第59話



 暗闇。どこまでも深い闇だ。でも、この闇には続きはないような気がする。

 暗すぎて周囲のことはわからないけれど、まるで灯りの無い真っ暗な狭い部屋のなかにでもいるような気がする。

 どこか覚えのある感覚。眠りながら頭だけが目覚めているような。


 まどろみのなか。近づいて来るものがある。

 狭い闇の中にぽっかりと大きな穴が開いて、そこから遠くが見えているみたいだ。その穴の向こう側からなにかが沸騰しながら迫って来る。


 イヤな感じだ。とても、イヤな感じがする。


 覚えのある感覚だ。

 そう、気絶していたとき。アウルスにローブを剥ぎ取られる直前の感覚。


 あれがこれ以上近づいて来たら、どうなるのだろうか?

 決していい予感はしない。


 ああ、でも、もうすぐここまでやって来てしまう。

 このままではきっと、この小さな暗闇があれで満たされてしまう。


 そうしたら、どうなる――?



 体が動かないまま、どうしようもないままに竦んでしまう僕の隣で、突然、勇ましく鼻を鳴らす音が聞こえた。

 そして、びぃぃん、という弓を打ち鳴らす音――


 近づいて来ていたそれが、穴の手前で止まる。

 同時に、静かなしゃがれ声が僕を叱り飛ばす。



――また、慄いているのか? 怯えるな、小さき友。貴様は我が友にして、雄々しくも勇ましい男だろう――


 ああ、そうだった。

 こんなことで怯えていたら、きみの仲間たちにも、僕の仲間たちにも笑われてしまう。


――笑いはせぬだろう。……だが、ひとつだけただしておかねばならんことがある。ゆえに我が魂は、ここに在る――


 糺す? なんだか、いつになくこわい言い方だ。

 それに、魂がここに在るっていうのはどういうことなの?


――ふむ。……やはりうつけているか。……だが、それもまたよかろう――


 うつけて? いったいなにが? なんのこと?


――そう、気を働かせるな。それよりもだ。…………貴様、アリオヴィスタスを殺めようとしたな? オルレイウスよ――


 それは、確かにそうだけれど。

 だってそうしなければ、あのときもっと多くの人が彼によって。


…………待って。ここはどこ?

 どうして、僕は。いや、それよりも、きみは。



――……今は、これまでのようだ――



 待って。僕はまだあなたと話したいことがあるんだ。

 まだ、言いたいことも言わなければならないことも、聴きたいことも聴いておかなければならないこともあるんだ。

 あなたの声をもう少しだけ聞かせて欲しい。ねえ、――……



「……――アンリオスっ!」


 跳ね起きる。僕の視界はゆらゆら揺れていた。

 目尻から頬を伝う滴の感触。それとともに視界がクリアになる。

 懐かしい我が家の二階の子供部屋のベッドの上。僕の隣からニックが僕の顔を覗き込む。


「オル? やっぱりアンリオスだったのかい……?」


 ベッドの傍らに立って毛布を片手に持ったニックが僕の目を見ていた。

 頷き返すとともに、僕の頭が高速で回転し始める。



 そうだった。今の僕は服や毛布をまとうと気絶してしまうんだった。

 ニックによれば、《魔力オド》を使いすぎた後遺症だろうということ。


 《魔法》の技術体系は《技能スキル》外の領域に築かれていると同時に、僕の《福音ギフト》もその影響を完全には回復できない。

 それは、僕の体に描かれた《呪文》が証明していた。


 服を着ると現れ、脱ぐと消える《呪文》。

 それと同じ効果がこの後遺症にもあるんだろう、と。


 おかげで僕は現在、ほとんど一日中をベッドの上で過ごしていた。

 ニックとガイウスが日に三度ほど、僕の体から毛布を剥いで起こしてくれる。


 僕自身はこれが僕がしたことの代償なら引き受けなければならないと思うのだけど、実際に気絶している僕の世話をしてくれるのはガイウスとニックだ。

 ふたりに負担をかけるわけにはいかない。三度だけ起きた時間で、排泄と体を拭いたり、最低限の食事を済ませるようにしていた。



 なにか考えに耽っているような様子だったニックがぽつりと呟く。


「……アンリオスにはどこまでも世話になる」

「ニック?」


 切なそうな、それでいてどこか安心しているような顔を見上げていると、僕の視線に気づいたニックはゆっくりとベッドに腰掛けて僕の頭を撫でる。


「それで、彼はなんと?」

「……糺しておかなければならないことがある、って。そのために、魂がここにあるって……」

「それは?」


 僕は首を横に振る。


「わかりません。でも、アンリオスは僕がアリオヴィスタスを斃そうとしたことに批判的なようでした」


 ニックの目が細められる。


「誓いを破るつもりだったのかい、オル?」


 声は優しかったけど、ニックの顔は哀しそうだった。

 でも、僕は頷く。


「ニック。……僕が彼を止めなければ、さらに多くのひとが亡くなっていたはずです」


 戦後。報告された限りでは《ザントクリフ王国》の民兵の死傷者は五十三名にのぼった。

 アンリオスを初めとする《人馬ケンタウルス》の犠牲はもっと多い七十六名。

 多くの《人馬》が煙に巻かれて、肺を焼かれ、投げ槍に貫かれて息絶えていた。ニックの《祈り》も間に合わなかったひとが多かった。


 そして、《祈り》が間に合っても、手足を喪ったひとも多かった。


 その点において、アリオヴィスタスを斃すという判断は間違っていなかったと僕は思う。

 彼が止まらなければ《ギレヌミア人》も止まらなかったはずだ。


「それに、ニック。アリオヴィスタスと僕の闘いは、決闘というべきものでした。……互いに命を秤の両端に載せてい……」


 そこまで言いかけたとき。

 ニックは僕の髪の毛を両手でわしゃわしゃとかき混ぜる。


「ニック?」

「オルレイウス。それは良くない」


 今度は僕の頬を両手でぐいっと挟み込みながらニックは続ける。

 ニックの紫色の瞳が僕の瞳を見つめていた。


「聴きなさい、オル。きみは強い。たぶん、ほとんどの人族、そして他種族でも全裸のきみに敵う者はそうはいない」


 初めて聴く情報だった。僕はいつの間にかそんなに強くなっていたのか?

 だけど。そうニックは続ける。


「きみの行為にいくら尊い理由があっても、きみ自身がいくら強くても。それが理解されて、親しまれなければ、きみの居場所はなくなってしまう」

「でも、ニック」

「……ひとりの男の話をしようか」


 ニックはそう言って僕の頬から両手を放す。

 そして、なにかを決意したような険しい顔で、語り始める。


「その男は、ある国の貴族として産まれた。彼が産まれる前からその国はほかの国々とともに戦争をしていた。敵は違う種族。永い永い戦いの最中だ。当然のように男も戦陣に加わった。そうすることが正しいことだと彼は考えていたし、そうしなければ彼の身近な誰かが死んでしまうと思ったからだ」


 いつものような詩ではなかった。

 ニックが歌う以外の方法で、誰かの事跡を語ることは珍しい。


「彼にはわずかばかりの才能があった。その才能に頼って彼は敵を殺した。……でも、戦争はいつまで経っても終わらない。いくら敵を殺しても、戦いは終わらない。戦場で敵を殺して、多少の者を救っても、同胞は少しばかりあとには死んでいる。新手がどこからか出て来て、彼がいない間に殺してしまうんだ。敵の数は彼の仲間たちより多かった。彼の手が回らないところが多すぎたんだ……終わらない戦いに男の心は膿んでいく」


 目を閉じるニック。

 擦れた声が、ニックの喉から引きずり出される。


「敵を駆除し尽せばいいのだろうか。それとも、敵を出来るだけ酷く殺せば見せしめになるだろうか。……いつしか、男の目的は護ることから殺すことへと変わっていた。元を断てば、きっと救える命も増えると信じていたからだ。そして、男は効率よく敵を殺害していく。できるだけ早く、大量に、惨たらしく。変わっていく自分を眺めながら、男はそれでも已められなかった」


 ニックの声は沈んでいく。


「思えば男には、彼が思うほどの確かな信念など無かったのさ。……のちに彼の戦友になった者のように、敵の中に強さと誇りと心を見出すこともなく。あるいはほかの同志のように、誰かのために命を捨てられるほど、彼は強くは無かった。なにより、男の些細な才能とそれを必要とする周囲の屈強な仲間たちが、死ぬことを彼に許さなかった」


 握りしめられる拳。


「男は、敵を攻めると同時に責めていたんだ。……どうしてそんなに多いのか? なのに、どうしてそれほど弱いのか? どうしてすぐに死んでしまうのか? どうしてそれほど脆いのに抗うのか? どうして止めてくれないのか? ――どうして、殺してくれないのか?」


 声がいっそう沈んでいく。


「……男はそうとは気づかないままに死を望むようになっていたんだよ。自分の体の頑健さと才を疎み、恵まれた境遇を憎んで、それを与えた血を呪った。男の願いを叶えない周囲の者の強力さと脆弱な敵を恨んだ。そんな感情もやがて枯れていく。それでも、男は死ねなかった。代わりに彼は振り撒いた。敵に死を。味方には希望を。――それでも、戦いは終わらなかった。むしろ、苛烈になっていった。当然だ。なぜなら、男はなにも知らずに薪をくべていただけなのだから。自分の心も相手の心も焼く燃え上がる焔に、風を送り込んでいただけなのだから」


 ニックの紫色の瞳が僕を見る。


「オル。彼にはなにも無かったんだよ。彼は歩く屍だった。名誉ある死なんて、彼にとってはとっくに価値が無くなっていた。彼の周囲はそんな死で溢れ返っていたからね。同時に見据えた目的を果たせない生なんて、塵屑も同然だった。それでも、彼は死ねなかった。死ぬことを誰もが許さなかった。……そして、彼の目的そのものが変節していく。なぜなら、彼にとってはその生が永すぎたからだ。護るために立ち上がった脚は、いつしかただ死体の上を歩くためだけに。希望の生は、希望の無い生に。そして、価値のある死は、無価値な死へと。そんなふうに、男は歩いたんだ。どこにも到らない道を無感動に」


――彼にとっては、その生が長すぎた。

 ニックは言い聞かせるように、繰り返した。


「まったく度し難かったのは、男が敵のことを知らなかったことだ。敵として選んでおきながら、男はその者たちについてなにも知ろうとしなかった。いや、その種族については知ってはいたんだ。むしろ研究を欠かしたこともなかった。ただ、いつでも彼の眼差しには、なにひとつ心が無かった。敵を調べるうちに得た情報を、個体と群体における『生態』と『習性』と『反射』に分類したりとか、ね。こうすれば、こういう反応が返ってくる。ああすれば、ああいう行為に走る。それは、男の殺戮に大層役に立ったけれど、結果として決定的に全体の戦局を左右するものではなかった……」


 哀しそうな乾いた笑いを浮かべたニック。

 短い沈黙を挟んで彼はかさついた唇を開く。


「……きっかけはほんの小さなことだった。……自分の手で焼いた煙る街を歩いていたとき、男は敵の幼体の鳴き声を聞いた。乾燥した興味に駆られて男はそれを追って歩いた。生存している幼体はなかなか手に入らない。貴重な資料だ。そんなふうに考えながら。……そして、彼は見たんだ。半ば炭化した焼死体の伸ばされた手の先で泣く赤子を。男は、その赤子の回収を部下に命じた」


 たったそれだけのことだった。

 まるでなんでもないふうを装ってニックは続けた。


「その赤子は間もなく死んだ。だけど、男の脳裏には死体と赤子の姿が灼きつけられたようで、耳には泣き声がいつまでもこびりついていた。間もなく、男は姿を変えて国を離れた。周囲には情報収集だと言ってね。そして、敵に紛れた。……そうして過ごしたわずかばかりの間に、気がつけば彼には殺せなくなっていた。……ささやかな伝手を作り上げて、国に帰還した彼は友人たちに語った。もう、終わりにするべきだ、と。だけど、誰も耳を貸そうとはしなかった。当然さ。男は誰よりも敵を多く殺して来たんだから。今さらなにを言っているんだと友人たちの多くは口にし、彼が狂ったのだと考えた。かと言って、同じ理由で男は敵の許へと奔ることもできなかった。身動きが取れなくなった男は神に縋った。それが、大きな誤りだとも知らずに――」


 ニックはそこで、僕の頭に手を置いた。


「……きみが、その男と同じだとは思わない。頭のいいきみだ、同じように後悔するとは思わないさ。……けれども、いいかい、オル?」


 ニックは手で僕の髪の毛を弄びながら、僕に微笑みかける。


「きみとアリオヴィスタスの決闘がどれだけ崇高なものだったとしても、それを見聞きした者たちが同じように考えるとは限らない。……もしも、きみが彼を殺していたら、《ギレヌミア人》の恨みを買ったかもしれない。……そして、きみがアリオヴィスタスに討たれていたら、僕は私怨によって彼を殺しただろう。どんな手を尽くしても」

「でも、ニックは《ギレヌミア人》を殺さないようにしていたじゃないですか?」


 僕の言葉に少しだけ驚いた顔をして、ニックはゆっくりと頷いた。


「そうだね。……でも、それでもだよ」

「ニック、それこそ間違いでしょう?」


 ニックはゆるく首を横に振った。


「…………男が長い間、相手の心を理解しようとしなかったように。あるいは、男の友人たちが彼の最後の変節を認められなかったように。……それが厳然たる事実だとしても、認められないことはある。……そういうものさ」

「……そのひとは、ほんとうは相手にも心があると気づいていたのですか?」


 情けなさそうに、力無く笑うニック。


「……それはそうだろう? だって、相手は街を築いていた。巣や集落、拠点なんてものじゃない。文化的な生活を送る場所だ。戦略だってあった。でなければ、その戦争もとっくに終わっていたことだろう。……男はずっと前から知っていたのさ。だけど、そこにだけ目を閉じていたんだ」


 ニックは僕の頭をぽんぽん叩くと、ベッドから立ち上がった。


「さあ、下へ行こう。ガイウスが食事を用意して待ってる」


 扉を開けて僕を促したニックは、手首を合わせて髪と瞳の色を変える。

 ベッドから降りて扉へと向かいながら、気になっていたことを尋ねることに決めた。


「ねえ、ニック?」

「なんだい?」


 ニックの色の変わった瞳が僕を優しく見つめていた。


「……そのひとは、今は幸せなのでしょうか?」


 僕の質問に、ニックは目を開き、そして細める。


「許されないことだろうけれど、幸福に生きているよ」


 そう言ってニックは僕の背中を押した。

 僕は首だけで振り返って言う。


「許されないことだとは、僕は思いませんよ?」


 ニックは穏やかな笑みを浮かべて僕を急かす。



 〓〓〓



〈――ルエルヴァ共和新歴百十年、ザントクリフ王国歴千四百六十七年、ディースの月、二十三夜


 しばらく忙しかったために空いてしまったが、最近の状況を記録しておこう。


 街の状況は変化しつつある。

 武派貴族が民衆を巻き込んで王統の糾弾を始めるよりも前に、マルクスがある程度の補償を完了した。

 具体的には、一時金の給付と今年の租税の減税を発表した。


 もちろんのこと戦争の準備ですでに乏しくなっていた国庫のみでは今年の予算までは捻出できない。

 ゆえにマルクスは商人たちからの借入と、《ギレヌミア人》が置いて行ったグリア古貨の一部を充てた。


 また、ディースの月の一夜から七夜までを戦勝の休日とすることを宣言し、実際に五夜から七夜にかけて大々的な宴を催した。


 防衛戦争ではあったが、北の森にかかる《ギレヌミア人》の圧力を減じることができたため、開墾はさらに進展するだろう。

 さらに、減税によって今年の収穫は大半が民の懐に収まる。

 貴族たちには、グリア古貨の残りを盛大にばらまいて黙らせたようだ。


 その甲斐あってか、マルクスへの非難は鎮静化しつつある。

 ケットからの報告だ。


 だが、マルクスは未だにアリオヴィスタスの存在と発言を苦々しく思っているようだ。

 実際にアリオヴィスタスの人気は高く、民衆の政治への関心も高まっている。

 《ルエルヴァ共和国》から弁士のひとりでも入って来れば、天地がひっくり返る騒ぎになると、冬の今から出入国に過敏になっている。


「死人に振り回されるなど、しょうもない」


 それが、最近のマルクスの口癖だ。


 一方、もう少し長期間に亘ると思われていた戦争が予想よりも早く終結したことによって、物資の窮乏は予測されたほどではなかった。

 それでも、満たされていた穀倉の中身は減ったし、国庫は一度空になった。今は借入金で満ちているが。


「レイア王家はしばらく借金苦の生活だな」


 マルクスはそう言って笑った。


 実際、商人たちからの借財はかなりの額にのぼっている。北の森の開墾が上手くいったとしても返済には時間がかかるだろう。

 それだけの額をどのように商人たちが用意したのかといえば、《ルエルヴァ共和国》の《商会ギルド》を頼ったらしい。

 《商会ギルド》は《グリア地域》にも広く根を張っている。


 つまり、マルクスは《共和国》の《商会ギルド》に間接的に借りを作ってしまったことになる。

 マルクス当人はどこ吹く風という感じではあるが、宮中伯たちは眉間にシワを刻んでいる。

 宮宰が戻って来たときに倒れはしないか心配だ。


 宮宰が援軍要請のためにこの国を発ってから、すでにふた月が経過している。

 遠回りをしたとはいえ、遅くとも《モリーナ王国》には到着しているころだろう。

 そうすると、イルマの帰還も遠くない。



……オルの状態を彼女が知ればどういう行動に出るかわからない。

 私とオルが殺されることはあり得ない(私は半殺しにされる可能性がある)が、マルクスはほんとうに殺されるかもしれない。

 マルクス自身もどうやらそれを察しているようで、オルの状態を報告してからも、以前にも増してオルとクラウディアの縁談をまとめようと躍起になっている。


「……ひとり息子の花嫁の父を殺しはすまい……」


 マルクスが窓際で外を眺めながらそう呟いているところを偶然耳にしてしまったときは、少しだけ同情した。

 今まで、マルクスがイルマに暴力を振るわれることは多々あったが、イルマの本気はあんなものではない。

 そう。イルマが本気になれば、大概のものは死ぬ。


 彼女が《剣聖》を獲得したのは十代の後半だったと聞いている。

 さらに、イルマはそれからも二十年近い年月、妊娠中ですら練磨を欠かしたことがない。《技能スキル》の性能は練磨の方法が正しければ上昇していく。

 彼女の師のドルギアス・ゴーグが存命ならばともかく、現在のイルマはおそらく前人未踏の領域にいる。


 私がイルマの《鑑定》を行わなくなってから十年近い。

 彼女の《技能》がどれほど向上しているのかは、私にもわからない。


 ついでに、《人馬ケンタウルス》の新首領となったエレウシスの報告によれば、ネシア・セビが北の森の向こう側で体勢を整えて再起を図ろうとしているらしい。

 《ハールデス氏族》の大部分は脱落したらしく、その数は千に満たないということだ。

 アリオヴィスタスが消えた今、大きな脅威ではないが、依然として厄介な相手ではある。


 そこに帰って来たイルマが乗り込んで虐殺を開始する前に、書置きをしてオルを連れ去ってしまったほうが賢明のような気がする。

 そうすれば、イルマも私たちを追って来るだろうし、マルクスも《ギレヌミア人》も無事で済む。

 だが、現在のオルが昏睡状態のまま《以遠海ビヨンド・オーシャン》を越えられるとも思えない。


……全裸でならば問題はないだろうが、オルが納得してくれるかもわからない。



 オルレイウスの状態についてだが。

 彼の現在の状態は《魔力オド》の使い過ぎによるものだと思われる。が、私が知らない症状が現れていた。

 衣類を身に着けると昏睡状態に陥ってしまう。その昏睡状態というものが妙だった。


 ふつう、《魔力》を使用し過ぎた場合、《魔力の海》からそれがとめどなく流れ込んで、心が耐えられずに廃人となるか、肉体が《魔法》に引きずられて現象化する。

 もしくは、拒否反応でまったく《魔導の素養》を喪ってしまうか、だ。


 だが、オルは眠りにつくだけだ。

 実際に彼の体に揺らぐ《魔力》の色には彼のもの以外の色が見え、《魔力の海》が接近していることは確実だった。


 しかしながら、オルの場合はそこで均衡が保たれている。

 通常、水が傾斜を流れるようにそこまで行けば廃人になるか、《魔導の素養》を喪うかなのだが。



「なにか、ひどく安心感があるのです。……まるで、彼の背に乗っているときのような」


 そんなオルの言葉を聴いて、私にも思い当たった。


 前例は私が知る限り無い。しかし、彼ならばどうだ?


 《魔力の海》と人族をつないでしまった《夜の女神》。

 その彼女の創造物のなかでも格別に愛された彼ならば。なによりも、オルのことを気にかけていてくれた彼ならば。


――《人馬》の英傑、アンリオス。



 今日になってようやく彼の魂の関与が明らかになった。

 現在のオルレイウスは、自らの《狂気》によって《魔力の海》を引き寄せているのだと考えられる。

 同時に、それをアンリオスが防いでいるのだ、と考えるべきだろう。



……《狂気》について、オルには語って来なかった。

 《魔力の海》とそれを受け継ぎ、強要された神について語るには、まず、《巨人の王》――《巨神族の王》について、語らねばならないからだ。


 そして、私の保持するどの書籍にも、彼の神名は載せられていない。

 その存在が《新神族》――《世界を治める七神》――特に《天上》の四つ柱の罪過を、そして、なにより《純潔神》の咎をつまびらかにするものだからだ。


 ただ、古い《ドルイド》のみがそれを記録している。



…………私は迷っているのだ。


 オルレイウスには権利がある。

 そして、彼はもう、自分でなにかを選び取るほどに、この世界のことを知り行動している。



 彼を現在の状態から快復させることは、難しい。

 アンリオスが《魔力の海》を押し止めているとしても、完全な快復は望めないのではないか。


 あるいは、神の力――《アプィレスス》の力を頼れば――私の《祈り》ならばそれも可能かもしれない。

 だが、確実とは言い切れない上に、なによりも、ふつうの怪我の治癒とはわけが違う。

 オルの魂に《アプィレスス》が直接触れる可能性がある。


 そうなれば、あれがオルレイウスの存在を感知する。

 そんなことは許すべきではない。


 ならば、やはり《以遠海》の向こう側へ行く必要がある。

 だが、そうなればオルレイウスにはすべてを教えなければならないだろう。



 オルはおそらく私の正体に感づいている。

 それでも、なお、許されないことではないと言ってくれた。


 彼の優しさを信じるべきだろうか?


 それとも、彼の優しさゆえに、私は懼れるべきなのだろうか?



…………先へと送っていた問題が、今や私の背中を追いたてている。選べ、と〉


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