第02話 01

 その晩。

 幸村と佐助は共に別所の湯の近くにある、安楽寺で、宿をとっておりました。この信州最古の禅寺ぜんでらは、時をことおよそ数百年、鎌倉の時代、樵谷しようこく惟仙いせんによって開山されたとされている、まこと由緒ゆいしよただしき名刹めいさつでありました。以後、北条ほうじょう氏の庇護のもと、栄えはしましたが、幸村の時代にはその栄華も影をひそめておりました。国宝として誉れ高い、八角三重塔が、かろうじて往年の面影を残しているのみでありました。

 その安楽寺の本堂の一角で、二人、腰を下ろしておりました。数年前から、この寺の再興が行なわれていましたが、真田家もその一端を担い、寄進を欠かさず、いんように支えていたのです。そのような縁もあってか、幸村は別所の湯に浸かった際には、この禅寺を宿として利用するのが、常でありました。別所の草屋敷に泊まっても良いのですが、なにぶん屋敷の者たちが恐縮してしまうので、幸村としてはこちらの寺のほうが心安く感じておりました。馴染みの寺の小姓こしょうに、簡単な夜食と夜具やぐを用意してもらい、燭花しょっかの揺らめきのみをあかりとして、坐しておりました。

「……のう、佐助よ」

「はい、何でございましょう」

「うむ、その……、は、ちゃんと着いたであろうか。あやつも、このあたりは初めてであろう?」

「ええ。でも、恐らく、大丈夫だと思います」

「そうか」

「はい。……幸村様、そういう能力でしたら、人間よりも、動物のほうが、ずっと優秀なのですよ?」

 えっへん、と薄い胸を張りながら、佐助は物知ものしがおで話します。その知識は完全に師匠の受け売りでありましたが、佐助はそれをさも自慢げに述べました。自分だけが知っている、という優越感に、鼻を高くしてしまいます。

 しかし幸村にしてみれば、佐助の姿は、一生懸命びをしている、童女わらべのようにしか見えません。微笑ましい姿に、自然と笑みがこぼれます。

 むぅ、と佐助は不満そうな表情へと変じます。主君のただよわせている雰囲気を、敏感に嗅ぎ取っておりました。それはそう、お師匠様がわたしを小馬鹿にしているときと、大層よく似ておりました。

「……幸村様?」

「ん、何だ、佐助?」

「いえ、どうして、笑っておられるのかな、と思いまして」

「ああ、済まんな、笑っておったか」

「はい、それはもう、はっきりと」

 ぷくりと頬を膨らませます。彼女自身としては、真剣な態度のつもりでしたが、しかし残念ながら、まったくの逆効果でありました。その愛らしい様に、幸村はいよいよ笑顔を濃くさせて、からかい口調で言いました。

「いや、なに。なら、迷子になってしまうのは、佐助のほうだな、と思ってな」

「もうっ、そんなこと、あるはずないではありませんかっ。わたしだって、帰り道くらい、ちゃんと、分かりますっ」

「そうか、なら心配しなくても良かったな」

「そうですよっ。もうっ、幸村様ったら、この佐助をそんな目で見ておられたのですかっ?」

 もはやまん丸と呼んでも過言ではないくらいのふくれっつらを作って、彼女は抗議の声を挙げました。

「いや、済まぬ。冗談だ、佐助」

「冗談、ですか。ならまあ、別に構いませんけど。……でもどうしてお師匠様といい、幸村様といい、こう冗談のお好きな人が多いのかしら?」

 その後半のを、幸村は耳聡く捉えます。

「ほう、白雲斎殿も、そうであるのか」

 その問いに、わが意を得たりとばかりに、佐助は勢いよく答えます。

「そうなんですよっっ!! 幸村様、聴いてくださいよ、お師匠様ったら、ほんっと、いっつもいっつもわたしのこと、からかってばっかりでっ、それからそれからっ、」

 ……よほど腹に据えかねていたのでしょうか、一たび語り始めた佐助は、とどまるところを知りません。しゃべっているうちに記憶が刺戟されるのか、次次と過去にながら、いいようにいじられた出来事をあげつらっておりました。

 聴き上手な幸村は、昂奮する彼女に、いちいちは理解を示します。確かに佐助の意見も、もっともである、と肯定いたします。……ですが内心では、彼は笑いをこらえるのに懸命でありました。彼女の話は、彼女自身の視点から見ても、からかわれても仕方がないと言わざるを得ない、そのようなものでありました。こういうのを、天然、というのであろうな、そう納得しておりました。

「とにかくっ、お師匠様ったら、人の小さな失敗に、いちいちいちいちとって、ほんっと、性格がよろしくないのですよっ」

「分かった分かった、そなたの気持ちはよぉく分かったから、もうそのへんにしておいたらどうだ?」

 まだ吐き出し足りない彼女をなだめ、ようやく落ち着かせました。……しかし、佐助にここまで言わせる白雲斎殿とは、一体どのような方であろうな、幸村はまだ見ぬ彼女の師匠に、想いを馳せました。親近感をいだきました。案外、気さくな御仁ごじんであるやもしれぬ、印象を修正しました。彼としては、別所の湯での、佐助から聴いた最初の印象が、強く残っていたのです。

技倆ぎりょう、日ノひのもとに並ぶ者なし”――、

 身内びいきが入っていたとしても、彼女が語る白雲斎の印象は、すさまじいものといえました。絶人ぜつじん――、そう呼ばれるにふさわしい、そのような人物でありました。

 ですが正直、そのときは話半分に聴いておりました。彼女の言うことは、まるで物語の中の出来事のようでした。幸村自身、真田の忍びの者たちと、深く交流しておりましたので、彼らのわざじゅつについては、余人よりは精通しているつもりでした。その幸村にして、いくらなんでも荒唐無稽にすぎるのではないかと思わせる、それらは逸話でありました。もし彼女の話が本当であったなら、戸澤白雲斎とは、天狗か妖怪のたぐいとしか、思えませんでした。

 ――そう、彼女の、猿飛佐助の実力ちからの一端を、垣間見かいまみるまでは。

「…………、ところで佐助よ」

 まだ愚痴の半分も言っていなかった佐助は、しかし主君の改まった声音に、はっとただちに軽口を慎み、居住まいを正します。はい、とはがねのごとき言で答えます。

「そなたに、伺っておきたいのだが」

「はい、何でございましょう」

 その真剣な双眸そうぼうに、一つ大きくうなずいてから、

「――昼間の、草屋敷でのことなのだが」

 幸村は、率直な感想を求めました。

「……正直、そなたの目から見て、どうであったか? ……その、例えば、そなた、小助こすけと、いちごうやいばまじえたであろう? あの者の印象は、どうであるか?」

「…………」

 主君の単刀直入な問いかけに、佐助はしばらく、沈黙します。そのときのことを、想起いたします。それはそう、別所の温泉いでゆから上がった後、二人で集落の外れにある、草屋敷へと赴いたときのことでありました――。


 その屋敷は、山のふもとをひらいて造られた、天然の要塞のごとき威風をそなえた、広大な邸宅でありました。修練場を兼ねているのか、山道さんどうへと続く庭には、木や石でできた、人工の障害物らしきものが点在しています。また、屋敷の向こう側から、かすかに火薬の匂いが、運ばれてきています。おそらく、忍び道具もここで作っているのだわ、佐助はあたりをつけました。きっとここが、真田忍者の本拠地なのだわ、と。

 馬から降りて、佐助と並んでここまで歩いてきた幸村は、そのまま歩調を緩めずに、開け放たれている門扉もんぴをくぐります。まるで我が家に帰ったかのごとき気軽さで、敷地内へと歩を進めておりました。続いた佐助は、五感をまったく解放して、邸内の様子を探索いたします。

(……屋敷の中に、五……、いいえ、六人ね。水の音……、ならば、その者たちがいるのは、炊事場かしら。声も女のものであるし……。その裏手からは、……この匂い、火薬のそれね。……それと、外に、十数人、若干、呼吸が荒くなっているわ、何か、運動を……、というよりは、訓練でしょうね。……でも、この、足音……。)

 鍛え抜かれた耳鼻じびにより、佐助は実際に目視することなく、この屋敷の全容を、おおよそつかんでおりました。鼓膜を打つ、ここの者たちの走法は、まぎれもなく忍びの者のそれでした。機械のように精密に地を踏む独特の小走りは、上半身を安定させるためのものでした。この特殊な走法を身につけることにより、忍びの者は、走ったままでも、あたかも立ち止まっているかのように、行動を起こすことができるのです。腕を振ることなく、鳥の翼のように後ろへと伸ばして走っている姿を、彼女は脳裡に想い描いておりました。

(……でも、)

 と彼女は、先ほどからの疑問を俎上そじょうに載せました。

(こんなに易易と侵入されて、一体ここの警備は、どうなっているのかしら。だいたい、外と内とを隔てているものだって、背丈ほどもないまがき――や竹を編んでつくった垣根の意。)と、気休め程度にもならない、みずぼりのような小川。あげくの果てに、物見の者もいない。これでは、入ってきてくださいと言っているようなものだわ。いっくら平和だからって、忍び屋敷が、ここまで警固けいごで良いものなのかしら……。)

 ――と。

 そこまで黙考した佐助は、ようやくそれに気づきます。それ――すなわち、

『……幸村様、どうして止まっておられるのですか?』

 門をくぐった幸村が、その場で佇立しているということに。正面の玄関まで続く飛び石の一つに乗ったまま、主君は立ち止まっていたのです。

 しかし、問われた幸村は、それに答えることをせずに、

『……そなたが今、何を考えていたか、ててみせようか』

 挑戦的な瞳で、見つめてきておりました。

 えっ、彼女は、狼狽します。見ず知らずの者たちを値踏みしていた佐助は、心中を見透かしていると言われて、どきりと心臓を跳ねさせてしまいます。

 しかし、そこまで幸村は予測済みでありました。

『なに、案ずることはない。そなたのような忍びの者が、まず防備に考えを回すのは、当然なことであろう。……して、佐助よ。ここの警備の薄さを、不審に思うたか?』

 その洞察の深さに、佐助は正直に答えざるを得ませんでした。素直に、はい、と首肯します。

 それを瞳に入れ、うむうむと満足そうに幸村は頷きます。そうでなくてはな、と頷きます。それでこそ、これからの話に、はりあいが出るというものだ。

『――では』

 勿体もったいつけて語りました。そのほうが、彼女の驚きが層倍のものとなるであろうと、幸村は仰仰しく語ります。

『佐助が、何を考えていたか、ててみせよう』

『…………』

『……『どうしてが立ち止まったままでいるのか』。そう思ったのではあるまいか?』

 寸分に正鵠を射られ、佐助は驚きをにします。しかしすぐに、推論を働かせます。幸村様、そう問われることを予期していたということは、つまりは、その問いに対する『答』があるということ……、それは、それはつまり……。

 ――次の瞬間、はっと彼女は至ります。鋭く、めつけるかのような視線で、周囲を巡らします。

『…………』

 大小さまざまな樹木が植えられている庭は、一瞥しただけでは、特に不審は感じられません。ですが、じっと目をらすと、極細ごくさいの糸が、陽の光を反射しないよう、沈んだ柿色に染められたそれが、縦横無尽に張り巡らされているのが判りました。それに連鎖するように、不自然に盛り上がった地面が、目に留まりました。一見無意味むいみと思われる場所に、ぽつりぽつりと、つちが施されています。罠――?! さっと警鐘が、全身の細胞を塗り替えました。意識の鯉口こいぐちを切りました。刹那で行動が起こせるよう、頭の中にある安全装置を外しました。

(……あの盛り上がっている箇所ところに何か仕掛けが……、いいえ、逆かもしれない。いかにも怪しい箇所を警戒させておいて、その周囲の安全そうなところにこそ、何か罠を張っているかもしれないわ。……どちらにしろ、うかつに足を踏み入れるのは、得策ではないわね……。)

 冷静に分析します。そして、幸村に言われるまで油断していた己を恥じました。いくら真田家の領内、味方の土地とはいえ、幸村様を護るはずの、このわたしが気を弛めてしまうとは、なんたる失態。以後一瞬たりとも、油断しないようにしなければ――、そう気を引き締め直します。

 いっぽう、緊張をにみなぎらせる彼女に、幸村はうっすらと笑みをきました。

『そう警戒せずとも良い』

 もみほぐすように、彼女に告げます。

『へたにそちらに近づかねば、問題はない。この飛び石の周辺を外れさえしなければ、安全だということらしいぞ?』

 まあもっとも、と続けます。

『もっとも、そちらに足を踏み入れたら、いくらとはいえ、安全は保障できないと釘を刺されているので、実際に何が起こるのかは、も知らぬのだがな』

 にっこりと笑顔を作りました。

(――よし、完璧だ!!)

 心中で快哉を叫びます。……幸村は、佐助を驚かせるつもりでした。心境は、まさに手品の種明かしをする、その瞬間と同じです。純粋な驚きと感動を、幸村は期待いたします。玩具おもちゃを見せられた童女わらべのように、瞳をいっぱいに開いて、すごいですね~、と返答する彼女の姿を幻視します。

 ですがしかし。

『…………』

 彼女は険しい表情のまま、沈黙を保っておりました。ぶるり、馬がふるえます。小さくます。野生の本能が、反応しておりました。彼女の、佐助の殺気に、幸村の馬は怯えてしまいます。

『ど、どうした?』

 幸村もそれを感じます。うなじが、ちりちりと灼かれます。火のついた炮烙ほうろく火矢びや(戦国時代の手投げ弾)のごとく炸裂さくれつ寸前すんぜんな彼女に、彼も危険を感じ取ります。

 その彼女が、無表情な視線を合わせてきます。そしてそのまま、口を開きます。

『――ではわたしが、確認いたしましょうか?』

 紡ぐ彼女は、まぎれもなく忍びの表情それでありました。静かに、しかし熱く燃える、彼女は一本の灯心でありました。

『あ、いや、しかし……』

 迫力に圧されました。火を噴く彼女に、幸村は対応に窮してしまいます。

(……い、いきなり、どうしたのであろう……。)

 至極もっともな疑問をいだきます。

 ですがそれは、

『……それとも、』

 ただちに、


『――“あなた”が、教えてくださるのですか?』


 佐助みずから、解を示しておりました。

『っっ!!』

 言葉の意味を、幸村は瞬時に理解します。あわてて周囲を見回します。……前方には、だれもおりません。そのひと言を発する直前、己と視線を切って前を向いた彼女の、しかしその先にはだれもおりません。左右を見ます。ですがそのどちらにも、人の隠れている気配は、ありません。

(ならば、どこに……?)

 緊張で身を強張らせながら、今一度、隣の彼女から、ヒントを得ようと顔を向けました。

 ――が、その瞬間。


『へえ、いつから気づいていたの?』


 人をったような音声おんじょうが、天上より降り注ぎました。

『っっ!!』

 弾かれたように振り向きます。つかに手をかけ、臨戦態勢をとりました。背後を取られた今、その行動は遅きに失するものでしたが、武門の血が、それでも彼に行動を起こさせておりました。背を斬らるるは武門の恥――、教え込まれた一念に、衝き動かされておりました。(もしも背を斬られてたおれれば、敵前にて背を向け逃亡したと見做みなされるおそれがあるために。)

 ……ですがそれは、後ほど冷静になった幸村が、こじつけた理由でありました。仮にそれが含まれていたとしても、それは二次的な、副次的な理由でありました。この瞬間、真に彼を動かしていたものは、それではありませんでした。

 そう、つまり、

(――佐助をっ!!)

 彼女を護らなくては、という、想いでありました。(その証拠に、彼は自覚きづかず、彼女を庇う恰好をっておりました。彼女と声との間に身を割り込ませ、己の躰を盾としておりました。)

何奴なにやつっっ!!』

 大音声だいおんじょう誰何すいかします。通りの良い幸村の声は、機先を制するのに適しておりました。そしてその呶声どせいは、相手の鼻先に叩きつけるのと同時に、草の者たちを呼ぶ役割もまた、果たしておりました。

(これであとは、草の者たちが駈けつけてくるまで、ちこたえていられればっ!!)

 そこで初めて、彼は目を転じました。その声の正体を、見極めようと仰ぎました――。


「……しかしどうして気づけなかったのであろうな」

 幸村は嘆息と共に洩らしました。そう、そのときくぐった、屋敷の門の屋根にいた者こそが、小助――穴山あなやま小助こすけでありました。幸村はまさしく、彼女に会いに、屋敷に訪れたのでありました。

変装へんそうじゅつ』に特化していた小助は、真田さなだ源次郎げんじろう幸村ゆきむらの影武者として、幼少より仕えておりました。(……というのは表向きの理由で、真実はむしろ逆でした。つまり、まず“役割”ありきで、それによって、彼女の伸ばすべき才の方向が、決められたのでありました。)その特殊な事情ゆえに、小助は、草の者――忍びの身でありながら、真田の家中かちゅうで育てられ、幸村の乳兄弟ちきょうだいという、誉れを受けておりました。加えて、ひと通りの忍びの訓練も施され、今では大抵の相手には後れを取らないと、彼女はそう自負心をいだいておりました。

 ――その彼女を、佐助は完全に圧倒していたのです。

「…………」

 二人の対決を、幸村も憶い出しておりました。回路が切り替わってからの佐助を、戦慄と共に、脳裡に浮かべておりました。彼にとって、意識を加速させた状態で、対象を見失うなど、初めてでありました。幸村ですらそうでしたので、ほかの者たちが佐助を追うことなど、不可能でありました。……。ほかの者たちは、その瞳に、彼女の姿を映しておりました。

 彼女の――『』を。

 ……人間ひととは、あそこまで速く動けるものなのか――、いくたび繰り返しても、衝撃が薄れることはありません。記憶を刺戟するたび、彼は、まだ自分が『幻術』にかけられていたと言われたほうが納得できると、そう考えていることに気づいておりました。それくらい、彼女の身体能力は、常軌を逸していたのです。

 ですが、その彼女もまた、憂鬱な表情を浮かべておりました。

「……ええ、まさか、」

 苦苦しくつぶやきました。


 ……対する小助を含めて、駈けつけてきた草の者たちは、だれ一人として、佐助の動きについてこれません。ただ幸村のみが、かろうじて目で追える程度です。そんな、見当違いのほうを向いている小助に声を張り上げる主君を、

(幸村様、わたしが見えているんだ……。)

 佐助は軽い驚きをもって見ておりました。

(……それに比べて、この人たちは……。)

 彼らの腑甲斐なさに、呆れを通り越して、憤るまでになりました。そして当然ながら、その矛先を向けられたのは、

(この程度で、わたしに挑むなんて――!!)

 穴山あなやま小助こすけでありました。

 ほんあしで、大地を蹴りました。遅れて耳に、先ほどいた場所に注意するよう、彼女の主の声が届きます。遅い――!! 常人以上の反射神経をもって、幸村の声に従う小助を、視界の端で捉えます。そのときすでに、佐助は地を這うほどの低姿勢で、反対側へと駈けぬけていたのです。

(――とった!!)

 制圧圏に入りました。間合いに踏み込んでも、いまだ相手は、あさっての方向を向いています。無防備な背に、標準を定めました。腰をひねって、反発力を蓄えます。感謝なさい、余裕の表われか、そんなことを思いました。

(手加減してあげるんだから――!!)

 それと共に、限界まで引き絞ったを、解放します。独楽こまのように回転しながら、小助の背に、足刀そくとうを、撃ち込んで――――。


「……で、あの六郎ろくろうさまとは、一体どのようなお方なのですか?」

 口惜くやしさの滲んだ声音で、佐助は主君に問うておりました。彼女としては、手心を加えたとしても、それでも渾身の、神速の、一撃のはずでした。

 その蹴りを、止められたのです。

 いつの間にか出現したその者に、精確に、足首を摑まれておりました。回し蹴りの、その体勢のまま、佐助は空中に縫いとめられておりました。

『凄い一撃ね。足が地面にめり込んでしまったわ』

 莞爾かんじと和らいだ表情を浮かべる彼女を、佐助は宙に浮いたまま、見下ろしました。固定されている足首を見ます。もう片方の手で、手首を摑んで補強していたとはいえ、佐助を一本で支えている彼女の細い腕は、まるで悪い冗談のようでした。なそれのどこに、今の旋脚せんきゃくを受け止めるがあるのか、佐助は実際に止められているこの瞬間でさえも、信じがたく思っておりました。

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