第01話 06
『……ってなことが、あったじゃないですか。ですからわたし、またお師匠様が何かするのかと……』
『なるほど、言われてみれば解らんでもないな』
『…………』
『ん、何じゃ、佐助、その目は?』
『……お師匠様、本当は全部
疑いのまなこを無遠慮に向けました。お師匠様なら、それくらい平気でやりそうでした。びっくりしたふりをして、じつはわたしの反応を愉しんでいたんじゃないかしら――、積年の経験が、彼女に疑いをいだかせておりました。
おいおい、まさか、白雲斎は大仰に両腕を天にかかげます。芝居がかった仕草は、明らかに佐助を挑発しているものでした。先ほどちらと垣間見せた、母親のごとき慈しむ表情は、嘘のように消え失せておりました。今はただ、弟子をからかう、いつもどおりの姿があるのみでした。
『ほ、ほら~』
そして愛弟子はこのたびも、あっさりと釣られてしまいます。
『ほんっと、お師匠様ったら、いっつもそればっかりなんですから~』
ぷりぷりと怒っている佐助は、気づけません。白雲斎の、
……その事実を
まるでそれは、――獣の親子がじゃれ合っている、そんなようだ――、と。
『……で、さっきのアレは結局なんだったんですか?』
白雲斎にうだうだと文句を垂れていた佐助が本題に戻ったのは、それから数分後のことでした。佐助自身、今まで何を話していたのか、暫時わすれておりました。ですがしかし、師の膝もとで寝そべっているあかがねを認め、ようやく当初の話題を想い出します。元を辿れば、お師匠様が口笛を吹く真似をしたのが原因でした。だからわたし、勘違いしちゃって、それで慌てて……、と佐助は責任転嫁をいたしました。……そこまでを白雲斎が読んでいたのかは判りませんが、再び一連の出来事を脳裡に浮かべた佐助は、もうすっかりそれらを過去の出来事として清算しておりました。反省し、分析して、次に繫げられるよう教訓を引き出しておりました。もう過度の羞恥に
『それはであるな……』
応えて白雲斎が口を開きます。
『『犬笛』である』
そう簡潔に答えます。
犬笛、ですか――? 師の言葉を、佐助はおうむ返しにいたします。単語の意味は即座に理解できましたが、(多分、読んで字のごとく、犬を
『どれ、ならばもう一度やってくれようぞ』
言うて、白雲斎は指で特殊な
『それと、先に言っておくが、耳は塞がんで良いぞ? 静かに吹くのでな』
『はい』
『――では』
二たび、白雲斎は指を口に含みます。佐助も自然、身構えてしまいます。危険はないと解ってはいるのですが、すっかり心に傷を負っていた彼女は、師の姿に心臓が暴れ出すのを抑えなくてはならなくなっておりました。
その様子を、白雲斎は双つのまなこで見つめます。やれやれ、微苦笑を浮かべます。まったく仕様のない奴よのう、そう佐助の心に刺さったとげを抜こうと言の葉を拡げます。
『ほへ(これ)、……あ、いや。これ、佐助よ』
『はっはいっ』
『そんなに緊張せずとも良い。わざわざ相手に弱点を見せてどうする』
『はい、でも……』
『――ほれ』
『きゃっ』
白雲斎は、口に指を出し入れして、佐助を威嚇してみました。
『…………』
『…………』
『ほれっ』
びくっ。
『ほれほれっ』
びくびくっ。
『…………。佐助、お前……』
予想以上に顕著な反応を示すわが弟子に、白雲斎は思わず呆れた声を出しました。まさかこのわらわをからこうておるのではと
『まったく、困ったもんだのう』
『てへっ♪』
『……まあ良い。とにかく、今のようにあかがねを
その鼻先に、白雲斎は己のそれを近づけます。目を細め、鼻と鼻とをこすり合わせます。まるで同じ種であるかのように、一人と一匹は、共に睦み合いはじめます。時折、瞳の奧を覗き込んで、そうであるかと、師は答えます。頷いたり、躰をなでたりし、あかがねと意思を交わしておりました。
『――とまあ、このように、あかがねに内部を探らせておったのじゃ』
ひとしきり
ちらと
白雲斎もまた、不快な素振りは見せず、むしろ進んで肌をさらしているようでした。あかがねの
『っっ!!』
二たび彼女は瞳を奪われます。
『――ほう?』
快楽に酔いしれていた白雲斎は、ですがしかし己の弟子の変調を、目ざとく認めておりました。ひと言そう発すると、あかがねを残し、彼女のもとへと足を運びます。びくりと佐助は反応し、両脚にちからを込めますが、まるでその場に縫いとめられたかのように、動くことができません。師匠がぎりぎりの距離まで顔を近づけるのを、ただただ目を開いて見返すだけでした。
むっと、強烈な匂いが佐助の
『佐助よ』
『はい』
自身が発した声に、佐助は驚きます。甘さを含む
しかし反して、白雲斎は動じた素振りを見せません。むしろ薄く微笑み、弟子の返答に得心します。
そして。
『――お前ももうそんな
じっと彼女を見つめます。獲物を見定める肉食獣のように目を細めます。
対する佐助は、完全にされるがままでありました。師の視線がゆっくりと全身をねぶるのを、ただただ見つめるきりでした。不意に下腹部に、熱いものを感じます。疼きに似た軽い痛みに、思わず手をやりました。その痛みは、最近始まった、月のものに似てました。ですが、指には血がついておりません。でも、これって……、知らずに腹部をさすりながら、彼女は思います。似てる……、でも、それだけじゃないみたい――、鈍痛と共に涌き上がる不思議な感情に、それを
ふむ、と弟子の動揺にむしろ納得した白雲斎は、手短に術の概要を説明いたします。人間の可聴域の上をいく、それら動物を召喚するすべを、どうでも良いかのように説明いたします。
『お前も、はるに憶えさせてみてはどうだ? はるの言うことなら、おおよそ理解できるのであろう?』
『ええ、まあ、大体は』
『まあ、もっとも、猿が犬と同じ耳を持っているかは、定かではないがのう』
なんなら、そのあたりにいる山犬でも飼いならしてみてはどうだ、白雲斎は簡単に言いました。
『この『術』のきもは、人間に気づかれることなく指示を出せる、というところにあるのだからな。だから先刻、お前は耳を撃たれると思って大声を張り上げていたようだが、実際には鍛えたお前の耳でも、到底きくことは叶わなかったであろう』
『はあ、そう、なのですか』
『うむ』
地に耳朶をつければ、
『――なればお師匠様』
改めて白雲斎と向き合います。背筋を正し、教えを賜ろうと心身を整えます。こうべを垂れ、師の言葉を待ちました。
ですが、告げられた言葉は、まことに意外なものでありました。
『それはまた次の機会じゃ』
えっ、佐助はおもてを挙げました。お師匠様は今まで、佐助の修行を後回しにしたことなど一度たりともありませんでした。己の後継者として佐助を選んでいた白雲斎は、自身の持つ技術のすべてを、彼女に託そうとしておりました。佐助が教えを請えば、どのような私用をも後にして、嬉嬉として手ほどきを行なうのが常でした。彼女の成長を何よりも望み、喜んでいた白雲斎が、そのような言を告げることなど、まったく初めてのことでありました。
どうしてかしら、即座に師の意図を汲もうと考えを巡らせます。まず浮かんできたのが、お師匠様はわたしに、真田のお家の内情を探らせることを
と。
『いやいや、そうではないぞ』
白雲斎が先回りをして答えておりました。佐助の心を読み、彼女の誤解を正します。
『ではなにゆえ――』
『――佐助よ』
威厳ある声が、佐助の追及を断じました。その響きに、反射的に彼女は口をつぐみます。二たびこうべを垂れました。師がこのように重重しい声音を用いるときはいつでも、何か重要な事柄を伝えるときでありました。その高説を受けるにふさわしく、彼女は粛然と端坐しなおしました。
しばしの沈黙が、緊張をはらんだそれが、二人の間に流れます。佐助は師の次の言葉を、ひたすらに待っておりました。己の鼓動が、まるで耳もとで鳴っているかのようでした。圧迫感を感じます。実際に空気の層の重みを感じるほどに、強い威圧力を感じます。
――が、それは突然、消失しておりました。佐助も自然と、顔を上げました。浮力が働いたかのように、師匠へと仰向いておりました。
『――――』
その表情に、佐助は息を呑みました。彼女の師は、彼女が今日このときまで目にしたことがない、そのような表情を浮かべておりました。なんと呼んで良いか分からない、そんな形容しがたい表情でありました。それはあたかも、喜怒哀楽のすべてを詰め込んだかのようでありました。
佐助の胸裡を、不安がよぎります。彼女は師の態度に、漠然とではありますが、胸騒ぎをいだきます。お師匠様、声をかけようとしますが、かけられません。リアクションを起こすことによって、ぎりぎりで踏みとどまっている現状が、決定的に進行してしまいそうな、そんな気がして、佐助は躊躇ってしまいます。
ですがしかし、一瞬後、白雲斎は、再び元の笑みに戻っておりました。もうその笑顔からは、先ほどの残滓のかけらも見いだせません。まるで白昼夢か幻術でも見ていたかのようでした。ただ対坐していた佐助の、その心の奧底に、おりのような憂いが残されたのみでありました。
『……佐助』
再び名を呼ばれます。はい、返す声が、弱弱しいものでありました。彼女はいまだに、恐れておりました。名のない不安に、怯えることしかできません。具体的な対処法が判らない佐助は、まるで暗闇で独り、取り残されたかのようでした。
白雲斎は、親とはぐれた子猫のような潤んだ瞳を向ける弟子に、憐憫の情をいだきます。だが佐助、心配するでない、そう心中で語りかけます。
『これよりお前に、『作法』を伝授する』
『…………』
『心して聴くがよい』
『ほわ~』
愛弟子は今や、とろけるような
『…………』
白雲斎は、弟子のさまを、微笑ましく思います。彼女の可愛らしい想像は、白雲斎には手に取るようでありました。果たして実際はどうであろうな、幸村を
……だが、しかし――。
佐助に悟られぬよう、そっと顔を
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