第01話 08
はい、と答える彼女は、心ここにあらず、といったふうでありました。ただ反応を返すのみでありました。うっとりとした瞳は、微妙に焦点が定まっておりません。そのさまに、幸村は笑みをこぼします。心がくすぐられたように感じます。こみ上げてくる愛おしさに、彼もまた大胆になっておりました。
「佐助……」
ささやくように呼びかけて、――彼女の手をとりました。
「っっ!!」
左手が、びくりと痙攣を起こします。はっと、我に返ります。自身の起こした脊髄反射で、現実に立ち戻ります。視線を落とします。彼女に喚起を促した、その箇所へと目を向けます。
――その光景に、佐助は息を呑みました。
弾かれたように顔を挙げました。ですがしかし、仰いだ先には、決然とした双眸が待ち構えておりました。黒黒とした瞳は、優しさをたたえてはいましたが、そこには何やら決意めいたものもまた、含まれておりました。あ――、声を発します。視線に囚われて、身動きできなくなりました。頬が紅潮したのが、はっきりと
(なに、どうして、どうしてわたし、幸村様と手を重ねているの――?)
声にならない叫びを挙げました。しかし、どろりと融解した意識が、それに答えることはありませんでした。さらに追い打ちをかけるかのように、彼女の手に、ちからが加えられました。
佐助は彫像のように固まります。幸村の視線を受け流すこともできず、かといって受け止めることもできず、ただただじっとするだけでした。左手に、まったく意識が奪われておりました。それ以外のことは、完全に眼中にありませんでした。
余分な肉のそげ落ちた、幸村の手の感触は、自分のそれとは全然
佐助は茫然と見護っておりました。幸村が自分の手を両手でつつみこむさまを、ぼんやりとしたまなこで見つめておりました。彼女は完全にされるがままでありました。それでも、主君の行動の意図は摑めなかったものの、彼女にはそれに抗しようなどという気持ちは、微塵もありませんでした。佐助は、幸村に繊細に扱われました。
「のう、佐助?」
その手が、一層のちから強さをもって、握り締めてきました。今までの
『目は口ほどにものを言う』
不意に、師匠の言葉がよみがえりました。なれば、幸村様のそれは、何を告げているの――? 考えを巡らせます。けれども、実践経験が絶対的に不足している彼女に、それを測ることなど、できようがありません。彼女にはただ、幸村の有する器が、おそろしく大きいということしか、判断できませんでした。
その彼の声が、湯殿に響きました。ですが佐助は数秒、自分が何を問われているのか、解らずにいました。幸村の述べた言葉が、頭の中で形作られるまで、時を要していました。
――しかし。
「……ゆ、幸村様……」
声が、震えていました。もう一度、お聴きしても、よろしいですか、問い返す自身の声が、打ち震えておりました。
ききようによっては無礼とも
「そなたは、この
誠実さをにじませて、二たび幸村は繰り返しました。
「……それがしは、まだまだ未熟で、このようなことを申すのは、思い上がりもはなはだしいということは、充分に自覚しておる。それを承知の上で、それでもお願い申し上げたい」
「…………」
「佐助よ、」
「…………」
「それがしの、」
――それがしのものに、なってはくれぬだろうか――
そこまで述べてから、幸村は唇を結びました。彼女の手をつつんだまま、真摯な眼差しで見つめました。
彼女は、潤んだ瞳で見返しています。じっと、まるで何かを測るかのように、大きな瞳を向けています。
数秒、そうしたままでした。が、ふっと彼女は瞼を
手と手を取り合う恰好になって再び、彼女は瞳を開きました。目のはしが、かすかに充血しております。光が、うっすらと溜まっておりました。長い
幸村は、佐助の
彼女を喪うこと、
それのみであったのです。
「幸村様」
永遠に続くかと思われた静寂なひとときは、そっと発せられた彼女のひと言で、静かに破れておりました。無音の世界は、彼女を震源として、瓦解しました。崩れるときも、それは音を立てずに、つつましく散っていきました。
「幸村様」
二たびの彼女の声が、こたびは雑多な音に入り交じり、幸村の鼓膜を打ちました。抑揚の良く利いた、平坦な声ではありましたが、彼はその底で泡立つ
と。
「――いけませんわ、幸村様」
一転、彼女は拗ねたような、甘えたような、そんな
「そのせりふは、わたしが言うべきものでありますのに」
「あ、そ、そうであるか?」
「はい、そうでございます」
はきと彼女は答えます。何やら大層、自信にあふれておりました。今まで付かず離れずでいた距離が、一気に縮まっておりました。……それもそのはずでした。なぜなら佐助は、『答』を知ってしまったからです。返答を聞くまでの、あの重苦しい、胸が潰れそうな沈黙を、くぐり抜けずに済んだのです。
彼女は今や、不安という名の重圧から、まったく解放されておりました。万が一の可能性がなくなった今、佐助は永年あたため続けた、その瞬間へとひた走るだけでした。
「――幸村様」
想いの丈を、すべてひと言に託します。主君の、記憶に刻みつけるために。忘れ去られてしまわぬよう、万感の想いを籠めました。とびきりの
「この佐助、今日このときのために、厳しい鍛錬にも耐えてまいりました。たゆむことなく己の研鑽に励んでまいりました。
あなた様に、真田の幸村様にお仕えするべく、そのようにしてまいりました」
うやうやしくこうべを垂れました。臣下の礼をとるべく、そういたしました。ですがしかし、繫いだ手は離しません。肌に伝わる、温もりと呼ぶにはあまりにも熱い、幸村の体温に、強められました。ぎゅっと握り締めると、ただちに応えていただきました。その肯定的な反応に、さらに励まされました。まるでそれに手を
「いまだ心身ともに至らぬ身なれど、それでもこの佐助、必ずや、あなた様のお役に立ってみせましょう。あなた様の期待に応えてみせましょう。
なれば幸村様、お願いでございます。
――この佐助を、あなた様の従者の一人として、末席に加えていただきますよう、なにとぞ、お願い申し上げます」
そう口上を述べ終わってから、佐助は静かに、瞑目をいたしました。
……。
……。
「……おもてをあげよ」
ささやくようなひと言が発せられるまで、どれほどのときが経過したのでしょうか。対峙する佐助が構築した、厳粛な世界を壊さぬよう、それはなめらかに挿し入れられた、
「はい」
応えて佐助も、ゆっくりと伏した顔を、幸村へとさらします。瞳を開きます。幸村を仰ぎます。しかし、そのあまりの眩しさに、思わず彼女は目を細めてしまいます。……それはきっと、ただ明るさに順応できなかっただけでは、ないことでしょう。瞳孔の大きさを自在に調節できる彼女にとって、目がくらむなどということは、あり得ないのです。
そう、それはまったく、感情的な理由からでありました。
震えました。細胞が、歓呼の叫びを挙げました。仰ぐ主君の、その圧倒的な器量に、彼女は打ち震えていたのです。
(ああ、まさにこのお方こそ、わたしのすべてをもって、仕うるに値する方。わたしは、わたしは何と、幸せ者でありましょう。このようなお方に巡り合え、仕うることができるとは、わたしは何と、果報者でありましょう。
そう、そうであれば、わたしがなすべきこととは、ただ一つのみ。
すなわち、すなわち――。)
幸村様のために生き、幸村様のために死のう、佐助は思いきわめておりました。
再び、こうべを挙げました。決然とした表情をおもてにみなぎらせて、主君と対峙しました。
そこには、慈しむ幸村の顔が、変わらずにありました。柔らかく目を細めて、
……“真田の若様”である
すなわち、――ただ彼が“真田の若様”であるから腰を折る、という、それだけでありました。
それはもちろん当然で、どこにも疑念を
彼自身の個性が、まったく無視されていたのです。
父
兄
幸村は、必要としていたのです。ただ“真田の若様”であるから共にいてくれる者ではなく、源次郎幸村だから共にいてくれる、そのような――『友人』を。(なればこそ幸村は、先ほど佐助が、場を改めてくれたことを、内心で感謝していたのです。焦燥のあまり、先走って、己の側から懇願してしまったことを、彼は後悔しておりました。もしも彼女が、はいと即答していたら、いつか遠くない将来、幸村は必ず不安を抱えることとなったでしょう。佐助は、本当に自分の意思で了承したのであろうか、と。おれが真田のお家の者だから、だからいやと言えなかったのではあるまいかと、鬼胎をいだいてしまったことでしょう。)
「佐助よ」
「はい」
「そなたのその言葉、それがしはまことに嬉しく思うぞ」
「はっ」
「それがしの傍に、いてくれるのだな」
「はい、この佐助、これより片時も離れはいたしません」
「……そう――であるか……」
まるで止めていた息を吐き出すかのように、言葉がこぼれました。彼女の誓約を耳にいれて、押しとどめていた感情が、言葉となって隙間からこぼれ落ちていました。……ついに、ついにこのおれにも、内心を吐露できる、そのような腹心の者ができたのか、との想いに、胸がいっぱいになっておりました。
「…………」
ゆっくりと、繋いでいた手をほどきます。居住まいを正します。
そして。
「――なれば佐助よ、そなたに是非とも、知っておいてもらわねばならぬことがある」
一泊おいた後、彼は再び表情を引き締め、真面目な口調で切り出しました。
はい、と幸村の真剣な雰囲気に貫かれて、彼女もぴんと背筋を改めます。
「はい、幸村様、何でございましょう」
「うむ。それがな、少少ながい話になってしまうのだ」
「はあ」
「それでな、佐助。……唐突で悪いとは思うのだが、今宵、少しばかり、それがしのために、時間を空けてはもらえぬだろうか」
言って、ちらと佐助の反応を窺いました。さすがに少し、焦りすぎであろうか、自覚しながらも、それでも彼は、淡い期待を佐助にたくしました。
ですが、彼女の答は、まったく予想外のものでした。
「はい、分かりました」
あっさりと、佐助は首肯したのです。
「えっ?!」
「えっ、って、いかがいたしましたか?」
むしろ主君の反応こそ、佐助にとっては意外でありました。
「いかがしましたか、って、……佐助、そなた、そんなに簡単に了承しても良いのか?」
「どうしてですか? わたし、先ほど申し上げましたではありませんか」
「先ほど?」
「はい。『もう片時も、お傍を離れはしない』と」
彼女に不思議そうな
「あ、いや、しかし……」
身軽にすぎる彼女に、どちらかといえば常識的な人間であった幸村は、面食らってしまいます。彼にしてみれば、それはかなり大胆な提案でありました。主従の誓いを交わし合った間柄とはいえ、それはあまりにも
「しかし、そなた……、お師匠様は、良いのか?」
それに対する答も、明瞭をきわめておりました。
「はい。はるを遣いにやりますので」
さも当然というふうに、彼女は答えました。
「ですが幸村様が、直接わたしに事情を説明させたいとお望みでしたら、すぐにでも行って参りますが、」
いかがいたしましょう、そう佐助は続けました。
「…………」
ここに至って、ようやく幸村も理解します。彼女の言葉の、その持つ『重み』に。
……彼女の中では、すでに優先順位は、逆転していたのです。
“二人はもはや一人”――、
教えられたそれを、彼女は恐ろしいほど忠実に、
「…………」
しばしの間、沈思いたします。まだ会ったことのない、彼女の師匠に想いを馳せます。その者をないがしろにすることは、良くないのでは、と考えます。
だがしかし、もう一人の自分が反論します。今までの佐助の言動を
……。
……。
「――いや、やはり、そなたが直接おもむいて、師に了解を取りつけるのが良いであろう」
悩んだすえに、幸村は彼女の師の顔を立てることにいたします。それがすじであろうと、至極当然な結論に至っておりました。むしろ、どうして即断できなかったのかと、
つまり彼は、
「……しかし、佐助よ」
「はい」
それほどまでに、恐れていたのです。
「そなたの師が、決定に反対するということは、ないのか?」
彼女が行ったきり、戻ってこないという、その可能性を。
「そなた、先ほど、話していたであろう」
「何をでございますか?」
「そなたがまだ、修行中の身であると」
「ええ、はい」
「ならば――」
「――大丈夫です」
佐助は鋭く両断いたします。主君の懸念を取り除こうと、あえて言葉をさえぎります。
「これはわたしと幸村様、二人だけの問題で、たとえわが師であろうとも、口を挿むことは許されません」
胸に手を当てて、射抜くような視線で、幸村を見つめます。そこに柔らかな微笑は微塵もなく、むしろ逆に、烈しい相貌がおもてを
「そ、そうであるか」
「はい」
豹変した彼女に
(彼女にとっては、それこそ一世一代の、
そもそもの出発点から、違っていたのだ。
一緒に語り合える、そのような者を欲したおれと、
そう幸村は、自身の浅はかさに、
「…………」
いっぽう佐助は佐助で、沈黙する主君に、
つまり、
(幸村様は、わたしの忍びとしての力量に、疑問をいだいているのではないのかしら……。)
というそれでした。
(……でも、でも良く考えたら、わたしは何一つ、幸村様に信じていただけるような、そんな『技』を、見せてはいなかったわ。そもそも、幸村様にすれば、わたしが忍びの者かどうかでさえ、怪しいのに。それをいきなり信じろというほうが、難しいわよね。だからさっきから、幸村様は、一歩引いたような、そんな煮え切らない態度をしているのだわ。ええ、きっとそうに違いないわ。……でも、だったらどうしたら良いのかしら……。)
彼女もまた、思考の袋小路に陥っておりました。
そんな、お互いに自縛し合っているかのような均衡を破ったのは、幸村のほうでした。
「済まない、佐助。先ほどのは取り消しだ」
「え?」
「少少かんがえたのだが……、やはりそなたは、それがしと共にいてもらおう」
そう言って幸村は、洗い場で寝転がっているはるに目を転じます。充分に湯を愉しんだはるは、火照った躰を腹ばいにして冷ましておりました。幸村の視線を感じたのか、無防備な体勢のまま、眼球だけを動かして、声のした方向を見やりました。
その気だるそうなさまに苦笑を洩らしながら、幸村は言葉を続けます。
「悪いが、はるを
「はい、それはもちろん」
「後ほど湯から上がったら、それがしも一筆、ことづけをいたそう。後日、改めて目通り願いたいと、
「それでよろしいかと存じます」
主君が師匠に対しても配慮を示したことに、彼女は深く感じ入っておりました。……ですがそれは建て前で、本音は、幸村様がわたしの言を
「ではそろそろ上がるとするか」
話がまとまったと感じた幸村は、そう彼女に切り上げの言葉を述べました。彼女の問題は片づいたのですが、自分もまた、家につなぎをつけなければなりません。ですがそのこと自体は、大して問題ではありません。幸村の外泊は、珍しいものではなかったからです。
ですので、こたびも幸村は、別所に設けられている草屋敷につなぎを頼むつもりでありました。そこには、まさにうってつけの者が詰めているはずです。いつものごとく、その者に頼もうと、幸村は考えておりました。
彼はすっかりと、本来の調子を取り戻します。
「でないと、本当に手がふやけてしまうからな」
そうおどけてみせるくらいに、生来の明るい気質を取り戻します。
「ふふ、そうでございますわね」
佐助も応えて、笑みをこぼします。……でも本当に長湯してしまいましたわ、幸村に言われて初めて、彼女はそのことに想いが至ります。もうそろそろ
――と。
あっ、そうだわ――、佐助ははっとよぎらせます。お師匠様、お昼ご飯の用意、していなければ良いのだけれど……、そんな考えを脳裡によぎらせます。……白雲斎じしんは、昼食を必要としませんでしたが、(そもそもこの時代、人人は一にち二食が基本でしたし、彼女の師に至っては、永年の鍛錬の賜物らしく、食事をほとんど必要としませんでした。体臭を残さぬよう、獣の肉はもともと食さず、栄養のほとんどを、山の
困ったわ、どうしましょう……、のんびりしてきますと伝えたので、大丈夫だとは思いましたが、彼女は万が一の可能性に表情を曇らせました。これは一刻も早く、はるに伝言を頼まないと……。
(……でも、お師匠様、なんて言うかしら。さすがのお師匠様も、びっくりなされるかしら。だって、だってこんな偶然、普通では考えられませんもの。やっぱり、わたしと幸村様は、主従の契りを結ぶ、そういう運命だったのですわ……。
……あら? 待って? 今、なにか、大切なことを、思い浮かべたような……? なに――かしら、一体……?)
『佐助よ、』
(…………。)
『これよりお前に、『作法』を――――』
(っっ!!
あああああっっ!!)
「おっ、お待ちください、幸村様っっ!!」
瞬間、佐助は全力をもって幸村の腕を曳いておりました。彼女を
「……どうした、佐助。急に何であるか」
再び湯に浸かる恰好にさせられて思わず、そんな苦情めいた口調になってしまいます。ですがしかし、彼女はまったくお構いなしでありました。今度は彼女が幸村の手をつつみます。大きな瞳をいっぱいに開いて、懸命の声で語りかけます。
「済みません、わたし、すっかり忘れておりましたわ」
「えっと、何をだ?」
「はいっ、それはですね――」
その次のせりふは、幸村の想像を遥かに超えておりました。
すなわち、
「――幸村様と『主従の契り』を行なわなければなりませんでした」
と。
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