第48話



 ネシア・セビ。

 《ザントクリフ王国》に侵攻中の《ギレヌミア人》を率いるふたりの氏族長のうちのひとり。


 僕が遠目に見た限りでは、壮年の終わりぐらいの年齢の筋骨隆々の金髪男性だった。

 馬に乗っていたから身長はよくわからなかったけど、たぶん、巨躯のアリオヴィスタスより少し低いぐらいだろう。


「使者は独りですか?」

「はい、単独ですが……それよりも、オルレイウスどの! ニコラウス閣下が」

「伯父上の判断なら、なにか相応の理由があると考えるべきです。それよりも、ネシア・セビです」

「ご存じなのですか?」


 アウルスの言葉には応えずに、僕は質問を返した。


「使者の要求は? それに、誰が応対を?」

「要求についてはわかりかねますが、ガルバ候とウォード伯が応対しているはずです。……城へと早馬が出た様ですので、マルクス陛下のお越しが予想されますが」


 それならば、まだ会談は始まっていないのではないか。


 僕は知っている。アリオヴィスタスがネシア・セビにウソをついていたことを。

 穿った見方をすればそれは、ネシア・セビがアリオヴィスタスに利用されている可能性があるということだ。


 アリオヴィスタスは、ネシア・セビに対して《ザントクリフ王国》を攻撃する大義を捏造しなければならなかった。

 少なくとも、ネシア・セビに知られては困ることがアリオヴィスタスにはあったということ。

 過去形なのは、それがマルクス伯父によって暴露された彼の来歴だと僕が考えているから。


 だけど、緒戦以来、《セビ氏族》が離脱したという情報は無い。

 ニックの奇襲作戦に対応したという事実を踏まえても、アリオヴィスタスはなんらかの形で彼らをまとめ上げていると見るべき。

 実際に《セビ氏族》を率いているはずのネシア・セビの立ち位置は依然として不明のまま。


 彼は、間違いなくアリオヴィスタス・レックス・ギレヌミア・ハールデスに次ぐ、《ギレヌミア》陣営の重要人物だ。

 そんな男が、なぜ単独で?


「待ち給え、オルレイウスくん! どこへ行く!」


 アウルスの横を抜けようとした僕の腕がコルネリアに捕らえられる。

 僕は彼女の手を振り解こうともがきながら、アウルスを見る。


「アウーさん、会談はどこで?」

「《人馬ケンタウルスの壁》の中央部、その北にてこれより行われるはずですが……お連れするわけには参りません」


 コルネリアに腕を引き戻され、アウルスが扉の前に立ち塞がる。


「やはり、父の命令のほうが優先度が高い。……そういうことですか?」


 僕はアウルスを見、そしてコルネリアを振り返った。


「さきほども言っただろう、オルレイウスくん! 君は十に過ぎない! いくら能力があろうとも、君には権力は無い! 指揮系統が乱れれば、軍は崩壊するのだ! 貴族としてここばかりは譲れない!」

「僭越ながらこの身もコルネリアに同意致します。……オルレイウスどの、お望みとあらば貴男の脚が耳の代わりも務めて参ります」


 ふだんはふたりともちっとも協力しないくせに、こういうときだけ息が合っている。

 だけど、できればネシア・セビの言葉を直接聞いておきたい。

 全裸になろうとしても、彼らに止められる可能性は高いだろうけど、どうするか。


「え、なんで?」


 間の抜けたような声。

 僕とコルネリアとアウルスの視線が、声の主へと集中する。

 相変わらず頬杖を突きながらぼけっと笑うアークリー。


「なんでダメ? みんなで行けばよくね?」

「アークリー・ウォード・アドミニウス・ガステール! ずいぶんな記憶力だな! 今朝、ニコラウス閣下に命じられたことをもう忘れてしまったのか! いいかね、ニコラウス閣下はぼくらにオルレイウスくんを外に出さないように、全裸にさせないようにと」

「全裸にならなきゃいいんでね? なんで外出ちゃだめなん?」


 アークリーの言葉に、アウルスがなるほど、と小さな声で呟いた。

 コルネリアがアウルスを細められた目で見る。


「ほんとうに愚か者だな、アウルス・レント・マヌス・ネイウス! 君の唯一の長所は、言いつけを守ることだけだろう! それを自ら否定してどうする!」

「アウー、考えてみなよ。閣下がほんとうに禁止したかったのは、オルちんが全裸んなることっしょ? そこさえ守りゃ、間違いねえって。オルちんが全裸になりさえしなけりゃ閣下も納得するし、オルちんもぜってぇアウーに感謝するじゃん。一石二鳥ってやつ? それじゃね?」


 アウルスの大きな眼球から鱗がこぼれ落ちたように僕には見えた。


「ふたりの主の意向を、同時に叶えるということか!」


 大きな目を輝かせるアウルスに、コルネリアが噛みついた。


「馬鹿者め! アウルス・レント・マヌス・ネイウス! 昨日の一件を忘れたのか! オルレイウスくんに危険が及んだらどうするつもりだ! 閣下の意図はそこにこそ」

「え? コリーがいるのに? コリーはオルちん守る自信ねえの?」


 アークリーの挑発。

 しかし、コルネリアは僕の腕を掴んだまま背筋を伸ばして高らかに宣言する。


「ぼくがオルレイウスくんの護衛に就いている以上、彼に危険が及ぶ不安は無い! しかし、ニコラウス閣下の御意思に副うことを優先するのも貴族としての務めだ! アークリーくん、君ごときの挑発ではぼくは揺るがないぞ!」

「ほんとは自信ないんでね?」

「言っているがいい! とにかくダメだぞ、オルレイウスくん!」


 コルネリアの細められた目が僕へと動いた。


「コルネリア。お願いします。……必ずあなたの言うことを守ると約束しますから」


 彼女のまぶたが少し動いた。

 そして、ため息をひとつ。


「……ぼくの言うことを聴くのだな、オルレイウスくん! ……いいだろう! そこまで言われては仕方がない! しかし、閣下から叱責を賜る場合は、君が責を負い給え! アークリーくん!」

「あい、さー」


 突然、少し張り切った様子のコルネリアは僕の手を引いて玄関へと歩き出した

 その様子を見てアークリーがのほほんと笑いながら声をかける。


「オルちん、フードかぶって。オルちんの謹慎処分は、けっこう広まってる。誰かに知れたら、閣下の雷落ちんよ」



 僕はアウルスの操る騎馬に乗って、アークリーとコルネリアはそれぞれの愛馬に跨って、《人馬とニコラウスの壁》の向こう側へと足を伸ばす。

 もちろんだけど、全員マントとフードを目深にかぶっている。


「やー、初めて家出したときんこと思い出すなあ」


 朗らかに笑うアークリーとは対照的にアウルスは周囲の警戒を怠らない。

 異様に首を振って周囲を確認するアウルスの操る馬に、コルネリアが馬を並ばせた。


「オルレイウスくん、安心し給え! ぼくがいる限り君に危険が及ぶ心配などない! ゆえに君が全裸になることはない道理だ!」

「声が大きいです、コリー」


 コルネリアの発言を聞いて、僕らに抜き去られた人が、こちらを見ているのがわかった。


 僕らと同じように、会談の様子を窺うために馬を駆る《騎士》がいくらかと、徒歩の武装兵がちらほら《人馬とニコラウスの壁》の東側を周って走って行くのが見えた。

 さすがに僕らほど若い人間は少ないけれど、少しだけ安心した。

 この人波に紛れてしまえば、この場にニックがいたとしても見咎められる可能性は低いだろう。


 ざわめく人々の波に乗って進んでいくと、やがて簡易式の床几しょうぎが人波の向こうに見えた。

 木立の間に据えられたふたつの床几を囲むように《騎士》たちが護衛していた。

 おそらくは、マルクス伯父とネシア・セビのために用意された物だろう。


 その証拠に、二つの床几のうち、片方にはネシア・セビがすでに腰掛けていて、それに向かい合うもうひとつには誰もいない。


「なるほど! あれが《ギレヌミア人》か! 骨格は頑健そのもの、しかし、ぼくらよりも肌の色が薄いな!」


 コルネリアが感心したようにそう言った。

 その眼差しの先のネシア・セビは、逆立つほどの短髪にいくつか傷痕のある白い肌を晒した軽装で椅子に腰かけていた。

 無骨な外見が周囲を《グリア人》に囲まれても、なおその視線を圧倒していた。


「うちの親父とコリーの親父がいるねー」


 アークリーの言葉にコルネリアの顔がちょっとだけイヤそうにゆがめられた。


「君の父上はまだしも、ぼくの父がまともなことを言えるとは思えないな!」

「コリーはお父上がキラいなのですか?」


 僕の問いかけにコルネリアはすぐに頷いた。


「ニコラウス閣下が、君を誘拐した《騎士》が誰かに焚きつけられていたようだと言っていた!」

「ええ、僕もそれは耳にしています」

「おそらくは、ぼくの父が下手人だ!」


 急にコルネリアの唇から落ちたその言葉に、僕は驚きを隠せなかった。


「考えても見給え! 下手人は当然ニコラウス閣下と敵対する立場の者、つまりは武派貴族が濃厚だ! そして、アガルディ侯不在の今、それらの筆頭といえばぼくの父のほかにはいない! 加えて、先のマルクス陛下のご親征のおり、留守居役を命じられた貴族のうち、もっとも力を持つのは父だ! 彼が《モリーナ王国》の《騎士》たちに声をかけたと見るのが自然だろう!」

「そりゃ、あんまりってもんじゃね? コリー」


 アークリーの苦笑いの籠った言葉に、コルネリアは首を振った。


「あの《騎士》を唆した者を探すのならば、ぼくの父を当たるのがいっそう早い! ぼくの父がまったく加担していない可能性は皆無だ!」


 コルネリアはなおそれが当然だとでも言うように主張した。


 いや、僕もガルバ候は怪しいと思ってたけども。

 それを実の娘のコルネリアから言われるなんて思ってもみなかった。


 彼女の父親、ガルバ候プブリウス・マールキオ・ガルバ・ケレブルーム・ネーヴス。

 彼はガルバ侯爵家という《ザントクリフ王国》で最大領地を保有する貴族で、武派貴族の筆頭格でもある。

 ガルバ候はニックとマルクス伯父が《ギレヌミア人》と戦っていたときも《人馬とニコラウスの壁》付近の民兵を指揮していたし、カッシウスたちに接触する機会は十分にあったはずだ。


 なによりもコルネリアの言うように、イルマが不在の現状において武派貴族の筆頭だというのがとても怪しい。

 それでも、実の娘が父親を下手人とか言っているとちょっと悲しくなる。


「コリーはお父上がもの凄くキラいなのですか?」

「はは! オルレイウスくん! よしてくれ給え!」


 コルネリアは目を細めたまま僕に笑いかける。

 そして、言い放った。


「ぼくの父は俗物だ! 好ましく思うべき長所などない!」


 一瞬でガルバ候が気の毒になる。

 思春期の女子は父親を毛嫌いするものだと言うけれど、これはその域をちょっと超えている。


「オルレイウスどの。マルクス陛下と……ニコラウス閣下もお出ましです」


 アウルスの言葉に僕らは慌てて馬から滑り降りて、人波の中に姿を隠した。

 マルクス伯父の登場に、周囲のざわめきが已んでいく。


 人々の体と体の間に、床几へと進んでいくマルクス伯父の姿が見えた。

 周囲には目もくれず、真っ直ぐにネシア・セビだけを見ている。

 そのマルクス伯父が、床几に腰掛けるなり口を開いた。


「さて、足労をかけた。……此度は、捕虜の行く先のことか、それともそなたの行く先のことか? ネシア・セビ」


 それに対して、ネシア・セビはほのかな微笑をこぼした。



 〓〓〓



〈――ルエルヴァ共和新歴百九年、ザントクリフ王国歴千四百六十六年、トリニティスの月、三十夜


 今日、オルに対して初めて強い口調で命令を下した。


 隠し事をしていると指摘されて、私の心臓は飛び跳ねた。

 オルはどこまで悟っているのだろうか?


……私は、その答えが怖くて、オルレイウスとの会話を打ち切った。

 オルは《魔族戦争デモニマキア》について調べていたと言っていた。

 彼が《巨神族タイタン》について辿り着いていることは無いと思いたい。


 だが、私の出自に疑問を抱いていることは確かだと思われる。

 オルに私の出自を打ち明けるべきだろうか? 彼は私の血を受け入れられるだろうか?


 そんなことを考えながら、マルクスと捕虜交換について話していると、早馬が報せを届けた。


 捕虜交換に対する《ギレヌミア》側の使者としてネシア・セビがやって来たというのだ。

 私はマルクスに従って、北の森へと急いだ。


 道々、マルクスが私に語ったところによれば、マルクスは往還していた使者に親書を託していたのだという。

 それはネシア・セビ宛に謀叛を勧めるものだった。


 ネシア・セビがアリオヴィスタスに騙されていたことは事実だろう。

 ならば、彼がこちらに寝返る目はあると私にも思えた。


 使者から伝えられた会談予定地に到着すると、すでにネシア・セビがマルクスを待っていた。

 開口一番、マルクスは彼にこちら側に寝返るかをそれとなく問うた。


 その問いに、ネシア・セビは柔らかな微笑みを見せて《ギレヌミア語》で答えた。


「お前ならばそう言うだろうと思うたわ、《ザントクリフ王》。親書は読んだ。だがな、すでに大勢は決しておる。そうは思わぬか?」


 それは、マルクスにとっても予想外の答えだったのだろう。

 少しだけ意外そうな面持ちをして、マルクスもまた《ギレヌミア語》で重ねて問うた。


「そなたがアリオヴィスタスに謀れていたことは承知だろう。なぜ、あの男に従うのか? 未だ謀られているのではないかな?」


 ネシア・セビは、ゆるくかぶりを振った。


わしのこの目がどのような偽りに魅せられるものか。あの男、アリオヴィスタス・レックス・ギレヌミア・ハールデスの力は真だ。あれは、真の狂猛よ。儂ら《ギレヌミア》の王にはあのような者こそ相応しい」

「王たらんとする者が、一事にあれほどの執着をみせるものかな、ネシア・セビ? さらには、それをお前にも隠しているのだぞ?」


 マルクスの皮肉に、彼は朗らかに笑った。


「なるほど。儂らはお前たち《グリア人》ほど王というものを知らぬ。だが、ゆえに、王というものに夢を見ない」

「夢だと?」


 ネシア・セビは軽快に頷いてみせた。


「そうだ。《ザントクリフ王》。お前のように恐ろしく隙の無い王など望むべくもない。だが、あの男、アリオヴィスタスは力によって、儂らに敵と勝利を与えるだろう。ゆえに、わかり易く、儂ら《ギレヌミア》の王には相応しい」

「蒙昧だな、ネシア・セビよ。そのような者は王とは呼ばぬ。賊と呼ばれるのだ」

「どうかな、《ザントクリフ王》。あれの膂力を導く者が傍におれば、お前たちの悲鳴もいくらか凪ぐのではないか?」


 私は驚きと共に目の前の男を凝視した。

 ネシア・セビ。彼はアリオヴィスタスの異常な執着を知りながら、なお、彼を操作するつもりだった。


「そなたにそれが適うかな?」

「さて、どうだろうか。……だが、お前があの男の脇を固めれば、それも叶うのではないか? 《ザントクリフ王》」


 ネシア・セビは、そう言って大笑した。

 この男もまた一筋縄ではいかない。


「おい、アリオヴィスタスはそなたを謀っていたのだぞ? 《人馬》の師を持っていたとしても構わぬというか?」

「《ハールデス》の者らと、儂は違うのだ、《ザントクリフ王》よ。……なぜならば、儂はお前を見て来た」

「余を?」

「そうだ、マルクス・レックス・ザントクリフ・ユニウス・レイアよ」


 ネシア・セビはひとつ頷くと、意味深な笑みを浮かべた。


「儂はこの森を挟んでずっとお前を見ていたのだよ、マルクス。そして、学んだのだ。儂ら《ギレヌミア》は、己で誇るほど強くは無い、と」


 両腕を拡げて、ネシア・セビは笑った。


「奸智に長けた王、マルクスよ。儂は騙されることに慣れておるのだ。今更、あの男の些細なウソも下らん執着もなにほどでもない。すべてお前のおかげだ。それどころか、儂ほどお前を高く買っておる《ギレヌミア》はおらんぞ、マルクス」


 親しげに語り掛けるネシア・セビに、マルクスは少しだけ驚いた表情を見せた。

 いったいなんのことか、私にはわからなかった。


「まさか、《ギレヌミア》に余を知る者が在ったと言うか……」

「ようやく、お前に知ってもらえて儂も嬉しいぞ、マルクス・レックス・ザントクリフ・ユニウス・レイア。……先日顔を合わせたときは、年甲斐もなく高揚したものだ。儂はお前に惚れておるのだよ、マルクス」


 そう言うと、ネシア・セビは拡げた腕を膝の上に収めた。


「儂はずっと考えておったのだ。どうすれば、お前の裏を掻けるか、と。儂とお前の戦いは、お前にずっと軍配が上がっていた。……しかし。《魔獣》が消えた森に、今度は《人馬》どもがやって来て、最後に《ハールデス氏族》を率いたあの男がやって来た。あの男――アリオヴィスタスは、儂に語ったのよ」


 ネシア・セビの老い始めて垂れた目が少年のように若々しく輝いた。


「人族すべてを従えるただ独りの《王》ぞ! マルクスよ、これほど痛快な野望があろうか?」


 ネシア・セビの口吻は最高潮に達していた。


「それに比べて、儂の意望のなんと小さかったものか! ……マルクス・レックス・ザントクリフ・ユニウス・レイアよ。あの男の野望に姿を与えるためには、お前の頭があれば一等早い」


 そうして、ネシア・セビは前のめりに、マルクスに向かって手を伸ばす。


「アリオヴィスタスは、真の狂猛だ。だが、お前と儂の手によってあの男を導けば、これは夢などではなくなる! 《人馬》などあの男に与えてしまえ! お前は、この《ラマティルトス大陸》へ吹き荒れる狂猛を解き放つのだ!」


 マルクスは驚きに開いていた目を細め、微笑みながら、ネシア・セビを眺めた。

 そして、口を開いた。


「つまり、そなたは余を最初から従えるつもりであったか、ネシア?」

「その通りだ、マルクスよ! あの男がお前を殺すと言ったときは胆を冷やしたぞ! しかし、止めは儂に委ねられた。お前に恩を売れると喜んだものだ!」

「そなたは、余の遣いが遅れてくることを望んでいたわけか?」


 ネシア・セビがにんまり笑って膝を叩いた。


「さすがだ、マルクス。お前たちを無傷で降らせるには、交渉を有利に運ぶ必要がある。お前ほどに能を隠した獣はいない。だが、幸いにもお前の恐ろしい妹はおらん。天与の機会だ」

「だが、追撃を命じたアリオヴィスタスは、余を討ち取るつもりであったろう」

「その通りよ。ああなってしまっては儂の言うことなどあの若造は聞かぬ。……だが、神々はお前を生かした!」


 そして、ふたたび力強くネシア・セビはマルクスに手を伸ばした。

 開かれた掌は巨大で、指は節くれ立ち、無数の皺と古傷に覆われていた。


「この手を取れ、マルクス・レックス・ザントクリフ・ユニウス・レイア! さもなくば、無為にお前の民があの男の牙にかかるぞ!」


 マルクスは薄く笑んで、ネシアの姿を瞳に収めていた。


「なんとも魅力ある申し出だな」

「ならば! ……」

「だが、断る」


 マルクスの言葉は、ネシア・セビを唖然とさせた。

 だが、すぐにネシア・セビの口元に笑みが浮かぶ。


「……理由を聞かせろ、マルクス」

「余が、王だからだ」


 その言葉に、ネシア・セビは突然、椅子から立ち上がると、その大きな体を丸めた。

 周囲の《騎士》たちのざわめきを、マルクスは手ぶりひとつで治めた。


 ネシア・セビの背筋が盛り上がって、畳まれた両腕に大きな力こぶが出来ていた。

 そして、両拳を頭の横で握りしめながら、ネシアは叫んだ。


「やはりっ! マルクス、お前は面白いっ!!」


 顔を上げたネシア・セビは、初めて《ギレヌミア人》らしい獰猛な笑顔をマルクスに向けた。


「お前を降らせてみせよう! マルクス・レックス・ザントクリフ・ユニウス・レイア! 対価は《ザントクリフ》の民の命だっ!」

「試してみるがいい、ネシア・セビ。余に敵うと思うならば」


 いっそう笑みを深めたネシア・セビは、ゆっくりと背を伸ばすとマルクスを見下ろしながら告げた。


「明日だ。……明日の正午、ここより東の街道にお前たちの捕虜を連れてこよう。先日捕らえた五名で良いな?」

「いや、こちらには四十五の《ギレヌミア人》がいる。……そのすべてを解放するゆえ、《モリーナ王国》の者も解き放て」


 ネシア・セビはマルクスの申し出に大笑いした。


「あの惰弱な者らを解き放つために、四十五の同胞を解き放つだと? ……よかろう! 儂が間違いなく、すべての《グリア人》を解放してくれる!」

「神名に誓え、ネシア」

「唱和せよ、マルクス」


 そして、ふたりの男は神名に誓った――



「余は、即位以来、少しばかり商人どもの舌を、金で買っていたのだ」


 私を送り出す前に、マルクスは苦笑しながらそう言った。


「《アルゲヌス山地》の《ドワーフ》どもは、あれらの良い取引相手だ。……《ザントクリフ》の北の《ギレヌミア人》は、《ドワーフ》を見下している。そう、商人らから《ドワーフ》どもに吹き込ませていた。それだけのことよ」


 その口ぶりはそれだけではないだろうな。

 そう、私は思ったものだ。


 そして、私はアンリオスと落ち合い、《人馬》の棲み家へと向かった。

 彼の腕に運んでもらえば、明日の正午には余裕で戻って来れる。


 私は夜を徹して、《人馬》たちのために《祈り》を捧げ、重傷者から治していった。

 《人馬》たちの傷は深く、一頭あたりに捧げる時間もそれなりの時間を要した。

 朝までに治癒できた数は百二十ほど。


 私は寝不足の体をこれからアンリオスに運んでもらうところだ。

 《人馬》の戦力はこれで五百を超える。


 ああ、それとアンリオスに言っておかねばならないことがあった。

 壁の西側に《人馬》の半数を配置するように、と〉



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