第57話



――自然と呼吸が止まっていた。


 でも、巡っているのがわかる。体内に力が漲って、ゆっくりといびつな円環を描いていることが。

 いや、ゆっくりとじゃないということは知っている。


 高速で打ち鳴らされているはずの僕の拍動が、どんどん遅れて聞こえていく。


 周囲の動きも止まっているようだ。

 左手で展開する戦闘が。振り上げられたアガルディ侯爵軍の剣が。それに向かって駆けているはずの《ギレヌミア人》の馬が。

 右手にいるさっき蹴った《ギレヌミア人》が後続とぶつかったままの姿勢で宙に浮いている。

 僕の眼前の雨が、球体のままゆっくりと落ちていく。


 視覚だけじゃない。

 鼓動がゆっくりと聞こえるように、すべての音が間延びして聞こえる。

 喚声がどんどん低音になっていき、やがて少しずつ跳ねて聞こえる。梢を打つ雨音が、なぜかあちらこちらで反響している。

 筋肉がみりみりと音を立て、関節が軋る音が大きく聞こえる。


 そう、僕が加速している。

 もっと適当なのは僕の脳の処理活動が向上しているという表現だろう。


 止まりそうな時間のなかでは、呼吸を止めることも自然。そんなふうに僕は感じる。

 ただ、血液とは少し違うものが僕の体内を循環していることがわかる。


 背骨を動かすときに使用する筋肉――多裂筋だったろうか?

 それを操作するときに感じることが多い感覚だ。

 感じとしては、体内を移動する『活力』。


 そんな呼び方が適当だろうか?


 確かイルマは《内氣呼吸法》という《技能スキル》で、『回ってるやつ』とか言ってたような気がする。

 ニックに聞いたら、『氣』とか呼ばれているけれど、要は神々の力のような《魔力》の一形態だと思うと言っていたっけ。

 そこまでいくと夢があるのかないのか、現実的なのか空想的なのかよくわからない。


 とにもかくにも、それが体内を回転していく。

 回転し、勢いを増して、僕の四肢を廻る。

 それを送り出して、速度を上げているものがなんなのか、僕にもよくわからない。


 でも、それは少し筋肉に連動しているような気もする。

 筋肉の膨張と収縮は血液によって行われているはずなのだから、やはり媒体は血なのだろうか。

 なんだか違う気もするけれど、僕よりも断然これを操る《技能》に長けているはずのイルマもよくわかっていないのだから、しょうがない。


 止まった景色の色が抜け落ちていく。

 確か、錯視の一種だ。視覚上、動いていないものの色は消えて見える。

 でも、考えてみればおかしい。脳の処理速度が上がっていたとしても、視界のすべてのものが完全に動きを止めているわけではないのに。


 アリオヴィスタスだけが、生気を失ったような世界でただひとり色づいていた。

 停止した世界のなかで、僕の視界の中心、ただアリオヴィスタスだけが動いていた。

 彼の振りかぶった剣が、僕を捉えて落ちて来る。


 まるで、この世界に僕と彼のふたりだけみたいだ。


 それはきっと、アリオヴィスタスの眺める景色でもあるだろう。


――彼の世界には、彼以外に特別な存在はなにもないんじゃないだろうか。

 その中で、彼にとって色づいて見えたのはアンリオスの静かな熱を帯びたとび色の瞳か。

 それとも、彼の父親の煌めく金色の髪だったろうか。


 そんなことにも、もう意味はない。


 彼には悪いけれど、僕にはやるべきことがある。

 ちょっと、友達を担いで西へと走らなければならないんだ。


 だから、ごめんなさい――



 振り下ろされた巨剣を追いかけるように僕も剣を振り下ろす。

 この視界の中ではっきりと動いているように見えるんだ。彼の巨剣の速度は相当なもの。


 巨剣の腹に左手から長剣の腹が少しだけ接触する。

 僕は両手で握った剣の柄を絞るように真っ直ぐに、ただ、真っ直ぐに振り下ろす。


 揺るぎない一撃を。

 イルマが教えてくれたように。

 あるいは、アンリオスが僕に注いでくれた信頼のように。


 僕の剣がアリオヴィスタスの剣を弾いた。同時に、彼の右手が剣から離れる。握りが甘かったんだ。

 ああ、そうだ。僕は彼の右手の薬指と小指を斬り飛ばした。

 振り下ろすときの左右のバランスは崩れていただろう。


――そして、世界に色が戻る。

 振り抜いた。真下へと。着地。どちゃっとした泥の感触を裸足で確かめながら、膝を曲げて腰を落とす。


「――ぐっ!!」


 長剣は確かに彼の体の右肩から入り、鎖骨を通過して肋骨を真下へと断ち割ったはずだった。

 だけど、動く。アリオヴィスタス・レックス・ギレヌミア・ハールデスは折れない、屈さない。

 そして、死なない。


「オオオッ!!」


 弾いた巨剣の刃を返し、僕の胴へ向けての薙ぎ斬り。

 僕は両腕を左へと振って、その反動と共に一歩、彼の間合いのさらに内側へと踏み込む。


 僕の右側から迫るアリオヴィスタスの太い左腕に肩をぶつける。

 剣の柄を握った両手のうち、左手だけを逆手に持ち替え、腕を畳んで彼の胴へと押し付けながらその懐で回転する。


「んんっ!!」


 息を漏らすように唸った。アリオヴィスタスの太ももみたいな左腕が巨剣を振り抜く勢いでそれでも僕の体へぶつかってくる。

 体が『く』の字に曲がる。まずい、足が大地から離れる。

 剣を振り抜く前に東へと吹き飛ばされる。肺がひしゃげる。


「――にぃっ!!」


 浮いた体の重心が背中から尻へと傾く。脚を畳んで首を引き、長剣を振って体勢をととのえる。

 泥の上を滑って屈んだ姿勢で着地。


 技は完全ではなかった。それでも、僕の振るった剣は鎧ごと、彼の右腹部を斬り裂いた。

 先の一撃で、右肩から胸へも縦に一筋入っている。


「――ルゥウウウオオオオオっ!!」


 それでもアリオヴィスタスは突貫してくる。

 巻き舌の獣のような咆哮を上げながら。


 迎え撃つ。そう思った僕の眼前で白刃が閃いた。

 アリオヴィスタスが退けた《ギレヌミア人》。おそらくは彼の親衛隊。

 それが、僕とアリオヴィスタスの体が離れたのを見計らって、彼を中心に放射状に駆け、吹き飛ばされた僕を捕捉して迫っていた。


 アリオヴィスタスの姿が雨と白刃と、馬体によって隠される。


――肺の中に空気は残っているか。

 残っていれば、それは呼気と吸気のどちらか――


 吐け。呼吸は吐くことから始まる。

 イルマの言う『回ってるやつ』の運動は、そこから始まる。


 肺の中の空気をすべて絞り出す。動きの邪魔になるものが少なくなる。

 避ける。左へ。左から迫る一撃を、脚を動かしながら斬り上げ。長剣を振り上げる勢いで体を捻る。右の刃が脇腹を掠める。

 肺に残った最後の一欠けらを吐き出した。体が動く。活力が循環する。呼気が止まる。


 同時に回転。捻りあげた体、その頂点にある長剣。

 初めはその長剣が落下する勢い。次に、捻った体の揺り戻し。そちらへと頭部を傾け、頸椎を回し、肩甲骨を翻し、胸椎を捻り、腰椎を切り。

 脚力で地面を斜めに蹴って、さらに加速。


「んんんっ!!」


 さらに二本の白刃を弾いて、二体の騎馬を斬り裂く。

 がぎぎゅり。そんな微妙の音。そして、馬のいななき。


 着地。静かに吸う。

 今、僕の肺は吸気で満たされる。吸い込むと、淀んでいた『回ってるやつ』に合流してまた流れ出す。

 《外氣呼吸法》――確か、そうだったはず。


 加速して爆発して、最後には淀む『活力』に、また新たな流れが生まれる。

 体が停止していても、それは流れる。力を生じる。


 おそらくは、血流と筋肉の収縮活動は連動していても、体内の運動エネルギーの遷移は別物だということ。

 そんな新しい発見が頭をよぎった、瞬間。


 人を乗せた馬が飛んできた。横倒しになりながら、地面と水平に飛来する。

 馬に跨ったままの男と目が合う。その驚愕の表情。


 咄嗟に伏せる。轟音とともに僕の頭の上を一頭と一人が流れ去り、背後で泥を跳ね散らす音とほかの騎馬に衝突する硬くて柔らかい音が響いた。


「グルゥウウウオオオオオ――」


 唸り声のような咆哮。僕の目に、アリオヴィスタスが巨剣を後背へ振っている姿が映る。

 まるでバッティングフォーム。しかし、その対象は僕では無い。


「王、まっ……」


 彼のフルスイングの先にいた《ギレヌミア》騎兵が呟いていた。

 巨剣の腹が、騎兵の乗騎の尻に撃ち込まれる。ぐしゃ、という凄惨な音。


「――オオオオオオオっ!!!」


 そのまま、アリオヴィスタスは巨剣を振り抜く――

 発射される。人諸共馬の砲弾が僕に向かって飛んでくる。


「ガルルアッ!!」


 振り抜いたアリオヴィスタスの吼える声。

 それとともに、さきほどと同じように驚愕に目を見開いた男が、馬と一緒に回転しながら飛んでくる。

 しかも、今度は低い。修正してきてる。

 およそ半トンの肉の弾。そんなもの、たぶん、体重四十キロにも満たない僕に捌けるわけがない。


 跳んだ。僕の真下でバウンドする人と馬のようなもの。


「ゴルアアアアァァァ!!」


 直上に迫る厚い鉄板。蠅叩きのように僕を叩き潰すつもりの一撃。

 息を止める。衝撃に備えて。


「ん――」


 長剣を思いっきり、平たく振り下ろされる巨剣の刃の片側へと突き出した。

 渾身の突き。一瞬の均衡。長剣が振動したかと思えば半ばから砕け散り、巨剣が傾いて僕の左肩を掠めながら、流れ落ちる。


 衝撃。視界が横に回る。まるで側転しているときみたいに。

 頭上で波打つような打ち据える音が響いた。つまり、そっちに地面と、巨剣がある。


 右脚を突き出す。冷たい感触。左肩に焼ける痛み。


 正面にはアリオヴィスタスの相貌。端正だった顔は見る影もない。



――あれは、真の狂猛よ――



 ネシア・セビの言葉。

 なるほど、僕は頷きながら巨剣の上を駆けていた。


「ルゥウウオオオ――」

「さようなら」


 呟き。それとともにまた拍動が遅れていく感覚。

 体内を循環する『活力』がまた流動速度を上昇させていた。

 これには、波がある。一度やると整えるのにだいぶ時間がかかる。


 《外氣呼吸法》も《内氣呼吸法》も独立した技術だ。

 けれど、《外氣呼吸法》によって淀んだ『活力』に流れを産み出し、《内氣呼吸法》によってコントロールする。


 《外氣呼吸法》を使用することで《内氣呼吸法》の使用頻度を上げていくことが可能。

 これもまた、新たな発見だった。



――敵は、全身全霊で殺しなさい――



 突然、イルマの言葉の脳裏に蘇える。

 でも、その言葉がなんだか初めて、肺の底を撫でて、胃の表面をなぞって、お腹の奥底にまで落ち込んだような気がした。


――ああ、そうか。ようやく。


 アリオヴィスタス・レックス・ギレヌミア・ハールデス。

 あなたは、僕の敵だ。


 僕の産まれた国に攻め込み、僕と同じ血を引く《グリア人》を殺し、コルネリアの骨を折り、アークリーに毒を与え、僕の名を呼ばう仲間とあなたの仲間が今も殺し合い。

 僕の民であり、僕とは血とシルエットが異なる仲間である《人馬ケンタウルス》たち、その英傑だった僕の友人のアンリオスを倒した。


 だけど、それ以上に。


 蓄えて研ぎ。磨いて昇華したその《技能》。

 絶えず挑み、絶えず問い、それでも已まない情熱。

 そのすべてを、自分一個の生命の意味へと還元する、強靭で唯一無二の意志と意望。


 僕はあなたを尊敬する。


 僕の二度目の生涯初めての敵。もしかすると、二度の人生で初めての敵。


 猛々しい王、アリオヴィスタス・レックス・ギレヌミア・ハールデス。


――だから、さようなら。あなたは僕の敵だから。



――冷たい足の裏の鉄の感触。太ももの筋肉が隆起し、ふくらはぎが膨らみ、冷たい鉄塊を爆発させる。

 爆発したその熱を股関節で受け流し、腰椎で切り、胸椎が捻り上げられ、そのまま肩甲骨が躍る。

 足の裏というもの凄く近くて遥か遠くから運んできた噴出する力が、加速した流路に乗って、僕の腕とその先につながれたような剣へと重なり、重ねる。


 彼の太い右腕の肉を裂き、頑健な骨を断ち、肋骨の隙間を通って、萎んだ薄い肺を斬り――


 だけど、折れた剣の間合いは短く、刀身は脆い。

 そこまで、進んだ剣はそこで折れて、僕の手許に残った刃は彼の体を通り抜け出る。


「――オオオオオオオオオっ!!!」


 彼が残った左腕を僕の体に巻き付ける。傷んだ彼自身の体と左腕だけで僕を圧し潰す。

 万力。彼の左手の指が食い込む僕の左肩は、さっき傷んでいてもう動かない。


「うぎっ……」


 力が入らない左肩の骨が軋りを上げ、逆袈裟から上へと振り抜いた右腕に庇われていない肋骨が砕ける。


「がふっ」


 アリオヴィスタスの口から血が噴きこぼれた。

 それでもその青い瞳は、僕の瞳を見上げている。静かな海のような色を湛えたその色。


――左肩と右腋の下を極めらている。振り上げた右腕が振り下ろせない。

 抵抗することが許されない。それどころか、どんどん僕の体を締め上げていく。


 透徹した青い瞳がそれでもわずかに下から僕の顔を見上げている。

 明らかに致命的なダメージを負っているはずなのに、なお、僕に執着していた。



――全身全霊で――



 やっぱり、あなたにっとても、僕は敵だったんだ。


「んんんんんん!!」


 宙に浮いていた右脚をアリオヴィスタスの背中へ回し、背筋で左脚を大きく後方へと振る。

 右の肋がさらにぐしゃりと音を立て、左肩が外れる。

 でも、知っていた。だから耐えられる。……というか、ここまで来たら、知ったことか。


 腹筋を可能な限りたわめて、右の踵で彼の背中を圧し、渾身の左膝を彼のみぞおちへ。


「がふぁっ――」


 大量にアリオヴィスタスの口から噴き出す血しぶき。赤く染まる視界。万力が緩む。

 同時に、彼の太ももを踏んで伸びあがり、振り下ろす。

 彼の頸椎へ。最期の一撃――



 〓〓〓



〈――改めて、戦闘の続きを書いていくことにする。



 交戦開始からわずかの間に、街道上の戦闘は激化していた。

 私の《大地魔法》によって阻まれた《ギレヌミア人》たちだったが、馬を捨て、壁に衝突した仲間を踏み台にして壁をよじ登り乗り越えて来た。


 それを、街道上を埋めるように十列に規則正しく並んだ近衛と騎兵、総勢四百人、横列にして四十の本隊が弓矢で攻撃する。

 しかし、矢で射落とすのも限界を迎えていた。壁を越えて来る《ギレヌミア人》が多すぎた。

 壁を越えた《ギレヌミア人》が私たちに向かって来る。放たれる矢を剣で叩き落し、避ける。そんな者が二十ほどぱらぱらと駆けていた。


 そして、まだ増え続けていた。


「後方の者は、壁を越える者を引き続き撃て! 近衛のうち百は剣を抜き、二列縦隊となり余に続け! ニコラウス、ここで指揮をせよ!」


 周囲を固めようとする親衛隊を振り切って、マルクス自ら剣を抜いて馬を駆けさせた。

 近衛隊がそれを追うようにして、《ギレヌミア人》に突進する。


 私は手首を合わせて、細かく《植物魔法》の《拘束魔法》をかけていった。

 大規模な《植物魔法》は壁を破壊することにもなりかねない。

 壁が崩れれば、《ギレヌミア人》は馬を駆ってなだれ込んで来るだろう。


 まばらに街道を駆けてくる《ギレヌミア人》に、細い紡錘形の突端にマルクスを置いた陣形の近衛隊が突き刺さった。


「このまま、壁際まで駆け、街道を往還する!」


 馬上から《ギレヌミア人》を斬り据えながら、マルクスが宣言していた。

 先頭のマルクスが騎馬を駆って《ギレヌミア人》を跳ね飛ばし、続く近衛がそれを蹂躙する。

 壁を目前に、速度を落とし、馬首を返して、今度は《ギレヌミア人》の後背を攻める。


 長蛇となった百名が、弧を描いて街道上で擦れ違う。

 私の前まで駆け戻って来たマルクスが、また隊列の尾を追うように、壁へと向かって駆け出した。


 壁を越えたが騎馬を失っている数十ほどの《ギレヌミア人》と、マルクスに率いられた《ザントクリフ軍》の戦闘はこちらに勝勢があった。

 馬上の有利とマルクスの奮戦。加えて数の有利と私の《魔法》。


 だが、それもわずかな時間だけだった。


 街道の東。森の中で喚声が上がった。

 ほぼ同時に、配備していた《冒険者アルゴノーツ》――《工兵パイオニア》のふたりが駆けだして来て報告した。


「伯からの伝令だ! 思ったより数が多い! 撤退、あるいは増援は可能か、と」


 《ギレヌミア人》が東側の森へと侵入したのだ。

 そちらには五十弱の弓兵と二十ほどの《冒険者》。そして、レント伯率いる騎兵中隊が配備されてはいた。


 街道の西側は、私がさきほど《大地魔法》によって造った壁によって《人馬ケンタウルスの壁》に接続しているが、東側を遮るものはいくらかの罠と木々と地勢の傾斜のみ。

 弓兵と遠隔攻撃に特化した数名の《冒険者》は樹上にいるため、即座に全滅することはないだろうが、レント伯の部隊がどれほど奮戦してくれるかはわからない。

 木々の間に縄を張り、落とし穴、樹幹の間に配置した拒馬槍などの罠はあるが、それらを盾にしても、《ギレヌミア人》の戦力が集中すれば長い時間は稼げないだろう。


 唯一、まともに《ギレヌミア人》と戦闘を行った経験のあるレント伯が矢面に立ってくれているのが、救いといえば救いだった。

 レント伯は貴族諸侯の中でも、人望が厚く統率力にも秀でている。他人にも厳しいが、それ以上に己と血縁には一層厳しい。

 もっとも武人然とした貴族。


 そのレント伯がこれほど早く、援軍要請を送って来るとは。

 想定以上にネシア・セビは多くの《ギレヌミア人》を東へと振っていたか。


 そこまで私が頭を巡らせたそのとき。

 時を同じくして、街道の西の森からいち早く歩兵大隊を率いるガルバ候が数騎を率いて姿を見せた。


「アガルディどの! なぜ、陛下自ら……」


 私は彼の大声を遮って、東側の森に《ギレヌミア人》が接近していることを告げた。

 街道上へ移動しているはずの民兵たちはまだ配置についていないだろう。


 このままではレント伯の部隊を抜いて、壁を回り込んで来た《ギレヌミア人》と白兵戦になる。

 そして、私たちが退いても、後詰はまだ到着していない。


 私は、残りの近衛百と騎兵二百の合計三百のうち、騎兵二百を増援に送ることと、出来るだけ戦線を保たせることを伝令の《冒険者》のひとりに託して送り出した。

 即座に、騎兵中隊長に向かって、もうひとりの《冒険者》に従ってレント伯と合流するように指示する。


「待たれよ、アガルディどの! 貴殿は指令権を返上したのではなかったかっ!」


 ガルバ候が怒鳴り散らしていた。

 私はマルクスの指示であることを伝え、歩兵大隊があとどれほどで配備完了か尋ねた。


「――論を交わす暇も無いかっ!」


 さしものガルバ候も、多少は状況を飲み込んだようだった。

 ぜい肉と筋肉で膨らんだ体を揺らして、ガルバ候は堂々と宣言する。


「あやつらはのろまだ! 全部隊が来るまでに陽が暮れてしまうわ!」


 くだらない冗談はいいから、先遣隊はどの程度で街道に姿を現すのか。


「まずは四百が間もなく到着するだろう! ……民兵が追いつき次第、そちらへ送る! 壁として使うがいい! まったく、レント伯もいざという時に情けない!」


 後ろへと駆け去ろうとするガルバ候に街道の分岐点で兵を止めるように言って、私は元から配備されていた近衛と騎兵へと号令した。


 民兵を壁扱いする《グリア》貴族らしいガルバ候の発言には辟易したが、それに拘っている余裕さえなかった。

 騎兵二百を率いる中隊長には、壁を越える《ギレヌミア人》へと威嚇射撃しながら森の中に侵入するように申し付ける。

 騎兵が前進するのを横目に、騎射を行っている前線の近衛百人を鼓舞した。


 森の中のレント伯は横列陣形で布陣しているはずだった。

 街道に添うように、陣形の始まりを、街道を塞いで東の森の中へもわずかに伸びた壁に接するように。

 終わりは、街道から少し離して、直線の街道に斜めになるように。


 レント伯はその中央に厚みを持たせ、敵勢力を確認後、戦力が集中したところへ移動するつもりだと言っていた。

 私も賛同した。

 単に薄いだけの横列陣形では、《ギレヌミア人》に突破されてしまう可能性がある。


 増援を希望したということは、私とレント伯が想定した以上に、横列の一部に《ギレヌミア人》が集中していたのだろうと私は考えた。



……実際に、戦後のレント伯の報告によれば、街道上から延びた壁により近い、横列陣形の西側に敵戦力は集中したようだ。

 そちらには念入りに罠と拒馬槍を設置していたが、傾斜を駆け下る《ギレヌミア》騎兵はそれらを破壊しながら、罠にかかった仲間を踏み越え、あるいは拒馬槍ごと引きずって突撃を敢行した。

 増援を要請後、レント伯はすぐに横列の中央から西へと移動し、襲いかかる《ギレヌミア人》の横腹を突いた。


 二百の増援が到着したとき、横列は完全に食い破られていたという。



 そのとき、街道上の私の耳にも、森の中からの戦闘を報せる喧騒と、喚声がより大きくなって聞こえていた。


 雇えた《冒険者》は四隊二十名。いずれも《中級冒険者》以上ではあったが、一番、実力のある隊でも《上級冒険者》に過ぎない。

 《最上位》どころか《上位》というわけにもいかなかった。


 単純な戦力としてならば、森の中で小集団での連携を得意とする《冒険者》はそれなりの実力を発揮しただろう。

 歴戦の《中級》以上の《冒険者》一隊は、同数の《ギレヌミア人》以上の働きをする。《上級》ならば倍以上。

 が、いかんせん味方の数が少なすぎた。


 マルクスが支払った金額はそれなりだったが、命を懸けるほどのものではないことも確かだった。

 森の響く喚声に、背を向けて駆けて来る《冒険者》たちが、十数名。

 街道上へと逃げ返って来た。


 もちろんのことだが、彼らは戦争の本職ではない。

 敗勢と見れば、逃げだすだろうことは予測していた。


 だが、あまりにも早かった。

 それだけ森の中の戦闘が激しいのだということを私は知った。



……レント伯には、突破される危険を感じた場合には迅速に兵を退くように要請していた。

 森林の中での移動ならば、《ギレヌミア人》よりも地形を知悉している《騎士》たちに地の利がある。

 撤退の脚も《ギレヌミア人》を凌ぐことができただろう。


 同時に、街道上の私たちも兵を退く予定だった。

 街道が開けば、《ギレヌミア人》たちをそこに誘導できる。

 そうすれば、《人馬の壁》に配備した部隊にかかる圧力は減少する。


 しんがりは私が務め、街道を追走してくる《ギレヌミア人》を大規模な《植物魔法》で絡めとる。

 加えて、街道の西側に添って《大地魔法》で壁を築き、《ギレヌミア人》たちを誘導する。


 そして、レント伯および、休耕地の予備兵と合流。


 体勢を立て直して、最終決戦を休耕地で行う予定だった。

 戦闘をしていない温存していた民兵ならば、私たちが疲弊させた《ギレヌミア人》とも互角に渡り合えると考えていた。


 なにより、守るべきものをすぐ背中に置いた戦いだ。

 民兵たちも奮闘するはず。


 あとは、アンリオスがアリオヴィスタスを討ち取り、こちらの援護をしていた《人馬》たちと合流して、《ギレヌミア》本隊の後背を斜めから脅かす。



――しかしながら、後詰はいない。

 今、休耕地へと《ギレヌミア人》を誘導しても、彼らの兵力の前に思うさま打ち払われるだろう。


 さらに、こちらを援護する予定だった《人馬》たちの気配もない。

 なにかしら齟齬があったと見るべきだ。


 後詰へと移動している民兵たちの配備が完了するまで、レント伯が戦線を保てる可能性は皆無だろう。

 最終決戦の予定地点を、休耕地から開拓村付近まで押し上げる。


 だが、《ギレヌミア人》を疲弊させるほどの打撃を、ここから開拓村までの短い距離で与えられるか?

 私の《魔力オド》はもつだろうか?


――なによりも、オルの安否は?


 それでも、やるしかない。

 かつての《魔族戦争》においては、もっと絶望的な局面があった。


 私が肚を括ったとき、豪快な笑い声が街道上に轟いていた。

 さきほど、私が築いた壁の上で初老に達しているとは思えないほどの肉体の威容を誇る男が、マルクスを眺めて笑っていた。


「だぁーっはっは! マルクースっ!! それと《魔法使い》!! この程度で、儂らを止められると思うたかっ!!」


 すぐさま、私は壁の上に姿を晒したネシア・セビを矢で狙うように号令した。

 いい的だという私の考えはすぐに払い去られることとなった。


 数十の矢がネシアに向かって降り注いだが、彼は頭部付近の矢を剣で払い落としただけで、ほかはすべてその手足と肉体に引き受けた。

 だが、まるで無造作に彼は返しのついた鏃を引き抜く。


 筋肉の鎧。それが、彼を守っていた。

――そうだった。

 彼は現役の《セビ氏族》氏族長。おそらくは、この《ギレヌミア人》たちのうちでも、アリオヴィスタスに次ぐ実力者。


 そのネシア・セビが、壁の上から街道を駆けるマルクスを剣で指し示す。


「今から、お前を捕らえよう! まかり間違って死んでしまっても、つまらんからなっ!!」


 宣言と伴に跳躍の構えを見せるネシア。


 我ながら信じられないことだが、あの男を止める術が私には無かった。


 マルクスはふたたび壁に向かって突進していた。進軍を止めるわけにはいかない。

 ネシア・セビの両脇から、まだわらわらと《ギレヌミア人》が湧いて押し寄せていたのだ。

 街道の戦線が破綻すれば、レント伯は孤立することになる。後詰の配備も終わっていない。


 マルクスが率いる騎兵とネシアの位置が近すぎて、私は大規模な《魔法》を使用できなかった。

 加えて、《大地魔法》によって築かれたあの壁の上には、私が《植物魔法》に使える種子が無い。


 思わぬ一手。そして、私にとって最悪の一手。

 この戦線の要であり、この軍の心臓であるマルクスだけを狙った、この場において圧倒的とも言える肉体の力。


 アリオヴィスタス以外にそれが出来る《ギレヌミア人》が。

 ほかの誰でもなく、まさかネシア・セビが。


 気づけば、私は必死になって馬を駆っていた。


 このとき、私の戦略は完全に瓦解した。



――次の頁に譲る〉


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