第60話



「坊ちゃん。……また、御眠りになられるのですか?」


 寝室へと向かうと、ガイウスに背後から声をかけられる。

 僕はその言葉に足を止める。



 ニックは戦後処理に追われていて、なかなか時間を作れないようだった。

 今日も、僕が起きたのを確認してから安堵の表情を浮かべて出かけて行った。

 ここのところ、僕の世話はガイウスが見てくれている。



 僕は振り返って心配そうなガイウスへと微笑みかけた。


「《純潔の神》に嫌われたくはありませんしね」


 ガイウスは少しばかり困ったような顔をした。


「尊き《末妹神》たる、女神アルヴァナも、それほど狭量ではあられせられないと存じますが……」


 《末妹神》。それも《純潔神》にして《技能の神》、《機知の神》にして《天上の主宰者》である《アルヴァナ》の尊名のひとつだ。

 ふと、ひとつ疑問に思っていたことを訊いてみることにした。


「そういえば、ガイウス。ひとつ訊いてもいいですか?」

「なんでしょうかな、坊ちゃん?」


 首を傾げるガイウス。


「その《末妹神》という《アルヴァナ神》の尊名ですが。《アルヴァナ神》は神々の末っ子なのですよね?」

「ええ、左様にございますな。……それが?」


 唐突な僕の質問に、ガイウスはちょっとぽかんとした顔をする。


「なぜ、末っ子の《アルヴァナ神》が一番偉い神様なのでしょうか? 人族だって、長子相続なのに」


 うん? ガイウスの口が半開きになったぞ?

 おかしなことを訊いてしまっただろうか?


 ちょっとして、ガイウスは快活な笑いを上げる。


「やっぱり、おかしなことを訊いてしまいましたか?」

「はははっ……申し訳ございません! いえ、違うのですよ!」


 笑いながら手を顔の前で振るガイウスは、笑みに細められた目で僕を見る。


「いえね、博識であらせられる坊ちゃんに、未だこの老僕がお教えすることがあったとはと思いましてな」

「僕がガイウスから学ぶことはまだまだたくさんありますよ?」

「ほんに、殊勝であらせられる。……お嬢さまには向学心はほぼなかったというのに。老僕もまだまだ死ねませぬな」


 ガイウスは笑いで湿ったまぶたを擦ってから、改めて僕に顔を向けた。


「……お答えいたしましょう。博覧強記の坊ちゃんがご存知ないとは意外でしたが。……人族が長子相続なのは、神々が末子を尊ばれることを知っているからなのです。……坊ちゃんは神々の長子神をご存知でしょう?」


 僕はちょっと考えて思い出す。確かニックが歌った詩にあったな。


「《混沌神パノギアル》でしたよね?」

「はい。……では、その《混沌の神》がどのような神であらせられるか、ご存知でしょうか?」

「確か、《神代戦争ディアエディマキア》のあとに、すべての死者の霊魂を混ぜ合わせた神様ですよね?」


 創世神話のなかでは非常に重要な役割を担った神だと思うのだけれど、いわれてみれば、ほかの神々よりもすごく影が薄い。


「はい。左様にございます。……しかし、大変悪戯好きな神でもあられたのはご存知でしょうか?」


 僕は首を横に振った。

 ガイウスは微笑む。


「よく、子どもを躾けるときに聞かせる物語なのですが、坊ちゃんは小さなころから分別がしっかりしておられましたからな。……《混沌の神》の悪戯は悪戯の度を越しているのでございます」

「度を?」

「ええ、坊ちゃん。《陽の神》の詩を嘲弄され、《戦の神》を唆して《熱誠の神》の伴侶を寝取らせ、果ては《義侠の神》の片目を抉って地上に投げ捨てたり、と……」

「む……」


 無茶苦茶じゃないか、《混沌神》。

 ガイウスは笑いを深めた。


「ゆえに、《混沌の神》は《世界を治める七神》からこっぴどく打ち据えられて追放されてしまったのです」

「……なる、ほど。手のかかる子どもを躾けるにはいい話かもしれないですけど、ちょっとなんとも……」

「そして、《混沌の神》は悪戯をする子どもを攫って、《妖獣レムレース》に変えるとも申します」

「はぁっ?」


 わけがわからないぞ、《混沌神》。


「要は、見込みがあるから手下にするわけですな。……長子がそのようなので神々は末子を尊ばれるとも、すべてを産み出した母たる《冥府の女王》が地下へ降られたゆえに、その対極たる《末妹神》を《天上の主宰者》に据えられたとも申しますな。……逆に人族は神々を憚って長子を立てるようになったとも、または《混沌の神》に子を攫われぬように、彼の神と同じ長子を立てるようになったとも申します」


 ガイウスはにっこり笑いながら言った。


「《混沌の神》の機嫌を少しでも取るためでございますな」

「……なる、ほど……」


 僕はガイウスにお礼を言って、子供部屋への階段を登る。

 階下でガイウスが「坊ちゃんがご心配召されることはありませんぞ。それよりも、無理はなされませんように!」と声をかけてくれる。


……アンリオスと話をする前に妙なことを聞いてしまった。

 神々も、たいがい複雑な家庭環境を持っているみたいだ。




――僕の体はベッドに横たわって、毛布にくるまっているはず。


 だけど、僕の前にはアンリオスが立っていた。

 これはなんと言うべきなのだろうか? 心象風景?


 懐かしい夜の森。木々のざわめきと、大きな岩に寄り添って寝息を立てる《人馬ケンタウルス》たち。

 そして、月光に光沢を放つアンリオスの馬体と逞しい人の上半身。

 豊かなヒゲは彼の顔を蔽っていて、心強いとび色が僕に注がれていた。


「ふむ。またここか、オルレイウスよ?」


 僕は、鼻を鳴らす彼に頷いて微笑み返す。


「いつも、ここで鍛錬しましたからね」


 気絶を繰り返すうちに、あの暗闇は僕の自由になるのだということがわかった。

 それがしっかりとわかるようになるまで、何回、アンリオスとの朦朧とした邂逅を繰り返しただろう?


「今宵は、もう、うつけておらぬようだな?」

「はい! ……だって、アンリオスとは話したいことが山ほどあるますからっ!」



 そうして、僕はねだった。まるで子どもそのままに。

 アンリオスの武勇譚を。

 彼が築いてきた誇りの重みを。


 アンリオスが、アリオヴィスタスのことで僕を責めたのは、一度きりだった。

 ここのところ毎回。彼は僕に語って聴かせてくれていた。


 《人馬》の英傑たる、彼の戦いの数々を。

 それはアンリオスらしくないことで、彼らしい訥々とした語り口だった。


 アンリオスは常に、自分よりも彼の敵対者たちを称賛した。


 あの男の一撃は、我が膝を地に着かせた、とか。

 彼の者の知略によって、我が命は戦場の露と消えるはずだったのだ、とか。



「でも、アンリオスは勝利したのでしょう?」


 僕がそう尋ねると、いつでもアンリオスは鼻を鳴らして応えた。


「勝利などはどうでもいいのだ、子どもよ。彼らの誇りはなお生きている。……枯れはせぬのだ。潰えはせぬのだ……」


 アンリオスの言葉の意味が僕にはよくわからなかった。

 それでも、なんとなく、どことなくわかるような気もした。

 彼は先を続けた。



――そして、今回、彼の物語りは終戦の英雄に及ぶ。

 《デモニアクス》だ。



「……《デモニアクス》。あの男は、どのような我が敵とも異なる者だった」

「《福音持ちギフテッド》だったからですか?」

「ふむ。それもあろうが、そうではない。……あの男には、我が命を奪う意志が毛ほども無かったのだ。あの男だけは、我が誇りに刃を向けていた」


 それは、どういうことなのだろうか?

 僕が口を開く前に、とび色の瞳が僕に注がれていた。


「オルレイウス。小さきものよ。……あの男は剣を振るいながら言ったのだ。無意味だ、と。我が腕は無力だ、と」


 僕は絶句した。

 アンリオスが無力だって? そんなわけがないじゃないか。

 僕の顔を見て、アンリオスは鼻を鳴らす。


「怒るな、子ども。……見事に、我が手はあやつに届かなんだのだ。傷ひとつ負わせられなんだ。……あやつの言ったことは、およそ正しい」


 ふたたび、絶句。

 だけど、アンリオスは満足げだった。


「しかし、言うたのだよ、あやつは。……なお、命は尊い、と。だから、自分は命は奪わないのだ、と。な……」


 それは、アンリオスの生き方を完全に否定した言葉のように思えた。

 戦場に立ちながら、兵に敵を殺させておきながら言っていい言葉とも思えない。

 アンリオスは僕の表情を読んだのか、また鼻を鳴らした。


「世迷言を言うな、と我が喉は吼えた。貴様の率いるものどもが、万と我が同胞を殺しておるではないか、と。な……しからば、あやつはなんと言うたと思う?」


 アンリオスは目を細めて僕の顔を窺い、続ける。


「すまん! だが、撤回はしない! ……だとよ」


 僕は唖然としてしまった。

 そんな英雄がいていいのだろうか?


 アンリオスは月を仰いで、目を細める。


「妙な男であった。……そのような無理をのたまいながら、剣戟はなお重く、瞳に一片の曇りも迷いも無かったのだ。……そして、最後まで我が命を奪おうとはせなんだ。……我が脚が逃れることを選んだときも、ついにあの男は追ってこなんだ」

「…………でも、アンリオス? ……《デモニアクス》の言葉はキレイ言ではないですか……?」


 月から僕へと視線を移し、アンリオスは笑うように鼻を鳴らした。


「しばらくは我が腸も煮えていた。しかしな、オルレイウス。考えてもみるがいい」


 首を傾げる僕に静かな言葉ととび色の瞳が注がれる。


「だからこそ、かの戦を終わらせたのはあやつだったのではないか?」


 意味がわからなかった。アンリオスは続ける。


「……我らは戦わねばならん。なぜならば、敵の誇りを背負っているからだ。練り上げられた技と命を捧げて、なお贖えぬ誇りを募らせているのだ」


 それが、アンリオスの言葉の意味。

 僕がアリオヴィスタスと戦っていたときに少しだけ接近したもの。


「それを数百年も重ねていくのだ、オルレイウス。――技の其処此処に彼奴らの影が重なっていく。我が膝が折れれば、それは彼奴らの誇りに背くことだ。あるいは、同時に我が命を奪う者に託すことでもある。名誉と栄光は膨らみ、我が名は英傑という尊名を冠される」


 そうだ。彼は一度も英傑と呼ばれることを嫌がりも恥ずかしがりもしなかった。

 その言葉を正面から受け入れられるほどにアンリオスは誇り高い。


「だがな、幼き者。……そのような我らが、果たして戦を終わらせることができただろうか?」

「アンリオス……?」


 《人馬》の紛れもない英傑は、四つの膝を折って馬体を地面にゆっくりとつけた。

 そして、告げる。


「おそらくは、無理だろう」

「どうして? ……だって、アンリオスは……」


 だけど、彼は力無く首を振った。


「重すぎるのだ、子ども。積み重なった誇りは、我が脚に立ち続けることを強いて、萎えることなど許さぬ。腕は力み、技の冴えは増していく。……ゆえに、我が誇りは更なる戦を、更なる敵を求める。……実際に、《ルエルヴァ人》の傲慢をただそうとしたように」


 僕にはどこか納得できない。だって、アンリオスは優しくて正しい。

 資源は有限で、それの分配はどこの世界でだって問題になるはずだ。

 アンリオスが《ルエルヴァ人》を抑えようとしたことも無理のないことのように思える。


 彼の誇りが、彼を突き動かしていたとは僕には思えない。

 その彼が、その彼の天を衝きそうな誇りが、戦争を望むなんて。


 ふと、アンリオスが僕を見ていた。


「オルレイウス。……貴様、アリオヴィスタスを殺めようとしたな?」


 二度目の問い。

 その声は相変わらず静かで。でも、少しだけ哀しそうだった。


「……それは、そうですけど。……でもっ」

「同族を殺めれば、誇り以上に心を喪う」


 心。アンリオスはいつものしゃがれ声で続ける。


「このようになって、ようやく知れた。……アリオヴィスタス……彼奴は父ウァレスをその手にかけたときから、いや、その前から己の心を食らう獣を飼っておったのだ。……獣は求める。己の足の下でもがく者を。……呵責に代わるものは、誇りか、野望でしかない。そして、敵が親しければ親しいほどに、近ければ近いほどに、そこから逃れようとするものだ。……己は、殺した者とは異なるのだ、と」


 なにかに、似ている気がした。


「離接……そして、連接。でしょうか……?」


 アンリオスが少し考えるようにしてから頷いた。


「ふむ。確か、《魔法》に関する言葉だったな。……離接とは、《魔力オド》が《魔法》と自身のものに別れること。連接とは、《魔力》が異質化しながらも己のものであるということ。……だったか?」


 僕は頷いた。

 確か、ニックの説明と僕が読み漁った資料によれば、連接状態の次に離接状態が来る。

 だけど、アンリオスの誇りと野望の話は少し違う。


 近ければ近いほど、逃げようとする。それはどこか離接状態に似ていた。

 《魔法》と、自分の《魔力》。どちらかへと流れる《魔力》。


 そして、遠くのものに同じ性質のものを見出す誇り。それはどこか連接状態に似ている。

 《魔力》は異質化していても、なお、自分のもの――それと同じであることに変わりはないのだから。


「言い得て妙だな。……さて、では幼き者。我が蹄の跡を眺める者よ」


 アンリオスがゆっくりと立ち上がり、僕を見る。


「貴様は、なにを選ぶだろうか?」


 そう言って、アンリオスは僕に背を向ける。

 彼のヒゲに蔽われた顔が微笑んでいるように見えて、僕は悟った。

 いつもと違う。


「……アンリオス?」


 僕は周囲を見回した。いつのまにか、寝息を立てる《人馬》たちの姿は無い。

 もう、見慣れたあの大岩も無い。森の木立も消えていく。


 ただ、月光に照らされてアンリオスは歩み去る。

 僕に背を向けて、月夜を歩いていく。


「――アンリオスっ!!」


 僕は追いかける。まだイヤだ。だって、僕の答えを彼は聞いてもいないじゃないか?


 いや。

 答えを言わないで彼を引き留められるなら、僕は死ぬまで答えないだろう。


 まだまだ話足りないんだ。

 彼の武勇譚は尽きないだろう?

 そうでなくてもいい。お説教だっていいんだ。彼のしゃがれた声のお説教をずっと聴いていたいんだ。


 目を閉じて、眠りに落ちて、この森に来るたびに彼に会って話をしたいんだ。

 彼の言葉に耳を傾けて、一緒に月を眺めていたいんだ。


 だから、アンリオス。

 僕は彼の揺れる尻尾に手を伸ばす。


 でも、しっかりと掴んだはずの彼の豊かな尾は、まるでそこに存在していないかのように僕の掌をすり抜けた。


 ああ、そう・・だった。

 ここは夢の中で、彼は魂だけだった。


 だから、僕が触れるはずなんて無かったんだ。


 自然と、どうしようもなく、涙が溢れた。

 僕は叫ぶ。声の限りに叫んだ。


「――ごめんなさいっ!! ごめんなさいっ、アンリオスっ!!! ……あのとき、僕が……」


 そのとき。

 僕の頭が撫でられた。


 まぶたの闇が迫っていて、遠くでしゃがれた、でも、雄々しい、痛快そうな笑い声が聞こえた。



――ふたたび言おう、子ども。……謝るな、友よ。胸を張れ、オルレイウス。我が心は、貴様の誇りに打たれたのだ! ――



…………ただ、僕の頭に、誰とも知れない掌の感触だけが残っていた。


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