第49話
「だめだ! オルレイウスどのはニコラウス閣下からの遣いの指示通り、これから城へと退避するのだ!」
コルネリアに組み伏せられたアウルスが真っ赤な顔をして叫ぶ。
リビングの床に顔を押し付けられ、その背はコルネリアに乗られて右腕を捻りあげられながら、それでもアウルスはぎょろりと眼球を動かして彼女を睨もうとする。
「捕虜交換にかこつけて敵が攻めてくればここも危ない! この身から手を離せ、コルネリア・ガルバ・ケレブルーム・ネーヴス! 貴女はオルレイウスどのを危険に晒すつもりか?」
「君の愚昧もそこまでとは思わなかったぞ! アウルス・レント・マヌス・ネイウス! ぼくとオルレイウスくんの会話を聞いていなかったのか! いいか、《ギレヌミア語》のマルクス陛下と、あのネシア・セビという男の会話を聞いた限り、ネシア・セビが使者に立てられる理由は無い! ネシア・セビの言葉とオルレイウスくんの証言から浮かび上がるアリオヴィスタス・レックス・ギレヌミア・ハールデスという男の性格からして、他氏族の、それも陛下から親書を受け取っていたネシア・セビが使者に立てられる可能性はほぼ無いんだ! なぜまら、推測されるアリオヴィスタスという男の性格は、疑い深く、自らの敵に冷酷にして果断だからだ! そんな男が、敵から書状を受け取っていた者を使者に立てるはずが無い!」
「それが、なんだというのだ! だからと言って、なぜオルレイウスどのが《
アンリオスの強気な怒声に、コルネリアが眉根を寄せる。
「馬鹿者め! 答えるがいい、アウルス・レント・マヌス・ネイウス! それならば、なぜ、ネシア・セビは使者となって、この地を訪れることができたんだ!」
「親書の内容を明かし、忠誠を示して、信任を得たからだろう!」
「大馬鹿者! 猜疑にまみれたアリオヴィスタスからどのようにして信を得るというんだ! 陛下の親書の内容を明かしても、彼の猜疑心を煽るだけだという程度のこともわからないのか!」
「不忠な貴女にはわかるまい! 真の忠信の輝きは、暗闇を照らす! どのような疑心暗鬼の闇がそれを阻めるだろうか? ……いや、阻めるものなどあり得ない! 鉄といえどもこの忠誠に焼かれるのだ!」
「よくわかった! 君はその妄想を抱いて死ね!」
アウルスの背中に乗って、昨日ニックに治されたばかりの腕を掴んだコルネリアが、彼の首へと膝をかける。
「やめてください、コリー! なんで、あなたはそうすぐ殺そうとするのですか!」
「オルレイウスくん! 馬鹿は死ななければ治らないのだ! たとえ《冥府の女王》に迎えられようとも、閣下に頼めば蘇えるかもしれない! 蘇らなくとも、この大地からひとつ暗愚の徒が消える! それはぼくらにとっても有益だ!」
「だめったら、だめ!」
コルネリアは細められた目の底で、瞳を動かして僕の顔を見る。
小さく頷き返すと、彼女は少しばかり力を抜いたようだった。
僕はため息をついて、アウルスに語りかける。
「いいですか、アウー。あなたの忠誠は鉄のように頑なな心も貫くでしょうけど、ネシア・セビのそれは違います。……彼の忠誠は、マルクス伯父に勝とうとする執着からくるものです。親書の内容を知っていなかったとしても、そんな男をアリオヴィスタスが使者にするとは思えません。……ネシア・セビは、アリオヴィスタスに無断で使者に立った。そう考えるのが一番腑に落ちます。……そうすると、現在アリオヴィスタスは《ギレヌミア》の本隊から離れていると考えるのが、妥当なのではないでしょうか?」
「ですが、オルレイウスどの? なぜ、《人馬の壁》の西なのですか? そこにあの男がいるとでも?」
「アウー。この国の北方防備において《人馬とニコラウスの壁》の西側はもっとも弱い。……アリオヴィスタスの姿が最後に確認されたのは三夜前です。この三日の間に、警戒網を突破して彼が進軍できる場所は限られる。……たとえば、多くの《人馬》が傷んで、手薄になっている森の西側である、とか」
アウルスが大きな目をさらに大きくして僕を見る。
ネシア・セビが捕虜交換を今日と決めたのは、出発前のアリオヴィスタスに指図されたからなのではないかと思う。
捕虜交換の場所を東側の街道に指定してきた以上、アリオヴィスタスが進軍しているのは、そこから離れた森の西の可能性は高い。
街道のさらに東側を大回りに来るということも考えられなくはないけれど、その途中には《アルゲヌス山地》という高山地帯へとつながる深い森がある。
《アルゲヌス山地》手前の森は、二股に分岐する街道に挟まれている形だし、北の森よりさらに深くて標高が高く、険しい。
無理に渡ろうとすれば、北の森を行くよりも時間がかかるし、街道に挟まれているからこちら側からの捕捉は容易。結局、二本もの街道を横断することになるからだ。
やはり、西側を進軍していると考えるのが妥当じゃないだろうか。
だけど、僕はこうも考える。
なにを根拠にしてアリオヴィスタスは西側へと侵攻することを決めて、どのようにしてアンリオスたちの迷路を突破するのだろうか、と。
アンリオスの言葉によれば、アリオヴィスタスでも迷路を突破するのに数日を要する。
それに、うまく三日ほどで突破できたとしても、彼が《ザントクリフ》側の防備が薄いと確信を持っているはずはない。
いくら《ギレヌミア人》の斥候が広範囲に亘って出されていたとしても、《人馬とニコラウスの壁》付近までには到達していなかったはずだ。
アリオヴィスタスは、こちらがどの程度まで彼らに備えているかを知らないはずではなかったのか。
それになによりも時間の問題。三日、正確にはわずか二日半。
たったのそれだけの時間で、どうやって広大な迷路の中に指針を見つけるつもりなのか。
事前に時間を指定していたということは、アリオヴィスタスには迷路を攻略する成算があったということなのだろうけど。
「ならば、ニコラウス閣下にご報告申し上げねば!」
「ほんとうに愚かだな、アウルス・レント・マヌス・ネイウス!」
コルネリアがアウルスの腕を引き絞った。
「わからないのか! 閣下はすでに全軍の指令権を手放している! 加えて、ぼくらが導いた推測がどこに由来しているか、君には説明できるのか!」
「――ならば、マルクス陛下に」
「馬鹿め! 陣中奥深くにおわす陛下になんと言って目通りを願うつもりだ! すでにオルレイウスくんの謹慎は知れている! 誰の目にもつかずに陛下に目通りすることは不可能に近い! だからこそ、昨夜のうちにぼくが行ったのだろう! なんのために、ぼくが外出したと思っていたんだ! だが、それも徒労に終わった!」
コルネリアの言葉のように、彼女は昨夜、マルクス伯父のテントを目指して注進に行っていた。
だけど、どこの部隊にも所属していない彼女は門前払いを食らったそうだ。
伯父の周囲を固める近衛隊は警戒を強めているようだ、とコルネリアは言った。
「アークリーくんによって、ウォード伯の耳にはぼくらの推測が聞こえているはずだろう! ウォード伯の口を通して陛下の耳に入ることは十分考えられる! しかし、それも確実とは言い難いのだよ! カッシウス・エキテス・ライツの一件があるからだ! 近衛の警戒が険しいのは、諸侯の中にニコラウス閣下と陛下の足を引く者がいるからだ! ウォード伯といえども、陛下を説得できるかはわからないし、そもそも、ぼくや君の親よりは文派であるウォード伯のほうがニコラウス閣下に近いと言っても、彼がぼくらの言葉に重きを置くかはわからない! ぼくらに残された道は、ぼくらだけでも確実に《ニコラウスの壁》の西側を防衛することだけだ!」
「しかし、兵力が無いだろう!」
アウルスの言葉に苛立ったコルネリアが頭を掻き毟ったとき外が騒がしくなった。
その中に、昨夜、街へと向かったアークリーの間延びしながら音頭をとる声が聞こえる。
「……来たようですね、コリー」
「アークリーくんは間に合ったか!」
コルネリアがアウルスの腕を放して、颯爽とリビングを飛び出して玄関へ駆けて行く。
腕を解放されたアウルスが肩をさすりながら僕を見た。今回は、コルネリアもちゃんと手加減したようで、彼の肩も無事だ。
「間に合った、とは? どういうことですか? オルレイウスどの?」
確かに早寝のアウルスにはそのあたりのことを説明していなかったけれど。
さっきコルネリアが言ったことは、彼女と僕がすでに昨夜のうちに話していたことで、アウルスも聞いていたのではなかっただろうか?
「オルちーん、連れて来たよー」
アークリーの声。
アウルスの問いかけを無視して、僕もコルネリアを追って玄関のほうへと向かった。
アウルスも僕の後からついて来る。
先に玄関に到着したコルネリアが振りかえる。
彼女が指さす先、玄関口と開け放たれた玄関扉の向こう側に、詰め寄せたたくさんの人の群れがあった。
「オルレイウスくん! 数は百五十ほど、装備も、加えて容姿に漂う品性も物足りないが、この際、しょうがないだろう!」
「嬢ちゃん、オイラを舐めてねえか?」
人々の先頭にアークリーと並んで立っていた三十歳ぐらいの細身の、頬に傷のある男がコルネリアに食ってかかる。
玄関まで侵入してきているのは、アークリーと彼だけだ。
「おい、口の利き方に気を付け給え! あまりに無礼な者は、この場で殺す!」
コルネリアが威厳たっぷりに、文句を言った男にそう言った。
「へっ! 嬢ちゃんよ、《
コルネリアより頭ひとつは背の高いその男は鼻を鳴らすと、そう言いながら彼女の腕を掴もうと手を伸ばした。
その腕をコルネリアは、掴んで捻り、そのまま足を払って男を顔面から壁へと突進させた。
男は悲鳴を上げて、壁に顔面を打ちつけて、狭い玄関の床に転がった。
その姿を見たのだろう、玄関扉の向こう側から一斉に喚声とも爆笑ともつかない声が起こった。
「こうなるから、このコルネリア・ガルバ・ケレブルーム・ネーヴスちゃんこと、コリーには気をつけてねー」
倒れた男を助け起こしながらのアークリーの間の抜けた解説に、うーっす、と玄関の向こう側からたくさんの野太い声が上がる。
「――先に言っとけ、アークリー! 余計な恥掻いたじゃねえかっ!」
男はアークリーの手を払って鼻血を拭いて、コルネリアをちょっと怯えた目で見た。
ついで、大爆笑している男の仲間たちを振り返って、笑うんじゃねえ、と言って余計に爆笑を誘っている。
「アークリー・ウォード・アドミニウス・ガステール! なんだというんだ、この男は! 無礼だし、弱いし、その上に頭も足りない! アウルスくん以下じゃないか!」
頬傷の男を指さしながら発されたコルネリアの言葉に、男とアウルスが不満顔を浮かべる。
「ごめんねー。……オルちん、こいつはケット。《泥まみれ》のケットって呼ばれてる。南のほうから流れて来たやつで、いちおう、街の北のごろつきの顔役のひとり。基本的には乞食で、たまに盗みもやる」
「口にゃ気をつけろ、アークリー! オイラは侠客だ! ちょっと、懐の温ったけえ野郎に寄付を頼んでるだけだ! 《教会》だってやってるだろうがい!」
アークリーが困ったような笑顔を浮かべて僕も見ると、ケットもまた疑わしそうな目で僕を見る。
彼の目を警戒してか、アウルスが大きな体を僕とケットの間にずいっと入れた。
彼は胡散臭そうにアウルスに一瞥をくれて、アークリーの肩に腕を回して僕とアウルスとコルネリアに背を向けた。
「なあ、アークリー。ひょっとして、こっちの小さい坊主……もとい、坊やがご領主さまか? てめえよりも若けえじゃねえか。でえじょうぶなんだろうな?」
「未来の領主さまだかんねー。でも、今回ちゃあんと働けば、オルちん家、アガルディ侯爵家の下っ端従士にしてくれるって。ひとり息子だから、ばっちりだよ」
「まじなんだろうな?」
「まじまじ。従士になれば、まず、食うには困らないよー」
密談のつもりにしては声が大きい。
コルネリアの顔がゆっくりと険しくなっていく。
「おい、アークリー・ウォード・アドミニウス・ガステール! なんだい、その男は! 見た目通りに品性までが大きく欠落しているじゃないか!」
コルネリアの声に、アークリーと頬傷の男――ケットのふたりは、ちらりと彼女を見て改めて顔を背けた。
「あっちのコエぇ姉ちゃんはなんだ? 坊やの姉貴か?」
「うんにゃ。側近候補。……てゆーか、奥さん候補?」
「なるほど、奥方か」
アークリーの言葉に、珍しくコルネリアの目元に赤みが差した。
「おい、アークリー・ウォード・アドミニウス・ガステール! 訂正し給え! それではまるでぼくが、オルレイウスくんを誘惑でもしているみたいじゃないか! ぼくは実力によって士官するんだ! そういう、男性中心主義的な考え方をぼくは好まないぞ!」
ケットは彼女の声にまたちらっとこちらを振り返って、今度はアウルスを見てまた顔を背ける。
「奥方がなに言ってっかは、わかんねえけど、あのでけえ兄ちゃんはなんだ? 坊やの兄貴か?」
「この身は忠義の士、アウルス・レント・マヌス・ネイウスだ。下郎、いい加減にこちらを向いて、跪け! ……アークリー、この身にも説明しろ! なんなんだこの者どもは!」
アウルスの言葉にアークリーはケットの背中を軽く叩いて、こちらを振り向いた。
そして、ケットを促し礼をさせ、自分も片膝を突いて僕に向かって頭を下げる。
「アークリー・ウォード・アドミニウス・ガステール、ただいま復命いたしました」
膝を折った彼らの頭越し、開かれた玄関扉の向こう側に麻の服の上に皮鎧を思い思いに身に着けた格好の男たちが数十人。
皮鎧を装備していないものまでいるし、彼らの手に握られている武器はやけに豪壮な剣や槍から、鎌や短剣、斧や弓矢、木から削り出しただけの棒だか槍だかなんだかわからないものまで様々だ。
ケットが振り返って手を振ると、彼らもまたのろのろと膝を突く。
「兵役拒否の街の無産市民、六十三。兵役免除の開拓村村民八十八。合計、百五十一名。……これがオルちんの軍さ」
アークリーは最後に、にへっといういつもの気の抜けた笑顔を見せた。
「……これは、無い……」
僕の目の前のアウルスが小声でそう溢した。
アークリーによれば、彼らのほとんどは頬傷の男、《泥まみれ》のケットの部下だったり、友人だったりするそうだ。
街中を徘徊する乞食にも様々な人がいる。実家や周囲の小さな共同体から弾かれた人や手足が不自由で満足に働けない人、犯罪者や失業者なんかもいるらしい。
《泥まみれ》のケットは、そういう乞食たちのなわばりを管理している顔役らしい。
ケット本人には腕力こそないけど錠前師の家に産まれたおかげで鍵開けはお手の物だと言う。
錠前を作るよりも、そっち方面に才能を示してしまったケットは、職人気質の父親に叩き出された。
その名の通り、泥水をすするように北の街を徘徊しているうちに窃盗に手を染めるようになったそうだ。
加えて、彼は口も達者だった。父親に追い出されたのも、口下手な父親を正面切って罵倒したからなのだそうだ。
大きな商家や大身貴族は錠前師の重要な顧客だ。というより、錠前を必要とするような財産を持っている富裕層は限られる。
ケットは父の得意先を仲間を集めて片っ端から襲ったそうだ。父親が作った錠を開けることなんてお手の物。
結果的に、今ではお尋ね者になっている。
「だがよぉ、坊ちゃん、聞いてくれ。親父の作る錠も、なんだかんだでむつかしくなってやがる。今じゃ、よそのやつのが開けやすいぐれえだ。……腹が立つぜ!」
《人馬とニコラウスの壁》の西側を目指す道すがら、ケットは馬上の僕に向かってそう言った。
つまり、ケットが父親の技術の向上に一役買ってしまった結果らしい。
稼ぎにくくなったケットは今では乞食もやっているということだ。
しかし、悲惨な経験を重ねたケットは、哀願に関してなかなかの手練手管を見せたのだと言う。
それに、数少ない錠前師の、それも無口な父親のもとに産まれ育ったこともあって、彼は競合相手をどのように出し抜くか、自分をどのように売り込むかを心得ていた。
口が達者だったケットは、大がかりな窃盗犯罪の経験で名前を売り、さらには乞食の総元締めとなっていった。
気づけば十数年ほどで、街の裏社会の顔役にまで上り詰めていたのだそうだ。
「そんな人が、どうしてアークリーと友人なんですか?」
「オルちん、オレが拉致られたって言ったの、憶えてる?」
ケットと僕の会話を聞いていたアークリーが、反対側に馬を並べて来た。
「ええ、確か二回でしたよね?」
「それね、二回ともケットの手下だったんよ」
「……は?」
アークリー曰く、一回目はケットの前で神名に誓って見逃され、二回目のときにはさんざんごねた挙句、ケットの前に引き出されたそうだ。
そいつが逆立ちしたって金なんて出て来ねえ。ケットの言葉でアークリーは救われたらしい。
「坊ちゃん、オイラは顔役つっても、そんなに手広くやってたわけじゃねえ。だけどな、アークリーは二度もオイラの目に留まった。……こいつは縁があったってこった」
それからケットはアークリーに街に来るときには、自分を頼るように言った。
街を徘徊する乞食だけあって、ケットの人脈は広い。
今回集まった人たちも、多かれ少なかれケットの世話になった人たちらしい。
「女衒に、日雇い、親方からおん出された職人に、けちな盗人、密猟者。えせ《詩人》なんかもいやがる。……そんな野郎どもが手っ取り早く稼ぐにゃ、お情けに縋るのが早えのよ」
そう言ってケットは笑った。
どうもアークリーは、ケットの人脈を辿って友人の輪を広げたらしい。
そして、アークリーに目をかけたケットにもそれなりの恩恵があった。
貴族でかなり武芸に精通していたアークリーは彼らにその技術を伝授した。おかげで今回集まった人のなかには、弓を使える人も多少いる。
「アークリーに目を付けた坊ちゃんの、そのお目目は確かだぜ。こいつと出会ってからオイラのなわばりは広がった。こいつの気の抜けたような語り口は、どうもこっちの油断を誘いやがる。ばかみてえな話だが、オイラの仲間が増えちまった」
さらには、数年前から他国の観光者や巡礼者が増加した。
ケットが総元締めを務める乞食たちの収入も膨れ上がった。そうすると、ケットへの心づけも増える。
さらに仲間も増えて、ケットには怖いものがないくらいだったそうだ。
「アークリーは学はねえし、貴族にはありえねえぐれえのバカ野郎だが、頭は悪くねえ。オイラの目も確かだったてこった」
「でも、ケット? 収入が増えたなら、なぜ、今回のアークリーの呼びかけに応えたのですか? マルクス伯父の召集を拒否できるぐらい余裕だったのでしょう?」
「――ああん? 坊ちゃん、おめえさん、マルクス王の甥なのかい!」
今さらなにを。そう思いながら、僕は簡潔に頷いた。
並足の馬と並んで、速足で歩くケットは僕を凝視したあと、僕の向こうのアークリーへ向かって笑いかけた。
「てめえは、なんなんだよ、アークリー! くそみてえに幸運ばっか運んで来やがる! このオイラが、マルクス王の甥っ子の従者かい!」
大爆笑したケットは笑いを収めると、改めて僕を見た。
「いいかい、坊ちゃん。縄ってえのは二本や三本の紐をより合わせて太くする。オイラのほうもそんなもんだ」
仲間が増えればもめごとも増える。ケットの収入も増えたが、責任も大きくなっていく。
そして、拡大していくケットの幸福と共に、不幸の予兆も大きくなっていた。
「オイラは手下が増えすぎたのさ、坊ちゃん。このまま行けば、すげえ数になっちまう。そこで、この戦争だ。冬はまだいい。だが、春になっても終わんなけりゃ、金持ちの巡礼者は寄り付かねえ、そしたらオイラの手下は食いっぱぐれる」
なんだか、責任感がなさそうな人だと思っていたのに、妙なところで責任を負っている。
僕のケットに対する印象は、そういうものだった。
ケットはコインの裏表みてえなもんさ、と言葉を続けた。
「ケット、まじめだもんね」
「うるせえ、アークリー。オイラがこんだけやって来たのも、世話焼いてきたからだ。茶化すんじゃねえよ」
ケットは憎まれ口を叩きながら、楽しそうに笑った。
そして、改めて僕を見る。
「坊ちゃんは、オイラがマルクス王の呼び出しを断るぐれえ余裕があったと言ったな? そいつは違うぜぇ」
「そうなのですか?」
ケットは僕に頷き返して、口を開く。
「オイラに言わせりゃ、余裕があるのは御貴族様のほうさ。オイラの耳にゃ、いろいろと聞こえてくんのさ、坊ちゃん。口だけの貴族もいりゃ、娼館で女遊びしてるやつもいやがる。戦争だってのにな。オイラはもちろん、マルクス王だって知らねえ。あのおっさんだって、王宮で女抱いてんだろうさ」
「下郎!」
ケットの言葉に、騎馬を操るアウルスが声を荒げた。
だけど、僕はアウルスを押しとどめた。ケットの言うことには、たぶん、真実がある。
ケットが僕を目を細めて眺めた。
「おもしれえな、坊ちゃん。あんたの目を見てると、死人の目でも見てるような気分になるぜ」
「……死人、ですか?」
ケットは僕の問いかけに頷いた。
「そう、死人さ。アンデッドの呪いはコエぇっていうが、オイラにゃ死人の狂気のほうが恐ろしい。肉も、それに触れるような力も持たねえのに、やつらは諦めねえ。終わらねえ夢は悪夢だ。明けねえ夜は死の寝床だ。そんで、死人はそこからオイラを眺めてる。終わらねえ狂気さ。坊ちゃんのは、それに近けえ」
……心当たりがなくもない。
僕が黙っていると、ケットは僕から目を逸らした。
「そいつぁ、どうでもいいな。……オイラが召集から逃げた理由だ。そりゃ、簡単さ。勝ち目が見えねえ」
ケットが改めて僕を見る。
「半分遊んでるような御貴族様がたの下に付いてみねえ、犬死にに決まってるわな。そんなら、せっせと商売に精出したほうがいい」
そこで、ケットの視線は僕の向こうのアークリーを見た。
「だがなぁ、アークリーが言ったんだよ、坊ちゃん。おめえさんは、ほかの貴族とは違げえ。……んなら、オイラはそいつを信じるまでさ」
《泥まみれ》のケットはそう言って笑い、黙った。
「オルちん、見えて来たよ」
僕らの目に《人馬とニコラウスの壁》の終わりが見えて来た。
そして、そこには僕らとは別の集団が待機していた。
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