第01話 08

 はい、と答える彼女は、心ここにあらず、といったふうでありました。ただ反応を返すのみでありました。うっとりとした瞳は、微妙に焦点が定まっておりません。そのさまに、幸村は笑みをこぼします。心がくすぐられたように感じます。こみ上げてくる愛おしさに、彼もまた大胆になっておりました。

「佐助……」

 ささやくように呼びかけて、――彼女の手をとりました。

「っっ!!」

 左手が、びくりと痙攣を起こします。はっと、我に返ります。自身の起こした脊髄反射で、現実に立ち戻ります。視線を落とします。彼女に喚起を促した、その箇所へと目を向けます。

 ――その光景に、佐助は息を呑みました。

 弾かれたように顔を挙げました。ですがしかし、仰いだ先には、決然とした双眸が待ち構えておりました。黒黒とした瞳は、優しさをはいましたが、そこには何やら決意めいたものもまた、含まれておりました。あ――、声を発します。視線に囚われて、身動きできなくなりました。頬が紅潮したのが、はっきりと自覚わかりました。状況が彼女の許容範囲を超えようとしておりました。心臓が、早鐘のように鳴っておりました。

(なに、どうして、どうしてわたし、幸村様と手を重ねているの――?)

 声にならない叫びを挙げました。しかし、どろりと融解した意識が、それに答えることはありませんでした。さらに追い打ちをかけるかのように、彼女の手に、が加えられました。気骨きこつばった彼の五指が、ゆっくりと佐助の手を握り締めておりました。

 佐助は彫像のように固まります。幸村の視線を受け流すこともできず、かといって受け止めることもできず、ただただじっとするだけでした。左手に、まったく意識が奪われておりました。それ以外のことは、完全に眼中にありませんでした。

 余分な肉のそげ落ちた、幸村の手の感触は、自分のそれとは全然ことなっています。今さらながらに気がつきます。先ほどまでは、無我夢中で、そんな当然のことにも思いが至りませんでした。自分の手が隠れてしまうほど、幸村のそれが大きいことも、ようやく知りました。自分の手が幸村によって丁寧に持ち上げられて初めて、佐助はその事実を認識しておりました。

 佐助は茫然と見護っておりました。幸村が自分の手を両手でつつみこむさまを、ぼんやりとしたで見つめておりました。彼女は完全にされるがままでありました。それでも、主君の行動の意図は摑めなかったものの、彼女にはそれに抗しようなどという気持ちは、微塵もありませんでした。佐助は、幸村に繊細に扱われました。武骨ぶこつな外見に反して、彼の手は大変に器用に動きました。慈しむように指の腹でなぞられます。時折、感触を確かめるかのように、指圧が加えられました。ちらりと、掌が覗きます。指のには、幾重にも作っては潰れた、まめのあとがありました。きっと、太刀たちやりを握ってできたものね、そうをつけました。自身も同様の稽古を積み重ねていたので、彼女は確信をいだきます。そして、だからこそ、幸村に深い尊敬の念をいだきます。白雲斎より、『手相術』(爪の形、指の流れ、皮膚の質感などから、具体的に職業や、環境・出身などを予測する術のこと。)を習っていた佐助は、彼の手に認められるいちじるしい傷痕きずあとから、幸村が並並ならぬ努力をしている姿を、容易に想い描いておりました。それは、一朝一夕でできるものではありませんでした。鍛錬に鍛錬を重ねて初めて形作れる、そんな手をしておりました。(佐助についていえば、彼女自身も尋常ならぬ握力を有してはおりましたが、それを悟られぬよう、細心の注意を払っておりました。隠密の任務にもあたれるよう、忍びの躰にはいかなる特徴も残してはならず、したがって佐助もまた、武術の訓練に明け暮れる生活を送ってはいたものの、その掌は、まるで公家くげの娘のように柔らかく、たおやかなものでありました。)

「のう、佐助?」

 その手が、一層のちから強さをもって、握り締めてきました。今までのもてあそぶような扱いとは異なるそれに、彼女も視線を改めました。幸村に目を転じます。そこには、主君の、澄んだ瞳がありました。その瞳に、惹きつけられました。夜空のように果ての見えぬそれに、吸い込まれました。まだ自分と大差ないはずなのに、一体どのような人生を歩んできたのかしら、そう疑問をいだくほどに、対坐している幸村のまなこは、深みを帯びたものでした。

『目は口ほどにものを言う』

 不意に、師匠の言葉がよみがえりました。なれば、幸村様のそれは、何を告げているの――? 考えを巡らせます。けれども、実践経験が絶対的に不足している彼女に、それを測ることなど、できようがありません。彼女にはただ、幸村の有する器が、おそろしく大きいということしか、判断できませんでした。

 その彼の声が、湯殿に響きました。ですが佐助は数秒、自分が何を問われているのか、解らずにいました。幸村の述べた言葉が、頭の中で形作られるまで、時を要していました。

 ――しかし。

「……ゆ、幸村様……」

 声が、震えていました。もう一度、お聴きしても、よろしいですか、問い返す自身の声が、打ち震えておりました。

 によっては無礼ともられかねない佐助の物言いにも、幸村は特に気分を害することなく、再び唇を開きました。そして今度こそはっきりと、彼女はそれを、その言葉を、頭脳に刻みつけることができました。


「そなたは、この源次郎げんじろう幸村ゆきむらに仕えてくれると申したが、今でもその気持ちは変わらぬか?」


 誠実さをにじませて、二たび幸村は繰り返しました。


「……は、まだまだ未熟で、このようなことを申すのは、思い上がりもということは、充分に自覚しておる。それを承知の上で、それでもお願い申し上げたい」

「…………」

「佐助よ、」

「…………」

の、」


 ――のものに、なってはくれぬだろうか――


 そこまで述べてから、幸村は唇を結びました。彼女の手をつつんだまま、真摯な眼差しで見つめました。

 彼女は、潤んだ瞳で見返しています。じっと、まるで何かを測るかのように、大きな瞳を向けています。

 数秒、そうしたままでした。が、ふっと彼女は瞼をとざし、視線を切りました。わずかを傾けます。湯の中で姿勢を正し、幸村と正面から向き合います。そして、空いていた右の手を、そっと幸村の手の甲に重ねました。

 手と手を取り合う恰好になって再び、彼女は瞳を開きました。目のが、かすかに充血しております。光が、うっすらと溜まっておりました。長い睫毛まつげが、それらを弾いておりました。その目映まばゆいばかりの明眸を、確たる意思と共に、彼女は向けておりました。

 幸村は、佐助のなみだまじりの視線を、しっかりと受け止めます。少しもひるむことはありません。そう、真に怯えるべきは、恐れるべきは、それではないからです。そう、恐れるべきは、ただ一つ、

 彼女を喪うこと、

 それのみであったのです。


「幸村様」

 永遠に続くかと思われた静寂なひとときは、そっと発せられた彼女のひと言で、静かに破れておりました。無音の世界は、彼女を震源として、瓦解しました。崩れるときも、それは音を立てずに、つつましく散っていきました。

「幸村様」

 二たびの彼女の声が、こたびは雑多な音に入り交じり、幸村の鼓膜を打ちました。抑揚の良く利いた、平坦な声ではありましたが、彼はその底で泡立つ熱水ねっすいのような感情もまた、すくい取っておりました。

 と。

「――いけませんわ、幸村様」

 一転、彼女は拗ねたような、甘えたような、そんな表情いろを、声音に交ぜ始めます。

「そのは、わたしが言うべきものでありますのに」

「あ、そ、そうであるか?」

「はい、そうでございます」

 と彼女は答えます。何やら大層、自信にあふれておりました。今まで付かず離れずでいた距離が、一気に縮まっておりました。……それもそのはずでした。なぜなら佐助は、『答』を知ってしまったからです。返答を聞くまでの、あの重苦しい、胸が潰れそうな沈黙を、くぐり抜けずに済んだのです。

 彼女は今や、不安という名の重圧から、まったく解放されておりました。万が一の可能性がなくなった今、佐助は永年あたため続けた、その瞬間へとひた走るだけでした。

「――幸村様」

 想いの丈を、すべてひと言に託します。主君の、記憶に刻みつけるために。忘れ去られてしまわぬよう、万感の想いを籠めました。とびきりの表情かおを作ります。真剣でいて、大人びていて、信頼を預けるに値すると思っていただける、そのような表情を浮かべます。

「この佐助、今日このときのために、厳しい鍛錬にも耐えてまいりました。たゆむことなく己の研鑽に励んでまいりました。

 あなた様に、真田の幸村様にお仕えするべく、そのようにしてまいりました」

 うやうやしくを垂れました。臣下の礼をとるべく、そういたしました。ですがしかし、繫いだ手は離しません。肌に伝わる、温もりと呼ぶにはあまりにも熱い、幸村の体温に、強められました。ぎゅっと握り締めると、ただちに応えていただきました。その肯定的な反応に、さらに励まされました。まるでそれに手をかれるかのように、彼女は再び言を紡ぎ始めます。

「いまだ心身ともに至らぬ身なれど、それでもこの佐助、必ずや、あなた様のお役に立ってみせましょう。あなた様の期待に応えてみせましょう。

 なれば幸村様、お願いでございます。

 ――この佐助を、あなた様の従者の一人として、末席に加えていただきますよう、なにとぞ、お願い申し上げます」

 そう口上を述べ終わってから、佐助は静かに、瞑目をいたしました。


 ……。

 ……。

「……をあげよ」

 ささやくようなひと言が発せられるまで、どれほどのときが経過したのでしょうか。対峙する佐助が構築した、厳粛な世界を壊さぬよう、それはなめらかに挿し入れられた、音声おんじょうでありました。

「はい」

 応えて佐助も、ゆっくりと伏した顔を、幸村へとさらします。瞳を開きます。幸村を仰ぎます。しかし、そのあまりの眩しさに、思わず彼女は目を細めてしまいます。……それはきっと、ただ明るさに順応できなかっただけでは、ないことでしょう。瞳孔の大きさを自在に調節できる彼女にとって、目がくらむなどということは、あり得ないのです。

 そう、それはまったく、感情的な理由からでありました。

 震えました。細胞が、歓呼の叫びを挙げました。仰ぐ主君の、その圧倒的な器量に、彼女は打ち震えていたのです。

(ああ、まさにこのお方こそ、わたしのすべてをもって、仕うるに値する方。わたしは、わたしは何と、幸せ者でありましょう。このようなお方に巡り合え、仕うることができるとは、わたしは何と、果報者でありましょう。

 そう、そうであれば、わたしがなすべきこととは、ただ一つのみ。

 すなわち、すなわち――。)

 幸村様のために生き、幸村様のために死のう、佐助は思いきわめておりました。

 再び、を挙げました。決然とした表情をにみなぎらせて、主君と対峙しました。

 そこには、慈しむ幸村の顔が、変わらずにありました。柔らかく目を細めて、気炎きえんをあげる彼女を、見護っておりました。……幸村は、佐助の感情の整理が終わるまで、ずっとそうしておりました。決して、急きたてることはしませんでした。彼女が完全に納得して、了承するまで、辛抱強く待っておりました。

 ……“真田の若様”である源次郎げんじろう幸村ゆきむらにとって、真に必要としていたのは、ただ単に仕えてくれる、そのような者ではありませんでした。そのような者ならば、領内にいくらでも居りました。その肩書きを示せば、ただちに皆は、膝を折りました。それはほとんど、条件反射のようなもので、過程など存在しませんでした。ただ結果があるのみでした。

 すなわち、――ただ彼が“真田の若様”であるから腰を折る、という、それだけでありました。

 それはもちろん当然で、どこにも疑念をはさむ余地はないように見受けられます。……ただ一人、幸村本人を除いては。

 彼自身の個性が、まったく無視されていたのです。

 父昌幸まさゆきには、積み重ねてきた武勲、臣下の者との永いあいだに培われた信頼など、得心できる『理由』が、厳然げんぜんと存在しておりました。それが、その『理由』が、息子たちにはありませんでした。唯一あるとしたら、それは言うまでもなく、昌幸の息子だから、という、それのみでありました。

 兄伸幸のぶゆきは、そのことに頓着しませんでしたが、(彼は、平時は自分が健やかでいることそれ自体が、皆のためになると考えておりましたし、受け続けている敬意は、自分が立派に成長することで応えられると、きわめてまっとうな考えをいだいておりました。)ですが幸村は、そうではありませんでした。まだ兄のようには、達観できてはおりませんでした。

 幸村は、必要としていたのです。ただ“真田の若様”であるから共にいてくれる者ではなく、源次郎幸村だから共にいてくれる、そのような――『友人』を。(なればこそ幸村は、先ほど佐助が、場を改めてくれたことを、内心で感謝していたのです。焦燥のあまり、先走って、己の側から懇願してしまったことを、彼は後悔しておりました。もしも彼女が、はいと即答していたら、いつか遠くない将来、幸村は必ず不安を抱えることとなったでしょう。佐助は、本当に自分の意思で了承したのであろうか、と。おれが真田のお家の者だから、だからいやと言えなかったのではあるまいかと、鬼胎をいだいてしまったことでしょう。)

 胸襟きょうきんを開いて語り合える友がほとんどいなかった幸村は、自身の器を、精確に把握していませんでした。家臣の者たちの讃辞も、手放しで受け容れられませんでした。きっと手心が加えられているのであろうと、疑念にまとわれておりました。さらに、無意識下ではありましたが、兄伸幸のぶゆきとの不協和音も、幸村が己を過度に卑下する一因となっておりました。(そのような理由で、幸村が己の才覚を、真に開花させるときは、今しばらくを待たねばなりません。上杉家うえすぎけ豊臣家とよとみけへと人質として送られ、その両地で、景勝かげかつ秀吉ひでよしという、二人の傑物じきじきに薫陶を受け、目覚ましい成長を遂げていくこととなるのですが、それはまた、別のお話です。)

「佐助よ」

「はい」

「そなたのその言葉、はまことに嬉しく思うぞ」

「はっ」

の傍に、いてくれるのだな」

「はい、この佐助、これより片時も離れはいたしません」

「……そう――であるか……」

 まるで止めていた息を吐き出すかのように、言葉がこぼれました。彼女の誓約を耳にいれて、押しとどめていた感情が、言葉となって隙間からこぼれ落ちていました。……ついに、ついにこのおれにも、内心を吐露できる、そのような腹心の者ができたのか、との想いに、胸がいっぱいになっておりました。

「…………」

 ゆっくりと、繋いでいた手をほどきます。居住まいを正します。

 そして。

「――なれば佐助よ、そなたに是非とも、知っておいてもらわねばならぬことがある」

 一泊おいた後、彼は再び表情を引き締め、真面目な口調で切り出しました。

 はい、と幸村の真剣な雰囲気に貫かれて、彼女もぴんと背筋を改めます。

「はい、幸村様、何でございましょう」

「うむ。それがな、少少話になってしまうのだ」

「はあ」

「それでな、佐助。……唐突で悪いとは思うのだが、今宵、少しばかり、のために、時間を空けてはもらえぬだろうか」

 言って、ちらと佐助の反応を窺いました。さすがに少し、焦りすぎであろうか、自覚しながらも、それでも彼は、淡い期待を佐助にたくしました。

 ですが、彼女の答は、まったく予想外のものでした。

「はい、分かりました」

 あっさりと、佐助は首肯したのです。

「えっ?!」

「えっ、って、いかがいたしましたか?」

 むしろ主君の反応こそ、佐助にとっては意外でありました。

「いかがしましたか、って、……佐助、そなた、そんなに簡単に了承しても良いのか?」

「どうしてですか? わたし、先ほど申し上げましたではありませんか」

「先ほど?」

「はい。『もう片時も、お傍を離れはしない』と」

 彼女に不思議そうな表情かおで見つめられます。純粋無垢な双つの瞳が、告げています。その言葉が、単なる宣誓などではないことを。そのような抽象的な意味ではなく、文字どおり、言葉どおりの意味であることを。――すなわち彼女は、これからずっと、幸村と共に行動すると、そう伝えていたのです。

「あ、いや、しかし……」

 身軽にすぎる彼女に、どちらかといえば常識的な人間であった幸村は、面食らってしまいます。彼にしてみれば、それはかなり大胆な提案でありました。主従の誓いを交わし合った間柄とはいえ、それはあまりにも一足飛いっそくとびではないかと、自分で言っておきながら、そう考えていたのです。

「しかし、そなた……、お師匠様は、良いのか?」

 それに対する答も、明瞭をきわめておりました。

「はい。を遣いにやりますので」

 さも当然というふうに、彼女は答えました。

「ですが幸村様が、直接わたしに事情を説明させたいとお望みでしたら、すぐにでも行って参りますが、」

 いかがいたしましょう、そう佐助は続けました。

「…………」

 ここに至って、ようやく幸村も理解します。彼女の言葉の、その持つ『重み』に。

 ……彼女の中では、すでに優先順位は、逆転していたのです。毎朝毎夜まいちょうまいや、わが子のように大切に育ててくれた師匠よりも、出逢ってまだ半日とたっていない己のほうが、上位に立っていたのです。

“二人はもはや一人”――、

 教えられたそれを、彼女は恐ろしいほど忠実に、履行りこうし始めていたのです。

「…………」

 しばしの間、沈思いたします。まだ会ったことのない、彼女の師匠に想いを馳せます。その者をにすることは、良くないのでは、と考えます。

 だがしかし、もう一人の自分が反論します。今までの佐助の言動をおもんみるに、彼女たちの世界のは、こちらのそれとは異なるのではあるまいかと、反問いたします。なによりも主命をとうとぶのであれば、むしろそれは、自然な反応ではなかろうか――。


 ……。

 ……。

「――いや、やはり、そなたが直接、師に了解を取りつけるのが良いであろう」

 悩んだすえに、幸村は彼女の師の顔を立てることにいたします。それがであろうと、至極当然な結論に至っておりました。むしろ、どうして即断できなかったのかと、平生へいぜいの彼を知る者ならば、首をかしげたことでしょう。己の意見は後回しにして、他者を立てるのがであった幸村にしては、それは珍しいことといえました。

 つまり彼は、

「……しかし、佐助よ」

「はい」

 それほどまでに、恐れていたのです。

「そなたの師が、決定に反対するということは、ないのか?」

 彼女が行ったきり、戻ってこないという、その可能性を。

「そなた、先ほど、話していたであろう」

「何をでございますか?」

「そなたがまだ、修行中の身であると」

「ええ、はい」

「ならば――」

「――大丈夫です」

 佐助は鋭く両断いたします。主君の懸念を取り除こうと、あえて言葉をさえぎります。

「これはわたしと幸村様、二人だけの問題で、たとえわが師であろうとも、口を挿むことは許されません」

 胸に手を当てて、射抜くような視線で、幸村を見つめます。そこに柔らかな微笑は微塵もなく、むしろ逆に、烈しい相貌がおおっておりました。

「そ、そうであるか」

「はい」

 豹変した彼女に気圧けおされ、言葉をつかえさせる幸村とは対照に、当の佐助は、どこまでも毅然とした態度を崩そうとはしませんでした。つまりはそれだけ気にさわる発言であったのだろうと、幸村は反省いたします。ついさっきも、同じような失敗をしたばかりなのに、また繰り返してしまったと、己の愚かさを恥じました。解ったつもりになっていて、そのまったく理解しておりませんでした。彼女の言う、“主従”という関係を。

(彼女にとっては、それこそ一世一代の、畢生ひっせいの決断であったに違いない。その『意味』を、『覚悟』を、おれは理解したつもりでいたが、本当につもりだけであった。あまりにも簡単にが運んだので、そこに至るまでの彼女の葛藤を、おれは軽んじていた。……いや、決して、軽んじていたわけではない、少なくともおれ自身はそう思っていた。

 そもそもの出発点から、違っていたのだ。

 一緒に語り合える、そのような者を欲したおれと、終生しゅうせいす者を求めた佐助。そうであれば、その『覚悟』の質が異なるのも、むしろ当然と言えよう。……その『覚悟』を、おれは、おれは……。)

 そう幸村は、自身の浅はかさに、忸怩じくじたる思いをいだいてしまいます。

「…………」

 いっぽう佐助は佐助で、沈黙する主君に、焦慮しょうりょの色を濃くしてしまいます。彼女の心配は、今や抑えきれないまでに膨らんでおりました。それは、幸村がいだいていたそれ――すなわち、彼女の決断を軽んじてしまった――というそれではなく、むしろまったく別のものでありました。

 つまり、

(幸村様は、わたしの忍びとしての力量に、疑問をいだいているのではないのかしら……。)

 というそれでした。

(……でも、でも良く考えたら、わたしは何一つ、幸村様に信じていただけるような、そんな『技』を、見せてはいなかったわ。そもそも、幸村様にすれば、わたしが忍びの者かどうかでさえ、怪しいのに。それをいきなり信じろというほうが、難しいわよね。だからさっきから、幸村様は、一歩引いたような、そんな煮え切らない態度をしているのだわ。ええ、きっとそうに違いないわ。……でも、だったらどうしたら良いのかしら……。)

 彼女もまた、思考の袋小路に陥っておりました。

 そんな、お互いに自縛し合っているかのような均衡を破ったのは、幸村のほうでした。

「済まない、佐助。先ほどのは取り消しだ」

「え?」

「少少のだが……、やはりそなたは、と共にいてもらおう」

 そう言って幸村は、洗い場で寝転がっているに目を転じます。充分に湯を愉しんだはるは、火照った躰を腹ばいにして冷ましておりました。幸村の視線を感じたのか、無防備な体勢のまま、眼球だけを動かして、声のした方向を見やりました。

 その気だるそうなさまに苦笑を洩らしながら、幸村は言葉を続けます。

「悪いが、つかいにやってもらっても構わぬだろうか」

「はい、それはもちろん」

「後ほど湯から上がったら、も一筆、をいたそう。後日、改めて目通り願いたいと、白雲斎はくうんさい殿に伝えたいのだが、いかがであろう」

「それでよろしいかと存じます」

 主君が師匠に対しても配慮を示したことに、彼女は深く感じ入っておりました。……ですがそれは建て前で、本音は、幸村様がわたしの言をり入れてくださったという、そのことで、佐助は胸がいっぱいになっておりました。傍を離れず、という願いをんでもらいました。お師匠様の面目を保たせることも忘れずに、それでも自分の意見を優先してくださった主君に、彼女の口調は自然と改まっておりました。

「ではそろそろ上がるとするか」

 話がまとまったと感じた幸村は、そう彼女に切り上げの言葉を述べました。彼女の問題は片づいたのですが、自分もまた、家にをつけなければなりません。ですがそのこと自体は、大して問題ではありません。幸村の外泊は、珍しいものではなかったからです。別所べっしょの草屋敷、砥石といしの城、果ては地蔵峠じぞうとうげの草屋敷などに遊びに行っては泊まっておりました。そんな自由奔放な幸村に、父や兄はと苦笑を洩らしてはいたものの、上田の地は平和でありましたので、とりたてて問題にはしておりませんでした。供も連れずにぶらりと出かける幸村を、黙認しておりました。

 ですので、こたびも幸村は、別所に設けられている草屋敷にを頼むつもりでありました。そこには、まさにの者が詰めているはずです。いつものごとく、その者に頼もうと、幸村は考えておりました。

 彼はすっかりと、本来の調子を取り戻します。

「でないと、本当に手がふやけてしまうからな」

 そうおどけてみせるくらいに、生来の明るい気質を取り戻します。

「ふふ、そうでございますわね」

 佐助も応えて、笑みをこぼします。……でも本当に長湯してしまいましたわ、幸村に言われて初めて、彼女はそのことに想いが至ります。もうそろそろうまこくかしらね……。

 ――と。

 あっ、そうだわ――、佐助はとよぎらせます。お師匠様、お昼ご飯の用意、していなければ良いのだけれど……、そんな考えを脳裡によぎらせます。……白雲斎じしんは、昼食を必要としませんでしたが、(そもそもこの時代、人人は一にち二食が基本でしたし、彼女の師に至っては、永年の鍛錬の賜物らしく、食事をほとんど必要としませんでした。体臭を残さぬよう、獣の肉はもともと食さず、栄養のほとんどを、山のさちでまかなっておりました。たまに川魚を食べるくらいでありました。)ですが、まだ躰を造っている段階の佐助のために、白雲斎は獣肉じゅうにくを含んだ食事を、三食ととのえていたのです。

 困ったわ、どうしましょう……、のんびりしてきますと伝えたので、大丈夫だとは思いましたが、彼女は万が一の可能性に表情を曇らせました。これは一刻も早く、に伝言を頼まないと……。

(……でも、お師匠様、なんて言うかしら。さすがのお師匠様も、びっくりなされるかしら。だって、だってこんな偶然、普通では考えられませんもの。やっぱり、わたしと幸村様は、主従の契りを結ぶ、そういう運命だったのですわ……。

 ……あら? 待って? 今、なにか、大切なことを、思い浮かべたような……? なに――かしら、一体……?)

『佐助よ、』

(…………。)

『これよりお前に、『』を――――』

(っっ!!

 あああああっっ!!)

「おっ、お待ちください、幸村様っっ!!」

 瞬間、佐助は全力をもって幸村の腕を曳いておりました。彼女をおもんぱかって、先に上がろうと腰を浮かしていた幸村は、その容赦のない牽引に、簡単に屈してしまいます。うわ、と声を洩らして、湯に尻を打ちつけてしまいます。

「……どうした、佐助。急に何であるか」

 再び湯に浸かる恰好にさせられて思わず、そんな苦情めいた口調になってしまいます。ですがしかし、彼女はまったくお構いなしでありました。今度は彼女が幸村の手をつつみます。大きな瞳をいっぱいに開いて、懸命の声で語りかけます。

「済みません、わたし、すっかり忘れておりましたわ」

「えっと、何をだ?」

「はいっ、それはですね――」

 その次のは、幸村の想像を遥かに超えておりました。

 すなわち、


「――幸村様と『』を行なわなければなりませんでした」


 と。

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