第43話
「――千もの兵力、それも《ギレヌミア》の精鋭にも劣らぬそれを、寝かせておくのがお粗末でなければ、なんだというんだい!」
そんな大声が板壁の向こうから聞こえて来た。なんだか微妙においしそうな匂いも漂っている。
陽は昇りきっているみたいだ。昨日は遅かったしまだ午前中だと思うのだけど彼女の声は元気そのもの。
猛々しくも堂々とした女性の声に、僕はゆっくりとベッドの上で上体を起こした。
「それはマルクス王やニコラウス閣下が考えるべきことで、貴女が考えることではないだろ」
そう応える青年の声。
彼の声には彼女に対して非難めいた色がある。
それを聴いて疑問を抱きながら、僕はベッドからゆっくり降りた。
「いや、考えるべきなのだよ! なるほど、敵斥候が広範囲に亘って索敵活動を行っていて、連携していたというのは知らなかった! だが、それならばそれでやりようというものはいくらでもある! 進軍してくる敵を休ませるべきではないのだ!」
「コルネリアはニコラウス閣下の作戦を否定しようと言うのか?」
アウルスの声にちょっと敵意が表れた。
とりあえず、着替えよう。そう思ってクローゼットを開ける。
「否定ではない! ニコラウス閣下といえども、常に最良の判断を行えるなどということはあり得ないのだよ! ちなみに、ぼくならば《
「ふん、昨夜だけであのアンリオスとかいう《人馬》の首領に嫌われてしまった貴女がなにを言っている」
たぶん、コルネリアが椅子を蹴って立ち上がった音。そんな木材と木材がこすれるような音が隣室のリビングから聞こえて来た。
僕は寝巻のポンチョからローブに着替えながら考える。
なるほど。夜半に別れるときにアンリオスの髭面がゆがんでいたのは、コルネリアのせいだったか。
「ならば、君の考えを聞かせ給え! アウルス・レント・マヌス・ネイウス!」
「この身はマルクス王とニコラウス閣下、そしてオルレイウスどのの下命に従うのみだ」
「思考停止だな、アウルスくん! ぼくを非難する前に君も少しは考え給え!」
寝室のリビングへと通じる扉をそろりと開けると、そこに壁に
目が合う。目尻にシワを刻んで笑うアークリー。
「……なんで、勝手に僕の家に入っているのですか……?」
「うーん、ノリだね。……それよりもおはよ~、オルちん」
アークリーの声に反応して、ひとり椅子に座っていたアウルスも席を立った。
そして、テーブルを避けるように回り込むと片膝を床に突く。
「おはようございます、オルレイウスどの!」
「お早う、オルレイウスくん! お邪魔してるよ!」
彼に続いて相変わらず腕を組んで背筋を伸ばしているコルネリアも僕へ朝の挨拶する。
「……とりあえず、出て行ってくれませんか……?」
僕の言葉に膝を突いたままのアウルスがコルネリアを振り返る。
「賛成できないな、オルレイウスくん! ぼくのような有為の者を侍らせておくのは、君の教導にも都合がいい! ぼくの舌が紡ぐ言葉を聴けば、齢の割りに聡明な君の知性も、さらに」
「多言を慎み、さっさと出て行け! コルネリア・ガルバ・ケレブルーム・ネーヴス! それがオルレイウスどのの御意思だ!」
昨日から布で腕を首に吊ったままのアウルスが、言葉を荒げる。
それにしても、なぜ彼は自分がこちら側だと考えているのか。
「アウーさんもですよ……?」
「ご冗談を。体から脚が離れてひとりで歩くなど、《
アウルスが微妙な笑顔でよくわからないことを返してきた。
「まったく、困ったものだね、オルレイウスくん! 彼には、あとでぼくから言い聞かせておこう!」
コルネリアがそう言いながら、椅子を引いて席についた。
そして、また背筋を伸ばす。その姿勢が彼女にも出て行くつもりがないということを雄弁に語っていた。
たぶん、これ以上突っ込んでも状況は変わらないだろう。
当然のような顔をしながら家に不法侵入している彼らの顔を見て悟る。
「とりあえず、めしにしようよ、オルちん。煮込みはオレが作ったから」
テーブルには湯気を上げたシチューの木皿が人数分とパン籠に山盛りのパンが置かれていた。
パンはご近所から貰って来た、そう言いながらアークリーも席についた。
ごろごろと具材が入った茶色いシチューに僕のお腹が少し鳴く。
――とりあえず、食べてから考えよう。
「ニック……父はまだ戻っていないのですね?」
「そのようだね! アンリオスくんに聞いたところでは、《ザントクリフ軍》は弓兵も連れている! 夜半に奇襲を仕掛けたとして、そろそろ戻ってこられる頃合いだろう!」
食べるときまで姿勢がいいコルネリアは、そう言うとシチューを掬ったスプーンに口をつける。
今、細められていた目がちょっと開かなかったか?
「アウー、パン」
「ありがとう、アークリー。……ただし、その呼び名については納得していないからな!」
アークリーが僕との間に座るアウルスにパン籠を渡してやっていた。
「アウーさんは、馬の扱いに慣れていますし、《乗馬技能》も優れていますよね? どの程度で父は戻って来ると思いますか?」
「騎馬が先行していれば、すでに《ニコラウスの壁》に届いているでしょう。……よろしければ、この身が先行してお父上を迎えに行って参りましょうか?」
なぜか頑なに僕の隣の床に座って食事をとっているアウルスに尋ね返される。
この世界では主従でも一緒にテーブルにつくことは一般的なことだったと思ったのだけど。
確かに従僕や奴隷は一緒に食事をとることはあまり一般的ではないようだけれど、僕の家ではガイウスも一緒に食卓を囲んでいたしアウルスは貴族の出だ。
彼の忠誠心の表現方法はどう考えてもおかしい。
「いえ、とりあえずはご飯を食べてしまいましょう」
僕もまた茶色いシチューを掬った木のスプーンを口に運んだ。
アークリーの作ったシチューの見た目はそんなに良くない。
具材も大きく切った根菜が多くて、なんだか田舎風という感じ。
でも、美味しい。お肉はモツだろうか? 脂身が多い。それでも口に入れた途端にとろけていくし臭みが思ったよりも無い。
モツのたぐいはあんまり食用にされないはずだし、きちんと調理するには手間がかかるものだと思ったけど?
思わずアークリーを見ると、彼は僕に向けて微笑んだ。
「肉の解体屋のおっさんに教えてもらった内臓の調理法なんだなぁ。今朝、鹿が獲れたって《騎士》のおっさんがくれたんだよね。ほかんとこもいくらか貰えそうだったけど、まだまだ硬いから」
「……君は呆れるほどの多芸だな、……アークリーくん」
珍しく呟くようにそう言ったコルネリアの目がまた細められている。
けど、シチューを口に運ぶたびに微妙に目が開かれる。
まぶたが開くのは美味しいということなのか?
「しかし、肉屋なんかに教えを乞うのは貴族としては感心しないぞ、アークリー。あれらは不潔だというじゃないか?」
貴族らしくない食事風景を披露しているアウルスがアークリーに注意する。
それを受けてアークリーは笑った。
「貴族とか、どうでもよくね?」
「よくはないだろう。……まあ、貴男がそういうことに拘らないということは前から知っているが」
そう言って、アウルスもまたシチューを口へと運んだ。
「三人は昔からの知り合いなのですか?」
「うんにゃ、オルちん。知り合いってより友だちだね」
アークリーの言葉に、コルネリアが彼を見る。
「どうしたの、コリー?」
アークリーの言葉に彼女は掌を突き出した。そのまま咀嚼を続ける。
待て、ということなのか?
彼女は食事に入ってからだいぶ口数が少なくなっている。それにしても長いぞ、咀嚼時間が。
いつまで彼女の口がもぐもぐしているのを見てればいいんだ?
アークリーは彼女の顔を見ながらパンをちぎってシチューに浸す。とりあえず僕も見習って食事を進めよう。
このパンもなかなか美味しい。イルマのお手製パンよりはかなり硬いけど、ちょっとした渋味があっていい味わいだ。
モツのシチューに漬けて柔らかくすれば、それほど噛むのに力も要らない。
それにしても、このシチューの味をみる限り、アークリーの《調理技能》はそれなりに高いんじゃないだろうか?
ほろほろと溶けるモツに、ほくほくの芋。鹿のモツなんて食べたことがなかったけど、アークリーの腕がいいのかこちらの世界の鹿が美味しいのか。
あ、今ようやくコルネリアがご飯を飲み込んだ。
「……待ちたまえ、アークリーくん! 君はまだしもアウルスくんとぼくは友人というわけではない!」
「この身も同意だな、アークリー。コルネリアのことは噂でしか知らなかった。……まあ、ほぼ噂通りだったわけだが」
「ほう! アウルスくん、奇遇だね! ぼくも君の噂は聴いていたよ!」
ちょっと睨み合うふたり。コルネリアのほうが先にアウルスから視線を切った。
その視線の先にはシチューの木皿。そして、またスプーンを口に運んでちょっと目を開く。
「……アークリー、この身と貴男は古い付き合いだが、いつの間にこの《猛禽》コルネリアとまで交流していたんだ?」
「うん? 学園に顔出したときかな? たぶん」
「……昔からそうだが、貴男はほんとうに雑で交友関係が広い」
ちょっと不思議に思って口を挟んだ。
「《猛禽》というのは?」
「オルレイウスどの、学生の他愛ないあだ名です。彼女の場合は、だいぶ的を射ていたようですが……」
アウルスはそう囁いてテーブルの上に半分だけ顔を出すような形で対面のコルネリアを見る。
彼女は実に幸せそうに頬袋を膨らませている。今の彼女だけ見たら猛禽というよりは、げっ歯類に近い。
「鷹のように一度狙った獲物には、しつこく上から攻撃を仕掛ける。もちろん、攻撃と言っても舌でのそれですが。……一時は彼女のせいで学園に行かなくなった学生が多かったそうです。学生内の武派貴族の領袖と目されていたこともあったそうですが……」
「まあ、コリーは群れるタイプじゃないから。周りにもだいぶいちゃもんつけてたみたいだよ?」
アークリーの音量に気を遣わない補足にコルネリアが《猛禽》の顔を見せようとする。
そして、また掌を突き出して喋るための咀嚼を始めた。
「ちなみに、アウーは最初のころは真面目に学園に通ってたんだけど、ルキウス太子が学園に顔を見せたときからぱったり行かなくなったんだ。つけ回してたみたい」
コルネリアの意図を無視して、アークリーは話を変えた。
アウルスが下から彼を睨み上げる。
「聞こえの悪いことを言うな! 忠節を尽くす臣下としては当然の義務だ!」
「んで、ルキウス太子が遊んでたときに、その場に怒鳴りこんだの」
「諫言もまた忠臣の勤めだろう!」
「いや、女遊びしてるとこに入って来られたイヤでしょ? せめて事後にしなさい」
「英雄、色を好むというが、あれは目に余るものがあった! その場でお止めするのが、忠信に適ったものだ!」
「太子はアウーがつけてたことも知らなかったじゃん」
「王者に私事と公事の別があるか!」
アークリーが珍しく、お手上げという感じで首を横に振った。
「……そんで、オルちん。そこで、アウーが太子をつけ回してたことが本人にバレちゃった。……凄いんだ、アウーは。太子の私生活をほとんど監視してたの」
「監視ではない、護衛だ! それにお手洗いとご寝所には御伴していない!」
アウルスが憤激していた。
鳥肌が立った。ただの犯罪者じゃないか。
「……アウルスさん? 僕にもそういうことをするつもりですか?」
「オルレイウスどの。この身とて学んでおります」
……安心していいのか?
「閣下がご一緒のときとこちらにご帰宅されてからは御伴しておりません」
「……それ以外のときは僕をつけていたのですか?」
「ご安心ください。常にオルレイウスどのの視界を汚すようなことはしておりません。それにもちろん、閣下からご用命を授かったときは泣く泣く離れておりました」
知らなかったわけだ。
「アウーは《追跡者》って呼ばれてたよ。《猛禽》のコリーと並んで学園では有名人」
僕は思わずアークリーを見てしまう。
どちらも立派な悪名じゃないか。
「……アークリーくん! だから、ぼくをその危険人物と並べるのは止し給え!」
やっと口の中のものを飲み込んだらしいコルネリアがそう叫んだ。
「コリー、オレからしたらふたりともただの友達だよー。あと、食べるの遅いよ」
笑顔を見せるアークリー。
その顔を見て僕は頭を抱えたくなる。
選んで秘密を話せばいいって、アークリーが選んだのは間違いなく選んじゃダメな人たちじゃないか。
誰がどう考えたって人格に問題がありすぎるし、なにかいろいろと常識に欠ける。
そのふたりをただの友達と言い切るアークリーの精神性も疑わざるをえない。
……失敗、失敗だった。
『いやいや、オル。こういうやつらは貴重でいい。お前が全裸になっても動じないだろう。……どんどん全裸をみせてやるといい』
《
そして、コルネリアが長い食事を終えるころ。
不意に外が騒がしくなったんだ。
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