第52話



――馬の絶命のいななきが聞こえた。

 僕はアウルスの体を押しのけて、視界を確保する。


 アークリーの馬が三本の投げ槍に串刺しにされて、ゆっくりと倒れるところだった。


「ごめんな……」


 愛馬の影に落ちながら、その首を支えるように抱きかかえ、支えきれずに倒れ込むアークリー。彼の口がそう動いたように見えた。

 その顔には、哀しそうな微笑が浮かんだ気がした。


「アー――」


 僕がその名を呼ぼうとしたとき、僕の声は多くの蹄の音と民兵の悲鳴と大勢の喚声によって打ち消された。


「ひぃぃっ!!」

「オオオオっ!」


 アークリーの向こう、木立の奥、《人馬ケンタウルスとニコラウスの壁》の西端の民兵の群れが波打った。

 人々の頭越しに、馬の首と人間の上半身がいくつも見えた。


 騎馬の《ギレヌミア人》。

 彼らは剣を振るっていた。振るいながら、民兵の群れに馬ごと踊り込む。

 まるで、藪や林を切り開くように無造作に《ギレヌミア人》は剣を薙いで、僕らを踏み潰そうとしていた。


 彼らがひとつ剣を振るうたびに、血や腕や頭、そして絶叫が飛び散った。

 ほの暗い森の中、その先頭に僕は長くて太い硬質な板が翻るのを見た。


「――阻むなっ! 散れっ、木っ端が!」


――アリオヴィスタス。

 赤みがかった黄金の髪がなびき、むき出しになった、筋肉が隆起する丸太のような腕が振るわれる。


「あぐっ」

「――ご」


 彼が腕を振るたびに、その先の巨大な剣が翻る。

 大剣が翻るたびに、くぐもった絶命の声と血液が飛散した。


 《ギレヌミア人》たちの凶刃に民兵たちは背を向ける暇も、道を譲る暇もなく、踏み潰される。

 僕らに近いほうの民兵の群れはどこか呆然と立ち尽くし、数十歩ほど先で展開する前線の仲間の首が跳んでいく異様な光景を眺めていた。


 それは彼らに限ったことではなく、彼らを指揮するはずのルキウスも動きを止めていた。

 ただルキウスの周囲を固めた親衛隊が、彼の馬の手綱を取ってゆっくりとこちらへ後退しはじめていた。


……僕の目は、それらを視界におさめながら、それでも焦点はずっとアークリーと彼の愛馬に合っていた。

 槍に貫かれ横倒れになった彼の愛馬の体。その馬体はアークリーの左半身に乗っていた。

 左半身に愛馬を乗せたまま、アークリーは仰向けに寝そべり、いつものような微笑を浮かべて目を閉じていた。


「――誰かっ、手を!」


 同じようにアークリーの馬に下半身を挟まれたウォード伯が、這い出そうともがいて周囲に向けて手を伸ばしていた。


「アークリー……?」


 なぜ、彼は動かないんだ?

 ウォード伯は生きている。なら、彼だって生きているだろう。

 僕は後ろから伸ばされ手綱を取るアウルスの腕を掴んで揺すった。

 アークリーの救助を願って。


 だけど、アウルスはそれを無視して彼女の名を呼ぶ。


「コルネリア!」

「――《泥まみれ》! オルレイウスくんを囲んで守れ! ――ルキウスっ! 指令を出せっ! 全滅するぞっ!」


 コルネリアはすでに動いていた。

 親衛隊に囲まれたルキウスへと馬を寄せる。


「コルネリアどの、殿下をこの場よりお連れ……」

「馬鹿者っ! 民兵はどうするっ!」


 親衛隊のひとりがコルネリアに怒鳴られ、首を横に振った。


「我々は殿下をお連れして退避する」

「――ルキウス、宣言し給え! ぼくへの指令権の委譲を!」


 ルキウスが胡乱げな眼差しでコルネリアを見た。

 その間にもケットが仲間たちを鼓舞して僕とアウルスのまたがった馬の周りを囲み始める。


「いいか、野郎ども! 正念場だっ!!」

「ケット、アークリーの救出を……」

「坊ちゃん、やつぁ、おっ死んだ! ――それより、オイラに命令しろっ!」

「確かめもしないで、乱暴です!」


 僕は思わずケットに怒鳴り返していた。


 喉から水分が急速に引いていく。

 ぱりぱりと粘膜が渇き、喉の奥から食道の薄皮が剥がれそうな気さえする。


 代わりに胃液が駆けあがって来て、それと共に腹の底から怒りがこみ上げる。


「……後です。オルレイウスどの……」


 後頭部に掛けられた言葉に、思わず声の主を振り返る。

 唇を噛んだアウルスの顔。

 彼の目は僕の右目の瞳の中に注がれていた。彼の瞳の中に僕の顔が映っている。


 アウルスが口を開く。その唇の端には歯形と血が滲んでいた。


「今は、できるだけ広く、ご覧ください」


 冷静な声色。でも、僕が見上げたアウルスの顔は真っ赤だった。

 そして、彼は視線を僕から馬首の先へと転じる。

 僕は首を返して視線を落とした。


――僕の顔を見上げるケットの顔。僕の周りに集まったその仲間たちの顔は、全部同じ方向を向いていた。

 数歩先のところで、コルネリアが民兵に向かって怒声を張り上げて彼らの群れに馬を乗り入れ、それを追おうとしているルキウスが親衛隊に囲まれてこっちに進んでくる。

 ルキウスの左手あたりで、従士と思われる人が馬の下からウォード伯を引きずり出そうとしていた。


 横倒れになったアークリーの馬とその周囲には合計六本の槍が突き立っていて、ウォード伯の乗騎もまたちょっと離れたところで槍を受けて倒れていた。

 僕はアークリーの顔に止まりそうになった目を引き剥がす。


 右手には《人馬とニコラウスの壁》とそれに張り付いた民兵たち。

 正面から左手にも、立ち並んだ木々の間を埋めるように、多くの民兵が十人ほど身を寄せ合った群れを作りながら広がっていた。


 視界が開けていく。

 木立の奥、直線上。そんな民兵の小さな群れを三十ほど挟んで、アリオヴィスタスが民兵たちを強襲していた。

 それに対して、なす術なく刈り取られるばかりだった民兵たちの動きが変わっていた。


「小隊ごとに固まり、槍を並べるんだ! 敵の侵攻を阻め! ここを抜かれれば、畑も街も焼かれるぞ! 諸君らの家族もだ!」


 民兵たちのただ中に馬ごと躍り込み、手を翳すコルネリアの声が前線へと飛んでいた。

 空中へと突き出された無数の槍を、アリオヴィスタスが巨剣で払って民兵たちの腕ごと切り取っていく。

 血しぶきが霧のように森に立ち込め、微かに臭う焦げくさい臭いとともに、暗い森の空気が淀んでいく。


 それでも、森では《ギレヌミア》の騎馬の突撃も十分な速度を得られない。

 加えて、今は木立の間を民兵たちがその肉体で埋めていた。

 アリオヴィスタス率いる《ギレヌミア人》も、予想外の密集隊形に苦戦しているように見えた。


「取り囲むんだ! 横合いからも、槍を突き出せ!」

「おいっ! 此方こなたはそちに兵権を譲った覚えは……」


 指示を飛ばすコルネリアへ、ルキウスが噛みついている。


「殿下!」


 僕は声を張って、アウルスの腕を軽く叩いた。

 アウルスがゆっくりと馬を進める。それと、同時に僕はケットに向かって頭を下げて囁いた。


「コリーの援護と弓兵の展開を。……それと、どうか、アークリーをお願いします」


 ケットが驚きを顔に表し、次に真剣な面持ちで頷いた。

 アウルスが苦言を呈そうとする気配を読んで、僕は呟いた。


「アウー、安心してください。僕は冷静です。……僕が冷静に行動するためには、どうしても必要なんです」


 アウルスが太い鼻息を噴く。一方でルキウスが怪訝そうな顔で僕を迎えた。


「オルレイウス、今、此方は……」

「早くお逃げください、殿下。あなた様の従弟が盾になります」

「それは、いかん!」

「あなた様には、城の守護と、王陛下への報告の義務がございます」


 ルキウスが僕の顔をまじまじと見た。



 僕は考えていた。

 アリオヴィスタスがここに来たということは、アンリオスは討たれてしまったのか。


 ニックは、アンリオスにアリオヴィスタスの討伐を任せたはずだ、とコルネリアは推測していた。

 僕も彼女の推測を支持する。では、なぜ、アリオヴィスタスのみがここに現れた?

 アンリオスがアリオヴィスタスへの追撃を緩めるとは考えにくい。そうすると、すでに隙を突かれて斃れてしまったか。


――いや、あのアンリオスがそう簡単にやられるはずがない。


 たぶんだけど、アンリオスはアリオヴィスタスを見失っている。

 ルキウスが森に入れた民兵。彼らが放った火。

 五感の鋭い《人馬》たちの目と鼻を、火と煙が晦ませてしまっている可能性が高い。


 アリオヴィスタスの突撃を食い止めるには、僕らだけでは無理だろう。

 どうしたってアンリオスたちの力が要る。


 そして、コルネリアの指揮は民兵たちの力を引き出している。

 この場にはふたりも指揮官は要らない。

 コルネリアが本領を発揮するためにも、アンリオスたちが現れたときにも、ルキウスと特にウォード伯が邪魔だ。



 その一番の邪魔者が吼える。


「なりません、殿下! ここでみすみす勲功を逃しては」

「ウォード伯、リスクス・コメス・ウォード・アドミニウス・ガステール。……そちは、黙れ」


 ルキウスは無表情のままウォード伯を見ると、周囲の親衛隊に身振りで指図を出した。

 親衛隊のうち三人が少し躊躇ったあとで、下馬してウォード伯へと歩み寄る。


 予想外の展開だった。


「お待ちください、殿下! あなたこそが、この国を救う……」

「これは父上からの御指図だと、そう言上したではないか?」

「殿下、しかし、陛下はすでに誤られている! 父たるマルクス陛下の誤りを正すのは、息子たる殿下のお役目!」


 ウォード伯は親衛隊に手を背中に回されながら吼えていた。

 そこで、なぜかルキウスが僕を見る。


「オルレイウス、父王陛下は間違えておられるか?」

「――いいえ、殿下! 伯父上は」

「ならばよし。ウォード伯、沙汰を待て」


 僕もウォード伯も目を見開いた。

 ルキウスはあっと言う間にウォード伯の主張を却下して、僕の返事を聞き入れる。


「殿下! お待ちを……」


 ウォード伯が拘束されていく。

 不可解、不可解だ。僕はルキウスを説得できるようなことは言ってない。

 なのに、いくら暴言を吐いたからといっても、ルキウスの悪口は言ってなかった腹心っぽい感じのウォード伯が遠ざけられる。


 そのルキウスが僕の顔を見る。


「それで、此方は城へと戻るか、オルレイウス?」

「は、はい、殿下。……その前に、《人馬とニコラウスの壁》の防衛する守備隊にここでの接敵と、火の手が上がっていることを告げて頂ければ」

「万事承知した。……しかし、前世の記憶とやらを持っているとはいえ、そちの体はまだ幼い。此方と共に逃げぬか?」


 僕は素直に驚いていた。

 僕が周囲から聞くルキウスの噂と、眼の前の噂の主は同一人物なのか。

 そう思うぐらい、ルキウスが僕に掛ける言葉は慈愛に切なげに彩られていた。


 そもそも、僕と彼には従兄弟とは思えないほどに、今までほとんど接点が無い。

 僕が城を訪れるときはほぼ必ずと言っていいほどマルクス伯父からの呼び出しだったし、そのマルクス伯父はクラウディアは招いてもルキウスを招くことはなかった。

 おおよそ、マルクス伯父とルキウスの間にはなんらかの確執がある。それは、僕だけの認識ではなかったはずだ。


 それに彼と僕が顔を合わせたのは今まで数えるほど。そして、そのすべてが城ですれ違ったときに挨拶をした程度のもの。

 ルキウスとまともに会話をしたのは今回が初めてだ。

 僕はルキウスにそれほど深い情けも信頼も寄せていないし、彼も僕と同じだと思っていた。


 だけど、今。

 彼が僕を見つめる瞳とその口からかけられた言葉には、なぜだか無条件の信頼があった。


「殿下っ! 殿下ぁっ!! その子供を信じてはなりません!」


 引きずられていくウォード伯をちょっと見て、ルキウスが軽蔑するように鼻を鳴らした。


「己を庇った息子を助けぬそちにはわからぬだろうな、リスクス。この世のもといが愛だということが」

「……殿下ぁっ! その子供はきっと、この国に害を……」


 呼ばれたルキウスはさらに馬を寄せて、僕の目元へと手を指を伸ばす。


「オルレイウス。そちはそのように己に従う者のためにも涙を流すのだな?」


 僕の目には確かに涙が滲んでいたかもしれない。

 それでも、ルキウスの指にそっと涙を拭われて、僕はなんでか戦慄した。

 彼はある意味、この場の誰よりもヤバい。彼の主義と主張はよくわからないけれど、なんとなくそんな気がした。


 思わず表情を硬くして、ルキウスへ応える。


「殿下、お早く。僕ならば、ご心配には及びません」

「オル。死ぬることは赦さんぞ。……愛らしいクラウディアが泣く。此方の涙も流れるだろう。……生きるのだ」


「殿下、さあ!」


 親衛隊に囲まれて、名残惜しそうに去るルキウスの言葉に、もの凄くイヤな予感がした。


 だけど、そんなことを考えている暇はない。

 こんなことをしている間にもアリオヴィスタスが作り出す血しぶきと悲鳴がこちらへと近づいていた。

 それよりも重要なことは、コルネリアの位置だ。


 攻撃に晒されている民兵たちが壊乱しないのは、にわかづくりの軍制とひと月あまりの訓練の賜物か。

 それとも、突然放り込まれた状況に戸惑っていたためか。

 密集しているために前線の兵には、逃げ場がほとんど無かったことも大きかったかもしれない。

 そして、彼らの奮戦の理由には、コルネリアが放ち続けている叱咤が大きかったのは明らかだった。


「敵の数は少ない! 騎馬の利点は失われている! 眼の前の《ギレヌミア人》を殺さなければ、ぼくら女は犯される! 君らの妻も娘もそうなるだろう! そして、少年たちは殺されるぞ!」


 コルネリアは堂々と、民兵たちの心にも、スパイクシューズのトゲを突き立てていた。

 彼女らしくない、暴言のような言葉の数々と共に。

 そして、なおもゆっくりと群れの中を進んでいく。


「諸君らの妻子は言うだろう、逃げてくれ、と! 逃げたい者はさっさと逃げろ! だが、そのとき、家族は凌辱されて殺される! 君らの妻子両親兄弟姉妹従兄弟親族、そのすべてが! 君らが育てた先年来の実りも! 君らと君らの祖先が血と汗とともに拓いた畑も! ぜんぶ奪われる!」


 もう、呆然として眺めるだけの人はひとりとしていなかった。

 扇動される民兵たちの表情はさまざまだったけど、彼らはコルネリアの言葉をおそらく真に受けていた。


「逃げたい者は逃げればいい! あの騎馬たちの追い足から逃げられると思うなら! この国に、まだ安全な場所があると思うなら! ぼくはここで勝利を得るまで動かない! やつらに犯され、殺されることになろうとも!」


 周囲の民兵たちには、過激なことを怒鳴り続ける馬上のコルネリアを見る者もいた。


「ぼくの顔を見る暇があったら、あの男を見るがいい! あれが君らの妻と娘と姉妹を犯す者だ! 君らの親と息子と兄弟を殺す者だ! 逃げたければ、逃げるがいい! 君らが逃げても、ぼくはここで死ぬだろう! 逃げる者は、凌辱されながら死ぬぼくの姿を見るがいい! 安全だと思うところから思う存分に、眺めるがいい! それが、君らの家族の未来だ! ――それが嫌なら、戦え!」


 コルネリアと同じ年頃の血縁者や伴侶を持つ人々は少なくない。

 そして、たぶんだけど彼らは馬上で叫ぶ、平均的な《グリア》女性の体格のコルネリアに、知人の姿を重ねたに違いない。

 自分の妻が、妹が、娘が、あるいは従妹が、姪が、彼らを馬上から督励していた。


 そうでなくとも、コルネリアは化粧けは無いけど美人の部類だ。グリア美人というやつだ。

 そんな彼女に挑発されて、燃えない《グリア人》はそんなにいないだろう。


 しかも、彼女は僕がルキウスと話している間にも怒鳴り散らしながらゆっくりと前進していた。

 民兵の群れを強引に掻き分けるように、徐々に徐々に。

 そして、腰の剣を抜き放つ。自分が前線で闘うのだ、そう宣言するように。


 雄々しく、猛々しい彼女を守るために、民兵たちは今や絶叫していた――


「おおおおおおっ!」

「盗らせんぞっ、誰がやるかっ!」

「死んでやるぅ! 殺してやるっ!」


「――そうだ、諸君! ぼくと共に、ここで死んでくれ! 君らの家族を守るために、ここで――死のう!」


――おそらく、彼女は天性の扇動者アジテーター。きっと《冥府の女王》――《死の女神》に愛されている。

 彼女は、わずかな時間でこの場の民兵たちを死兵へと変えた。


 コルネリアは死をまき散らす。敵と、おもに味方に。

 その彼女とアリオヴィスタスの位置はもう、近い。


「ケット! 弓を使える人たちを! 矢を射るように! あと二十、いえ十人でいいから、コリーの周囲に向かわせて、彼女を止めて!」

「――坊ちゃん、もう群れん中に忍ばせてるぜ! すぐに指図する! アークリーは……」

「――アークリーは?」


 そこで、僕も気がついた。

 馬の下から救出されたはずのアークリーの姿がどこにもない。


「……生きてたぜ。……けど、奥方んどころに行っちまった」


 どいつも、こいつも。

 ケットが仲間たちに指示を飛ばし、アガルディ侯爵軍・(仮)が一斉に動き出す。



 最低に近い状況だ。

 確かにコルネリアのおかげで民兵の士気は高いし、予想外の奮戦を見せている。

 けれど、アリオヴィスタス率いる《ギレヌミア人》の脚を鈍らせることはできていても、侵攻は止められていないし、向こうはほぼ無傷のまま進んでいる。

 死傷者は圧倒的にこちらのほうが多い。


 その上、民兵たちは戦闘の専門家じゃない。今は異様に高い士気に支えられているけど、肉体の疲労は蓄積しているはず。興奮状態は永遠には続かない。


 どうする? この騒ぎがアンリオスに聞こえていないはずはないのに。どうしたんだ?

 アンリオスはなぜ来ない?


 もう、羞恥心がどうこう言ってられる場合じゃない。

……僕が全裸になって、アリオヴィスタスを止める。


 できる自信があるとは言い切れない。さらに、あの《ギレヌミア人》のすべてを僕ひとりで倒せるか?

 僕はニックと《義侠の神》の神名に誓っている。人族を初めとした様々な種族を殺さない、と。

 そうでなくとも、コルネリアが三百名近いと予想していた《ギレヌミア人》を、僕単独で全員無力化していくのは可能なのか?


――違うだろう、オルレイウス。

 みんな命を捨てている。それで、独りだけ助かろうとでも?


『正しいさ、オルレイウス。死ぬことを選ぶやつなんか、《狂い神》に魅入られた者だけだ』


 《ピュート》がうるさい。

 いや、迷っている暇は。せめてアリオヴィスタスだけでも。


 僕が捲り上げようとしたローブを、アウルスが強引に下ろした。

 今の腕力ではアウルスごときにも勝てない。哀しくなる。

 振り返ると、アウルスが申し訳なさそうに言った。


「オルレイウスどの。征かれるおつもりならば、御留め致します。事前に三人で決めていたのです。……オルレイウスどのは死なせない。まずはアークリーが命を捨てよう、と。次にコルネリアが。最後にこの身です」

「――ふざけるなっ!!」

「お怒りはごもっとも。コルネリアも承服致しませんでした。……しかし、今のコルネリアの姿を見れば、この身が約定を違えるわけには参りません」


 どうかしている。三人ともどうかしている。



 そのとき。微かな声が聞こえた気がした。

 周囲を見回しても、声の主は見当たらない。まるで、天から声が降ってくるようだ。


「……イウスさまぁ!」


 目前で上がる悲鳴と雄叫び、金属がぶつかり合う戦闘音。

 その響きに打ち消されそうな声が、戦闘区域の逆側から微かに聞こえていた。僕は振り返り、東側の壁際に目を凝らす。

 ここから東へ六十メートルほど。梢の奥に生木とは違う垂直の高い建物があった。


「オルレイウスさまぁ!」


 《人馬とニコラウスの壁》の際に建てられたやぐら

 その上から僕に声がかけられているようだ。


「ケット、ここは任せます! アークリーとコリーを、絶対に守って! ……アウー、あっちに近づいてください! この命令には従えますよね!」

「……御意」


 北の森の西側にはほとんど手が入ってないため、櫓も比較的東側に建てられているあれだけ。

 戦闘の喧騒から離れて、アウルスが駆けさせる馬上で耳を澄ます。


「……近づいとぉる!」


 櫓の上にいるのは、民兵の人か?

 彼が、必死に壁の向こう側を指さして、僕に向かって手を振っていた。


「オルレイウスどの。なにか聞こえませんか?」


 アウルスの言葉に僕もようやく気がついた。

 たぶん、戦闘の渦中にある人たちはまだ気づいてない。

 けれど、少しだけ離れた僕たちには微かにだけど聞こえていた。《人馬とニコラウスの壁》の向こう側から多くの蹄の音が近づいて来ている。


「アウー、あの櫓へと登ります! 手伝ってください!」

「御意」


 アウルスが櫓の根元へと馬を寄せる。

 僕はすぐ左手、《人馬とニコラウスの壁》の際に建てられた櫓の頂点へと向かう梯子に手をかけた。


 太い四本の丸太を直立させ、その中心に三本の丸太をぶっちがいに交差させて頂上の足場を支える櫓には、木製の梯子がついていた。

 子供には少し間隔が広い横木の足場のある木製の梯子を僕は急いで登った。

 櫓の頂上部分はさらに立方体に木材が組まれていて、その上の足場はずいぶん高く見える。


 アウルスも僕に続いて登って来て、僕の尻を押したりしながら支えてくれる。

 その間にも、上の民兵らしい人は泣きそうな顔で僕に話しかけていた。


「だーれも気づかんちゃあ! オルレイウスさまぁ! 真下を通りなすったルキウスさまぁも、大層、急ぎなすってぇ……!」


 泣き声をあげる少年に近い青年は、申し訳なさそうに言う。


「おいが一等若けぇからあ、死ぬるこたあねえって隊長がぁ……」


 彼の顔を見上げると、櫓の屋根の上、遥か上空はどんよりと曇っていた。

 そう言えば、今年の冬はまだ二度しか雪が降っていなかった。


 そこで僕はようやく気がついた。

 今日は新年の一日目。僕が産まれた日だった、と。

 誕生日に、こんなところでいったいなにをやっているのだろうか。


 高い櫓だった。十五メートル以上、下手したら二十メートルはある高さ。

 地上ではあまり感じなかった、冷たくて強い風に手足が震えた。

 でも、この上からなら。


 僕は櫓を駆けあがり、そして青年の手を借りて狭い足場によじり登る。

 簡単な手すりがあるだけの、人がぎりぎり四五人立てる程度の広さの四角い足場。


 手すりに掴まり、地上よりも数段見通しの利く壁の向こう側の景色を眺める。

 この櫓の背の高さは、周囲の木々をわずかに見下ろせるほどだった。

 尖った木々の樹冠部、茂った枝葉の隙間から、広く火災の煙と炎が上がっているのが見えた。


 そして、ほど近くから聞こえる地を踏み鳴らす音は。


「――アンリオース!!」


――僕は彼の名を呼んだ。《人馬》の友の名を。


 地表を走る土煙が進路を変えてこちらを目指して来る。


「オルレイウス!!」


 聞き慣れた、しゃがれ声が、僕の名を呼び返す――


 

 

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