第17話 西の端の魔女/1
そこは世界の“端”とされていた。
方角で言えば西、その先は何処までも続く水面となっており、人々はそれを「西の海」と呼んだ。
水の上、或いは水の中を進む術を持たない人々は、その「西の海」の先に何があるのか、また「西の海」の底はどこまであるのか、知る由もないことであったし、また知ろうとも思う人は現れなかった。
その水は、「海」と呼ばれていることから分かる通り、とても塩辛く飲み水や生活用水に使うことも侭ならなかった。幸と呼べるほどの恵みも齎すことのない「海」に、人々はただ寄り添うようにして居を構えるだけで、それを基に産業を興そうなどという考えの持ち主など一人もいなかった。
野に出れば、獲物はいくらでも獲れる。森に入れば、果実や植物に事欠かない。森の中程に井戸を設け、用水の便も保たれている。そこに暮らす人々にとって、「西の海」はただ大きいだけの塩水溜りでしかなかった。
そんな不毛な「西の海」を、支配下に置くものがいる。
『魔女』だ。
「―――“檻”を破ったか」
沿岸、打ち寄せる波に乗ってゆらりゆらりとその身を揺らす海藻の、その只中。
膝下ほどまでを海に浸けながら、『魔女』は腕を組んで、陸のその先へと目を細める。
一糸をも纏わぬ姿。海藻を思わせる、しっとりと濡れた深い碧の髪。細められた瞳は清浄なる藍の輝きを秘めている。
「何れは――、と、思ってはいたがな」
目を伏せた顔は眉を立てた笑みを形作る。ザァ、と、『魔女』を中心に波が起こる。
「世界の果てにほど近い、この地に生まれた光のもの……貴様らの旅行き、同道してやろうぞ――この、世界の果てがな」
波は打ち寄せる前、その身を引く。
『魔女』がその足を踏み出す頃には、「海」はその足元を湿らせる程度にまで引いていた。
†
『さて……』
シルバは、草原の只中でその足を止めていた。
風が湿り気を帯び始めている。雨が近いのだろう。
「……どうしたの? シルバ」
背後、主たる少女が声を掛けてくる。振り向き、そしてまた、その後に続いてやってくるものたちを見る。
『そろそろ、皆も疲れた頃だろう』
「え? ……そうかな?」
歩調は、あまり変わっていないように思える。が、表情はやや固い。見知らぬ土地だ、それは仕方のないことと思う。
『じき雨となろう。そろそろ、屋根を欲する時間だな』
「雨……うーん、濡れるのはイヤだなぁ」
その背に負った大振りな布袋を揺すり、少女オルハはシルバと並んで周囲に目を凝らす。
今はなだらかな斜面となっている草原の、その頂点に立っている状態だ。高い位置となったそこからは、緑の絨毯がどこまでも続いていくのが見える。
「……この先には何があるの?」
『おやおや、主に分からないものが私に分かるはずがないであろう?』
「ん……そうだよね」
皮肉的に言ったつもりだったが、少女は特に気にしなかったようだ。シルバは笑み、視線を主と同じくする。
『鎖されていたと言っても、外との繋がりが全くなかったというわけではあるまい。そうでなければ、
未踏の地を越えれば、何所かに人の痕跡が見つかるだろう――と、そう思っていたのだがな』
「……見つからないの?」
問われ、魔王は肩を竦めて見せた。
『とりあえず、という形でこちらに真っ直ぐ進んではみたが、今のところ、それらしきものは見当たらないな』
見渡す限り、緑の草原だ。人の行き来があるなら、轍のひとつふたつあってもよさそうなものだが、それすらも見えない。
『ふむ……“檻”の管理者がすぐには現れなかったのもそうだが、この世界は“人の気配”というものがえらく希薄な気がするな。まるで……そう、既に滅んでしまった後のような』
しかし、この世界はいまだ存命の途上にあるのも確かだ。もしも世界が滅んでいるのなら、魔王が現れる必要などないのだから。
「おじいちゃんなら、何か知ってたかもしれないけど……羊肉のこととか」
『さぁ、どうであろうか。あの者さえ、何も知らぬという風情であったが』
「うん……どうして付いてきてくれなかったのかな」
声音には悲哀が浮かんでいたが、表情は疑問だ。
『考えたところで分からないものは分からん。今は前へと進むだけだ』
「……うん」
否。シルバには分かっていた。
老師ドーリヤンが、何故同道していないのか。その訳を。
しかし、それを言ったところで、少女の疑問が晴れるわけではないということも、また分かっていた。
ならば告げる必要はない。それに、
『……いずれは解ることだ』
「ん、何が?」
『この世界の真実だよ、オルハ。此処はまだ、真の姿を我々に見せているわけではないのだ』
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