第58話



 僕は振り下ろそうとした手を止める。信じられないものを見たから。


 体を伸び上がらせた僕の視界。アリオヴィスタスの頭越しに、その姿はあった。

 赤く染まったぼろぼろの体。串刺しにされた胸。それでも、なおその《人馬ケンタウルス》はこちらへと三本の矢を引き絞っていた。


「アリオヴィスタス――っ!!」


 突然戦場を渡った絶叫に、僕を絞め殺そうとしていたアリオヴィスタスも動きを止めた。。

 その声は、いつも以上にしゃがれていた。アリオヴィスタスの眼が驚愕に見開かれ、同時に《人馬》の手許から矢が放たれる。


――風鳴り。それは、真っ直ぐに雨粒を斬り裂いていた。見惚れるほどに確かな軌道。

 それを放った彼の意志のように揺るぎない矢。


 そして、着弾――


「ばか……な」


 三本の矢が次々と、アリオヴィスタスの首へと突き立ち、貫通する。彼の首を真後ろから、こちらへと貫いて飛び出すやじり

 それが彼の首の骨を砕いた音が、体同士を接した僕のなかにも響いた。

 そのわずかな時間、僕は剣を振り上げたまま固まっていた。


「…………あぁ……」


 彼の口から血と共にそんな音が込み上げた。

 ゆっくりと、彼の太い腕が柔らかさを取り戻していく。


 僕の体をただ抱いているような、そんな頼りない力。

 そして、僕の軽い体重さえ支えられずに、彼の腕が落ちる。


 僕は泥のなかに降り立った。アリオヴィスタスの強靭な膝も、ついに立ち竦むことを諦めたように崩れた。


 膝を折った彼の瞳が、僕の眼の前にあった。

 静かな青色。晴天を写し取ったようなその中に、僕の瞳のオレンジ色が一点だけ射していた。


「…………うごか、ぬ……」


 破壊された喉からこぼれ落ちたその言葉は喘鳴にまみれてひどく聞き取り辛かった。それでも彼の瞳の色と同じくらいに清らかだった。

 僕はただ、頷いた。


「……やぶれた、か……」


 囁きにもならなさそうな擦れた声を拾ったのは僕の耳だけだろう。

 そこには、絶望も失望すらも無いように思えた。


 《人馬》たちが《ギレヌミア人》と打ち合う喧騒と、両者のたくさんの蹄の音。体を引きずって近づいて来る音が、その中に確かに聞こえた。

 その息遣いは荒々しく、それでも命の炎を燃やしていた。


「――オルレイウス――っ!! ……それは、我が獲物だっ!!」


 《人馬》たちに守られるように、自身の血に染まったアンリオスが進んでくる。


 脚にもふたつの胴体にも。特に上半身のいたるところが槍に貫かれていた。

 弓を持った両腕だけは、ぽっかりと空いた槍の痕が残るのみで、その代わりに流れ出る多量の血に真っ赤に染まっていた。

 それでも、彼のとび色の瞳は、強い光を喪っていなかった。


 《人馬とニコラウスの壁》を隔てて彼の息遣いが聞こえたような気はしていたけれど。

 でも、ほんとうに生きていてくれたとは。


「……ぅ……」


 アリオヴィスタスの声。ふたたび彼の顔を見ると、まぶたを閉じるところだった。

 頸椎の支えを喪った彼の首は、頭の重さに耐えきれずに空を仰ぐ。


「…………ししょ……ぅ……」


 彼の喘ぎ。吐き出される呼気と血が、停止する。鼓動も已んでいる。

 彼を突き動かしていた已むことの無いはずのすべてが、今、止まっていた。

 薄く開かれた唇の隙間には、雨が降り注ぎ、血を洗う。それに拭い落とされた血の底に浮かぶ肌の色は白く。


 僕もまた空を仰いだ。

 煤臭い氷雨を落とす曇天は黒々と。

 僕の目もまた、彼の体と同じように冷たい雨に洗われる。


 ここには晴天は無い。

 そして、戦いはまだ終わっていない。


 呼吸を整える。――右の肋骨はほぼすべて壊滅。呼吸とともに傷んだ。

 左肩も外れて炎症を起こしている。


――それだけだ。だから、走れる。


「アンリオーースっ!!」


 僕は呼んだ。幾度も呼んだその名を。二度と返って来ないかもしれないと思っていたその返事を望んで。


「……我が小さき友、オルレイウス。……行くが良い」


 喧騒にかき消されそうなしゃがれた声。それは、僕が知るものよりも遥かに弱々しかった。

 僕はまぶたを閉じる。彼の姿を見ないように。きっと、その姿をもう一度見れば決意が揺らいでしまうから。


「感謝します! アンリオス!」

「ああ、友よ」


 僕はアンリオスに背を向ける。そして、背後、ケットの仲間たちに抱えられたアークリーに向かって走り出す。


 《ギレヌミア人》はすでに僕のことを見ていなかった。

 彼らのある者は絶叫と共に《人馬》たちへ、アンリオスへと挑みかかっていく。

 その顔に浮かんでいるのは悲憤なのだと思う。折れかけたなけなしの戦意に、必死に復讐という名の燃料を注いでいるように見える。


 彼らの手足の動きには、さきほどまでのような力は感じられなかった。

 ただ、呆然とアリオヴィスタスを眺めている者も多かった。


 僕はそれらを振り返らずにアークリーに駆け寄った。

 ぐったりとしている彼はそれでもゆるい微笑を口元に湛えている。


「アークリー! 行きますよっ!!」

「……やー……オル、ちん。……や……ったぁっ――あっ」


 呟くアークリーを強引に右肩の上に担ぎ上げて、右腕でしっかりと彼の体を抱きしめる。アークリーが呻いた。


「ごめんなさい。アークリー。でも少しだけ辛抱してください! ……どうか《人馬》のみんなに助力を!!」

「おぅっ!!」


 そうアガルディ侯爵軍・(仮)のみんなに言って、僕は《人馬とニコラウスの壁》へと駆ける。


「……終わったぞ……ウァレス……」


 背後でアンリオスの湿った声が聞こえた。

 そして、威勢よく上がる声。


「者ども、ときだ!! 敵将アリオヴィスタス! オルレイウス・アガルディ・ザントクリフ・レイアの助力の元、このアンリオスが討ち取ったっ!!」

「お前たちの首領は死んだっ!!」

「去るがいいっ!! 《ギレヌミア》!!」


 口々に上がるときの声。

 それを背中で聴きながら、僕は《人馬とニコラウスの壁》を駆け上がり、戦場から目を背ける。


 そして、僕は壁の上を一目散に駆け出した。東へと――




――僕だって出来ることなら全員助けたい。でも、僕の背中はひとつきりで、二本ある腕はうち一本が動かない。

 掬えるものならなんだって掬い上げたい。

 でも、この腕じゃ、とてもアンリオスさえも運べない。


「……オルちん……オルちん……」

「なんですか?」


 肩に担ぎ上げたアークリーが荒い息で話しかけて来る。

 荒かったアークリーの息が弱々しくなっている。


 《人馬とニコラウスの壁》の上をアークリーを担いで駆ける全裸の僕を、点々とあるやぐらの上の兵士が凝視しているのがわかる。

 アークリーを担いでいるぶん、僕の脚は遅いし、《人馬とニコラウスの壁》の上は遮るものが無い。

 見られ放題だったけれど、気にしている暇はなかった。


「……《人馬》の、だんなは……?」

「大丈夫ですよ、きっと。アンリオスは強いですから」


 大丈夫じゃないことは、僕がたぶん一番わかっている。

 でも、今はアークリーだ。

 震えている。声だけじゃない。微かに頷いたアークリーの体全体が震えている。

 痙攣――


「……オルちん……に……運ばれんの……久しぶり……」

「そうですね。前はアークリーが変なこと言いいながら、剣を振っていた夜でした」

「…………」


 返事が無い。

 意識レベルの低下。話しかけろ、話しかけるんだ。


「なぜ、毒を受けたことを言わなかったんですか?」


 違う。


「早く言ってくれれば、毒が回る前に僕がこうして運んだのに?」


 違うんだ。そんなことを言いたいわけじゃない。


「……あんま……せめ……な……オレ……わりぃ、から……」


 返事だ!


 大丈夫。彼の鼓動は聞こえている。

 彼の呼吸も、彼の雨に濡れて冷えた体温も、僕の肌はしっかりと感じている。 


「アークリー、大丈夫です。……僕はあなたを助ける。それにアークリーの頭は悪くないですよ?」

「……そぅ……? ……んなこと……」

「ええ。……今のうちに聞かせてください」

「……うん……?」


 壁の下、ケットが東へ向かって走っているのが見えた。

 その前方、走る馬とそれに乗るアウルスとコルネリアがいる。

 少しだけ安心した。コルネリアも大丈夫ではなさそうだけど、生きている。


「アークリー。きみは、僕の許で働いてください。いいですか?」

「……今……さら…………」

「今さらでもなんでも。まだ、しっかりとした話をしたことはなかったでしょう?」


 アークリーの吐息のような微笑。


「……そう、……いや……そう、ね……」

「いいですか、アークリー。僕は、きみを高く買っています。アガルディ侯爵領は《人馬》を抱えることになる。彼らを怖れずに友として接することができるのは、きみぐらいです」

「……そう……?」


 《人馬とニコラウスの壁》の長さは残り東西一キロ弱だろうか。

 すでに、その半ばは駆け抜けている。アークリーを担いだ僕の体は雨雲の範囲を抜けていた。

 わずかな陽光が僕とアークリーの前途を照らしている。


 アークリーの体の震えが大きくなり、彼の体温が少しだけ上がっている。

 彼の戦いは継続している。だから、僕も、まだ走らなければならない。


「そうです。アウーは杓子定規で頑固です。コリーは威圧的です。アークリーがいなければ、僕は立ち行かない」

「……うん……」


 ケットたちの雇用も決定しているし、無碍にしてしまった貴族の子弟たちも呼び戻さなければならない。

 北の森の開発はこれからだし、《人馬》の棲み家との折り合いもある。

 開発計画は慎重に行わなければならない。


 でも、人当たりも《人馬》当たりもいいアークリーがいれば、百人力だ。

 アークリーがいれば。


――まずい。

 彼の呼吸が弱くなっているのがわかる。


「いいですか、アークリー。僕はあなたを必要としている。力を尽くしてください」

「…………うん……」


 彼の早かった鼓動のリズムが少し変わっている。不規則な鼓動。強まったり、弱まったり。


「アークリー。自分の重要性を考えてください。これからは無鉄砲は控えてください。――なにより、死ぬことは許しません」

「……オル、ちん……ごめっ……むりそ…………」

「諦めが早いです。僕が今、こうして走っていることを無駄にするつもりですか?」

「……………………」


 返事が無い。

 呼吸、弱い。鼓動、弱い。


――それでも、彼は生きている。


「――アークリーっ!! アークリー・ウォード・アドミニウス・ガステールっ!! 応えろっ! ――きみは僕に仕えるのかっ!?」


 びくりと、彼の垂らされて揺れる腕が動く。

 途端に浅く弱くなっていた彼の呼吸が、速度を取り戻す。鼓動がより、強くなる。


「…………うん……」


 今までよりも、力強く、彼は僕に返事を返す。


「――ならば、アークリー・ウォード・アドミニウス・ガステールっ!! きみは僕の臣下だ! だから、僕は命じる――」


 アークリーの開かれていた掌が強く握られる。

 心音がさらに強さを増す。


「――死ぬなっ!!」


――アークリーが微かにだけど、確かにアゴを引いた。


……僕の視界には確かに、目的のものが見えている。その前に、見覚えのある男がいる。いい踏み台が。


 そして、僕の背後から櫓の伝令の大声が聞こえる。


「敵将、アリオヴィスタス討ち死に!」 


 その声は、僕を追い抜いて次の櫓の上で復唱される――



 〓〓〓



〈――続き。



「敵将、アリオヴィスタス討ち死に!」


 跳躍しようとしていたネシア・セビがその姿勢のまま固まっていた。

 私はそれでも駆けた。マルクスが壁に接近していたからだ。


 だが、ネシア・セビは櫓を凝視していた。信じられないとでもいうように。


 その足許、壁の下をマルクスが後続を率いて、弧を描いて馬を駆けさせた。

 そして、私と目を見交わして、拳を天へと向けて突き挙げた。


「余の勝ちだっ!! ネシア・セビよ! ――総員、ときを上げよっ!!!」


 その言葉を合図に、《ザントクリフ軍》が喚声を上げた。

 《ギレヌミア人》たちが、肩を落とす。終わったというように、彼らの顔が蒼褪めていくのがわかった。

 ただネシア・セビ。彼とマルクスの距離は未だ近く、ゆえに、彼の動き次第では結果が変わる。


 もし、ネシア・セビが動けば。

 彼が、なおマルクス捕縛へと跳べば。


――だが、私の危惧は現実のものとはならなかった。


「――なにものっ!!」


 それは、あっと言う間の出来事だった。

 なにかが高速で森から飛来していた。

 なぜか西へ向かって構えられたネシア・セビの剣が、飛んだ。


……のちに判明したことだが、蹴りだったらしい。

 当人の報告によれば、まず、跳躍して右脚で剣の腹を蹴り、続いて回し蹴りの勢いで回転させた体から、返しの左脚の蹴りを繰り出したのだそうだ。

 そして、あらんかぎりの力を込めた左足でネシアの胸を蹴ったのだ、と。


 私に見えたのは、壁の向こう側へと飛び去るネシア・セビと、それとは反対、私に向かって飛んで来る物体だった。

 マルクスや兵たちの頭を跳び越えて真っ直ぐに飛来した物体は、私の馬の眼の前に土煙をあげながら墜落した。

 もうもうと上がる土煙のなかから、怯えて棹立ちになる私の馬の首へと、細い腕が差し伸ばされ、続いて聞き慣れた、切迫した声が聞こえた。


「――ニック! アークリーに《祈り》を!!」


 オルレイウスだった。

 そして、彼の肩にはアークリー・ウォード・アドミニウス・ガステールがいた。


 アークリーの体の燈火のように微かな《魔力オド》の揺れが、彼の生命の危機を私に教えていた。

 私は頭に湧き上がる数々の疑問を打ち消し、馬上で《祈り》を開始した。


 《陽の神》の力の片鱗が、空中から湧き上がり、アークリーの体へと吸い込まれていった。

 オルはアークリーの体をしっかりと右腕だけで抱えながら、その様子を眺めていた。


 良く見れば、そのオルレイウスの体もまた傷んでいるようだった。

 左肩は赤黒く、右脇腹も変色していた。手足には細かい傷から血が滲んでいるように見えた。

 それでも、オルレイウスは二本の脚で、しっかりと立ち、静かに祈るように私の顔を見つめていた。


 周囲の《騎士》からはアリオヴィスタスの死に対する喜びと共に、全裸のオルレイウスに対する動揺の声があがっていた。


「伝令を! レント伯の許へ! ……勝鬨かちどきで森を満たせっ!!」


 マルクスが《騎士》の動揺を治めるように、東の森へと伝令を走らせていた。

 街道上の壁のこちら側に残っていた《ギレヌミア人》が武器を捨てていた。

 それを、マルクスが《騎士》たちに捕らえさせた。


 一方、アークリーの生命は危機的な状況を脱しつつあった。

 それがオルレイウスにもわかったのか、彼の顔に安堵が浮かび、そして焦燥に染まった。


「ニック。……重傷者がまだ西にいます。……アンリオスが……」


 私はオルの真剣な眼差しを受けて、頷いた。


 とりあえず、アークリーは危機を脱した。

 私がそう言うと、オルは私に向かって言った。


「僕の背に乗ってください。ニックが馬を駆るよりも、そのほうが速いです」


 私にはいろいろと問い質すべきことがあった。

 だが、オルの顔と言葉には有無を言わせない響きがあった。


 私は一瞬、マルクスと視線を交わし、馬から降りた。

 マルクスの目は好きにしろと言っていた。


 オルはゆっくりとアークリーを地面に降ろすと、私に背を向けて屈んだ。

 私はアークリーの介抱を近くの《騎士》に願うと、その小さな背に体を預けた。

 そして、オルレイウスは飛ぶように駆けだした――



 なぜ、全裸になっているのか? それに《魔法》を使用しただろう?


 私はオルの背から彼への治癒の《祈り》を捧げながら、そう問いかけた。

 オルレイウスは沈黙していた。


 彼は《人馬の壁》の上を飛ぶような速さで駆け抜けていた。

 壁の下を、一頭の《人馬》がその背中にアリオヴィスタスの死体を載せて駆けているのが見えた。


 アリオヴィスタスの死体を晒せば、きっと《ギレヌミア人》の心は折れるだろう。

 そして、この戦争も終わりを告げる。


 私は、いつのまにか大きくなった、それでもなお小さいオルの背中の上で戦慄していた。

 一目見て、彼の傷は決して浅いものではないことはわかったていた。

 しかし、私が《祈り》を捧げるまでもなく、すでに治りはじめていたのだ。


 おそらくは《福音ギフト》の力。

……アリオヴィスタスの討伐に、全裸のオルのこの《福音》の力があったであろうことは私も察していた。


 だが、それでは本末転倒なのだ。

 私がこの国に尽くしていたのは、彼の安息の地を手に入れるためだったのだから。


 私と私を選んでくれたイルマが身を落ち着けられる場所は少なかった。

 私の血はイルマとは違いすぎたし、私を愛して私が愛するイルマは強く、そして高名になり過ぎていた。


 マルクスとの主従の契約よりも、この国の民の安寧よりも。

 最初はイルマと私。そして、今はイルマとオルレイウスと私の三人での安らげる場所を望んだため。私たちの息子にできるだけ多くの理想的なものを用意するためだ。

 そのために、私は……


「ごめんなさい、ニック。……僕も守りたかったのです」


 絞り出すようなオルの言葉に、おそらく、私の希望は叶わないだろうことを知った。

 オルレイウスの全裸の姿と、その能力はこの国のみなに晒されただろうし、晒され続けていた。

 彼の穏やかな居場所は、もう、この国には無い。


 なにより、彼がそれを望んではいなかった。

 私の息子は、すでに私から与えられるだけの存在ではなかったのだ。

 私とイルマが守って、匿っているだけの子ではなかった。



 私はずっと考えていた。どうやってこの子を守ろうと。

 この子が私に与えてくれたものに、どのように報いれば良いか、と。


――諦めたはずの子だった。だが、産まれてくれた。健やかに育ってくれた。それだけで十分だったのだ。

 なのに、《巨神族タイタン》が彼に与えてしまった《福音》。

 過剰な能力に、《陽の神》さえ感知しないその存在。


 この子に、どうか穏やかな生を。

 その願いは、いつしか彼のためのものではなくなっていたのだろうか?

 いや、初めから、私だけのための願いだったのだろうか?



 行く手、壁の下にアウルス・レント・マヌス・ネイウスとコルネリア・ガルバ・ケレブルーム・ネーヴスが見えた。

 オルは壁から飛び降りて、私にコルネリアの治癒を願った。

 彼女の傷は重傷といっていいものだった。


 いつのまにかオルレイウスは自分の世界を拡げていた。

 私の知らないところで、自分がその秘密を打ち明けられる友人と、命を懸けてくれる臣下を手に入れていた。

 そして、オルは彼らのために力を尽くすことを決めていた。


「アークリーのことを頼みます」


 《祈り》が終わると、ふたりにそう言ってオルレイウスはまた、私を担いで駆けた。

 私の知らない頬傷の男――《泥まみれ》のケットが、オルに向かって喚声を上げていた。


「坊ちゃんっ! アークリーは生きてるんかっ!!」



……そうだ。いつからか、オルレイウスはその腕で誰かを救うほどに成長していたのだ。

 私を負ぶってこれほど速く駆けれるほどに。


 当然のことだったのだ。

 彼の《技能》は部分的にはイルマとも遜色がない。

 私だけがそれを知っていて、私だけが隠そうとしていた。


 だって、彼は十一になったばかりだ。早いだろう。

 いくらなんでも、私の手から離れるには早すぎるだろう?


…………そう考えていたのも、私の独りよがりだったのか。



 民兵たちの群れが、壁の下を進んでいた。だけど、オルはそれには無理やり目をつぶって、西へ西へと駆けていた。

 そのさらに西奥、オルが目指す方向から《ギレヌミア人》が駆け去る音が響いていた。

 それを塗りつぶすような慟哭が私の耳にも聞こえた。


――聞き慣れない《人馬》たちの悲鳴。


 誇り高く、強靭な《人馬》たちの嗚咽が雨のなかに轟いていた。

 オルレイウスはそれでも止まらなかった。

 駆けて、走って。《人馬》の群れを目指して跳んだ。


 《人馬》たちがゆっくりと、彼に道を開けた。

 その中央で、四つの脚を折り畳んだ彼が幹に寄りかかって目を閉じていた。


 暗い茶色の髪は彼の肩を滴とともに流れ、焦げ茶の艶やかだった馬体は光沢を喪っていた。

 いつでも私やオルを静かに、熱をもって眺めていたそのとび色は、もうまぶたの底に沈んでいた。



 オルの脚がようやく止まった。

 いや、立ち竦んだと言ったほうがよかったのかもしれない。

 彼は、背中の私を振りかえる。


「――まだ、大丈夫でしょう……?」


 彼のイルマそっくりの瞳が私に期待を託していた。


 私はゆっくりと、雨に濡れそぼる森に降りると、そのまま《人馬》の英傑へと歩み寄った。


「ねえ、ニック? だって、彼は言ったんですよ? ……行け、って。……数百年も戦って来た、彼がこんなところで……」


 そう続けるオルレイウスの腕を、エレウシスが掴んでいた。



――私は思い出していた。

 彼と共に戦場を駆け抜けた数百年を。彼を救ったこともあったし、反対に救われたことは数え切れないほど。


 ふいに、頭をよぎった疑問は。

 彼と出会ったのは、果たして何百年前のことだったろうか、と。

 彼の見た目はあのころからそれほど変わらない。いや、少しだけやつれただろうか?


 数百年。同じ戦場を駆けた日もあれば、別れて闘った日もあった。ただ、同じ空と目的のためだけに戦っていたときもまたあった。

 死ぬ者は多かった。死んだと聞かされただけの者はさらに多かったあの日々。

 だが、私に会えば彼は、そのとび色の瞳で私を見て笑ったのだ。


――我が友、ニコラウス。また、互いに死に損なったか!! ――


 彼が友と呼ぶ者は少なかった。私はいつから彼にそう呼ばれるようになったのだったろうか?

 それも一向に思い出せない。呼ばれなくなったときは、鮮明に憶えているというのに。

 最後に、袂を分かったあのときを。


「ニック、……ねえ、ニック!」


 そして、ほんの数年前に再会した。

 しかしながら、彼の誇りには相変わらず一片の曇りさえなかった。

 どれほど失意に塗れていようとも、彼は変わらずにいてくれた。……私が内心、安堵を覚えるほどに。


「……ニック……? アンリオスを、救えますよね……?」


 オルの涙声に、私はとうとう思い出した。



――アガルディ大公! ……貴様もまた死を望んでいるな? ――



 そうだった。彼は最初に会ったときにそう言ったのだった。


 オルに向かって私は首を横に振り、口を開いた。


 アンリオスは、すでに救われているのだ、と。

 きっと、《夜の女神》が彼を誘い、《冥府の女王》の御許へと導かれただろう。


 なにせ、彼ほど彼女に愛された《人馬》はいないのだから。


 そして、ゆっくりとまだ幼い我が子を腕に抱き締めた。

 オルの顔は、くしゃりとゆがめられ、その目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。


「……僕が、間違えたのでしょうか? …………僕がっ!!」


 まるで年相応に泣きじゃくる全裸のオルレイウスの体を抱いて、私は首を横に振って、歌った。


……ゆえに、人。土塊つちくれの身に尊き欠片をもつ、人よ。れの身は朽ちるとも、欠片は還りて、また巡る。巡り廻りて、また出逢う。ゆえに心安うらやすにさぬるがよい。死はひとときの、まどろみゆえに……



 遠くのほうで歓喜の声がどよめいて、雨の滴とともに梢を揺らしていた。

 それに融けるように《人馬》が雲へ向かっていななき、その声に唱和するようにオルの慟哭が重なった。


 その声が、私にはまだできることがあるのだということを教えてくれていた。



――こうして、私とオルの戦争は終わった。



……そして、ここからがひとつの問題だったのだ〉


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