼女はまったく無警戒の心に、致死量の一撃を受けていたのです。
想像するちからが、
そしてそれに、想像上の、幻想の痛みに、――実際に灼かれました。耐えきれない痛みを想像した佐助は、それを忠実に構築して、そしてそれを浴びました。鍛錬を重ねた強靭な精神は、その強靭さゆえに、正しく彼女を撃ちました。一切の妥協を許さずに、“耐えきれない痛み”を創り出したのです。
目の前で、閃光が
でも。
それでも。
彼女は残されたちからすべてを振り絞って――、
――幸村を支えました。
わたしと同量の痛みをかかえているだろう主君に、手を差し伸べました。
優先させました。
それはいわゆる、“二人は一体”的な発想からは、遠く隔たっておりました。主君を回復させることによって、間接的に自分を癒す、そのような考えではありませんでした。ただただ懸命でした。ひたすら無私でした。……そのような生命体の本能に
そう、そうすれば、きっと、きっと――…………。
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