第01話 10
……。
……。
「のう、佐助?」
一体どれくらいそうしていたのでしょう、自分の名を呼ぶ、耳心地の好い声に、佐助はゆっくりと瞳を開きました。何かしら、一体……。意識してまじろぎます。
「――――、あ……」
それだけを絞り出しました。想い出しました。どうやら、知らぬ
休息をとるときにも、意識の一部分はとっさの反応ができるよう、残しておくのが常でしたが、今日に限ってはまったく怠っておりました。というより、そもそも佐助は、寝てしまうつもりもありませんでしたし、またいつ意識が途切れたかも判りませんでした。いつのまにか、彼女は不敬にも主君を枕代わりにして、
「ゆっ、幸村様」
持てるちからを総動員させて、何とか上を向くことに成功しました。主君を仰ぎます。もう網膜に灼きついた
ですが。
それは佐助自身も同様でした。彼女もすっかり長湯して、躰が思うさまに動かせなくなっておりました。骨を抜かれたかのように、主君を支えにもたれかかるのみでありました。
さらに加え、幸村が慈しみを注いで彼女を撫でていたことが、覚醒の妨害をしておりました。掌が頭上を往来するたび、正常な思考力は
そして幸村もまた、似た心境でありました。
まるで
……彼としては、いつまでもそうしていたく思っておりました。ですが彼女の変調に、それをとどめざるを得なくなりました。呼吸が、荒くなっておりました。まるで溜め息をつくかのように、一息一息が大きくなっておりました。汗が粒となり、額から滴ります。湯に浸かりすぎた彼女は、新雪のごとき柔肌を、今や全身
それでも佐助は睡ったままでありました。うなされているかのように、わずか
一瞬、彼女は遠慮をしているのではないかと、思いました。おれの邪魔をしてはいけないと、瞳を閉じたまま我慢しているのではあるまいか、と。……しかし、
その
それで仕方なしに、佐助に声をかけたのです。
「ゆっ、幸村様」
彼女はあわてて返事をします。ですが、色がついているかと思うほどの息を吐く彼女は、二、三それを繰り返した後、しおれたように幸村の胸にしなだれてしまいます。もうすでに、限界のようでした。これは
佐助のあられもない姿を完璧に記憶してから、幸村は彼女を抱きあげました。湯船の
「少し、長湯してしまったな」
「はい……」
幸村を椅子代わりとして深く腰を落ち着けた佐助は、今度こそ完全に彼の左胸にしまわれておりました。先ほどまでの、並んだまま上半身をひねる、どこか不自然な体勢とは異なり、横向きとはいえ、ほとんど幸村の正面に坐することとなった佐助は、今度こそ真の意味で、主君との一体化を果たしておりました。触れ合う肌は、今までの比ではありません。すぐ目の前に、主君の顔がありました。背中に回された腕が、焼きごてのように、皮膚を焦がします。肩を摑まれ、抱き寄せられます。首をかしげて覗きこむ幸村の吐息に、頬が撫でられます。そんな、
と。
「……その、あの、な、佐助……、」
「?」
「あー、その、であるな」
「はい」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………。あのー、幸村様?」
けれどいくら待っても、それが紡がれることはありません。ただばつが悪そうに、ちらちらとこちらを窺うのみでありました。ですので無礼かとも思いましたが、
「いかがなされましたか?」
佐助は続きを促すことにいたします。
「あっ、いや、その……」
「?」
「その、であるな……」
なぜか主は狼狽してしまわれます。頬が紅潮しておりました。
それにひるんだのか、それとも背を押されたのか、彼はようやく意を決したようでした。一つ大きく深呼吸をしてから、確かめるように言の葉を拡げました。
「どう……、で、あったか?」
「どう、とは?」
「あ、いや、その、」
「…………」
「そ、それがしとしては、精いっぱい、その……、優しくした、つもりであるのだが……」
照れるように、幸村は言いました。彼自身、じつは良く判っておりませんでした。『主従の契り』を行なう、というものが、具体的には何を意味するのか、判然としておりませんでした。……けれども、彼女に尋くことは、
『優しく、してくださいませ――』
そのひと言のみを頼りとして、彼は行動したのです。
抱擁して、愛撫しました。
……もちろんそれは、彼女の師、白雲斎の期待したものとは異なるものでした。もっと直接的な、肉体的な繫がりを、師は期待しておりました。その交わりを経た後に、二人は深いところで結ばれ、主従の絆は、何をもってしても断ちがたい、強靭なものとなるはずでした。
……ですが。
無垢な幸村が導いた、あまりにも初初しい結論は、
「――――」
――彼女に、届いておりました。
「…………」
ゆっくりと、両掌を胸にあてました。溢れ出す感情を、逃さぬように。胸底からしみ出てくる、この温かな想いを、肉体という器からこぼさぬよう、佐助は自然と、己を抱き締める恰好をとりました。体内が、温もりで満ちました。それに耳を澄ませようと、瞳を閉じました。……穏やかな音が、聴こえます。実際に充溢しているわけではありませんでしたが、彼女は確かに、自分の皮膚の内側で奏でられる、安らいだ音を耳にしておりました。
(――あ、……)
つん、と鼻の奧が、刺戟を受けました。弾かれたように、目を開けました。柔らかな眼差しを贈ってくれているはずの、幸村様の
……いいえ、違いました。そうではなく、瞳が、雫のヴェールに被われていたのです。泪がこぼれていました。眦から溢れて、頬を薄く刷いておりました。
え――、驚きます。泣いている、その事実を自覚して、佐助は驚愕いたします。……彼女にとって、それは初めての経験でありました。今日までの人生の中で、記憶している限り、佐助は、ただ痛みによってのみ、泪を流しておりました。外的の、肉体的刺戟によってのみ、それはもたらされておりました。彼女にとって、泣くという行為は、もっぱらそのようなものでありました。躰が痛いから泣いたり、目がしみるから泣いたり、そんな自動的なものでありました。そこに感情が介入する余地はなく、したがって彼女が今、自分がどうして泣いているのかという疑問をいだいたとしても、少しも不思議ではありませんでした。(とはいっても、修練の日日の中で、彼女が自分の技倆不足に打ちひしがれたことが、なかったわけではありません。ですがそのたびに、彼女の師が、絶妙に、しかし本人に気づかれぬよう、きわめてさりげなく
「…………」
それでも、初めての経験だったとしても、彼女が混乱に呑まれることはありませんでした。その事実に驚きはしたものの、彼女の理性は、自身の反応に納得しておりました。これは自然なこと――、裡なる声は、そうささやいておりました。
佐助は、初めてそれを知りました。それ、すなわち、
嬉しくても、泪がでるものだと。
嬉しいのに、こんなにも、こんなにも心が温かくなっているのに――、その想いに反して、まるで大怪我をしたかのようにとめどなく溢れる泪に、ようやく結論に至ります。つまり、わたしは、
嬉しいから、泣いているのだと――。
「…………」
……その姿は、いったい何に喩えられるだろうか、幸村は己に問いかけます。懐で清らかな泪を流す彼女に、ふさわしい表現を模索します。ですが、そんな
彼女が、ゆっくりと瞳に
…………、だが……。
『優しく、してくださいませ――』
わざわざ念押しするということは、つまり裏を返せば、優しくされない可能性がある、ということで、それは一体、どのようなことをいうのであろうか……。気がつくとまた、最初にいだいた疑問に立ち返っておりました。そして結局、彼女の裁定を待つしか、それを知る方法がないという、至極当然な結論に帰結しておりました。
「…………」
じっと見つめます。挙動ひとつ見逃さぬように。彼女の言動に顕われる、どんな些細な違和感も見落とさぬよう、幸村は全神経を傾けて、彼女を注視いたします。
真剣な姿がおかしかったのでしょうか、佐助は綿毛のようにふんわりと微笑みました。真面目な視線が、柔らかくほぐされました。
「幸村様――」
いいえ、そうではありません。彼女は最初から、笑って答えようと、決めていたのです。彼女の師、白雲斎の予言した、そのとおりに。
『良いか、佐助。ことが終わったら、必ずそう尋かれるはずであるからな。優しく答えてやるのが、女の側の努めであるぞ』
それを聴いてからしばらくの間、彼女はひっそりと隠れながら、そのせりふを推敲しておりました。美しく磨き上げられた、玉珠のごとき
ですが今、それら考え抜かれた言葉たちは、霧散しておりました。決して取り繕うとしたわけではありませんでしたが、この瞬間、彼女が心底よりいだいた真情の前では、それら麗しき珠の言葉も、まったく説得力に欠けておりました。まったき本心の前では、技巧は何の役にも立ちませんでした。
「……佐助は、」
無意識に、唇が動きました。本能が告げました。伝わるだろうと。幸村様ならきっと、受け止めてくださるだろうと。……親密なときを経た今、本来の形とは異なっていたものの、二人の関係は、確実に一次元、深いものとなっていたのです。
そう、だから。
――佐助は、優しくされてしまいました――……
「――――、そ」
そうであるか、かろうじてそれだけを絞り出します。……彼女のひと言は、幸村の脳天を、すさまじい勢いで破壊しておりました。思考回路が、粉砕されました。あまりにも幸せそうに紡いだ佐助に、幸村の視界は真っ白に塗り潰されておりました。はっと我に返るまで、ぽかんと口を開けたまま、彫像のように固まっておりました。
「そ、それでは、その……」
続けます。今一度、肯定の言葉を促します。それはもしかしたら、わずかくどいと
そして彼女は、応えてくれました。
「はい、幸村様。佐助はすでに充分でございます」
本当に満足そうに、彼女は笑みを深くして、答えてくれました。
「そうか、それは、その、何よりである」
「はい。幸村様、かたじけなく存じます」
「いや、なに。こちらこそ、その……、至らずに、申しわけない」
「とんでもないことにございます。この佐助、幸村様より、しかと、賜ってにございます」
そうであるか……、安堵した声が、思わずこぼれました。
「…………」
もう一度、彼女の美しい黒髪に触れました。指で
数分の間、そうしました。二人とも、止めない限り、いつまででもそうしていそうな雰囲気です。ずっとずっと、時間の許す限り、親愛の情を交わし合う、そんな勢いでありました。ですが当然、それが許されるはずもありません、それを自覚してそれでもなお、幸村はいかにも名残惜しそうに、佐助から指を外します。それは彼女も同じだったのでしょうか、五指の離れる最後の瞬間、弾力
「……そろそろ上がるとするか」
「はい、幸村様」
己の紡いだ声色は、空空しいものでありました。建て前にすらなっていない、そんな声音でありました。対する佐助もそうでした。主君の求めに、忠実に答えてはいましたが、甘えたような、どこか残念そうな響きを、声に孕ませておりました。二人、お互いのそれを耳に入れ、笑い合います。微苦笑を浮かべ、そしてこつんと頭を寄せ合います。
「…………、しかし、佐助よ」
「はい」
「……そなた、少し、湯冷めしてしまったのではあるまいか?」
「そういう幸村様こそ」
「あ、ああ。そうかも、しれぬ」
くすりと笑いをこぼします。核心に触れず、じらすように、
「なら、もう少し、湯に入られてはいかがですか?」
悪戯っぽく微笑んで、主君にそう返します。
「…………」
つれないせりふをはく彼女に、幸村は恨みがましい視線で応えます。こ、こやつ……、小悪魔のように微笑んで、肩をすくめている佐助を見やります。こちらの言わんとしていることを、完全に理解してその上で、わざとはぐらかしているのは明白です。
「……そなたは、どうなのだ? 湯には浸からぬのか?」
「わたしは別に、どちらでも」
佐助は澄まして、白白しく述べました。あくまで自分は、さして執着していないとの態度を、貫くつもりのようでした。今一度、じとりと
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
……『主従』って、何なんだろうな、そんな虚無的な気分になりました。やれやれと思います。動物的な本能が、直感します。おれは恐らく、臣下のはずのこの娘に、これからは
「分かったよ、佐助。言えば良いのであろう、言えば」
「はい、幸村様の口から、しかと聴きとうございまする」
「…………」
彼女はまったく悪びれず、ぬけぬけと言い放ちます。立場をわきまえぬ物言いに、幸村は瞬間、言葉を喪います。しかし、それでも彼は、気を取り直します。佐助ともっとこうしていたいという、純粋な願望の前では、そんなものは瑣末な問題でありました。
ですので。
「……それがしは、そなたと、その、もう少し、共に湯に入っていたいと思うておるのだが……、佐助、もしのぼせておらぬのならば、一緒に、その……、どうで、あるか?」
ゆっくりと、本心を、告白いたしました。そなたともっと触れ合っていたい、そう彼女に、伝えておりました。
「――――」
佐助は一瞬、驚愕の表情を浮かべました。彼女としては、恥ずかしがって狼狽える、そんな主君の姿を予想しておりました。その様を見て愉しみたいという、およそ臣下にあるまじき考えをいだいておりました。……ですが、
言葉にならない想いが、佐助の内で溢れます。表層に付着していた、体裁や体面は、跡形もなく消え去ります。理性も、融解いたします。
そう、すなわち。
「……佐助も、あなた様と同じでございます」
幸村の視線を柔らかく受け止めて、彼女はそっとささやきました。幸村の肩に、頭を預けます。ちからを抜きました。己のすべてを、相手にゆだねました。そのまま静かに、瞳を閉ざします。ゆっくりと
「わたしも、幸村様と、ずっと、ずっとこうしていたいと、」
そう、思っておりまする――、耳をそばだてているだろう主に、佐助はそう、純心を、伝えました――。
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