第61話




 〓〓〓



〈――ルエルヴァ共和新歴百十年、ザントクリフ王国歴千四百六十七年、ヘカティアの月、二夜



……なにを、どのように書くべきだろうか?

 オルは確かに、状態を快復したように思う。彼の体と精神を蝕んでいた《魔力オド》の気配が完全に拭われている。


 信じられないことだが、オルレイウスはもう大丈夫だろう。


 私はここに至っても、彼の父親らしい務めを果たせなかったのだ。

 というより、その役目を奪われたのだ。



 順序良く行こう。

 アンリオスの魂の関与が判明してから、十日ほど。今日まで、私は日々に追われていた。


 戦争が終了し補償がなされたとはいえ、《ザントクリフ王国》は問題をいくつも抱えている。

 商人たちへの借財の返済には開拓による材木などの資源と、そこからの収穫が充てられる予定だが、同時により安価な穀物が南から流れて来る。穀物の生産振興だけでは完済には到るまい。

 新たな資源、これまで注目されてこなかった海産物や鉱石、そして新たな資源などの探索・採集も急務となっていた。


 同時に、債権と債券の売買について《グリア諸国法》と《ルエルヴァ国法》の条文を調べておかなければならなかった。

 小規模なギルド株などの売買は《グリア地域》でも行われて来たことであり《グリア諸国法》も《ルエルヴァ国法》を参考にしたものであったが、商業活動が活発な《共和国》においては、条文の追加が年に数度の割合で行われている。


 《商会ギルド》と直接取引をする予定は今のところないが、念のために《ルエルヴァ国法》について調べておいてくれとマルクスに言われていた。

 私が《共和国》にいたのは十数年前。条文の追加は重なっているだろう。

 分厚い先年版の《ルエルヴァ国法》の頁を宮中伯や部下らと繰り、《騎士》たちと周辺の地勢を調査する日々。


 ここ数十日というもの、私はそれらの任務に忙殺されていた。

 私の思考が千々に乱れていたことは確かだ。


 オルレイウスのこと。イルマの接近。この国の行く末。

 そして、私が思い悩んでいた今夜、冬の嵐がやって来た。


 轟く雷鳴と猛烈な吹雪。私は雪に凍えながら帰宅した。ガイウスが温かい麦粥とともに迎えてくれたのは有り難かった。


 ガイウスにオルの様子を聴いて、彼に床を勧めた私は独り仕事をしながら考えるともなく考えていた。

 この時期の降雪は珍しくないが、近年まれに見る吹雪だ。まさか、どの神々かの怒りに触れたか、と。

 私とオルレイウスが天候に干渉したことに怒っているのではないだろうか、と。


 そんな夜更け。意外な人物が我が家を訪れた。イェマレン《高位司祭》。

 訪れを告げる彼の厳めしい声に、私は《魔力》の揺らぎを感じた。

 それでも、私は警戒しなかった。イェマレンほどの実力者ならば周囲の《魔力》に影響を与える。


 だが、扉を開けたとき、私はその考えが間違いだったのだと気づかされた。

 私の肌をひりつかせるほどの力の奔流。ただの《魔力》では――いや、《魔力》であろうはずがない。


 私は雪を払い落し、風にはためく白いローブ姿のイェマレンに問いかけた。


――いったい、なにを連れて来た?


 イェマレンは相変わらず厳めしくしかめた顔のまま、私の背後を眺めていた。

 瞬時に、背中に鳥肌が立った。


 家のなかを振り返る。


 玄関からリビングへと到る廊下。

 見慣れたはずのそこにさきほどまでは無かったはずのフードを目深にかぶった背の高い人影。

 ゆらめくランプの灯りに、ローブの袖から萎びた指が映えていた。老人の枯れ枝のような細い指。


 玄関扉から吹き込む雪と風にも漆黒のローブは揺らぎもせず、その姿は薄暗い廊下を家の奥へとゆっくりと進んでいた。

 肩幅の広い細身の老人の背中。


 だが、迸る力。感覚に優れた《魔法使い》でなくとも、気づくことができるであろうその異様さ。

 それは、《陽の神》――《アプィレスス》のそれよりも濃く、あれとはまったく異なったもの。



「《義侠の御神》――《ヴォルカリウス》様にお越し願った」


 イェマレンは厳めしくもうやうやしくそう言った。


 《既知の神》にして《疾風の》。《旅人の護り手》にして《世界を治める七神》のうち地上を漂う一柱。

――《義侠の神》、《ヴォルカリウス》。……その神が、私の眼の前で空気と《魔力》をゆがませながら顕現していた。


 そして、彼の神こそは《特異司祭》たるイェマレンがもっとも尊崇する神でもある。


……イェマレンが《義侠の神》をどのように呼び出したのかは、わからない。

 だが、彼は人族にしては長命の、その長い生において《義侠の神》を信仰し続けて来た者だ。

 私が心ならずも《陽の神》に気に入られているように、厳格な《高位司祭》たるイェマレンが《義侠の神》に目をかけられていることは知っていたが。


 とにかく、《義侠の神》は確かに我が家の中に存在していた。



……なぜ……?


 私の頭は混乱し、脚は竦んでいた。目の前の存在――それは、私の力が到底及ばないものだった。

 目を眩ませていた私の背中に、ふたたびイェマレンの声がかかった。


「……《神官団》よりお前の監視に派遣されて、早、百二十年。……《大神殿》の若造どもにはともかく、御神には《祈り》によって逐一ご報告申し上げていた。お前の子のこともだ。もっとも、《既知の神》たる御神にそれは無用に等しいことだが」


 私は思わずその顔を振り返った。

 百二十年あまりの付き合いになる私にだけわかる程度に緩められた声と口元。


――突然、雪とともに強風が吹き込んだ。

 私は頬を斬り裂くようなその勢いに目を細め、改めて影を追う。《義侠の神》の姿が消えている。

 私が疑問の視線を投げると、イェマレンはゆっくりと頷いた。


「あの子の許に行かれたのだろう。……上か?」


 二階のオルの部屋。私がイェマレンを置いて二階へと駆け上がると、ベッドの上に横になったオルの頭を《義侠の神》が鷲掴みにしていた。



――神々というものは、およそ地を這うものに対してどこか狂っている。

 私の体が勝手に動きだす。攻撃魔法だ。加減など無意味。消滅させるつもりで――


 しかし、動かない。いつまにか広げられていた神の片掌が、私へと向けられていた。


 それだけで動かなかった。爪の先ほども。まるで、その掌によって見えない壁へと押し付けられているような。

 《束縛魔法》に近い。だが、それ以上の力の奔流。

 私はそれでもその神――《義侠の神》を睨んだ。


 だが。《義侠の神》はオルに顔を向けたまま、私の敵意など歯牙にもかけないままに、平板な、力のこもらない声で語った。


「ワシの領分に踏み込むとは、身の程を知らぬ。加えて、この名に誓った父との誓約を違えようとしたか」

『ニコラウスっ!! くそ野郎っ!! なんてものを上げやがるっ!!』


 《ピュート》の絶叫がこだましていた。

 家鳴りするほどの力の対流。私の瞳に踊る力の奔流。木の柱も、白土の壁も、床板も、窓を守る鎧戸も、すべてが悲鳴を上げていた。

 柱がうねり、壁に罅が入り、床がめくりあがり、《義侠の神》がそこに存在するというだけで、空気が耳を聾するほどに震えていた。


 今や、我が家の我が子の部屋は、この世でもっとも危険な場所のひとつになっていた。

 それらを意に介さず、《義侠の神》は少しだけ揶揄からかうような響きをその声に含ませた。


「久しいな。そして、情けない。《アプィレスス》のはだを貫き、肉を裂いた爪牙はどこへやった? 不眠不滅の《竜族ドラコーン》」

『うるさい!! ほっとけ!! どっか行け!!』


 憐れっぽい悲鳴をあげる《蛇》。


――《陽の神》の膚を貫き、肉を裂いた? 不眠不滅の……


 とうとう、私は《蛇》の正体を知った。


 《巨神族タイタン》に創造され、《神代戦争ディアエディマキア》を戦った不滅の竜。

 彼の戦争をさえ生き延び、のちに《アプィレスス》に討たれた存在。


 太古から存在する《妖獣種レムレース》の王の一体にして、私と同じく《アプィレスス》を恨むもの――


「そうはいかぬ。ワシはお前の宿に用がある」


 《義侠の神》の黒々としたローブからさらに大きな力が迸った。


 総身から血の気が引いた。神々の強大な力が未だベッドで横たわる我が子へと向けられていた。


 私は叫ぶ。

 待ってくれ、と。

 私から息子を奪わないでくれ、と。


 もっと不様なことも喚いたかもしれない。



「誰が奪うと言った。ニコラウス・アガルディ・クルーティ。いや、ニコラウス・アガルディ・ザントクリフ・レイア」


 言い終わると同時に、《義侠の神》がオルの頭から手を放した。

 神が私を縛り付けていた腕を下げると同時に体が解放される。私は慌てて、オルレイウスへと駆け寄った。


 オルの顔には生気が満ちていて、呼吸もしっかりとしていた。今や体を包む《魔力》は彼の色のみだ。


 無理矢理、オルレイウスへと伸びる《魔力の海》を引き剥がしたのか? なんという力業だろう。

 どうしたことか、オルの目尻からはただただ、涙が流れていた。


「貴様には借りがある。《アプィレスス》が貴様に近づくを看過したは、人族の勝利を願った末妹に絆された母の願いゆえであった。とはいえ、貴様には酷であったこと承知している」


 私が驚いて振り返ったときには、もう、その姿はなかった。

 オルの部屋に渦巻く強風に乗って微かな声が響いた。


「ニコラウス――懐かしい名だ」


 そして、《義侠の神》は消えた。

 《疾風の》尊名の通りに。




「……御神は《義侠》という御尊名を貫かれる」


 一階に場を移し、椅子を勧めた私にイェマレンは卓に着くなりそう言った。


「《義侠》とは、既往と人倫に報いることだ。弱者を救い、誓いを遵守することだ」


 しかし、オルレイウスは誓約を破ろうとした。

 私がそう言うと、イェマレンの口元にまた私にしかわからない程度の微笑が浮かんだ。


「だが、それ以上に弱き者を救った。……そして、御言葉のように、御神はお前に対し悔悟を抱えておられる……あの子が踏み誤らねば、あの子の命をお前から奪うようなことはなさるまい」

『――オルレイウスには神罰が無縁ってことかっ!!』


 二階のほうから私たちの会話に聞き耳を立てていたらしい《蛇》の歓声が聞こえて来た。

 イェマレンが厳めしい顔で天井、オルの部屋のあたりを睨みつけた。


「意外に大物だったな、あれは。……どうにかせねばなるまい」


 そうだ。不眠と不滅の竜。


 やつが私に同情的だった理由は、《アプィレスス》に討伐された経験からだったのだろうか。

 敵の敵は味方、それに近い感覚のようだ。


「《陽の神》にあれが討たれたのは、《魔族戦争》の遥か以前、《神代戦争》から間もないころのことのはずだ」


 私はイェマレンの言葉に頷いた。

 つまり、不滅の竜の肉体は復活している可能性がある。


「だが、あれは蛇の姿で現れた。……つまりは」


 どこかに本体を置いて、蛇の体によってオルレイウスに干渉するつもりだったということ。

 そして、おそらくはあれの本体は無傷のままで、今もどこかに存在している。


 私の言葉に、イェマレンは頷くと、ゆっくりと席を立った。


「もう、朝も近い。……あれのことについては《神官団》に問い合わせてみよう」


 椅子の背に掛けたローブを羽織りながら、イェマレンは玄関へと向かった。

 私も席を立ち、彼の見送りに玄関へと歩む。


 ひとつだけ気になっていたことを思い出す。


 なぜ、《義侠の神》の意向に副っていたとはいえ、あの神を招いたのか?

 《義侠の神》がオルレイウスを救うと知っていたのだろう?

 イェマレンは、オルのことを嫌っていたのではなかったか?


 殺すべきだとさえ言っていたのに。


「嫌いだ。そもそも、お前は知っているだろうが? 子供は好かん」


 そうだった。

 昔からイェマレンの性質は変わらない。


 元々、《神官団》に所属していた《デモニアクス》と友となった私を警戒した《大神殿》が送り込んだのが、《デモニアクス》の師のひとりでもあった彼だった。

 《デモニアクス》が止めてくれなければ、私は彼の戦棍メイスに頭を潰されていたことだろう。


 その彼もかなり老いていた。

 人族としては類い稀な長命で、矍鑠かくしゃくとして見えるイェマレンも、私の記憶が確かならば百五十歳はとうに超えているはずだ。

 もう、戦棍を振るって戦場を駆けられるほどの力は残っていないだろう。


 私の瞳に浮かんだ感傷に気づいたらしいイェマレンは鼻で笑った。


「長命を誇る種のくせに。……お前のそのようなところも、昔から好かん」


 私は思わず苦笑してしまった。


 去り際にイェマレンは言った。


「父が生かした命を、あたら捨てようとする小僧なぞは、もっと好かん。……かつての言葉を撤回するつもりもない。死すべき者はなお在る。……しかしながら、ただしておくべきだろうな。……今のところ、あの子に死は価しない。……過たせるな、《大公》」


 彼の背を見送りながら、私は呟いた。

 頑固爺め、と。



 昔、私の初めての人族の友、《デモニアクス》が言っていたことを思い出す。

 イェマレンは、気に入った者ほど「好かん」という言葉で評するのだ、と。


 確かに、友が言っていたことは間違いではなかったらしい〉



 〓〓〓



 僕はベッドの上で目覚める。何事もなかったなかったように。

 毛布はしっかりと僕の体にまとわりついていて、それでも僕の意識ははっきりとしている。

 でも、確かな喪失感だけが頭の奥底で鳴り響いていた。



――アンリオスはもういない。



 ガイウスが僕の部屋に来て、驚きと喜びの歓声を上げていた間も、《ピュート》が上機嫌で影の中から歌を歌っている間も。

 僕の体は虚脱感で空っぽだった。



「……アンリオスは、もう行ったんだね?」


 気づけばベッドに腰掛けたニックが、僕の頭に手を伸ばしていた。


「《双生の神》の詩を憶えているかい?」


 僕は頭を撫でるニックの顔を見る。

 ニックは悲しそうな微笑みを浮かべていた。


「……類い稀なる英雄も、またその命を散らすもの。しかして、夢に落ちるもの。《慈愛の神》の、優しさに。まどろみ落ちて、眠るもの。不眠不滅は、ひとならじ。《冥府の女王》、その腕に。抱かれ憩うは、喜びよ。……ただ、ふたり。アルスとアレクの、心の臓。同じくひとつの、早鐘に。ふたつの体を、動かして。《双生神》は、なお進む。《すべての母》の、慈しみ。それも、彼らは顧みぬ。ただ、女神が諦めた。たった一柱、双つ神……」


 囁くようなニックの詩。その歌声に、僕は首を横に振る。


「ニック。理解しています。……死は、救いなのですよね? だから、アンリオスも今頃は《冥府の女王》のところで、ゆっくりと……」


 言葉に詰まる。

 ニックは僕の肩を抱いた。


「ひと月。《冥府の女王》もそれほどにお待ちくださったんだよ、オル。……《魔物種オルカ》や《妖獣種レムレース》でもない限り、魂のみでいることは苦痛を伴うという。《双生の神》のように、神々の血を引いていなければ、肉体を取り戻すことも出来ない」


 苦痛。その言葉が僕を苛んだ。


 快活なアンリオスの声からは想像できない。彼は僕と話していたときも、魂の苦しみに耐えていたのだろうか?


 アンリオスは僕の考え違いをただすために、《冥府の女王》を待たせていたんだ。

 それは同時に僕を守ることでもあったのかもしれない。


 そして、きっと彼とニックが僕を《魔力の海》から救ってくれたんだろう。



――――貴様は、なにを選ぶだろうか? ――


 しゃがれた声の問いかけが僕の心に突き刺さる。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る