第01話 06

『……ってなことが、あったじゃないですか。ですからわたし、またお師匠様が何かするのかと……』

『なるほど、言われてみれば解らんでもないな』

『…………』

『ん、何じゃ、佐助、その目は?』

『……お師匠様、本当は全部わかっててやっていたんじゃありませんか?』

 疑いのを無遠慮に向けました。お師匠様なら、それくらい平気でやりそうでした。びっくりしたをして、じつはわたしの反応を愉しんでいたんじゃないかしら――、積年の経験が、彼女に疑いをいだかせておりました。

 おいおい、まさか、白雲斎は大仰に両腕を天にかかげます。芝居がかった仕草は、明らかに佐助を挑発しているものでした。先ほどと垣間見せた、母親のごとき慈しむ表情は、嘘のように消え失せておりました。今はただ、弟子をからかう、いつもどおりの姿があるのみでした。

『ほ、ほら~』

 そして愛弟子はこのたびも、あっさりと釣られてしまいます。軽佻浮薄けいちようふはくな師の態度に、彼女はつい数分前のやり取りを忘れ、鬼の首を取ったかのように嚙みついておりました。……そう、ですから佐助は、しばしの間、それらから解放されることとなりました。それら、つまり――、己のな失敗、精神の未熟さ、自己嫌悪――、それら負の感情から、彼女は解かれておりました。

『ほんっと、お師匠様ったら、いっつもそればっかりなんですから~』

 ぷりぷりと怒っている佐助は、気づけません。白雲斎の、婉曲えんきよくで遠まわしな、心づかいに。照れ隠しのように行なわれるそれを、佐助はこたびも気づけずにおりました。……ただ、無意識の領域は違いました。佐助の感知できない深い深いところには、幼きころより続けられていた、白雲斎との語らいが、大切に大切にしまわれておりました。しんしん、しんしんと降り積もっておりました。本能レヴェルでは、それは易易と看破されておりました。にやにやと物語に出てくる猫のような笑みを浮かべる師匠の、表情の裏側にあるものを。その仮面の後ろにある温かな感情を、しっかりと彼女は受け取っていたのです。

 ……その事実をおもんみると、まるで将棋の定跡じようせきのように同じ反応を繰り返す佐助もまた、じつはそうなのではないのでしょうか。優しい師の感情を素直に受け取るのは気羞きはずかしくて、なのでつい気づかないをしてしまうのではないのでしょうか。少なくとも、自分が気づいていることに、気づけていない――、そう思わせたくて、師を、そして己を、だましているのではないのでしょうか。含羞はにかむように頬を染める、その姿を見られたくなくて。……その真偽は、定かではありません。でもそれでも、見る人によっては、それはとてもとても微笑ましい、そんな光景に映ったことでしょう。幸村であったなら、きっとそれを、こう評することでしょう。

 まるでそれは、――獣の親子がじゃれ合っている、そんなようだ――、と。


『……で、さっきのアレは結局なんだったんですか?』

 白雲斎にうだうだと文句を垂れていた佐助が本題に戻ったのは、それから数分後のことでした。佐助自身、今まで何を話していたのか、暫時わすれておりました。ですがしかし、師の膝もとで寝そべっているを認め、ようやく当初の話題を想い出します。元を辿れば、お師匠様が口笛を吹く真似をしたのが原因でした。だからわたし、勘違いしちゃって、それで慌てて……、と佐助は責任転嫁をいたしました。……そこまでを白雲斎が読んでいたのかは判りませんが、再び一連の出来事を脳裡に浮かべた佐助は、もうすっかりそれらを過去の出来事として清算しておりました。反省し、分析して、次に繫げられるよう教訓を引き出しておりました。もう過度の羞恥にさいなまれることはありません。彼女はすっかり、生来の明るさを取り戻しておりました。

『それはであるな……』

 応えて白雲斎が口を開きます。

『『犬笛』である』

 そう簡潔に答えます。

 犬笛、ですか――? 師の言葉を、佐助はおうむ返しにいたします。単語の意味は即座に理解できましたが、(多分、読んで字のごとく、犬をぶための笛、という意味でしょう。)それが具体的にどのようなものであるかは、見当がつきません。

『どれ、ならばもう一度やってくれようぞ』

 言うて、白雲斎は指で特殊ないんを結びます。

『それと、先に言っておくが、耳は塞がんで良いぞ? 静かに吹くのでな』

『はい』

『――では』

 二たび、白雲斎は指を口に含みます。佐助も自然、身構えてしまいます。危険はないと解ってはいるのですが、すっかり心に傷を負っていた彼女は、師の姿に心臓が暴れ出すのを抑えなくてはならなくなっておりました。

 その様子を、白雲斎は双つので見つめます。やれやれ、微苦笑を浮かべます。まったく仕様のない奴よのう、そう佐助の心に刺さったを抜こうと言の葉を拡げます。

『ほへ(これ)、……あ、いや。これ、佐助よ』

『はっはいっ』

『そんなに緊張せずとも良い。わざわざ相手に弱点を見せてどうする』

『はい、でも……』

『――ほれ』

『きゃっ』

 白雲斎は、口に指を出し入れして、佐助を威嚇してみました。あんじよう彼女は、小さく悲鳴を挙げて、防御の姿勢をろうといたします。

『…………』

『…………』

『ほれっ』

 びくっ。

『ほれほれっ』

 びくびくっ。

『…………。佐助、お前……』

 予想以上に顕著な反応を示すわが弟子に、白雲斎は思わず呆れた声を出しました。まさかこのおるのではとうたぐるほど、佐助は律義に反応を返しておりました。しかし、えへへ~、とごまかし笑いをしている彼女は、どうやら本当に、躰が勝手に反応してしまうようでありました。

『まったく、困ったもんだのう』

『てへっ♪』

『……まあ良い。とにかく、今のようにしてだな――』

 を空けて、白雲斎は膝もとに目を落とします。そこには首を山犬が、己の主人を見上げています。つぶらな瞳が、訴えておりました。いかがいたしましたか、そう尋ねておりました。

 その鼻先に、白雲斎は己のそれを近づけます。目を細め、鼻と鼻とをこすり合わせます。まるで同じ種であるかのように、一人と一匹は、共に睦み合いはじめます。時折、瞳の奧を覗き込んで、そうであるかと、師は答えます。頷いたり、躰をなでたりし、と意思を交わしておりました。

『――とまあ、このように、に内部を探らせておったのじゃ』

 ひとしきり交感こうかんし終えた後、思い出したように白雲斎は佐助に目を向けました。無遠慮に見つめていた彼女は、はっと慌てて視線を外します。鼓動が早まっているのを、自覚します。誰にも教わってはいませんでしたが、その親密な様子は、当人以外がに覗いてはならないものだと、知っておりました。顔が火照ほてっておりました。どうしてかしら、自問します。どうしてわたしは、それを恥ずかしいと思ったのかしら――、その理由に、佐助は至れませんでした。ある一面についての知識がごっそりと抜け落ちていた彼女は、昂奮ぎみに息をつく自身を不思議に感じるのみでありました。

 ちらとうかがうと、は師匠の襟もとに鼻をうずめ、肌をまさぐっておりました。相手の匂いをむさぼっておりました。己の獣欲じゅうよく――そう、それはまさに獣欲でありました――を存分に満たそうと、は師の細いくびに舌をわせておりました。

 白雲斎もまた、不快な素振りは見せず、むしろ進んで肌をさらしているようでした。あかがねの下顎したあごに指を進め、深い体毛をなでておりました。

『っっ!!』

 二たび彼女は瞳を奪われます。心地好ここちよさそうに躰を反らせる師の姿を見、今まで感じたことのない未知の感覚に、佐助は全身が貫かれます。相変わらず、見てはならないという警告は鳴り続けていましたが、白雲斎の放つ濃密な香気にてられて、冷静な判断ができなくなっておりました。実際に大気を染色しているかと思うほどのそれに、くらくらと目眩を起こします。後頭部が痺れに似た感覚に襲われます。鼻の奧で、つんと血の匂いを嗅ぎました。何かしら、この感情は――、佐助は記憶を探りますが、類似する経験は一度もありませんでした。

『――ほう?』

 快楽に酔いしれていた白雲斎は、ですがしかし己の弟子の変調を、目ざとく認めておりました。ひと言そう発すると、を残し、彼女のもとへと足を運びます。びくりと佐助は反応し、両脚にを込めますが、まるでその場に縫いとめられたかのように、動くことができません。師匠がぎりぎりの距離まで顔を近づけるのを、ただただ目を開いて見返すだけでした。

 むっと、強烈な匂いが佐助の鼻腔びこうを刺戟します。むせ返るかのような獣のそれは、ですがが発しているものとはまったく異なっておりました。無意識に、純粋に発散させる獣臭じゅうしゅうではなく、むしろ明確な目的を持った、そんな意図的な匂いでありました。

『佐助よ』

『はい』

 自身が発した声に、佐助は驚きます。甘さを含む音声おんじょうに、彼女自身、驚いておりました。

 しかし反して、白雲斎は動じた素振りを見せません。むしろ薄く微笑み、弟子の返答に得心します。

 そして。

『――お前ももうそんなとしか』

 じっと彼女を見つめます。獲物を見定める肉食獣のように目を細めます。

 対する佐助は、完全にされるがままでありました。師の視線がゆっくりと全身をのを、ただただ見つめるきりでした。不意に下腹部に、熱いものを感じます。疼きに似た軽い痛みに、思わず手をやりました。その痛みは、最近始まった、月のものに似てました。ですが、指には血がついておりません。でも、これって……、知らずに腹部をさすりながら、彼女は思います。似てる……、でも、それだけじゃないみたい――、鈍痛と共に涌き上がる不思議な感情に、それをのがすように大きく息をつきました。

 ふむ、と弟子の動揺にむしろ納得した白雲斎は、手短に術の概要を説明いたします。人間の可聴域の上をいく、それら動物を召喚するを、どうでも良いかのように説明いたします。

『お前も、に憶えさせてみてはどうだ? の言うことなら、おおよそ理解できるのであろう?』

『ええ、まあ、大体は』

『まあ、もっとも、猿が犬と同じ耳を持っているかは、定かではないがのう』

 なんなら、そのあたりにいる山犬でも飼いならしてみてはどうだ、白雲斎は簡単に言いました。

『この『術』のきもは、人間に気づかれることなく指示を出せる、というところにあるのだからな。だから先刻、お前は耳を撃たれると思って大声を張り上げていたようだが、実際には鍛えたお前の耳でも、到底きくことは叶わなかったであろう』

『はあ、そう、なのですか』

『うむ』

 地に耳朶をつければ、四半里しはんり(約一キロ)先の足音ですら聴き分けられる彼女は、師の言葉にわずか驚きます。そんなに凄いんだ……、羨望の表情いろを載せ、坐しているを見ます。その眼差しの意味を知ってか知らずか、はことさら悠然と、己の巨体をさらしておりました。

『――なればお師匠様』

 改めて白雲斎と向き合います。背筋を正し、教えを賜ろうと心身を整えます。を垂れ、師の言葉を待ちました。

 ですが、告げられた言葉は、まことに意外なものでありました。

『それはまた次の機会じゃ』

 えっ、佐助はを挙げました。お師匠様は今まで、佐助の修行を後回しにしたことなど一度たりともありませんでした。己の後継者として佐助を選んでいた白雲斎は、自身の持つ技術のすべてを、彼女に託そうとしておりました。佐助が教えを請えば、どのような私用をも後にして、嬉嬉としてを行なうのが常でした。彼女の成長を何よりも望み、喜んでいた白雲斎が、そのような言を告げることなど、まったく初めてのことでありました。

 どうしてかしら、即座に師の意図を汲もうと考えを巡らせます。まず浮かんできたのが、お師匠様はわたしに、真田のお家の内情を探らせることをよしとしていない、というそれでした。それはなるほど、ありそうな考えです。お師匠様が、わたしがそればかりにを抜かすのではないかと憂慮をいだくのは、いかにもお師匠様らしい考えです。むうー、と頬を膨らませますが、でも確かに、もしもを斥候として送りだしたら、彼女が戻ってくるまで、何も手につかないような、そんな気もいたしました。

 と。

『いやいや、そうではないぞ』

 白雲斎が先回りをして答えておりました。佐助の心を読み、彼女の誤解を正します。

『ではなにゆえ――』

『――

 威厳ある声が、佐助の追及を断じました。その響きに、反射的に彼女は口をつぐみます。二たびを垂れました。師がこのように重重しい声音を用いるときはいつでも、何か重要な事柄を伝えるときでありました。その高説を受けるにふさわしく、彼女は粛然と端坐しなおしました。

 しばしの沈黙が、緊張をそれが、二人の間に流れます。佐助は師の次の言葉を、ひたすらに待っておりました。己の鼓動が、まるで耳もとで鳴っているかのようでした。圧迫感を感じます。実際に空気の層の重みを感じるほどに、強い威圧力を感じます。

 ――が、それは突然、消失しておりました。佐助も自然と、顔を上げました。浮力が働いたかのように、師匠へと仰向いておりました。

『――――』

 その表情に、佐助は息を呑みました。彼女の師は、彼女が今日このときまで目にしたことがない、そのような表情を浮かべておりました。なんと呼んで良いか分からない、そんな形容しがたい表情でありました。それはあたかも、喜怒哀楽のすべてを詰め込んだかのようでありました。

 佐助の胸裡を、不安がよぎります。彼女は師の態度に、漠然とではありますが、胸騒ぎをいだきます。お師匠様、声をかけようとしますが、かけられません。リアクションを起こすことによって、ぎりぎりで踏みとどまっている現状が、決定的に進行してしまいそうな、そんな気がして、佐助は躊躇ってしまいます。

 ですがしかし、一瞬後、白雲斎は、再び元の笑みに戻っておりました。もうその笑顔からは、先ほどの残滓のかけらも見いだせません。まるで白昼夢か幻術でも見ていたかのようでした。ただ対坐していた佐助の、その心の奧底に、のような憂いが残されたのみでありました。

『……佐助』

 再び名を呼ばれます。はい、返す声が、弱弱しいものでありました。彼女はいまだに、恐れておりました。名のない不安に、怯えることしかできません。具体的な対処法が判らない佐助は、まるで暗闇で独り、取り残されたかのようでした。

 白雲斎は、親と子猫のような潤んだ瞳を向ける弟子に、憐憫の情をいだきます。だが佐助、心配するでない、そう心中で語りかけます。

『これよりお前に、『作法』を伝授する』

『…………』

『心して聴くがよい』

 凛乎りんことした声を作り、佐助に『それ』を授けました。最初は不安を隠さなかった彼女も、白雲斎の紡ぐ言葉に、みるみる生気を取り戻します。そうなるよう、白雲斎はに明るい言を用いました。純粋な佐助は、師の話術にすっかりおりました。白雲斎が語り終えるころには、彼女は本来の、瑞瑞みずみずしい果実のような気質を、再び獲得しておりました。好意的な単語を努めて用いるその話術は、巧みな口調と相合わさって、聴き手に絶大な効果をもたらしていたのです。

『ほわ~』

 愛弟子は今や、とろけるような表情かおになっています。師の言葉をかてとし、妄想をしておりました。その言葉を彼女なりに脳内で再現しては、いやん、と身もだえしておりました。もうすっかり、憂いは除かれたようでありました。

『…………』

 白雲斎は、弟子のさまを、微笑ましく思います。彼女の可愛らしい想像は、白雲斎には手に取るようでありました。果たして実際はどうであろうな、幸村を俎上そじょうに載せました。あやつもまだまだ子供であるからのう、ならばもう少少予備知識よびちしきを佐助に入れておくのも、良いやもしれぬ。

 ……だが、しかし――。

 佐助に悟られぬよう、そっと顔を背向そむけます。消化しきれなかった感情が、一瞬だけに現われます。それをかくそうと、白雲斎は、静かに瞳を伏せました――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る