第01話 07

「――ということがあったのですが、幸村様、どう思われますか? お師匠様ったら、非道ひどいですよね?」

「あ、ああ、そうであるな」

 再び舞台は別所の湯。仕えるはずの主を湯壺に沈めてしまった佐助は、ですが幸村のこころよゆるしに、そのことをすっかりと忘れきっておりました。何よりも、この思いがけない出遇であいに、彼女は完全に舞い上がっておりました。もとより物怖じしない性格であったうえに、うっすらと想い描いていたそれよりもずっと素敵であった主君に、(彼女にとっての『男性』とは、もっぱら四阿山あずまやさんに修行に来る、蓬頭垢面ほうとうこうめんという言葉そのままの、山伏や修験者たちのことでありました。)佐助の舌はとどまることがありません。あれこれと思いついたこと――それはほとんどが白雲斎とのことでありましたが――そのことを舌にままに話しては、幸村に同意を求めておりました。

 ですが幸村は、舌をもつれさせながら返答するのが精いっぱいでありました。相変わらず彼女は、幸村と密着して湯を愉しんでおりました。なので少しでも緊張を弛めると、その柔らかな感触が、幸村に容赦ない攻撃を浴びせていたのです。腰をひねって、下半身を彼女からかくしながら、懸命になって、昂る感情を鎮めようと試みます。彼女の語る七色の話題に傾注します。まるでこの湯のごとくに尽きることのない、彼女の唇から溢れ出す物語は、それもまたこの湯のごとくに、くることはありません。知らずに彼は、惹き込まれておりました。彼女の思考というフィルターに通されたそれら事象の数数は、それがたとえ語るまでもないささやかな出来事であったとしても、二つとない大切な想い出に昇華を果たしておりました。彼女はまるで、この世に産まれ落ちたばかりの赤児あかごのようでありました。見るもの聞くもの触れるもの、それらすべてに琴線が反応するようでした。

 幸村はそんな佐助を、好意的な眼差しで見つめます。驚くほどに純真な彼女を、微笑ましく思います。きっとこの娘には、世界はそのことごとくが、美しく、麗しく見えているのであろう。それは何と、幸せなことであろうな、笑みを浮かべます。

 しかし……、と一転、危惧いたします。草の者たちに話を聞くと、忍びに求められる資質とは、まず第一に、いかなる事態にも屈することのない、強靭な精神力であるとのことであったが……、再び、佐助を注視します。彼女は隠すことなく、堂堂と満面の笑みを咲かせておりました。屈託のないその笑顔は、確かに幸村の心を温めはしましたが、しかし同時に、この幼さをまだ残している少女に、忍び働きが果たしてできるのであろうか、とそんな鬼胎きたいもまた、いだかせるものでした。

「……? 幸村様、いかがなされましたか?」

「あ、いや、なんでもないぞ?」

 心中がに出てしまったのか、佐助は笑顔から不思議そうな顔へと表情を変じ、尋ねてきます。うっ、と言葉に詰まりながらも、なんでもないぞと返事をします。まさか思ったことをそのまま彼女に伝えるわけにはいきません。それはあまりにも礼を欠いておりましたし、第一まだ彼女のことは、まだまだ謎だらけでありました。人は見かけによらないというし、案外この娘も、任務となれば別人のようになるのではないか、と考えを改めます。何しろ、判断材料が圧倒的に不足しておりました。気の赴くままに語る彼女から手に入れられた情報は、あの四阿山あずまやさんに籠もって修行をしているということ、戸澤白雲斎というお師匠様がいるということ、……そして、そして、

 ――里に降りてきたのは、今日が初めてだということ、

 それくらいでありました。

「そうでございます。……わたし、お師匠様に、里に下りることは禁じられていて、ですからお師匠様以外の人と話をすることも、ほとんどなかったのです」

「ほう、そうであるか」

「はい。でも、今日になって、お師匠様が急に下山の許可をくださって、なのでわたし、前からずっと、ここのに入りたいと思っていて、なれば、と思ったのですが――」

 そう彼女は、うっとりとした瞳を幸村に贈ります。酔うているかと錯覚おもうほど、まなこは潤いをたたえておりました。……いいえ、実際に彼女は酔っていたのです。ただし、酒精しゅせいにではなく、別のものに。

「――そうしたらまさかっ!! まさかこのような場所ところで幸村様にお会いできるとは、ほんに、なんという偶然でございましょう!!」

 ずいと佐助は身を寄せてきます。感情に動かされるまま、身を乗り出します。反動でが挙がります。湯が音を立てました。まるで、彼女の心のはげしさを、幸村に伝えるかのように。

 お互いの吐息を感じ合えるほどの距離で、二人は見つめ合いました。眼瞬またたきする音さえ、聞こえるほどです。幸村より幾分か背の低い佐助は、自然かれを見上げる形となりました。両眼りょうがんに、己の顔が映されます。臆面もなく心情を露呈しているそれが、映されています。はっと我に返ります。己の姿を客体視きゃくたいししてようやく、自分が暴走していることに気づきます。あわてて身を引き背を正します。白雲斎がその場にいたなら、今更もう遅いだろうと言うは必定でありましたが、幸いなことに、彼女の師はこの場には居りませんでした。

「こほん。え、えーっと、あの、幸村様?」

 何事もなかったかのように澄ました彼女は、ですが呼びかけはしたものの、何を話すかまでは考えていなかったことに思い至ります。さっきまでは意識しなくてもと言葉が溢れ出ていたのに、ひとたび意識してしまうと、それらはたちまちめられてしまいます。悩めば悩むほど、それらは闇の奧へと引き籠もってしまうのでした。

 わりの悪い沈黙に、彼女の焦燥はその度を増していきました。困った挙げ句に、幸村様に話題を振ってもらおうと期待した眼差しを送りつけましたが、行儀よい視線が返ってくるのみでありました。どうやら次の言葉を待っているようです。他人の話の腰を折らないようにと幸村は、それを忠実に守ります。場の空気を読むことに長けていた彼ではありましたが、今の今まで一方的に会話をしていた彼女が、まさか一転してそのような窮状に陥っているとは、さすがに想像していませんでした。(……というよりは、もうずっと彼女のペースに引きずられていた幸村は、彼女を理解することを、半ば抛棄ほうきしていたのです。一瞬ごとに、ころころと表情を変える佐助に、完全にされるがままであったのです。)

 えーっと、えーっと、佐助は、懸命に頭脳を回転いたします。むしろここぞとばかりに、尋きたいことを尋けば良いのですが、冷静さを取り戻してしまった彼女には、それはもう不可能でありました。お互いの立場を思い出してしまった佐助は、どのような質問も憚ってしまいます。私的な質問をかけることそれ自体が、失礼であると思いきわめてしまいます。でもじゃあ、何の話をしようかしら……、彼女は今や、進退きわまる寸前まで追い詰められておりました。

 と、ここでようやく幸村が気づいたのか、

「そういえば、佐助?」

 彼女に助け船を出しました。はい、一も二もなく彼女は答えます。ほっと佐助は安堵します。助かったわ、と今度は答える側に回った彼女は、感謝を告げる代わりに、なるだけ幸村様の話題に合わせる努力をしようと、決意いたします。淡く微笑みながら、次の言葉を待ちました。

 幸村は数秒、思案顔を作ります。隣にいる彼女に、これは失礼にあたるかどうか、暫時なやんでおりました。

 ですが幸村は、彼女に会ったときから、(……、)確認したいと、そう思っておりました。ですから彼は尋きました。

 そう、彼女の、


「――そなた、齢はいくつであるか?」


 彼女のその――『年齢』を。


「……とし――で、ございますか?」

 予想外の問いに、佐助は確認するように、繰り返しました。注意ぶかく、即答をさけておりました。幸村を見ます。視線がぶつかると、彼はわずか慌てるような素振りをみせました。知り合って間もない女性に、あまりにも立ち入った質問をしてしまったと、狼狽したようでありました。

 でも、佐助は気づきます。対人経験の浅い彼女にさえ、それは看破されておりました。それ――すなわち、

 幸村様も、承知のうえで、尋いておられる――、

 というそのことを、理解しておりました。

 そして実際、そのとおりでありました。幸村も、それがであることは、理解しておりました。訝しがられることも、織り込み済みでした。

 ――それでも彼は、尋ねたかったのです。一縷の、期待を籠めて。もしかしたら、彼女から何か接点が見いだせるかもしれない、そんな淡い期待に衝き動かされていたのです。

「…………」

 じっと、彼女を見つめます。逡巡している彼女を、辛抱強く待ち続けます。

 ……やがて。

「……申しわけありません、幸村様」

 笑みの花をしおらせて、彼女は口を開きました。その紡がれた言葉に、幸村は衝撃を受けました。礼を失していたとはいえ、断わりはされないだろうと楽観していた幸村は、その拒絶に落胆を禁じえませんでした。

「あっ、いえ、そういうことではないのです」

 それを敏感に察したのか、佐助があわてて訂正をいたします。

「そういうことではなくて、その……」

 わたし、自分が何歳いくつか、知らないのです――、続けて彼女は、微笑を浮かべました。

「わたし、お師匠様に発見みつけていただくまで、山の猿たちに育てられていたもので、正確に何歳、とは、言えないのです」

「そ、そうであったか。それは、その……」

「良いのです、お気になされなくても」

 今度こそ本当に周章狼狽しゅうしょうろうばいする主君に、佐助は軽く答えてみせました。

「物心ついたときには、もうお師匠様が居りましたし、それにやみんなも、居りますから」

 言って、にっこりと微笑みました。……そう、事実、佐助は、まったく頓着しておりませんでした。もう完全に、整理が終わり、消化し終わった事柄でありました。彼女の師である白雲斎が、親代わりとしていつも傍にいてくれましたし、たちも、彼女のかけがえのない友人でありました。

 それに、それに――、と心中で佐助は続けます。なんと声をかければ良いかが判らず困っている幸村を、彼女は再び見つめます。きっと予想外の展開に、戸惑っていらっしゃるのでしょう。でも、そう、それでも、佐助は、彼の温かな感情を、ひしひしと全身で感じ取っておりました。優しさに、つつまれておりました。

 ああ、ああ――、身もだえいたします。心の泉からほとばしる、激しい流れに呑み込まれます。窒息しそうなくらいの多幸感たこうかんにつつまれます。

 お師匠様……、わたし、わたし、決めましたわ。よろしいですよね? お師匠様も、そう望んでおられましたものね――。無言で、白雲斎に語りかけます。了解を取ろうといたします。ですが当然、師匠は沈黙をたもったままでありました。脳裡に描いたそれは、ひたすら彼女に、都合がよい存在でした。実際の師匠ならばおそらく言うであろう、様々なを呑みくだし、口をつぐんだまま佇立しているだけでした。

 佐助はそれを、肯定と受け取ります。異論はございませんよね、重ねて問い尋ねます。そして、二たびの沈黙をもって応える師匠に、ありがとうございますと感謝を述べました。

 これで心置きなく幸村様に仕えることができるわ、をあげました。幸村様、声帯を震わせようといたしました。

 ――が。

「――――」

 幸村の眼差しに、佐助は言葉をなくしました。紡ごうとしていたは、煙のように消失します。贈られる感情に、彼女は何も考えられなくなってしまいます。

 ……なにかしら、一体――、朦朧とした意識のまま、それでも懸命に、名をつけようといたします。幸村の眼差しに籠められている感情に、名をつけようと試みます。けれども、それは今までの人生の中で、一度として受けたことのない、そのようなの表情でありました。優しい、温かい、といった好意的なそれより、、そんな印象を受けました。ですが決して、不快なものではありません。むしろ佐助は、幸村の視線の抱擁に、とろけてしまいそうになりました。心奧を揺さぶられました。躰が火照るように熱くなっておりました。

 幸村様……、自然と言葉がこぼれます。ですが、続くはありません。彼女はただ、その名を呼びたくて、ですからそうしただけでした。その行為に理由など存在していませんでした。……しかし、もしも佐助が、自身の言動をより深く掘り下げようとしていたならば、ただちに彼女は、己の欲求に突き当たったことでしょう。それ、すなわち、幸村様にずっとそうしていただきたい、という、自身がいだいた願いに、至ったことでしょう。

 そして幸村も、彼女の願いを知ってか知らずか、彼女を見つめたままでありました。佐助には経験のない、そのような視線を贈り続けておりました。幸村も、今や完全に理解しておりました。己の欲求を、完全に自覚しておりました。それを阻むものは、もはや何もありませんでした。

 

 抑えきれない願望を完全に自覚していたからこそ、臆することなく、むしろ堂堂と、彼は佐助に呼びかけていたのです。

 

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