第32話
「〈……南方で最も数が多いルエルヴァ人は、我々と同じように王を戴いており、それは魔族である〉……か」
朝陽が差すニックの書斎。僕はその窓際で呟いた。
ニックもガイウスもまだ起きてくる気配はない。
薄い冊子を持って、壁に寄りかかる僕は、全裸だ。
ここぞと言うときには、全裸になって思考するに限る。あんまりやると《
「〈ゆえに、本質的にルエルヴァ人の国と呼べるようなものは無く、ただ魔族に奉仕するルエルヴァ人がいるのみである〉……これも問題だ」
……〈南方地誌〉のなんてことのない、この二節。
最初に読んだときは、違和感を感じただけ。
ただ、現在の《大陸》の状況とはまったく違うから、かなり昔に書かれたものなんだろうな、とは思った。
そこで、僕は隣のデスクの上のぶ厚い本へと目を向けた。
〈ルエルヴァ年代記〉、その第三巻だ。
この〈ルエルヴァ年代記〉の記述と、〈南方地誌〉のこの一文を並べると、その印象は大きく異なってくる。
この一文は、当時の《グリア人》がそのころから王制国家を築いていたことをうかがわせる。
正確な時代はわからないけど、少なくとも《魔族》が存在しているらしいのだから、《魔族戦争》終結の前だ。
気になるところは、「《ルエルヴァ人》の国が無い」という記述。
〈ルエルヴァ年代記〉には、気づけば当然のように《ルエルヴァ国》という《ルエルヴァ人》の国家が登場する。
《ルエルヴァ国》成立年代には言及されていない。千年近く昔の記述なら、起源が記載されていない理由は現行の暦法に近似した暦法が確立されていなかったと考えることもできる。
だけど、そもそも僕はひとつ大きな見逃しをしていたんだ。
……今年は、『ザントクリフ王国歴千四百六十六年』になる。ばっちり『王国歴』となっている。
《グリア諸王国》の歴史は古い。
この《ザントクリフ王国》も千四百年以上の歴史を持っている。
当然、この国は《
この小さな国が、それだけの長い間存続できた理由は地理的な条件もあるのだろうけど、問題はそこじゃない。
〈ルエルヴァ年代記〉にある《魔族戦争》の開始前、「《魔族》による支配」期間と重なることだ。
つまり、少なくともこの《ザントクリフ王国》を初め、《グリア諸国》のいくらかは《魔族》が《大陸》の大部分を支配していたはずの期間にも自分の王を持っていた。
もちろん、神話時代を憶測によって現行暦法に組み込んでいる可能性はあった。
だけど数か月前、マルクス伯父に確かめたところ、《グリア諸王国》王家には古くから国家間において交わされた文書が残されているためその心配には及ばないだろう、とのこと。
実際に、この国や他国に残されていた公式文書の写しを見させてもらった。
加えて、アンリオスの証言が大きかった。
さすがに《
《魔族戦争》初期の南方の事情は、《ラマティルトス大陸》北方に割拠していた《
しかし、北西部、《グリア地域》の事情はアンリオスにも伝えられていた。
人族の《グリア諸王国》は《魔族》国家と共栄していたらしい、とアンリオスは証言した。
彼自身は、真偽のほどは定かではないと言っていたけど、伯父に見せてもらった文書と〈南方地誌〉の記述がある。
《魔族戦争》以前から戦時期における《グリア地域》にあった王国の定義はよくわからないけれど、それは少なくとも《魔族》の王を戴いたものではなかった。
民族的な独立自尊が可能だったと考えていいはずだ。
一方、《ルエルヴァ人》はそうじゃなかった。
《魔族》の王――それはそのまま《魔王》なんだろう――を戴いていた。つまり、《魔族》の支配下にあった。
……ここから先は、推測というより憶測にすぎないけど。
この〈南方地誌〉が書かれたのは、《魔族戦争》の前なんじゃないか?
そして、その仮定の上に立って双方の記述から推測してみるに、……戦争が始まる前の《ルエルヴァ人》は、《魔族》に隷従させられていたんじゃないだろうか?
だから国家が存在しなかった。
少なくとも《魔族戦争》初期、《魔族》の人族に対する対応は各地域によって異なった可能性が高い。
北西部の《グリア地域》においては共存を。
南方の《ルエルヴァ人》が多くいた地域においては弾圧を。
《魔族》が顔を使い分けていたことは確か。
その理由はなんだろうか?
単に、当時の《グリア人》が《ルエルヴァ人》よりも強かったのだろうか?
それとも、なにか他の理由があったのだろうか?
……とにかく、最初期の《魔族戦争》は『種の闘争』というよりは、《ルエルヴァ人》による民族独立戦争だったんじゃないだろうか、と僕は推測する。
だから、同じ人族でも《ギレヌミア人》や、少数の《グリア人》の国は、魔族陣営に加担したんだろう、と。
それが、長い時間が経過するうちに『種の闘争』へと発展した。
でも、そうすると《エルフ》や《ドワーフ》が《ルエルヴァ人》に加勢した理由がわからない。
彼らも、《ルエルヴァ人》同様に《魔族》から弾圧を受けていた可能性はあるけれど。
ここで僕の推測はいつも立ち止まることを余儀なくされた。
情報が少ないんだ。
それも、確かな情報が。
書籍が一概に正確な情報を記録しているとは言えない。
だけど、ある程度多角的に検証することができれば、相応の真実に接近できる可能性はあった。
〈ルエルヴァ年代記〉にある「魔族による大陸の支配」という記述も、僕の推論とは矛盾しない。
それが、《ルエルヴァ人》にとってだけの真実だったかもしれないのだし、直接的にではないにしろ支配にもいろいろと方法がある。
過去に存在した《グリア諸王国》が《魔族》の傀儡政権だった可能性もあるんだ。
その場合、過去存在して、現在存続している《グリア諸王国》が主権国家であったはず、という推論にはケチがつくけれど。
僕の目的はニックの意志を探ることなのだから、ここで推論が破綻しても構わない。
……ニックは《魔族戦争》に魔族陣営で参加していたはず。
《魔族戦争》はその初期こそ民族独立戦争だったけど、最終的には『種の闘争』へと移行したはず。つまり、それに魔族陣営で参加したニック自身、《魔族》か《獣人》だった可能性が高い。
だけど、裏切った。
裏切り行為につきものの理由は、いくつも考えられる。
大別すれば利益や保身なんかがおもな理由だ。
でも、僕が知るニックは保身や目先の利益に走るタイプの人じゃない。
変節したことは考えられるけれど、それなりの理由はあったと考えるべきだ。
アンリオスに「裏切り者」と呼ばれるようになり、《魔族戦争》は終わる。
そして、ほぼ同時期にニックは《陽の神》との交信を止めた。
神々が間接的に《魔族戦争》に関わっていたことは、《ルエルヴァ叙事詩》を聴くかぎりでは確かだろう。
――ニックの裏切り行為に《陽の神》の関与があったと考えるのは早計だろうか?
かつての《魔族戦争》において、魔族陣営を助けたのは《義侠の神》と《夜の神》。
この世界を統べる《七神》。うち、その二柱は確実だ。
《七神》の頂点は、《純潔の神》。
だけど、ほかにも《熱誠の神》や《戦の神》、そして《冥府の神》なんかがいる。
最後の一柱こそが、《陽の神》――ニックと話していた神だ。
では、その《陽の神》はどちらの陣営を支援していたのか?
多くの《
人族こそが、もっとも神々に愛されていると主張する《ルエルヴァ神官団》。
《ドルイド》の亜種である《
人族――なかでも《ルエルヴァ人》と《魔族》を中心とした戦争、《
……ニックの変節の理由によって、それらは繋がれるように思う。
それらの中心には、僕の問いかけの答えがあると思う。
ニックが何者なのか、という問いの答え。
それを知って、僕はどうするつもりなのだろうか?
この世界において僕が求めるべき正しさとは……?
微かな音を僕の耳が拾う。
ベッドの上でニックが伸びをしている音。
椅子にかけていたローブへと僕は手を伸ばした。
「おや、最近早いね、オル?」
「少しだけ、早起きを心掛けているのです」
僕はいつものように微笑みを浮かべて食卓のある居間で、椅子に腰掛けてニックを迎えた。
ニックは寝起きなのに、既に瞳と髪の色を変えている。
ガイウスがこの家に来てからは、これが日常だ。
ガイウスを驚かせてもいけないから。
ニックはそう言っていたっけ。
「さて、今日は北の森に向かう予定なんだ。……付いて来てくれないかい?」
「それはいいのですけど。どんな用事ですか? 定期連絡にはまだ早いですし」
ニックは僕を連れて、七日に一度ほど北の森を訪れていた。
アンリオスとの情報交換のためだ。それは、だいたい森を割る壁越しに行われた。
「マルクスが気がかりな情報を入手したらしくてね。……《人馬》にも警戒を呼びかけるように、ってね」
「そうですか……」
アンリオスたちを追撃しているらしい《ギレヌミア人》がいることは僕も理解していた。
マルクス伯父が、そう推理していたのを聴いていたし、アンリオスとその《ギレヌミア人》の因縁についても盗み聞きして知っている。
「ねえ、ニック?」
「なんだい?」
「なぜ、その《ギレヌミア人》はアンリオスを追っているのでしょうか?」
「……ふむ」
マルクス伯父は、その《ギレヌミア》の氏族長は、アンリオスの息の根を止めたいのだ、と推論していた。
だけど、僕にはその理由がわからない。
「だって、その《ギレヌミア人》は、せっかく《モリーナ王国》の城塞を攻め落とせるほどの兵力を集めたのでしょう? それを放ってアンリオスを追うほどの理由が彼にありますか?」
その《ギレヌミア》の氏族長の目標は、《ギレヌミア人》の王になることのはずだ。
なら、アンリオスなんか放っておいて、戦果を掲げてほかの諸氏族を糾合したほうが合理的なんじゃない?
ニックは少しだけ苦そうな顔をしてみせる。
「……オル。私にも、その《ギレヌミア人》の思考は読めないさ。……ただ」
「ただ?」
「彼がなろうとしているものこそが、問題なのだと思う」
首を傾げた。
ニックは少し柔らかく笑い、打って変わって真剣な目をする。
「王だよ」
「王? それとアンリオスがどう関係すると?」
「……まあ、それもいずれ明らかになるだろう。……さあ、ガイウスを起こしてきてくれ。朝食を作ってもらおう」
ニックが会話を打ち切った。
そのあと、朝食を摂った僕らは馬車に揺られて北の森へと向かった。
森へと入って、ニックが
もちろん、ニックが歌ったのはふつうの詩だ。
先日の夜の打ち合わせ通り、アンリオスが同伴した傷病者の治癒を依頼する。
ニックが壁越しに《祈り》を捧げた。壁の向こう側から
どうやら傷ついた《人馬》の傷が癒えたらしい。
そのまま壁越しにニックとアンリオスが情報のやりとりの方法について確認した。緊急時には森の柵近くの樹木にアンリオスが矢文を射込む。
それを、開拓村で待機している兵士が城へと早馬で届けることになっている。
「王は、敵が近々攻めてくる可能性が高いと仰せだ。……軽挙は慎めよ、アンリオス」
ニックの言葉に壁が鼻を鳴らす。
ニックが僕を見た。
「アンリオス。くれぐれも慎んでください」
「……仕方が無い。良かろう」
アンリオスはニックの言うことは聴かなくても、僕には多少譲ってくれる。
「既に斥候は放っておる。……《ザントクリフ王》の予測通りならば、そろそろ報告があるだろう。彼奴らめも雪が降る前には事を起こすはずだ」
「そうか。……彼らの兵力はどの程度だ、アンリオス?」
「少なくとも、五千は下るまい」
「なるほど……」
五千。確かこの街の戦力もそのぐらいだったはずだ。
しかも、そのすべてが北で十倍の兵力と渡り合った《ギレヌミア人》。
ちょっと無理じゃない?
そんな僕の懸念をよそに、ニックがなにかを思いついたように口を開く。
「ときにアンリオス。どうせ、かつてのような仕掛けを森にしているんだろ?」
「それが、どうしたというのだ?」
ニックが言っているのは、《人馬》が造り上げた森を迷路にする仕掛けだろう。
ニックはアンリオスの問いかけに応える。
「それを、きみの敵が看破するのにかかる時間は、どの程度だと予想する?」
「……さあてな。相応の時を要するだろうが、彼奴には基礎を仕込んでしまったゆえ……応用はしてあるが、数日とかかるまい」
「なるほど。それでも二三日は稼げるかな。……なら、この壁からきみたちの住まいまで、それを拡げることはできるか?」
「できなくはない。しかし、誘いに乗ってくるとは限らんぞ?」
「まあ、ものは試しさ。とりあえず、この壁の西の端ときみらの住まいをつなぐ形にしてくれ。壁の東側を明日以降、もう少し延長する」
「街道を封鎖するべきではないか? あれは、縦列に駆けるには十分の幅がある」
「いや、下手に塞ぐよりは、開けておいたほうがいい。いざとなれば、私が《魔法》で塞ぐ」
「ふむ。良かろう。……かつての《アルゲヌス山地》での大戦が思い出される。……貴様の手並みを見てくれよう」
アンリオスの言葉は懐かしむような響きを伴っていた。
ニックも気づいたのか、少しだけ微笑んだ。
「私の手並みはともかく、今回の方針は基本的には持久戦だからな」
「……まあ、妥当か」
アンリオスの言葉は空へと向かっているように聞こえた。
僕も思わず空を見る。どんより曇っていて、今にも雪がちらついて来そうだ。
その後も、ニックとアンリオスの打ち合わせは続き、終わるころには陽が傾いていた。
僕たちが森を後にして、街に入ると、夕陽が城壁に落ちるところだった。
暮れなずむ広場に人々が集まっているのが見えた。
その中心には、高い立て札。
ニックによれば、民兵の召集を呼びかけるものだということだった。
〓〓〓
〈――ルエルヴァ共和新歴百九年、ザントクリフ王国歴千四百六十六年、エルモネラの月、二十五夜
「その《ギレヌミア人》とやらも、余に仕えさせようと思っていたのだが」
昨日、ふたりきりの執務室でマルクスが急にそう漏らした。
マルクスらしいと言えば、らしいが。
「夏の刈り入れにも、やつらは現れなんだ」
収穫前後を狙って攻めてくるのは、《ギレヌミア人》の常道だった。
兵糧を現地で徴収するか、奪うために攻め寄せる。
だが、アンリオスのもうひとりの弟子は現れなかったのだ。
そのときもマルクスは少なからず残念そうな顔をしていたが。
「先日、武装した《ギレヌミア人》を見たという商人は、彼らに穀物を売った帰路だったそうだ。……ここよりも内陸を通って行ったわけだ」
マルクスは夏以来、多量の穀物を運んで街道を北進する商人から、穀物と情報を買っていた。
買い占めるというわけにはいかないが、彼らに取引相手としての価値を示せる。
商魂たくましい彼らならば、この国が極めて不利になる取引は行わなくなるかもしれない。
小国とは言え、一国が取引相手ならば、不足は無いはず。
おかげで、現状、穀倉も満ちている。
そして、それら商人たちを招いて得た情報から、マルクスは北の森の向こう側の動きを察知していた。
「おおよそ、数千。しかも武装を整えた《ギレヌミア》が、ほかの商人からも兵糧を集めていたらしい。グリア古貨を多量に持っていたと言うておったゆえ、《モリーナ王国》の国庫からくすねていたのであろう。……昨年来、諸所の商人からも、グリア古貨を使う《ギレヌミア人》のことは聴いておった」
《ギレヌミア人》も貨幣は使用するが、一般的にはルエルヴァ通貨の流通量が多く、次いでグリア新通貨。
現在、グリア古貨を大量に保有している国は限られる。
たとえば、先年まで《グリア諸王国連合》に加盟していなかった《モリーナ王国》など。
どうやら、マルクスはそのグリア古貨を使用する《ギレヌミア人》の足取りを大まかに掴んでいたらしい。
そして、この時期に兵糧を集めているということは、冬を徹して攻める意志の表れともとれる。
「余が考えていたよりも遥かに、彼の《ギレヌミア人》は《人馬》にこだわっておるのかもしれん」
私は危惧を深めるマルクスの命を受けて、アンリオスとの打ち合わせを終えた。
アンリオスとは幾度も戦場を共にしたことがある。
アンリオスとの協議に大きく問題は無いが、籠城という選択に関しては最終手段だ。
マルクスにもそう具申してある。
ルード宮宰は、一度、南進してから北進して援軍を呼ぶ予定だが、今は戦時だ。なにがあるかわからない。
イルマが必ず来れるとは限らない。
……できれば、野戦は避けたかったが。
どちらにしても《ギレヌミア人》の肉体を前にしての籠城も、なかなか厳しいものがある。
この城は小さい。彼ら《ギレヌミア人》ならば、簡単に登ってくるだろうし、周囲には畑もある。
できるなら北の森で。それが無理でも街道東側の休耕地に誘導する必要がある。
打てる手は多くないが、やるほかない。
マルクスは早くも開拓村以外の民の徴兵を始めた。宣戦布告の前の、徴兵は異例だ。
相手が《ギレヌミア人》ゆえ、少しでも訓練を積ませたいということなのだろうが。
武派諸侯の意気は軒昂だが、《ギレヌミア人》が迫ってもその士気を保てるかどうかは別だろう〉
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