第02話 01
その晩。
幸村と佐助は共に別所の湯の近くにある、安楽寺で、宿をとっておりました。この信州最古の
その安楽寺の本堂の一角で、二人、腰を下ろしておりました。数年前から、この寺の再興が行なわれていましたが、真田家もその一端を担い、寄進を欠かさず、
「……のう、佐助よ」
「はい、何でございましょう」
「うむ、その……、はるは、ちゃんと着いたであろうか。あやつも、このあたりは初めてであろう?」
「ええ。でも、恐らく、大丈夫だと思います」
「そうか」
「はい。……幸村様、そういう能力でしたら、人間よりも、動物のほうが、ずっと優秀なのですよ?」
えっへん、と薄い胸を張りながら、佐助は
しかし幸村にしてみれば、佐助の姿は、一生懸命
むぅ、と佐助は不満そうな表情へと変じます。主君のただよわせている雰囲気を、敏感に嗅ぎ取っておりました。それはそう、お師匠様がわたしを小馬鹿にしているときと、大層よく似ておりました。
「……幸村様?」
「ん、何だ、佐助?」
「いえ、どうして、笑っておられるのかな、と思いまして」
「ああ、済まんな、笑っておったか」
「はい、それはもう、はっきりと」
ぷくりと頬を膨らませます。彼女自身としては、真剣な態度のつもりでしたが、しかし残念ながら、まったくの逆効果でありました。その愛らしい様に、幸村はいよいよ笑顔を濃くさせて、からかい口調で言いました。
「いや、なに。なら、迷子になってしまうのは、佐助のほうだな、と思ってな」
「もうっ、そんなこと、あるはずないではありませんかっ。わたしだって、帰り道くらい、ちゃんと、分かりますっ」
「そうか、なら心配しなくても良かったな」
「そうですよっ。もうっ、幸村様ったら、この佐助をそんな目で見ておられたのですかっ?」
もはやまん丸と呼んでも過言ではないくらいの
「いや、済まぬ。冗談だ、佐助」
「冗談、ですか。ならまあ、別に構いませんけど。……でもどうしてお師匠様といい、幸村様といい、こう冗談のお好きな人が多いのかしら?」
その後半のせりふを、幸村は耳聡く捉えます。
「ほう、白雲斎殿も、そうであるのか」
その問いに、わが意を得たりとばかりに、佐助は勢いよく答えます。
「そうなんですよっっ!! 幸村様、聴いてくださいよ、お師匠様ったら、ほんっと、いっつもいっつもわたしのこと、からかってばっかりでっ、それからそれからっ、」
……よほど腹に据えかねていたのでしょうか、一たび語り始めた佐助は、とどまるところを知りません。しゃべっているうちに記憶が刺戟されるのか、次次と過去にさかのぼりながら、いいようにいじられた出来事を
聴き上手な幸村は、昂奮する彼女に、いちいちうなずいては理解を示します。確かに佐助の意見も、もっともである、と肯定いたします。……ですが内心では、彼は笑いをこらえるのに懸命でありました。彼女の話は、彼女自身の視点から見ても、からかわれても仕方がないと言わざるを得ない、そのようなものでありました。こういうのを、天然、というのであろうな、そう納得しておりました。
「とにかくっ、お師匠様ったら、人の小さな失敗に、いちいちいちいちあげ足とって、ほんっと、性格がよろしくないのですよっ」
「分かった分かった、そなたの気持ちはよぉく分かったから、もうそのへんにしておいたらどうだ?」
まだ吐き出し足りない彼女をなだめ、ようやく落ち着かせました。……しかし、佐助にここまで言わせる白雲斎殿とは、一体どのような方であろうな、幸村はまだ見ぬ彼女の師匠に、想いを馳せました。親近感をいだきました。案外、気さくな
“
身内びいきが入っていたとしても、彼女が語る白雲斎の印象は、すさまじいものといえました。
ですが正直、そのときは話半分に聴いておりました。彼女の言うことは、まるで物語の中の出来事のようでした。幸村自身、真田の忍びの者たちと、深く交流しておりましたので、彼らの
――そう、彼女の、猿飛佐助の
「…………、ところで佐助よ」
まだ愚痴の半分も言っていなかった佐助は、しかし主君の改まった声音に、はっとただちに軽口を慎み、居住まいを正します。はい、と
「そなたに、伺っておきたいのだが」
「はい、何でございましょう」
その真剣な
「――昼間の、草屋敷でのことなのだが」
幸村は、率直な感想を求めました。
「……正直、そなたの目から見て、どうであったか? ……その、例えば、そなた、
「…………」
主君の単刀直入な問いかけに、佐助はしばらく、沈黙します。そのときのことを、想起いたします。それはそう、別所の
その屋敷は、山のふもとを
馬から降りて、佐助と並んでここまで歩いてきた幸村は、そのまま歩調を緩めずに、開け放たれている
(……屋敷の中に、五……、いいえ、六人ね。水の音……、ならば、その者たちがいるのは、炊事場かしら。声も女のものであるし……。その裏手からは、……この匂い、火薬のそれね。……それと、外に、十数人、若干、呼吸が荒くなっているわ、何か、運動を……、というよりは、訓練でしょうね。……でも、この、足音……。)
鍛え抜かれた
(……でも、)
と彼女は、先ほどからの疑問を
(こんなに易易と侵入されて、一体ここの警備は、どうなっているのかしら。だいたい、外と内とを隔てているものだって、背丈ほどもないまがき(
――と。
そこまで黙考した佐助は、ようやくそれに気づきます。それ――すなわち、
『……幸村様、どうして止まっておられるのですか?』
門をくぐった幸村が、その場で佇立しているということに。正面の玄関まで続く飛び石の一つに乗ったまま、主君は立ち止まっていたのです。
しかし、問われた幸村は、それに答えることをせずに、
『……そなたが今、何を考えていたか、
挑戦的な瞳で、見つめてきておりました。
えっ、彼女は、狼狽します。見ず知らずの者たちを値踏みしていた佐助は、心中を見透かしていると言われて、どきりと心臓を跳ねさせてしまいます。
しかし、そこまで幸村は予測済みでありました。
『なに、案ずることはない。そなたのような忍びの者が、まず防備に考えを回すのは、当然なことであろう。……して、佐助よ。ここの警備の薄さを、不審に思うたか?』
その洞察の深さに、佐助は正直に答えざるを得ませんでした。素直に、はい、と首肯します。
それを瞳に入れ、うむうむと満足そうに幸村は頷きます。そうでなくてはな、と頷きます。それでこそ、これからの話に、はりあいが出るというものだ。
『――では』
『佐助が、何を考えていたか、
『…………』
『……『どうしてそれがしが立ち止まったままでいるのか』。そう思ったのではあるまいか?』
寸分たがわずに正鵠を射られ、佐助は驚きをあらわにします。しかしすぐに、推論を働かせます。幸村様、そう問われることを予期していたということは、つまりは、その問いに対する『答』があるということ……、それは、それはつまり……。
――次の瞬間、はっと彼女は至ります。鋭く、
『…………』
大小さまざまな樹木が植えられている庭は、一瞥しただけでは、特に不審は感じられません。ですが、じっと目を
(……あの盛り上がっている
冷静に分析します。そして、幸村に言われるまで油断していた己を恥じました。いくら真田家の領内、味方の土地とはいえ、幸村様を護るはずの、このわたしが気を弛めてしまうとは、なんたる失態。以後一瞬たりとも、油断しないようにしなければ――、そう気を引き締め直します。
いっぽう、緊張をおもてにみなぎらせる彼女に、幸村はうっすらと笑みを
『そう警戒せずとも良い』
もみほぐすように、彼女に告げます。
『へたにそちらに近づかねば、問題はない。この飛び石の周辺を外れさえしなければ、安全だということらしいぞ?』
まあもっとも、と続けます。
『もっとも、そちらに足を踏み入れたら、いくらそれがしとはいえ、安全は保障できないと釘を刺されているので、実際に何が起こるのかは、それがしも知らぬのだがな』
にっこりと笑顔を作りました。
(――よし、完璧だ!!)
心中で快哉を叫びます。……幸村は、佐助を驚かせるつもりでした。心境は、まさに手品の種明かしをする、その瞬間と同じです。純粋な驚きと感動を、幸村は期待いたします。
ですがしかし。
『…………』
彼女は険しい表情のまま、沈黙を保っておりました。ぶるり、馬が
『ど、どうした?』
幸村もそれを感じます。うなじが、ちりちりと灼かれます。火のついた
その彼女が、無表情な視線を合わせてきます。そしてそのまま、口を開きます。
『――ではわたしが、確認いたしましょうか?』
紡ぐ彼女は、まぎれもなく忍びの
『あ、いや、しかし……』
迫力に圧されました。火を噴く彼女に、幸村は対応に窮してしまいます。
(……い、いきなり、どうしたのであろう……。)
至極もっともな疑問をいだきます。
ですがそれは、
『……それとも、』
ただちに、
『――“あなた”が、教えてくださるのですか?』
佐助みずから、解を示しておりました。
『っっ!!』
言葉の意味を、幸村は瞬時に理解します。あわてて周囲を見回します。……前方には、だれもおりません。そのひと言を発する直前、己と視線を切って前を向いた彼女の、しかしその先にはだれもおりません。左右を見ます。ですがそのどちらにも、人の隠れている気配は、ありません。
(ならば、どこに……?)
緊張で身を強張らせながら、今一度、隣の彼女から、ヒントを得ようと顔を向けました。
――が、その瞬間。
『へえ、いつから気づいていたの?』
人を
『っっ!!』
弾かれたように振り向きます。
……ですがそれは、後ほど冷静になった幸村が、こじつけた理由でありました。仮にそれが含まれていたとしても、それは二次的な、副次的な理由でありました。この瞬間、真に彼を動かしていたものは、それではありませんでした。
そう、つまり、
(――佐助をっ!!)
彼女を護らなくては、という、想いでありました。(その証拠に、彼は
『
(これであとは、草の者たちが駈けつけてくるまで、
そこで初めて、彼は目を転じました。その声の正体を、見極めようと仰ぎました――。
「……しかしどうして気づけなかったのであろうな」
幸村は嘆息と共に洩らしました。そう、そのときくぐった、屋敷の門の屋根にいた者こそが、小助――
『
――その彼女を、佐助は完全に圧倒していたのです。
「…………」
二人の対決を、幸村も憶い出しておりました。回路が切り替わってからの佐助を、戦慄と共に、脳裡に浮かべておりました。彼にとって、意識を加速させた状態で、対象を見失うなど、初めてでありました。幸村ですらそうでしたので、ほかの者たちが佐助を追うことなど、不可能でありました。……いいえ、そもそも、佐助を見失ったのは、幸村のみでありました。ほかの者たちは、その瞳に、彼女の姿を映しておりました。
彼女の――『残像』を。
……
ですが、その彼女もまた、憂鬱な表情を浮かべておりました。
「……ええ、まさか、」
苦苦しくつぶやきました。
「まさかわたしも、止められるなんて、思ってもみませんでした」
……対する小助を含めて、駈けつけてきた草の者たちは、だれ一人として、佐助の動きについてこれません。ただ幸村のみが、かろうじて目で追える程度です。そんな、見当違いのほうを向いている小助に声を張り上げる主君を、
(幸村様、わたしが見えているんだ……。)
佐助は軽い驚きをもって見ておりました。
(……それに比べて、この人たちは……。)
彼らの腑甲斐なさに、呆れを通り越して、憤るまでになりました。そして当然ながら、その矛先を向けられたのは、
(この程度で、わたしに挑むなんて――!!)
(――とった!!)
制圧圏に入りました。間合いに踏み込んでも、いまだ相手は、あさっての方向を向いています。無防備な背に、標準を定めました。腰をひねって、反発力を蓄えます。感謝なさい、余裕の表われか、そんなことを思いました。
(手加減してあげるんだから――!!)
それと共に、限界まで引き絞ったちからを、解放します。
「……で、あの
その蹴りを、止められたのです。
いつの間にか出現したその者に、精確に、足首を摑まれておりました。回し蹴りの、その体勢のまま、佐助は空中に縫いとめられておりました。
『凄い一撃ね。足が地面にめり込んでしまったわ』
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