第30話
「……心を強く持ちたまえよ、オルレイウスくん」
馬車を降りるなり、僕は馬上のウォード伯から声をかけられた。
ウォード伯がついて来たのは自分が所領を返還したせいで、出来した状況に責任を感じたかららしい。
意外と気骨がある。
実際、自分の領有地の問題で胃を痛めるぐらいだから責任感が強い人なのかもしれない。
まあ、結局、胃痛の負けて返上してしまったんだけど。
二日前にも訪れた開拓村あたりに僕らは降り立った。
ここまでは街道からそれなりの幅の支道が分かれていたから馬車で来れたけど、ここからは馬だ。
マルクス伯父がマントを翻しながら颯爽と先頭を行こうとするのを、ウォード伯とニックが止める。
ほんとうにマルクス伯父はなにを考えているんだろうか?
僕たちは根の切れ端が混じった柔らかい土の上を馬に乗って粛々と進んだ。
《騎士》たちが連れていた空馬の一頭にマルクス伯父が、もう一頭にニックと
ニックに引っ張り上げてもらって跨った馬の背中は意外と固かった。揺れるたびに地味に尻が痛くなる。
僕らの後ろから歩きの従者たちが、くるくる巻かれた絨毯と玉座の代わりの椅子を担いで従っている。
馬に乗せて貰えない上に、荷物運びに従事する彼らがちょっと気の毒になる。
木立が開けた場所が見えてきた。
会談は先日、ニックとアンリオスが会話をしていたこの広場で行うらしい。
従者たちが、絨毯を広げ、その上に椅子を置く。マルクス伯父がどっかと座面に腰掛けた。
用意を終えた従者たちは一目散に退散する。残ったのは五人の《騎士》と、ウォード伯、そして彼の五人の従者たち。
マルクス伯父が《騎士》の一人に手を振って見せる。ちょっとだけ戸惑って《騎士》たちも馬を駆って退散していく。
「ウォード伯。そなたもだ」
「しかし、王よ。……相手は《
反論したウォード伯にマルクス伯父は笑いかける。
「此度はただの会談だ。《人馬》に余が怖じ気ているなどと嘲弄させるわけにもいくまい」
「…………そう、仰せならば……畏まりました。しかし、くれぐれもなにかございましたら我らをお呼びください」
ウォード伯は最後にニックを見る。ニックが頷き返すと、伯も従士を率いてゆっくりと広場から姿を消した。
これで広場には、マルクス伯父とニックと僕だけ。
でも、あの気難しいアンリオスをどうやって呼び出すつもりなのだろう?
そう思っていると、ニックがさきほど手渡した
ニックはひとつ頷くと、マルクス伯父を見る。
「ほんとうによろしいか? 必ず、アンリオスはやって来るでしょうが……」
「良いぞ」
そのマルクス伯父の声を合図に、ニックが少しだけ躊躇ってから
ニックのこれまで聴いたことのない歌。
その声が森閑とした森に朗々と響き渡る。
「――ああ、なんということか。酒の上での失態は、人のみならず、すべての種族に降りかかる。雄々しき《人馬》の英傑も、またそのあやまちを逃れえぬ。笑ってやるな、皆の衆。《人馬》は酒に慣れぬもの。にも関わらず、胃は大きい。
「ニコラぁーーウスっ!!」
……ウス……ウス……ぅ……
森全体にこだますひび割れた怒号。
遠くから、なにかが猛烈に近づいてくる足音。ばきばきと枝が折れ、柔らかいはずの森の土が硬く踏み鳴らされる音。
「……という具合になるわけで……」
ニックが非難めいた眼差しでマルクス伯父を見る。そして、
僕はそれを受け取りながら、にやにや笑うマルクス伯父の顔に心底呆れた。
つまるところ、ニックが歌ったのはアンリオスの失敗談だったらしい。
個人攻撃だ。しかも、この森にはほかの《人馬》もいることだろう。
自分で自分を誇り高いと言うアンリオス。そんな精神攻撃をされて黙っているわけもないってことか?
でも、話し合う前から相手を怒らせてどういうつもりなんだろうか?
規則正しい地面を踏み鳴らす音。
それがする方角から、甲高い耳鳴りのような音が聞こえてきた。風切り音か?
ニックはひとつ息を吐くと、手首を合わせる。
「『大土竜が地中を行くように』」
ニックがそう唱えた。《
そして、僕らの目の前の地面が盛り上がる。太い木々を根こそぎしてひっくり返し、隆起して、壁になる。森を数十メートルに亘って割る、ぶ厚い土の壁があっという間に出来上がった。
壁の向こう側になにかがぶつかる音。ぶつかるというより、突き刺さった音。たぶん矢だろう。
三回ほど同じような音が続く。
アンリオスが攻撃してきているんだ。僕はちょっとびくついた。
でも、攻撃されているはずのニックは、なぜか空を見上げている。僕も気づいた。
上からも風切り音?
そして、ニックがまた手首を合わせて呟く。
「『清かに吹き上がる』」
また、《魔力》の光にニックが包まれる。
そして、今度は僕らの足を掬い上げるように風が吹きあがり、そのまま天へと伸びあがる上昇気流を作り出す。木々が揺れ、木の葉と湿った土が舞う。
それらに目を細めて仰ぎ見ると、風に煽られた矢が数本、上空で回転しているのが見えた。
それでも壁越しに近づいてくるアンリオスの足音。それも、もうだいぶ近そうだ。
ふと、笑っていただけだったマルクス伯父が口を開いた。
「聞け、《人馬》の英傑アンリオスとやら! ……そなた追われているだろう?!」
大きな声で、壁の向こう側へと呼びかけるマルクス伯父。
その言葉に、勇ましかった足音がわずかに鈍った。
「《モリーナ王国》が、そなたら《人馬》と《ギレヌミア人》に落とされたは、三年前の冬の前。しかし、そなたらがこの地に来たは昨年、一年前だ」
アンリオスの歩みが猛進から、並足へと変わっていた。
マルクス伯父は続ける。
「各地から商人を城に招いては話を聴くのが、余の唯一の趣味でな。昨年の初め、ある商人が言っておったわ。北の地で《人馬》を見た、と。そなたらだろう? しかも、そなたら《人馬》はまだ追われていた。そのころ、そなたらが集めた《ギレヌミア人》は《モリーナ王国》近辺に
アンリオスの足音はもう、壁からそう離れていないだろう。
でも、その音が刻むリズムは非常に緩やか。むしろ、体が重そうな、そんな印象を僕は抱いた。
「加えて、《レルミー王国》から届けられた勝報には、《ギレヌミア人》に領袖の影が無い、とあった。そなたが鍛えた、弟子の息子とやらがあの戦場にいたならば、《ギレヌミア人》の上に立とうとしたのではないかな?」
壁の向こうからアンリオスの荒い息づかいが聞こえてくる。
今、その足音は完全に停止している。
「三年前、見事に奸計に嵌ったそなたら《人馬》は、《ギレヌミア人》に追われた。しかし、時節はもう冬を迎える。《ギレヌミア人》らも冬を目前に無理はすまい。なにせ彼奴らの目の前には、《モリーナ王国》の穀倉がある。二冬ぐらい容易に越せるだろう。だから、多くの《ギレヌミア人》はそなたらを追わなかった。だが、ひとりの氏族長に率いられた氏族だけは違ったのだ」
「…………何者だ?」
アンリオスの
マルクス伯父は愉快そうに笑った。
「名乗りが遅くなったな。マルクス・レックス・ザントクリフ・ユニウス・レイア。この《ザントクリフ王国》の王だ」
「……《グリア人》の、それも王が、なにを求めて?」
「まあ、聴くが良い。《人馬》の英傑、アンリオス。……おそらくだが、その《ギレヌミア》の氏族長は、そなたに含むところがあったのだ。どうしても、そなたの息の音を止めておきたかった。ゆえに、そなたらは執拗な追撃を受ける」
「……やめろ、《ザントクリフ》とやらの王」
アンリオスの低い声。
だけど、マルクス伯父はやめない。
「聞きたくなどないだろうな。そなたの蒔いた種が、そなたの率いる《人馬》を苦しめたのだ。いや、苦しめ続けている。一党の長としては失格だ。……さらには、《グリア諸王国連合》が軍を起こす。傷んだ者を抱えたそなたらが選べる逃げ場は少ない」
「黙るがいい! 下劣な人族めっ!」
僕らの眼前の土壁が、衝撃音とともに大きく揺らいだ。
山と築かれた土塁の上のほうから土が崩れる。壁の向こう側からアンリオスがこの土壁を打ち据えたんだ。
でも、マルクス伯父はなお愉快そうに続ける。
「いいや、黙らん。……北の森は広い。大食と言われる《人馬》の腹とて、それなりの数は養えるだろう。だが、そなたらは余の民から奪った。考えられることは多くない。《人馬》の数がよほど多いか、多くの者が動けぬか」
アンリオスが呻いた。
「なるほど、両方だろうな。民を襲った《人馬》の数は多くなかろう。そなたらが数百も集まれば、小さな開拓村など踏み潰されていた。そして、おそらくは、村を襲った《人馬》が動ける者のすべてなのだ。わずかな食料を奪い、夏を迎えればこの森も息づく。それをやり繰りしながら、なんとか冬を越えた。……そんなところだろう?」
「……どこまで知っているのだ?」
打ちのめされたような声。土の壁に突っ伏してでもいるのか、アンリオスの声は籠っていた。
「多くの《人馬》がそれほどの間、動けないというならば、受けた傷はただの傷ではあるまい。……毒だな?」
沈黙がマルクス伯父の推論を肯定していた。
暫しの沈黙のあと、喘ぐような声が壁の向こうから聞こえてくる。
「…………我が誇りと魂を、戯れに、打ちのめしに来たか? ……人の王……」
「要求を言おう。この森より一党を率いて去るが良い、《人馬》の英傑。できないならば討つ。この森は余のものぞ」
「……っ!」
「伯父上! それではあまりに……」
僕は思わず声を上げていた。僕の腕を掴んで、ニックが止める。
でも、僕はそれを振り払った。
マルクス伯父はふざけてかもしれないけど、アンリオスを叙爵するなんて言ってたじゃないか?
それを掌を返したみたいに、相手の弱みにつけ込むみたいに。
多数の傷病者を抱えた《人馬》には利用価値が無いっていうのか?
「陛下だ、オルレイウス。……しかし、この者らが出て行けば、そなたの未来の領地は安泰だぞ? オルレイウス、一時の同情に身を委ねるは、統治者にふさわしくない」
「一時の同情なんかじゃありません、陛下」
「ならばなんだ? 《
僕はちらりと押し黙ったままのニックの顔を振り返る。
ニックだって《魔族》かもしれない。
人族の敵性種族なのかもしれない。
僕だって、その血を受け継いでいる。
でも、僕も、ニックも。彼ら《人馬》だって、生きているじゃないか。
……だけど、そんなことは言えない。そんなの子供の論理だ。
マルクス伯父を動かすには不十分。
「――陛下。彼らには利用価値があります」
「ほう、どのような?」
どことなく愉快そうなマルクス伯父。
「彼らの受けた毒も、きっと父になら解毒できるはず。力を取り戻した彼らに、この森を管理してもらうのです。加えて、《人馬》の力は強い。
「そうだが」
「いざ、《ギレヌミア人》が攻めて来たとき、彼らが知らせてくれれば素早い対応が望めます。あわよくば、先制することもできるでしょう」
「オルレイウス。《ギレヌミア人》は同じ人族。《人馬》は《獣人》だ。その考えは、人族に対する裏切りとも言える」
あくまでも冷静に、マルクス伯父のイルマと同じオレンジ色の瞳が僕を見つめていた。
「しかし、《人馬》は知性的な民族です。今ここで手を差し伸べれば、必ず、報いてくれるでしょう。……むしろ、母がいない今、いつ攻めてくるとも知れない《ギレヌミア人》の気まぐれに期待するよりも、今、《人馬》と確実な友好を結ぶことが《ザントクリフ》のためではありませんか?」
わずかに、マルクス伯父の口元に微笑みが浮かんだように思えた。
「ふむ。……《人馬》の英傑、アンリオス。まだおるか?」
「…………なんだ……」
不服げなアンリオスの声。
「余の甥はどうやらそなたら《人馬》を高く買っているようだ。……選ぶがいい」
一拍置いて、マルクス伯父は提案する。
「逃げるか、戦うか。……甥の言葉に従い、人に仕える恥辱を胃に収めて、この地で生きるか」
その問いかけに、アンリオスは。
「……《ザントクリフ》の王よ。貴様の甥、その幼い声の主の氏名を、我が耳に告げよ」
「よかろう。余の甥の名は、オルレイウス・アガルディ・ザントクリフ・レイア。余の妹にしてアガルディ侯爵、イルマの息子よ」
「アガルディ……なるほど、そういうことか……」
僕がニックの子供だということに気づいたのだろう。
アンリオスはわずかばかり間を置いて、言い放つ。
「《ザントクリフ》の王よ。貴様もなかなか姑息とみえる」
「なんのことかな、《人馬》の英傑?」
ニックがふたりのやりとりを聞いて警戒に顔を曇らせる。
「……だが、よかろう。次期アガルディ侯爵どのの懸命にして賢明な言葉……それに甘えさせてもらおうではないか……」
アンリオスの言葉に、ニックがほっとした顔をして、マルクス伯父は笑みを深める。
――そのとき、ふたりの顔を見て、僕はやっと気がついた。
ふたりに嵌められたんじゃない?
〓〓〓
〈――ルエルヴァ共和新歴百九年、ザントクリフ王国歴千四百六十六年、ヴォルカリウスの月、十五夜
オルレイウスが口を利いてくれなくなった。
それも仕方がないのかもしれない。
私とマルクスは、ある意味でオルレイウスを利用したのだから。
「《人馬》を懐柔することは不可能ではない」
先日、マルクスはそう言ったのだ。
「ニコラウスの話を聴く限り、《人馬》の数は少なくとも数百を下るまい。だが、それにしては開拓村の被害が小規模すぎる。おそらくはほとんどの《人馬》が動けぬのだ」
《人馬》たちは北方から逃れてもまだ、なにかに苛まれている。
そう、マルクスは推論した。
「加えて、《人馬》を追い出せたとしても、《ギレヌミア》の脅威は拭われぬ。ここで《人馬》に恩を売っておくほうが理に適っている」
「しかし、王よ! 《人馬》ですぞ?」
そう声を上げたのは、顔色を失った貴族たちの中でも、さらに血の気の引いた顔をしていた、ウォード伯だ。
先日、彼は、国を挙げての開拓が頓挫しそうになった責任を感じ、領地すべてと爵位の返上を、さらに宮中伯へと身を落とすことを希望していた。
彼の領地はほぼ、なにもない辺鄙な土地だ。それに彼自身は文派でもある。
彼ならば、優秀な宮中伯になるだろう。
義理に篤いウォード伯は、自分が領地を返上すれば、アガルディ侯爵のものとなることまで予想していただろう。
彼はイルマに借りがある。報恩のつもりもあったのだ。
だが、マルクスはそれを認めなかった。
ウォード伯はこの国の数少ない貴族の中でも屈指の大貴族だ。彼の失墜は、この国の権力構造に、かなりの衝撃を与える。
マルクスは結局、《人馬》がいる北の森の領有権の返還のみを認めた。
「なるほど、ウォード伯。千年の遺恨は、なお重かろう」
だが。マルクスはそう続けたのだ。
「祖先の憎悪などというものは、忘れようと思えば、いくらでも忘れられる。死人の狂熱が、生者の肌を
そして、マルクスは、居並ぶ諸侯を前に《人馬》を懐柔すると宣言したのだ――
……まったく、呆れたものだ。
マルクスは強欲なのだ。手に入るものには、なんでも手を伸ばす。
マルクスは、人族の自身ではなく、アンリオスから「裏切り者」と呼ばれる私でもなく、オルレイウスを《人馬》との窓として選んだ。
我々がアンリオスに鞭を打ち、オルレイウスに庇わせる。
アンリオスがそううまく誘導されてくれるものだろうか?
そんな私の懼れは、杞憂に終わった。
だが、マルクスと私の共通の見解に、アンリオスが育てた《ギレヌミア人》の追跡がある。
マルクスはそれも承知の上なのだ。彼の頭の中には、戦場が既に浮かんでいるのかもしれない。
しかし、その《ギレヌミア人》は、果たしてどこまでアンリオスに、この国に迫ってきているものだろうか?〉
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