第56話
雨がぽたりぽたり落ちる。
いつのまにか、僕はまた《
東側。僕の左手、アリオヴィスタスの右手に《グリア人》たちがいる。
西側。僕の右手、アリオヴィスタスの左手に《ギレヌミア人》たちがいる。
そのちょうど間に、僕とアリオヴィスタスはいた。
降雨と彼の言葉に、僕の戦意が鈍る。
そして、ふつふつと疑問が心に淀んでいく。
アリオヴィスタス・レックス・ギレヌミア・ハールデスは、僕の疑問に応えるように、雨が落ちる中、気怠そうに口を開いた。
「……先代、《ハールデス氏族》族長と、《グリア》の血を引く
僕を巨剣で指したままアリオヴィスタスはそう続けた。煤臭い雨が段々と多くなる。梢を打つ雨音が静かに僕を濡らす。
それとともに、武器が地に落ちる音がところどころで響いた。
膝を突く音がする。
民兵たちの心の折れる音が聞こえた気がした。
「惑わされる、なっ!」
コルネリアの絶叫がさっきよりも遠くから聞こえていた。
ちらりと見れば、《
アウルスが駆る馬が、彼らの行く手で
僕は考える。
――これが、アリオヴィスタスの不可解な余裕の理由か?
混血であるという言葉が事実かどうかはわからない。
だけど、民兵たちの折れた心に染み込む《グリア語》はその真偽を疑わせないだろう。
むしろ、彼らにとってはそんなことは関係ないのかもしれない。
敵だったはずの人間が、自分たちと同じ言葉を喋り、自分たちの安全を保障する。
疲弊した民兵たちに選択の余地なんて与えられない。
腕を刈り取っていたときとはまるで違った落ち着きを取り戻した顔で、アリオヴィスタスは僕を見ていた。
「……《ギレヌミア語》はわかるか、子供? 貴様もまた、俺や父と同じなのだろう? ……気づくがいい。あの《人馬》に
今度は《ギレヌミア語》だった。
でも、周囲の《ギレヌミア人》は、その告白に動揺を見せない。
――ようやく気がついた。
《ハールデス氏族》の人々が、アンリオスに養育されたアリオヴィスタスに従っていたのは、知っていたからだったんだ。
アリオヴィスタスがアンリオスに師事していた事実を。おそらくはマルクス伯父が暴露する前から知っていたんだ。
「王にしてやる、力を与えてやる……だから、従えっ! ……それが、あの《人馬》の手管よっ! だから、父は――あの男は! 同胞を欺いたっ!!」
アリオヴィスタスは吐き捨てた。
《ギレヌミア人》たちの混乱が鎮まっていく。同時に、彼らの息が荒くなっていく。
僕に怯えて萎えていたはずの彼らの心に、戦意が満ちて膨らんでいく。彼らの汚れた体が、次第に勢いを増す氷雨に打たれながら湯気を上げる。
アンリオスを憎んでいたのは、アリオヴィスタスだけではなかったんだ。
《ハールデス氏族》のすべてが、アンリオスに執念を燃やしていたんだ。
騙されて、唆されて、利用されたことに憤っていたんだ。
そして、その事実を《ハールデス氏族》に教えたのは、アリオヴィスタスに違いない。
正当とも言える憎しみを彼らに与えたアリオヴィスタスが、今また、その燃える厭悪に風を送っていた。
そのアリオヴィスタスがふたたび《グリア語》で宣言する。
「ようやくだ。ようやく、俺は、解き放たれた。……未だわからぬだろうな、子供! だが、それでも、なお知るが良い! ……《グリア》と《ギレヌミア》の血を引く、俺こそが、ふたつの民族の上に立つべきなのだっ! ……あの《人馬》を討ち取った今! 俺はそれを証明したっ!!」
マルクス伯父との会談のとき。
アリオヴィスタスがそれを口にしなかったのは、彼の第一目標がアンリオスだったから?
アンリオスを殺すためには、《ザントクリフ王国》とは決裂しなければならなかったからか。
「《人馬》そのものが毒だ――あれこそが、人族の敵だっ! ……わからずともいい。しかし、認めるがいい子供。……貴様らが俺に歯向かうこと、それこそが不了見だと!」
嫌悪にゆがめられ、そして晴れ晴れとした喜悦を噛み殺したその顔を見て、ようやく、わかった。
アリオヴィスタス。この男は、今、憎悪の対象を殺したんだ。
アンリオスへの燃えあがる執着を果たした。
でも。
「……ダカラ、チチオヤ、コロシタ? ナカマ、イッショニ?」
僕の片言の《ギレヌミア語》に、アリオヴィスタスの端正な顔が強張った。
《ギレヌミア人》たちに、動揺が走る。
「…………なにを、言っている……」
アリオヴィスタスの声はわずかに上ずっていた。
憶測だった。
だけど、アンリオスによれば、《ハールデス氏族》の氏族長の交代劇は《モリーナ王国》に侵攻する直前に行われた。
戦闘行動の前に、あまりにも鮮やかすぎる。
そして、《人馬》を利用して《モリーナ王国》を攻めることを提案したのは、アリオヴィスタスだったはずだ。
「モクテキ、タダシイ? ホウホウ、タダシイ? ……タダシクナイ。アンリオス、マダ、タダシイ。……チガウ?」
僕は手に持った剣で、煤けた滴に引き攣り始めたアリオヴィスタスの顔を指し示す。
氏族長の地位は、アリオヴィスタスが実力で勝ち取ったものなのかもしれない。
もしかしたら、《ハールデス氏族》の《ギレヌミア人》たちは、それを黙認しただけなのかもしれない。
確かに、アンリオスとアリオヴィスタスの父親は、仲間たちに事実を伝えていなかった。
アンリオスの計画も、彼らの師弟関係も、《人馬》の存在すら隠していた。勝手に自分たちの意図に《ギレヌミア人》たちを巻き込もうとしていた。
それは騙すに等しい行為なのかもしれない。
だけど、それに奸計をもってやり返すのは正しいだろうか?
アリオヴィスタスは、明らかに父親とアンリオスを嵌めるつもりで、《モリーナ王国》侵攻を提案したように思える。
《グリア人》の血を引くという彼が、同じく《グリア人》の国を攻めることを提案したんだ。
そして、今は。同じく《グリア人》の国であるこの国を攻めている。
それは、アンリオスの選んだ方法以上に間違った方法なのではないだろうか?
そういう意味なら、アンリオスのほうがまだ正しい。
それに、なにより。
「アリオヴィスタス。……あなたは、王になることが正しいと思っているのか? それは、アンリオスによって与えられた目的なんじゃないのか?」
「……俺が、未だ、あれに縛られている、とでも……?」
僕の《グリア語》での問いに、《ギレヌミア語》で問い返したアリオヴィスタスは口をへの字に曲げる。
そして、沈黙したかと思えば、笑いだす。
笑いながら、彼はほんとうにおかしな冗談でも聞いたとでもいうように、僕を見る。
「おもしろいことを言うっ! あれは、屍になったのだぞっ! ……この意望は、俺のものだろう?」
意味がわからない。
アリオヴィスタスが怪訝そうな面持ちとともに笑いを収める。そして、眉根を寄せる。
「王は従わぬっ! 王は屈さぬっ! ……王とは産まれながらに与えられている者だ。――率いて治める者にして、統べて従える者だっ!!」
思い出す。マルクス伯父との会話を。僕の手許に王冠を投げた伯父は言っていた。
――王位など、そなたの手許の飾りと同じだ。誰かが頭に載せておればよい――
つまり、担ぎ上げようとする一部の人間に担がれる者が王である。そうマルクス伯父は言っていたわけだ。
だけど、アリオヴィスタスの考えは違う。
「神々が俺に与えたのだ。王たるに相応しい力を養う機会を。……そして、俺は、それを俺の意望によって正しく選んで勝ち獲ったっ! すべては俺のために在る!」
マルクス伯父の考えは、ある一面で正しい。自分の頭上の遥か上で語られていることなんて、あまり気にならないものかもしれない。
でも、どんな人でも、自分が直接関わることになら執念を抱くかもしれないし、賛意を示すかもしれない。
アリオヴィスタスが、《ハールデス氏族》に憎悪とその標的を与えたように。
あるいは、死を覚悟していたはずの《グリア》民兵の前に生きる道を提示して武装解除を促したように。
それが僕ら全員の行動を規定することもあり得る。
事実、彼にはそれらが可能なだけの、地位と血統と環境が与えられていて、能力と知識と知恵を蓄えていた。
そして、アリオヴィスタス自身の言う通りに、彼はそれを選んで実行したんだ。
「……なあ、地に伏したのは、どちらだ? 屍を晒したのは、どちらだ? ――子供?!」
確かに、彼は王を名乗るのに相応しいのかもしれない。
僕が静かに見つめていると、アリオヴィスタスも厳しい目つきで僕の瞳を射る。
「――俺は、あれを、凌駕したっ! あれを、下したのだぞっ?! 人族の敵をっ!! ……なれば、俺こそが英雄――王であろうがっ!!」
アリオヴィスタス・レックス・ギレヌミア・ハールデス。
そう名乗る男は雨の滴を振り払うように声を荒げていた。
――彼の精神は、確かに王のそれなんだ。
傲慢にして尊大。しかし、周囲にそれを許すだけ容貌に優れていて能力を備えていて狡猾でありながら、なお誇り高くもある。
すべてを否定し、すべてを自分の名の元に肯定する。
だけど、そんな彼を、やっぱり僕には肯定できない。
「……アンリオスは、断念していた。……彼は、もう、人族の敵じゃなかった!」
「口先だけでなら、なんとでも言える!」
「……そもそも、僕には、彼と彼に養育されたという事実を毒であると考えているのは、あなた独りに見える」
「俺独りだと?! 毒でなければ、なんだというのだっ?!」
「うまく言葉にはできません。……だけど、あなたは、たぶん、自分自身と周囲のすべてを呪っているんだ」
「俺が、すべてを呪っているだと?」
アリオヴィスタスの表情が、また変わる。
今度は彼が、静かに、理解不能だとでもいうように、僕を見つめる番だった。
「あなたは父親を殺した。アンリオスを殺すために、たくさんの《グリア人》を殺して傷つけた。……そして、数年に亘って、自分を育てて鍛え上げた師へと凶刃を向け続けた。……あなたが受け継いだはずの、血も、意望も、目的も。……あなたは、ぜんぶ、自分の手で否定したんじゃないのか?」
アリオヴィスタスの顔に薄汚れた長い金髪――どこか赤みがかったそれが張り付いていた。
そうして、彼は空を見上げる。
今や止めどなく落ちる滴は彼の顔を洗い、彼の体が浴びた血を流し、戦場の淀んだ空気を泥へと沈ませていく。
それでも、彼は笑みを浮かべて首を緩やかに振った。受け入れがたいとでもいうように。
「貴様には、わかるはずだ。……俺と同じ貴様なら……」
「わかるかもしれないし、わからないかもしれない。……でも、そんなことよりも」
首を傾げるアリオヴィスタスに向かって、僕は告げる。
「自分の存在以外、すべてを否定するあなたは、信用できない」
彼は今度は、僕が見たなかでもっとも清らかな笑みに目を細めた。
「…………やはり、王とは孤独なものだ。この孤独は、唯一無二のものなのだろう。……認めぬというならば、構わぬ。だが、見るがいい、子供」
そう言って、アリオヴィスタスは巨剣を横薙ぎに振るって手を広げる。
彼の言葉が指すすべての人々。雨に煙る森にいる《グリア人》も、《ギレヌミア人》も。
そのすべての視線が、僕とアリオヴィスタスに注がれていた。
《ギレヌミア人》だけではなく、《グリア人》の民兵たちも夕立のような激しさの中に僕を透かし見て、困惑を露わにしていた。
たくさんの黄色の瞳に浮かぶのは、アリオヴィスタスの告白によってもたらされた衝撃か。
挫けた心の絶望か。それとも、僕の全裸という格好に対する戸惑いだろうか?
「なぜ、貴様が裸なのかは知ったことではない。だが、見るがいい! 貴様に従う者などおらんっ!」
寄せては返すさざ波が静かに引いていくように、アリオヴィスタスの宣言通りに僕の周囲から人が引いていっていた。
誰も彼も。僕が連れて来たはずのケットの仲間たちでさえ、及び腰になっている。
今の僕が彼らにどんなことを語りかけても、コルネリア以上にうまくやることは不可能だろう。
それにその時間は無い。
民兵を率いていたコルネリアはいない。アンリオスは墜落した。ケットもアウルスも、コルネリアを運んで行った。
僕の周りを取り巻くはずの誰もこの場にはいない。
アリオヴィスタスの言葉通り僕は独りだ。
そして、今。
《ギレヌミア人》の進軍路が開かれつつあった。
――彼らの前に立つのも、僕独りだ。
「……さあ! 怯えるな、同胞! ……そこの子供は《
奮い立つ。その言葉に、すべての《ギレヌミア人》に火が付いたのがわかる。
「――オオオオオオオオオォ!!」
潮が大きく引いていく。
眼の前で雄叫びを上げる《ギレヌミア人》に、民兵たちが手に持った武器を放り出す。
まだ、力を残していた後方の者から一目散に、前線の人々のある者はその場にへたり込み、ある者は泥の中に体を引きずって。
道は開かれる――
「――オルちん麾下あっ!! アガルディ侯爵軍ん~~っ!!」
――聞き慣れた間延びしたような声。
でも、その声はいつもより、掠れていて、擦れていて、乾いていて、地を這うようで。
僕は思わず振り返る。
雨に打たれながら、四つん這いの人影が泥と死体の中から立ち上がる。
剣を杖に、彼は体を支え、そして、地面に向かって嘔吐した。赤い鮮血の混じった吐しゃ物が、彼の剣を汚す。
「アーク――」
「野郎どもぉっ!!」
彼は僕の声を無視して、顔を上げた。
その顔は赤黒く、目は充血して焦点があっていなくて、手足は震えているようだった。
不規則で荒い呼吸音。だけど、彼の体に大きな外傷は見えない。ただ、彼のダメージが深刻だということだけは一目でわかった。
逃げる民兵たちに踏まれたのか?
いや、鎧姿は泥で汚れているけど、大きな乱れは見えない。
――まさか、毒?
最初の攻撃で受けたのか?!
だけど、彼は満面にいつものような朗らかな笑みを浮かべて、《ギレヌミア人》たちの、アリオヴィスタス・レックス・ギレヌミア・ハールデスの前に立ちはだかる。
そして、震える脚で体を支えて、僕を剣で指し示した。
いつものような笑顔のまま、彼は怖じ気た民兵たち、そして、アガルディ侯爵軍・(仮)を首を傾けて振り返る。
「ねえ、……ダチが、困ってる。……――行くよっ!!」
たったそれだけ。
アークリーが言ったのは、それだけだった。
だけど、固まったまま立ち竦む民兵の群れの間から、わらわらと湧く。
ところどころで咆哮が上がる。走り出す人影。
アークリーもまた、つんのめりながら進み、血と共に叫ぶ。
「オレのダチ……オルレイウス・アガルディ・ザントクリフ・レイアのためにっ!!」
彼の言葉に呼応するように、息を吹き返した戦場に叫びがこだます。
「てめえのダチはおれのダチっ!!」
「ダチのためにっ!!」
「坊ちゃんのためにっ!!」
「《義侠の神》の名にかけてっ!!」
「裸の、未来の侯爵のためにっ!!」
――駆け出す。今日会ったばかりの人々が、僕の名を好き放題に叫びながら。
すべてのアークリーの友が。
「――魯鈍愚昧な《グリア人》ども!! ――よかろう! 同胞、踏み潰っ」
アリオヴィスタスが叫んだとき。
さらに西側。《ギレヌミア》部隊後方から奇妙な喚声が上がっていた。
「――イュールッイュリイュリイュリイュリ……」
《人馬》の突撃の
衝撃に波打つ《ギレヌミア人》。
アリオヴィスタスは苦々しげな表情を浮かべ、指示を飛ばす。
「前後二隊に分かれよっ! 前方は俺に続……」
アリオヴィスタスの体が揺れた。その顔が驚きに染まる。
僕もアリオヴィスタスもその光景を見ていた。
アリオヴィスタスの乗騎の首、あごのあたりに突き立った剣。アリオヴィスタスの乗騎が、彼ごと揺れて傾く。
僕は左手、アリオヴィスタスは右手へと目を向けた。
そこには、さきほどまで杖にしていたはずの剣を失っていた彼の。投擲姿勢で前のめりに倒れ込むアークリーの姿。
彼に、走り抜ける人たちのうちの数人が駆け寄り、支える。
崩れ落ちるアリオヴィスタスの乗騎。彼の顔が憤怒に染まる。
「――小ぉ童あっどもがあっ!!」
アリオヴィスタスの脇を通り過ぎ、《ギレヌミア》の騎兵が駆ける。
そして、彼らよりも早く走り出していたアガルディ侯爵軍・(仮)と勢いよく衝突する。
飛び散る雨の飛沫と泥。
飛び交う喚声。
僕は跳躍していた。アリオヴィスタスへと向けて、真っ直ぐに。その距離は十数歩。
アリオヴィスタスと僕の間、進路上を駆け抜ける敵を回し蹴りで馬から蹴り飛ばす。
飛び石を伝うように。あと、二回ほどの跳躍でアリオヴィスタスの間合いに入る。
アリオヴィスタスの周囲に駆け寄った《ギレヌミア人》が彼を囲む。
それを、アリオヴィスタスは腕を振るって退け、二本の脚で大地を踏みしめる。
騎乗する暇は与えない。アリオヴィスタスもまたそのまま僕を迎え撃つつもり。
最初の投げ槍の投擲からおよそ十数分か?
アークリーの症状が《ハールデス氏族》が使用する《人馬》用の強毒によるものならば、人族の彼がどれだけ抵抗力を発揮できるか。
――時間は無い。
「――行くぞ、アリオヴィスタス――《ギレヌミア王》」
巨剣を振り上げるアリオヴィスタス・レックス・ギレヌミア・ハールデス。
彼の頭上へと跳躍しながら、僕は呟いた。
〓〓〓
〈――ルエルヴァ共和新歴百十年、ザントクリフ王国歴千四百六十七年、ディースの月、四夜
昨夜だけでは記述しきることができなかった。
今夜もまた、戦闘の経過を記述していこうと思う。
しかし、その前に、アリオヴィスタスという男と、彼の言葉を発端として現在、この国で起きていることと、その周辺について記載しておくべきだろう。
どこから記述すればいいのか……
一部の《ザントクリフ王国》の民衆の間で、アリオヴィスタスを評価する声と、王政を非難する声が上がっている。
それは、同時にさらに少数の《
奇妙なことに、《人馬》への忌避感はそれ以上の歓迎によって圧殺されつつある。
だが、エレウシスを代表とする《人馬》側は、私かオルレイウス以外とは一切の交渉を断っているため、《ザントクリフ》と彼らの関係は微妙なものであると言わねばならない。
オルが動けない現在、私は改めて彼らとの折衝役に就任している。
なによりも問題なのは、王政への避難とアリオヴィスタスに対する評価が密やかではあるが無視できないほどに広がっているということだ。
コルネリア・ガルバ・ケレブルーム・ネーヴスの報告によれば、アリオヴィスタスの発言が大きな波紋を呼んでいるようだ、と。
彼女が記憶していた範囲によれば、アリオヴィスタスの発言は以下の通り。
ひとつ、アリオヴィスタスは、《ギレヌミア人》と《グリア人》の混血である。
ひとつ、彼は《人馬》を討つことを大きな目的として、この国に来た。加えて、その目的は達した。
ひとつ、マルクスが降伏すれば、《ザントクリフ王国》国民の安全を保障する。
ひとつ、《ギレヌミア人》と《グリア人》の混血である彼は、両民族の主宰者に相応しい。
コルネリア・ガルバ・ケレブルーム・ネーヴスによれば、ほかにも発言はあったが、《グリア語》で行われたものはこれだけだったように思う、とのことだった。
オルレイウスに確認したところその内容は正しいようだった。
ただし、オルは、コルネリアが戦域を離れたのちの、彼とアリオヴィスタスとの会話については沈黙を守っている。
《ギレヌミア語》をこの国で理解する者は少ない。
オルレイウスが口を閉ざしている限り、その内容は知れることはないだろう。
……さて、では民衆の間でどのような会話がなされているか。
それは、先日、正式に雇用した《泥まみれ》のケットと彼の配下……というよりは仲間……たちの証言によって収集中である。
そもそも、民衆間の密やかな噂を私やマルクスが耳にする機会は少ない。
オルが独断で登用を決めたようだが、彼らは非常に貴重な人材であるといえる。
なぜか、マルクスが彼らに興味を示し、今日、代表者のケットを引見していたことには驚いたが。
なにか良からぬことを考えていないことを祈る。
本題に移ろう。
ケットの収集したかぎりでは次のような主張が多い。
ひとつ、アリオヴィスタスが《グリア人》の血を引いていたならば、交渉の余地があったのではないか?
ひとつ、《人馬》が目的だったならば、《ザントクリフ王国》が戦闘に参加する義理は無かったのではないか?
ひとつ、国民の安全を保障するという条件をなぜもっと早く引き出せなかったのか? (加えて、アリオヴィスタスが流暢な《グリア語》を喋れるということを隠匿していたのでは、という不信があるらしい)
そして、最後にひとつ。
アリオヴィスタスという男は、確かに《グリア人》と《ギレヌミア人》の調停者として相応しかったのではないか?
……それらの主張が密やかに語られているらしい。
ここ数十年、確かに《ザントクリフ王国》は《ギレヌミア人》の影に怯えていた。
イルマの帰還が歓迎されたのもその背景に一因がある。
まあ、防衛に関しては、マルクスが商人を遣って謀略まがいのことを展開していたようだが。
それはもちろん、私を含めたほぼすべての《ザントクリフ》の人間の知るところではなかった。
国民にしてみれば、《人馬》の出現とアリオヴィスタスの襲来に因果関係があったということは、アリオヴィスタスの口から初めて知らされたのだ。
加えて、民兵は王太子ルキウスの指示によって戦闘に赴いた。
そのルキウスは、彼らを置いてさっさと退却してしまっただけに、国民の不信感は強い。
そして、なにより。
アリオヴィスタスという男の堂々とした体躯、容貌、声音。
その、《グリア人》とは隔絶していて、《ギレヌミア人》のうちでも群を抜く実力に接した者は、畏敬に近い念に打たれたようだ。
実際に《泥まみれ》のケットの証言によれば、オルレイウスとアリオヴィスタスの一騎打ちの光景が、未だに目に焼きついて離れないと語る彼の仲間は多いらしい。
特に、《グリア語》と《ギレヌミア語》での会話が決裂したあとのそれは、わけがわからないものだった、と。
驚くべきことに、アリオヴィスタスはオルと互角に打ち合ったらしい。
目の良い者が、少なくとも合計で十数合の打ち合いが行われたはずだと証言していることから、互角に近かったのは確かだと思われる。
私以外は知らない事実だが、オルレイウスはすでに《剣聖》保持者だ。およそ、人族の到達点のひとつであるとも言える。
その彼と互角に闘ったというならば、アリオヴィスタスの実力も推し知れる。
非常に遺憾ではあるが、アンリオスが倒れたのち、オルレイウスがアリオヴィスタスを押し止めなければどうなっていたかは想像に難くない。
それどころか、オルが戦場を駆けまわらねば。
……しかし、イルマにオルの現状をどのように語ったものか……
話があちらこちらに逸れてしまう。あまりにも多くの出来事があり過ぎた。
改めて、主題に戻ろう。
ケットによれば、アリオヴィスタスを賞揚する者には、先日の戦闘で手足を喪った者、肉親や知人を喪った者が多いということだ。
畑、家は確かに守ることができたが、肉親は永遠に帰宅しない。労働力の問題もある。
マルクスが宮中伯と相談して早期の補償を決定したが、全員に十分な補償が行き渡るなどということは夢物語りだ。
それでどの程度、不満が解消されるかはわからない。
一方、戦勝の宴を日夜繰り返す貴族諸侯はそれらに気づいていないか黙殺する者が多いが、民衆と触れる機会の多い従士や《騎士》のうちには知る者も多いようだ。
ガルバ候あたりがそれらの情報を耳に入れると非常に厄介なことになりそうだが。
大身貴族のなかでもかなり落ち着いた行動をしている人物もいる。
今回、最大勲功を辞退したレント伯は、私財を用いて領民の補償に充てることを計画しているようだ。
また、彼は《ザントクリフ》の貴族諸侯のなかで唯一、オルの見舞いに来た人物でもある。
武派貴族である彼と私はこれまで疎遠だったが、先年から始まった戦争が思わぬ奏功をもたらしたと言えなくもない。
彼は元々、ガルバ候よりもイルマに近い貴族だったが今回の一件で私とオルレイウスのもまた彼の目に留まったようだ。
「……今王は英邁というべきだが、捻くれておられる。王太子は語るに落ちる。……必ず次代に報いがあるだろう。オルレイウスどののためにも、王統とは距離を取られることを勧める」
寡黙な彼はオルを見舞った帰り際に、私にそう耳打ちした。
私は顔を引き攣らせざるを得なかった。
さて、そのルキウスだが。
彼は守城任務の放棄以外にも、ひとつ大きな失態をしでかして、謹慎を命じられている。
ウォード伯を逃がしてしまったのだ。
リスクス・コメス・ウォード・アドミニウス・ガステールの行方は杳として知れない。
王統以上に、貴族諸侯および国民からの評価が低い唯一の人物がリスクスだ。
リスクスが実子のアークリー・ウォード・アドミニウス・ガステールに対して行った言動の一部始終を多くの民兵が聴いていた。
加えて、《泥まみれ》のケットたちがそれを大きく吹聴しているようだ。
結果、爵位の剥奪が決定し、リスクスの長子が伯爵位を引き継ぐことになったが、従士と領民の離反が相次いでいるらしい。
その大きな受け入れ先が、先述のレント伯、そしてレント伯にも増して、我がアガルディ侯爵領だ。
その理由は、単純だが、ここではとりあえず置いておこう。
――問題は、アリオヴィスタスへの称賛と、王政への不信。それらがもたらすものだ。
今まで、安定していた王政に対して不安や不満を抱かなかった民衆がそれを語る。
そして、諸侯の中に、あるいは国外の勢力からそれに付け入る者が現れる可能性は否定できない。
王政の崩壊、あるいは瓦解。または、貴族主導の王家交代。
特にマルクスは、それを危惧しているようだ。
そのせいか、イルマが帰還する前にクラウディアとオルレイウスの婚姻をまとめようとしている。
だが、オル当人はそれどころではない。
確かに王政への信頼回復は、喫緊の課題だろう。
しかしながら、それにおめおめとまともに動けない我が子を差し出すほど、《ザントクリフ王国》に魂を売ったつもりも、マルクスに心酔したつもりも私にはない。
……だが、今のオルを見たときのイルマの反応を想像するとが恐ろしい。
いっそ、オルを連れて《
いや。
とにかく、今回の戦争の顛末を記述しきってしまおう。
私にとっても、これほどの戦力差での戦闘経験は少なく、これほど戦略が乱されたことも初めての経験だ。
出奔を考えるのは記述を終えてからでも遅くない……はずだ……〉
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