第01話 09

 …………な、なにを、行なうと……? そう問い返します。そうするのが精いっぱいでありました。幸村にしてみれば終わったはずの話を蒸し返されて、彼の思考回路は停止しておりました。

「はいっ、そうでございます」

 主君の動揺に気づかずに、佐助は健康的に答えます。……そうでした、彼女は師匠に言われていたのです。その『主従の契り』を経たのちに、初めて二人の絆は、何ものにもまさって堅きものとなる、そう教えられていたのです。

 そして彼女は、その『作法』をも、教わっておりました。

「……ゆ、幸村様ぁ」

 甘えた声を出しました。師匠に隠れてこっそりと練習しただけあって、緊張は少しだけで済みました。それでも声が、上擦ってしまいます。緊張と、そして期待とで、心臓が爆発してしまいそうでした。

 熟れた頬と、潤んだ瞳で見つめました。その濡れた瞳には、突然のことに狼狽する、主君の姿が映されておりました。……まさしく白雲斎の杞憂は的中しておりました。無垢で奧手な幸村が、佐助を巧く導けるだろうか、それが心に懸かっておりました。男と女のことなので、なるようになるはずではありましたが、それでも悪い予感が消えることはありませんでした。

 果たしてその予感は、現実のものとなっておりました。

 そうとは知らず、佐助は繰り返し練習を重ねた『作法』を、忠実に行ない続けます。

「優しく、してくださいませ……」

 そっとささやいてから、幸村に寄り添います。静かに体重を預けます。瞳を閉じました。ほう、と息をつきました。上手にできたかしら……、とろけそうな意識の中、そんなことを想います。イメージどおりにできたとは思うのだけれど、と。

(……ああ、でも、でもこれで……。)

『そのあとは、ただ相手にゆだねるだけで良い。そうすれば、男のほうできちんと導いてくれるはずだからな』

 ああ、それは、それは一体、どのようなことなのでしょう……、胸をときめかせながら、彼女はその瞬間を待ちました。お師匠様が言うには、それはまるで、天にも昇る心地なのだとか……。具体的なことは何ひとつ知らされていない佐助は、ただそれが、二人の絆を強める行為であることと、大変に心地の好い行為であることとしか、知らされておりませんでした。

 そのいっぽう。

(……こ、これは一体、どういう状況だ……?)

 こちらに構わず話を進める佐助に、幸村はすっかりと途方に暮れておりました。

「…………」

 瞑目している佐助を見ます。ふっくらとした頬を美しく染めている彼女は、ひたすら待ちに徹しております。こちらが何か反応を返さない限り、ずっとそのままでいそうな雰囲気でありました。その無防備な姿に、思わず咽喉が鳴りました。ごきゅりと嚥下する音が、ことさら卑猥に響きました。

 心臓が、飛び跳ねます。自身の発した音のはずなのに、それを聞いて、彼は耳まで真っ赤になってしまいます。羞恥のあまり、卒倒しそうになりました。そんな品の欠いた真似をしてしまうとは、信じられませんでした。それも、よりにもよって、彼女の前で。

 だが、しかし……。

 彼女を見つめていると、咽喉が渇きました。かつえました。それは、単なる飢渇感きかつかんではありませんでした。もっと根源に近い、魂からの欲求でありました。しかし、知識はなくとも理性は残されていた幸村は、本能から絶え間なく送られてくる衝動を、必死で圧し殺します。そんな不埒な振る舞いをしてはならぬという、彼女を想う一念で、それを抑えておりました。

(……ああ、だが、きっと、この白いうなじに唇を重ね、舌を這わせられたら、この狂おしいほどの衝動は、満たされるのであろうな、それは、きっと、きっと…………。)

 そう幸村が、本能に屈しそうになっていた――同じとき。

(……はあ、はあ、どう、したのかしら、わたし……?)

 佐助もまた、未知の経験に、戸惑っておりました。

 彼女も、幸村の発したそれに、耳朶じだを打たれておりました。びくりと筋肉が痙攣します。“捕食者”――、そんな単語が、脳裡をかすめます。それを発火点として、不意に情景が描かれます。それはちょうど、佐助が狩りを行なっていたときのことでした。気づかれぬよう風下から接近した佐助は、回避不可能な距離まで獲物に近づくことに成功します。棒手裏剣を構えます。投擲体勢に及んでもなお、相手はに草をんでいます。――が、突如、はっと小鹿が首を挙げました。振り向きました。ようやくこちらに気がつきました。瞳が、視線が交錯しました。

 そのときのことを、佐助は想起いたします。あの、瞳の、表情いろ……。自分が完全に捕食される側だと理解した、あの瞳。諦めと、緊張と、そしてわずかな可能性にすがる、そんな期待とが入り混じった、そんな表情いろ。……ああ、でも、でも本当は、こんな感じだったのかしら――。彼女は、大きく息をつきました。

 恐怖は、脳内物質の分泌によって、別の感情へと変化しておりました。それを薄めるため、忘れるため、本能は、彼女に誤作動を起こさせておりました。

 佐助は今や、昂奮のの最深部にまで、呑み込まれておりました。そこに至るまでの熱狂にてられて、彼女は完全に麻痺しておりました。心臓が張り裂けそうな緊迫したときは峠をすぎ、今は逆に、弛緩した状態になっています。ふわふわと、中空をただよっているような気分です。涅槃ねはんとは、このような境地のことを言うのかしら……、あのとき――小鹿と対峙した、そのときのことを、再び想い出しました。死に至る数瞬が、こんな穏やかなものだったのなら、わたし、ためらわなかったのにな……、一瞬の逡巡を見抜かれて、仕留めそこなったことを、後悔いたします。

「…………」

 もう、何も考えられません。頭にも、躰にも、全然が入りません。でられた野草やそうみたいに、くったりと幸村にもたれます。

『あとはただ、ゆだねるだけ――』

 お師匠様の言が、二たび泡のように浮かびます。微笑がこぼれました。それはどこか自嘲めいた、そんな笑みでありました。……大丈夫ですよ、お師匠様、そんな、わざわざ、念押ししていただかなくとも。だって、わたし、もう、もう……。

 その先は、もう形態すらありませんでした。意識が融解して、流れ出てしまったかのようでした。無窮に広がる温かな海と、一体化を果たしておりました。まるでそれは、母親の胎内のようでした。自我が芽生えたのち、ここまでの安堵感を感じたのは、初めてでありました。それはもう、絶対的と、そう呼んでも良いほどです。ねむりにいざなわれます。その誘惑はどこまでも優しく、でも同時に、有無を言わせぬものでした。もとより抵抗する気もない佐助は、簡単に屈します。ああ、このまま、けて消えてしまえたら……。

 その、意識が四散する、まさにその瞬間――、

 彼女の躰に、腕が回されました。

 まるで、そう――、彼女を溶解から護らんとするがごとく。

「……ふあ?」

 声が、洩れました。その刺戟を感じて、消え入りそうだった意識は、かろうじて消滅を免れます。ああ、そうだったわ……、夢うつつのまま、その上に自分の手を重ねます。幸村様に、していただいている、その最中さいちゅうだったわ。

 ですが、瞼が重くて、どうしても開けられません。なので佐助は、手探りで幸村を求めます。彼の手に触れると、甲の上から手を絡めます。……ああ、あったかい……、彼から送られる体熱を、貪ります。

 幸村も、握り締める佐助の掌から、同じ熱を受け取っておりました。骨が入っているのか疑うほどに柔らかい彼女の手は、触れているだけで心地好く感じました。

 躰をずらして、秘めやかにを入れました。抗うことなく、彼女の躰は、幸村の懐に収まります。心臓の上に、彼女の頭が降りました。聴かれぬだろうか、危惧します。この早鐘のごとき高鳴りを、彼女に知られてしまわぬだろうか、そう幸村は面映ゆく感じます。

「……佐助」

 荒くなる呼吸を抑えて、綿毛を吹くかにささやきます。耳もとに唇を寄せて、ほとんど無音で語ります。小さな彼女の耳たぶが、くすぐったそうにぴくりと震えます。

 ――それが彼の、理性の限界でした。彼女の反応を目にした次の瞬間、幸村は唇を押しあてておりました。

「っっ!!」

 小さく、息を呑む音がします。ですが幸村は、それを介さず、むしろさらに大胆に行動いたします。柔らかな耳朶を唇で挟みます。甘く嚙んで、食みました。そっと舌で撫ぜました。

「んっ、んんっ、――んあっ?!」

 嚙み殺していた吐息が、段段と抑えきれなくなりました。切なげに洩れるそれに、くらくらと目眩を起こします。

(いやっ、こんな声あげて――!!)

 ……ですが、彼女の意思に反して、艶めいた喘ぎはとどまることがありませんでした。

 不意に、頬に熱いものが当てられました。幸村が、空けた左手を宛がっておりました。ゆっくりと、まるで別の生き物のように、彼女の上を動きます。佐助も、知らずに頸をもたげます。人体急所であるそこを、むしろ見せつけるかのようにさらします。そう、彼に、幸村様に、触れてもらえるようにと。

 その事実に気づいた瞬間、佐助の脳裡で、光景がまたたきました。それは、そう、お師匠様ととが、睦み合っている情景でした。進んで肌をさらして、快楽を貪婪どんらんに貪る、師の姿を想い描きました。……わたしも、あんな表情かお、しているのかしら……。陶酔に浸るお師匠様の顔を、自分の顔に置き換えました。

(――やっ、やだっ!!)

 途端、佐助は羞恥に震えました。

(こんな表情かお、幸村様に見せているの――?!)

 身もだえいたします。……ですが彼女は、幸村の行為を拒むことはしませんでした。できませんでした。……いいえ、そうではありませんでした。できないのではなく、する気がありませんでした。無意識下では、判っておりました。恥じらうさまも、ただの体裁であると。逆にその羞恥心をかてとしてまで、彼女は未知の頂へと上りつめようとしていたのです。

「あ……」

 幸村の指が、彼女の口に触れました。そのふちを、確かめるようになぞられます。艶やかな唇は、今はさらに瑞瑞しく潤っておりました。

「佐助……」

 二たび彼女の名をささやいて後、幸村は唇の上に重ねていた指を、

「――んっ?!」

 ゆっくりと口内へと挿し入れました。

 二本の指で、彼女の舌を侵しました。優しく、ときには強く、なぞりました。奧深くへと、挿入しました。されるがままの佐助は、異物感にかのような素振りをみせました。

「――――」

 背徳感が、駈け抜けます。なすもなく、無理やり口をこじ開けられている佐助に、くらい欲望が噴出します。あぎとを塞ぐこともできず、息苦しさに喘ぐさまに、切なげに瞳を潤ませるさまに、ぞっと震えます。炎が灯されます。獣欲が、加虐心が、煽られました。うう、とになりながら訴える彼女に、心の奧で潜んでいたそれが、牙を鳴らします。……そうか、この娘は、本当におれのすることには、逆らえぬ……、いや、――のだな。主命にそむかず、ということであるか。

 そう――であるのなら。

「っっ?!」

 欲望に呑み込まれた幸村は、己の衝動そのままに、行動を起こしておりました。本能の命ずるままに、渇望を癒そうとしておりました。理性というを外して、そこへと、彼女の白い首筋へと、牙を立てておりました。

 彼女の細胞が、強張りました。幸村はそれを、舌で感じ取ります。貪るように唇を動かし、舌を這わせました。そのたびに彼女は、誠実に反応を返しました。肌が、熱を帯びました。声が洩れました。甘く官能的なそれを洩らさぬよう、彼女は懸命になっておりましたが、唇を引き結ぶことを禁じられている今、その努力もむなしく、蜜のような声は、口のから滴り続けておりました。

 

 ……。

 ……。

 ふう、心地好く息をつきました。満足感に、充足感に、満たされました。やはり、思ったとおりでであったな、そう思いました。灼けるような咽喉の渇きは、癒えておりました。欲求の赴くままに彼女を堪能しつくした今、幸村の魂は、まるで熟しきった果実のようになっています。今にも形を喪うかのように、どろどろに融かされておりました。酩酊いたします。彼女の肌から匂い立つ、甘い香気にてられました。攪拌かくはんされ崩れて混ざり合った世界の中、彼は心地の好い疲労感と虚無感とに、身をまかせておりました。

 と、それを待っていたかのように、彼の左手が、と吸われました。はっと我に返ります。左手の存在を、すっかりと忘れておりました。目を転じると、いつの間にか、彼女の小さな口内に、三本の指がねじ込まれていました。それらで舌を挟み、思うさまにもてあそんでいたようです。満足に呼吸をすることも許されぬ佐助は、肩を荒げて懸命に酸素を摂り入れておりました。無尽蔵に涌く唾液で咽喉を湿らすこともできず、それら雫は本来の目的を果たすことなく、顎を伝って湯に円を描いておりました。歯を立てないように大きく口を開いて、幸村の指を頬張っておりました。眦に光を溜め、頬を紅葉のように染めておりました。

「すっ、済まぬ」

 あわてて指を引き抜きます。指が離れる瞬間、んっ、と小さく声が洩れました。ようやく解放された彼女は、くったりと幸村にもたれます。自重を支える気力もないようでありました。

 大丈夫であろうか、そう心配しながらも、幸村は、左の手に注意を奪われてしまいます。陽光を反射する、己の指から意識を逸らせずにおりました。彼女の、味がするのであろうか、そんなことを想います。あの指を、おれも同じように、口に含んでみたい――、そんな衝動に駈られてしまいます。

 しかし、やましい考えは、

「ゆ、幸村様ぁ……」

 精魂せいこん尽き果てた佐助の声で雲散しておりました。そ、そうであった、と幸村は、

「佐助、大丈夫であるか?」

 彼女を気づかいました。仕様もないことを考えている場合ではないと、未練を断ち切るために、手を湯に浸しました。

「済まんな、苦しかったであろう?」

「……はい。あごが、疲れてしまいましたわ」

「そ、そうか。それは、その……」

 狼狽する幸村に、佐助はふふ、と笑みを浮かべます。冗談でございます、茶目っけをまぶして言いました。

「へっちゃら……とまではいきませんが、ええ、大丈夫です」

「そうか、なら良かった」

「……それで、幸村様?」

「ん?」

「今のが、『そう』――、なのでございますか?」

『そう』とは? 尋き返そうとして、しかしすぐに思い至ります。『主従の契り』のことを言っているのだと、至ります。

「あ、いや、その……」

 言葉を濁しました。じつを言えば、彼はすっかりとそのことを忘失しておりました。気がつけば、ただひたすらに彼女を求めておりました。涌きおこる衝動に、流されるままに。

 そしてそれは、もっぱら我欲を満たすためだけの行動であり、彼女に対する配慮をまったく欠いたものでありました。

『優しく、してくださいませ……』

 先刻の佐助の言葉が脳内で再生されました。そうされることを彼女は願い、そして期待していたはずでした。それなのに、このおれときたら……、幸村は、自己嫌悪に沈みました。

 ですが、

(――いや、まだだ。)

 思い直します。己を奮起し、鼓舞いたします。

「…………」

 もう一度、彼女に回した右腕に、を込めました。優しく、丁寧に、そうしました。

 それを受けて、彼女は顔をあげました。幸村の肩に頭を預けたまま、眠たげな視線で仰ぎました。まだ何かされるのですか……、焦点のぼやけた瞳が、訴えておりました。わたし、眠いのですけど、そんな非難めいた表情いろさえ、隠しきれずに浮かんでおりました。

 思わず笑みがこぼれます。……ですがそれは、純粋なものではありましたが、決して単純なものではありませんでした。ただ単に、可愛らしい彼女を見たからではなく、もっと深い、大切なところから、もたらされたものでありました。無防備な姿をさらす彼女に、そして、覚醒の度が低下しているとはいえ、自分の心情をありのままに伝える彼女に、彼の心は熱くなっておりました。心を許してくれている――、その事実に、幸村は打ち震えておりました。

「佐助」

 声で愛撫いたします。開け放たれた心の、その一番奧の、柔らかなところを、そっと刺戟いたします。

 んっ、と佐助は反応します。主君の呼びかけに、彼女は残力を総動員させて、瞳に意思を通わせます。

 ――が。

「このままで良いぞ」

 その声と共に、佐助の行動は封じられました。彼の大きな左掌に、頭を押さえられておりました。そのまま再び、広い胸にしまわれました。

 頬が、彼の素肌に触れました。しなやかに盛り上がった胸筋が、彼女を抱きとめておりました。ぼっと、全身がしゅに染まります。意識を取り戻した彼女は、現状を認識して、身を強張らせます。

 ……でも。

 血液の流れる音がしました。

 心音の刻まれる音がしました。

 自然、耳を当てる恰好になった佐助は、生き物の発するその音に、いつしか緊張をほぐされておりました。それはまるで、子守唄のようでした。彼女は、安らぎに満たされておりました。途切れることなく奏でられる律動に、彼女の意識は再び融かされておりました。

 もぞもぞと体勢を微調整します。しっくりと収まるよう、腰を動かして重心をずらします。それはまるで、敷きつめた草をかき分けて、寝床を整える小動物のようでした。それを彼女は、幸村相手に行なっておりました。夢心地の佐助は、本能の命じられるまま、最も快適な場所を求めて、彼の胸の上を頬ずり回っておりました。

「――――」

 その様子を、幸村は息を殺して見護ります。肩を小さく丸めて、子猫のように顔をすり寄せる佐助に、結びなおしたはずの理性は、再び危機的状況を迎えておりました。血液が、沸騰します。熔岩のようなそれを注ぎ込まれて、脳髄が泡立ちます。ぐつぐつと煮崩れます。細胞が壊死する音が、頭蓋で響きます。

 しかし、こたびはそれまででありました。踏みとどまりました。一線を侵すことはありませんでした。欲望には呑まれませんでした。

 その闇を滅する、まばゆい光が灯っておりました。

 ……幸村は、先ほどの佐助の、ともすれば無遠慮とも択られかねない態度を想い出しました。――ですがそれこそが、幸村が本当に求めていたものだったのです。打ち解け合い、睦み合う、そんな関係をこそ、彼は望んでいたのです。

 そして遂に、彼は願いの果てにそれを手に入れたのです。なればどうして、その彼女に邪な我欲を向けなければならないのでしょう。……そうです、幸村はこのときすでに、佐助が主君を何よりも優先し始めたのと同様に、彼もまた、彼女を己の中心に据えて、物事を決定し始めていたのです。

「――――」

 あ、声を洩らしました。仰ぎました。しかし、どう反応したら良いか判らなかった彼女は、ただ反射的に仰向いただけでありました。

「ああ、済まん、逆に起こしてしまったな」

「あ、いえ、その……」

 苦笑いを浮かべる主君に、佐助はあわてて弁明をいたします。よりにもよってあるじの胸を借りてしてしまうとは――、そう彼女は恥じ入ります。

 それを見て、幸村は笑みを深くします。慌てふためく彼女が愛らしくて、たまらなくなりました。ほんにからかい甲斐のある奴だのう、悪戯心がむくむくと膨れました。しかし彼は、それを押しとめます。せっかく定位置も決まってくつろいでいたのに、邪魔をしてしまったな、と今したのと同じように、そっと彼女の頭をなでました。ゆっくりするといい、そう再び、彼女を己の懐へと導きました。

 彼女はそれに逆らわず、今一度あたたかな胸に顔をうずめました。やっと定まった安らげる場所に、再び舞い戻りました。もう一度、耳を傾けます。とくとくという心音を、己の内部に取り込みます。

 くすぐったそうな声をあげました。実際にそうされているわけではありませんでしたが、心地好いリズムと、形を確かめるかのように、ゆっくりと頭を行き来する幸村の掌に、佐助は身もだえしておりました。

 ああ――、薄れゆく意識の中で、それでも懸命になって主君を感じ取ろうと励みます。優しさを贈られて、温もりにくるまれて、彼女の感情は純化していきました。余分なものは濾し取られ、その奧の心が露呈されました。その美しい結晶は、しかし同時に、何ものにも侵されない、堅固なものでありました。ああ、これがきっと、『そう』――なのだわ、佐助は唐突に理解します。そう、『これ』さえ裡に秘めていられれば、わたし、きっと、きっと――――……。

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