第01話 07
「――ということがあったのですが、幸村様、どう思われますか? お師匠様ったら、
「あ、ああ、そうであるな」
再び舞台は別所の湯。仕えるはずの主を湯壺に沈めてしまった佐助は、ですが幸村の
ですが幸村は、舌をもつれさせながら返答するのが精いっぱいでありました。相変わらず彼女は、幸村と密着して湯を愉しんでおりました。なので少しでも緊張を弛めると、その柔らかな感触が、幸村に容赦ない攻撃を浴びせていたのです。腰をひねって、下半身を彼女から
幸村はそんな佐助を、好意的な眼差しで見つめます。驚くほどに純真な彼女を、微笑ましく思います。きっとこの娘には、世界はそのことごとくが、美しく、麗しく見えているのであろう。それは何と、幸せなことであろうな、笑みを浮かべます。
しかし……、と一転、危惧いたします。草の者たちに話を聞くと、忍びに求められる資質とは、まず第一に、いかなる事態にも屈することのない、強靭な精神力であるとのことであったが……、再び、佐助を注視します。彼女は隠すことなく、堂堂と満面の笑みを咲かせておりました。屈託のないその笑顔は、確かに幸村の心を温めはしましたが、しかし同時に、この幼さをまだ残している少女に、忍び働きが果たしてできるのであろうか、とそんな
「……? 幸村様、いかがなされましたか?」
「あ、いや、なんでもないぞ?」
心中がおもてに出てしまったのか、佐助は笑顔から不思議そうな顔へと表情を変じ、尋ねてきます。うっ、と言葉に詰まりながらも、なんでもないぞと返事をします。まさか思ったことをそのまま彼女に伝えるわけにはいきません。それはあまりにも礼を欠いておりましたし、第一まだ彼女のことは、まだまだ謎だらけでありました。人は見かけによらないというし、案外この娘も、任務となれば別人のようになるのではないか、と考えを改めます。何しろ、判断材料が圧倒的に不足しておりました。気の赴くままに語る彼女から手に入れられた情報は、あの
――里に降りてきたのは、今日が初めてだということ、
それくらいでありました。
「そうでございます。……わたし、お師匠様に、里に下りることは禁じられていて、ですからお師匠様以外の人と話をすることも、ほとんどなかったのです」
「ほう、そうであるか」
「はい。でも、今日になって、お師匠様が急に下山の許可をくださって、なのでわたし、前からずっと、ここのいで湯に入りたいと思っていて、なれば、と思ったのですが――」
そう彼女は、うっとりとした瞳を幸村に贈ります。酔うているかと
「――そうしたらまさかっ!! まさかこのような
ずいと佐助は身を寄せてきます。感情に動かされるまま、身を乗り出します。反動で湯しぶきが挙がります。湯が音を立てました。まるで、彼女の心の
お互いの吐息を感じ合えるほどの距離で、二人は見つめ合いました。
「こほん。え、えーっと、あの、幸村様?」
何事もなかったかのように澄ました彼女は、ですが呼びかけはしたものの、何を話すかまでは考えていなかったことに思い至ります。さっきまでは意識しなくてもすらすらと言葉が溢れ出ていたのに、ひとたび意識してしまうと、それらはたちまち
えーっと、えーっと、佐助は、懸命に頭脳を回転いたします。むしろここぞとばかりに、尋きたいことを尋けば良いのですが、冷静さを取り戻してしまった彼女には、それはもう不可能でありました。お互いの立場を思い出してしまった佐助は、どのような質問も憚ってしまいます。私的な質問をかけることそれ自体が、失礼であると思いきわめてしまいます。でもじゃあ、何の話をしようかしら……、彼女は今や、進退きわまる寸前まで追い詰められておりました。
と、ここでようやく幸村が気づいたのか、
「そういえば、佐助?」
彼女に助け船を出しました。はい、一も二もなく彼女は答えます。ほっと佐助は安堵します。助かったわ、と今度は答える側に回った彼女は、感謝を告げる代わりに、なるだけ幸村様の話題に合わせる努力をしようと、決意いたします。淡く微笑みながら、次の言葉を待ちました。
幸村は数秒、思案顔を作ります。隣にいる彼女に、これは失礼にあたるかどうか、暫時なやんでおりました。
ですが幸村は、彼女に会ったときから、(……より正確に言うならば、彼女の声を聴いたときから、でありますが、)確認したいと、そう思っておりました。ですから彼は尋きました。
そう、彼女の、
「――そなた、齢はいくつであるか?」
彼女のその――『年齢』を。
「……
予想外の問いに、佐助は確認するように、繰り返しました。注意ぶかく、即答をさけておりました。幸村を見ます。視線がぶつかると、彼はわずか慌てるような素振りをみせました。知り合って間もない女性に、あまりにも立ち入った質問をしてしまったと、狼狽したようでありました。
でも、佐助は気づきます。対人経験の浅い彼女にさえ、それは看破されておりました。それ――すなわち、
幸村様も、承知のうえで、尋いておられる――、
というそのことを、理解しておりました。
そして実際、そのとおりでありました。幸村も、それが不しつけであることは、理解しておりました。訝しがられることも、織り込み済みでした。
――それでも彼は、尋ねたかったのです。一縷の、期待を籠めて。もしかしたら、彼女から何か接点が見いだせるかもしれない、そんな淡い期待に衝き動かされていたのです。
「…………」
じっと、彼女を見つめます。逡巡している彼女を、辛抱強く待ち続けます。
……やがて。
「……申しわけありません、幸村様」
笑みの花をしおらせて、彼女は口を開きました。その紡がれた言葉に、幸村は衝撃を受けました。礼を失していたとはいえ、断わりはされないだろうと楽観していた幸村は、その拒絶に落胆を禁じえませんでした。
「あっ、いえ、そういうことではないのです」
それを敏感に察したのか、佐助があわてて訂正をいたします。
「そういうことではなくて、その……」
わたし、自分が
「わたし、お師匠様に
「そ、そうであったか。それは、その……」
「良いのです、お気になされなくても」
今度こそ本当に
「物心ついたときには、もうお師匠様が居りましたし、それにはるやみんなも、居りますから」
言って、にっこりと微笑みました。……そう、事実、佐助は、まったく頓着しておりませんでした。もう完全に、整理が終わり、消化し終わった事柄でありました。彼女の師である白雲斎が、親代わりとしていつも傍にいてくれましたし、はるたちも、彼女のかけがえのない友人でありました。
それに、それに――、と心中で佐助は続けます。なんと声をかければ良いかが判らず困っている幸村を、彼女は再び見つめます。きっと予想外の展開に、戸惑っていらっしゃるのでしょう。でも、そう、それでも、佐助は、彼の温かな感情を、ひしひしと全身で感じ取っておりました。優しさに、つつまれておりました。
ああ、ああ――、身もだえいたします。心の泉からほとばしる、激しい流れに呑み込まれます。窒息しそうなくらいの
お師匠様……、わたし、わたし、決めましたわ。よろしいですよね? お師匠様も、そう望んでおられましたものね――。無言で、白雲斎に語りかけます。了解を取ろうといたします。ですが当然、師匠は沈黙を
佐助はそれを、肯定と受け取ります。異論はございませんよね、重ねて問い尋ねます。そして、二たびの沈黙をもって応える師匠に、ありがとうございますと感謝を述べました。
これで心置きなく幸村様に仕えることができるわ、おもてをあげました。幸村様、声帯を震わせようといたしました。
――が。
「――――」
幸村の眼差しに、佐助は言葉をなくしました。紡ごうとしていたせりふは、煙のように消失します。贈られる感情に、彼女は何も考えられなくなってしまいます。
……なにかしら、一体――、朦朧とした意識のまま、それでも懸命に、名をつけようといたします。幸村の眼差しに籠められている感情に、名をつけようと試みます。けれども、それは今までの人生の中で、一度として受けたことのない、そのようなたぐいの表情でありました。優しい、温かい、といった好意的なそれより、さらに一歩ふみこまれた、そんな印象を受けました。ですが決して、不快なものではありません。むしろ佐助は、幸村の視線の抱擁に、とろけてしまいそうになりました。心奧を揺さぶられました。躰が火照るように熱くなっておりました。
幸村様……、自然と言葉がこぼれます。ですが、続くせりふはありません。彼女はただ、その名を呼びたくて、ですからそうしただけでした。その行為に理由など存在していませんでした。……しかし、もしも佐助が、自身の言動をより深く掘り下げようとしていたならば、ただちに彼女は、己の欲求に突き当たったことでしょう。それ、すなわち、幸村様にずっとそうしていただきたい、という、自身がいだいた願いに、至ったことでしょう。
そして幸村も、彼女の願いを知ってか知らずか、彼女を見つめたままでありました。佐助には経験のない、そのような視線を贈り続けておりました。幸村も、今や完全に理解しておりました。己の欲求を、完全に自覚しておりました。それを阻むものは、もはや何もありませんでした。
彼女が欲しい。
抑えきれない願望を完全に自覚していたからこそ、臆することなく、むしろ堂堂と、彼は佐助に呼びかけていたのです。
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