オラキア
第16話 最果ての魔王
それは、この世界においては些細な変化でしかなかった。
†
西の果ての小さな森で、火の手が上がったことに気付いたものは少ない。
その森には実りもなく、また「踏み入ったものは森の呪いを受ける」という“人除け”の言い伝えによって、近づくものさえいなかったからだ。
無論、「呪い」などというものは、呈のいい言い訳だ。実際には、獣道さえない鬱蒼とした森では、何処から入り、何処へ向かうのかさえ定かではなくなる。それによって、迷い人が出るのを防ぐための、施策のひとつでしかない。
その森が、僅かな時間で完膚なきまでに焼き払われたというのに。
『……フン。誰もやっては来ない、か』
世界という大きな器にとっては、ほんの些細な被害でしかない。
切り離されていた落ち葉の山を焼き払われたところで、泰山に影響はない。
「シルバ。これから、どうするの?」
森に住む少女、魔王をこの世界に呼び寄せた少女が、不安に瞳を揺らして、魔王の横に立ち並ぶ。
本来であれば、その横に並ぶものなど、在ってはならないというのに。しかし魔王は、それを良しとして今は赦している。
『そうだな。まずは、この場を放棄し、速やかに離脱する』
「移動するの? 何処へ?」
『それは分からない。……ともかく、食糧や衣類等、持てるものは全て持て。〈
「待て、シルバ。目的もなく彷徨うのか? それよりも、ここに留まるべきではないか?」
振り返らずに指示を出す魔王の背に、老人の声が飛ぶ。
魔王は呆れたように笑み、外套を翻して振り仰ぐ。
『忘れたか、ドーリヤン。この檻は何者かによって作られたものだ。それを内より破壊した。今に持ち主がやってくる』
「ならば、それを待てば――」
『貴様は、その持ち主が自分らを救ってくれるとでも考えているようだが……ならばなぜ、檻等に閉じ込めておいたのだ?』
「それは……」
魔王はバサリと外套を振り払い、その右手を外へと振るう。
『いいか。まだ目を覚ましていないものがいるようだから、今一度言ってやろう。
貴様らは囚われていたのだ。理由はどうあれ、あの森の中に閉じ込め、そして――〈契約〉を遂行させられていた』
その言葉に、何人かの少女がはっと顔を上げる。
『〈召喚主〉たちよ。今、貴様の隣にいる〈召喚者〉は、何のために貴様と共に在るか、よく考えてみるがいい。
〈召喚者〉たちよ。貴様らは何故、〈召喚主〉たるものの呼びかけに応えたのか、今一度確認をするのだ。
――それは、同一のものではなかったか?』
得るべきを得て、それらはそこに在る。ならば、為すべきは。
『自由になりたい――と、そう思っていたのではないかね?』
今度こそ、全ての顔が、視線が、魔王へと集中する。魔王は、今度こそ両腕を振って、高らかに宣言した。
『君達は自由だ。私がそれを与えた。ならば為すべきはひとつ。
――産声を上げるのだ。己は此処にいるぞと。意志はここに有ると。
燃え上がれよ、《
次の瞬間、オルハはその背中にちりつくような熱波を喰らい、勢い数歩を前に出る。
何事かと振り返る。そこには、光が満ちていた。
「わ……」
ドーリヤンが。レーアンが。フィルマやシービィが。その場に集う全ての《魂》が、眩い光を放っていた。彼ら自身、そのことに驚いている様子だ。
「これは……!」
『それが貴様らの《魂》、生命の輝きだ。その明かりを胸に一歩を踏み出すものは、私と共に来い。それでもなお此処に留まるというのなら、もう私は何も言わぬ。好きにするがいいさ。――行くぞ、我が主よ』
「えっ、あっ、ちょっと待ってよ!」
魔王が外套を翻して、世界へと踏み出していく。その後を、オルハが付いて行く。光り輝く《魂》を抱いたものたちは、しばらくの間、それを見送っていたが、やがてそのうちの一人が、魔王と少女の後に続く。
レーアンだ。
「私は行きますわ。この世界のこと、私たちのこと、そして何より……あなたのことを、もっと知りたいから」
最後の言葉は、その足元に付き従う、彼女の〈召喚者〉
「レーアンが行くなら、私も行こっと」
フィルマが、その肩に小さな光を乗せて跳ねるように踏み出す。
「あ……」
その横に、立ち竦んでいた少女が、そちらへと手を伸ばそうとして、しかし躊躇う。眉尻を下げた顔で、どうしようかを迷っている。そのうちに、我も彼もと、レーアンの背に続くものたちが、少女を置いて行ってしまう。
「――シービィ」
名を呼ばれて、少女ははっと顔を上げる。レーアンが足を停めて、自分の名を呼ぶ。
「シービィ。私は『来なさい』とは言いません。『待っていろ』とも言うつもりはありません。あなたが、あなたの意思で、どうするかを決めるのよ」
振り向かない背が、艶やかな黒髪を揺らして言う。それからまた、確かな足取りで前を向いて歩き出す。
遠のいてしまう。その背を、シービィは未だ迷いのある瞳で見つめる。
「もー、レーアンってば厳しいんだから……いい? こういうときはこう言ってあげるの!」
フィルマが、その手をシービィへと差し出して言う。
「一緒に行こう、シービィ!」
シービィは、ようやく迷いを振り切って、その手を取った。フィルマは笑顔で、その手を強く引いて、歩き出すというより駆け出しながら、
「ほらほらっ、レーアンに置いてかれちゃうよ!」
「わ、あ、引っ張らないで……!」
躓きそうになりながら、それでも少女は、前へと進んでいく。
今は手を引かれながらでも、いつかは自分の足で、向かうべきへ向かっていくのだろう。
†
ドーリヤンは、真なる世界へと進んでいく少女たちの背を、ただただ見送ることしかできなかった。その隣には、朱の光を纏う騎士の姿がある。彼の〈召喚者〉だった。
騎士は炎を象った冑を外す。その下から現れたのは、短く切り揃えられた金髪の、碧い瞳をした青年だった。青年は黙したまま、主と同じように少女たちの背を見送っている。
「ワシにできるのは、ここまでだ……」
ドーリヤンは、静かに、言った。その背後に、立つ、影。
「オルハ……」
誰もいなくなってしまったかつての森で、老人は少女たちの背を見送り、静かに目を閉じた。
その身体を、鉄の剣が音もなく貫き、また音なく引き抜かれる。
膝を衝き、崩折れる老人。横に立っていた騎士の青年もまた、悼むように目を閉じ、その姿を光と散らせた。
老人を死に至らしめた影、ローブを纏い、フードを目深に被った、男とも女とも取れない、風に揺らぐシルエットは、そのまま影となって姿を消した。
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