第29話
今日も今日とて、僕はニックの書斎に引きこもっていた。
ただし、今日は昨日と大きく違うことがあった。
まず、僕は全裸ではない。
次にひとりきりでもない。
椅子に座ってデスクに向かっていた僕はちらっと背後を振り返った。
僕の後ろで、腕を組んで仁王立ちしているガイウス。
「……ガイウス? 少しは休んだらどうですか?」
「いいえ、坊ちゃん。自習時間を監督することも、家庭教師としての当然の勤めですからな」
その姿は生徒の勉強を監督しているというより、監視しているように見える。
もっというと、悪さをしないように威圧しているという感じ。
「ガイウス、まだ疑っているのですか?」
「……いいえ、そんなことはございません。ただし、よろしいでしょうか? 確かに家の中ならば《純潔の神》の御目に触れることはないでしょう。しかし、御母上もおられないというのに、必要もないのにご自分から裸になられるようでは、この老僕めは坊ちゃんの将来が心配にございます」
ガイウスの説教が長くなりそうなので、僕はデスクの上の本に目を落とすことにした。
たぶん、ガイウスは僕がやましいことをしていたと考えている。
ガイウスの言い分については心外だけど、さすがにガイウスの心臓をこれ以上痛めつけるつもりもない。
今日は絶対になにか大きな動きがあると思ったのに。
全裸にならなければ情報収集さえままならない。
昨夜、ニックは珍しく講義を休講にした。
疲れた顔をして、すまないね、と僕の頭を撫でてから早々に寝室へと消えた。
今朝も肌艶の悪くなった顔で、悲愴感すら漂わせて家を出ていった。
これでなにも無いなんてことあるわけがない。
マルクス伯父から《
だけど、城から武装した《騎士》たちが出動するような物々しい気配は今のところない。
全裸ではなくとも、この家は城の隣なのだからそれくらいはわかるはずだ。いくらなんでも《人馬》を討伐するならそれなりの兵力を動員するだろう。
まさかニック独りで攻撃……そんな指令が出るとは思えない。
確かに《人馬》のアンリオスは、ニックと戦えるほどの力が今の《人馬》には無い、と言っていた。
でもそれは、ニックの正体を加味しての結論だろう。
マルクス伯父がニックの正体を知っているとも思えない。……そこは微妙といえば、微妙かもしれないけど。
そのマルクス伯父が、貴重な手練れの《魔法使い》の、それも妹の婿のニックにそんな無茶は言わないだろう。
でも、《
というかそのニック自身が人族の敵性種族である可能性が高いんだけども。
「ガイウス、今日あたり戦争があったりしませんよね?」
「坊ちゃん、やはり、お疲れなのでは?」
やはり、ってなんだろう。
僕のもやもやをよそに、ガイウスが続ける。
「戦争と言えば、坊ちゃんは《
「どうしてそう思うのですか? ガイウス?」
「昨日、この老僕めが入ったときに〈ルエルヴァ年代記〉の三巻がデスクの上に開いてありましたからな」
なるほど。そこで、僕はガイウスに質問をしてみることを思いつく。
ガイウスは一般的な《グリア人》の特徴を持っているし、僕の身近では一番、常識的な出自の人だ。
「ガイウス? ひとつ訊いてもいいですか?」
「そのための家庭教師ですぞ、坊ちゃん。……ただ、さすがにこの老僕とて産まれたころには《魔族戦争》などとうに終わっておりましたゆえ、ご期待に副えるかはわかりませんが」
僕は腰を回して椅子の背もたれに片肘をかけて、ガイウスの顔を正面に捉える。
「《魔族》や《獣人》は、今でも人族の敵という認識であっていますか?」
「まあ、そうですな」
「やっぱり、そうなのですか。……今、もしも彼らが出現したら、僕ら《グリア人》の対応はどのようなものになるでしょう? 攻撃を加えることが正しいと思いますか?」
「……そうですなあ。……過去の遺恨もございますし、駆逐することになるでしょう。人族として当然のことですな。多くの《グリア人》と諸王国がそうすると思いますが?」
「……なるほど……」
これが《グリア人》的な見解だとするなら、やっぱり《グリア人》にも人族という種族意識はあるんだ。
そうすると、《魔族戦争》において魔族陣営に参加した《グリア人》国家があったということが疑問だ。
もちろん、昔の《グリア人》にはそういう意識が薄かったという可能性もあるけど。
でも、なにかが引っかかる。
引っかかると言えば、もうひとつ。
「ガイウス、この《ラマティルトス大陸》は周囲を海に囲まれているのですよね? 《海》の向こうはどうなっているのですか?」
「ああ、なるほど。《海洋》のことを気にしておられたから、今日の坊ちゃんはデスクに地誌のたぐいを置かれているのですな?」
「そうなのですが……」
今、僕が開いているのは〈南方地誌〉。どうも、かなり昔の《グリア人》が書いたものの写本らしい。
ほかにも〈北遠地理〉や〈東地異聞〉、〈ギレヌミアの風習〉など数冊をデスクの上に置いている。
どれも、薄い冊子状の本ばかりで、ニックが書き写したものもあるらしく、僕の体に描かれて見慣れた文字が並んでいた。
と言っても、僕が全裸になると、僕の肉体に描かれた《呪文》は一時的に消えてしまうのだけど。
服を身に着けると元のように、いつのまにかまた肌に《呪文》が浮かび上がっている。
ニックによれば、これは僕の《
《呪文》を書くのに使用されたインク、《竜種》の血。
これは毒だから、《福音》の『あらゆる状況、現象、物質に対して、福音授受者の人族としての肉体を基準として最適化する』という機能によって無効化しているらしい。
でも、《福音》の効果が切れると同時に戻ってくる。
これらの《福音》に関する現象も、重要なポイントのような気がするけど、今はそこじゃない。
そう、《海》だ。
ニックはたぶん《魔族》や《獣人》を《海》の向こうに逃がした。
彼らが越えた《海》というのは、たぶん、彼らが最後に消息を絶った《ラマティルトス大陸》北方に接する《ギレヌミア海》だと僕は思ったのだけど。
「《ギレヌミア海》は、《ルエルヴァ共和国》では《
「そうですな。それがどうかされましたかな?」
「〈北遠地理〉、そして〈ギレヌミアの風習〉には、『《以遠海》の彼方にはなにも無い。だからただ果てしない――《以遠》と名づけられた』と書かれていましたが事実ですか?」
「耳にする限りでは、そうですな。この老いぼれがまだ若かった時分まで、《共和国》が大々的に探索部隊を編成して送り出しておりました」
ちょっとした岩山なんかを見つけただけで、食料が切れかけて彼らは帰還したらしい。
「ただでさえ、《ギレヌミア海》は荒れ海だと聞き及びます。漕ぎ出して無事帰る者は半ばだ、と。……ただ、北の彼方には《
そのウソかホントかわからない話は〈北遠地理〉にも載っていた。
どうも《魔族戦争》開戦と同時に多くの《妖獣種》が姿を消したらしい。その謎の現象が、いまだかつて観測されたことの無い《以遠海》の果てと結びついたのだろう、と。
ただし、事実、《以遠海》のどこかになにかのゲート的なものがあって、追い詰められた《魔族》や《獣人》たちがそこに逃げ込んだということは考えられる。
でも、《人馬》のアンリオスの言葉を改めてよくよく思い返すと、次のようにも考えられるんだ。
ニックは、《魔族戦争》が継続中なのにも関わらず、いくらかの《魔族》や《獣人》たちを唆して、どこかの《海》を渡らせた、と。
だからアンリオスは、《海》を渡った者たちを指して「臆病者」と言い、ニックを「裏切り者」と呼んだ……。
もしも、その推論があっていたらアンリオスの口にした「《海》」が《以遠海》を指すとは限らない。
《魔族戦争》の終結目前以外の時期、《大陸》の半ば以上の地域は《魔族》たちの領域だったからだ。
そこで、現在。僕はいろんな地理誌を読んでみているわけだ。
「ガイウス。これらはみんな古い本の写本のようですけど、原典はいつごろのものかちっとも書いてありませんね?」
「そうですなあ。旦那様はこの国に来られて以来、マルクス様の蔵書も写しておられたように思います。その際に原典の成立年次を写されなかったのでは?」
「なるほど」
「この《ザントクリフ王国》も千四百年以上の歴史を持っておりますゆえ、古い時代の書籍には亡失したものもありましょうが」
「なる……ほど……」
僕はガイウスの言葉を聞きながら、ニックが写したと思われる〈南方地誌〉を読み進める。
〈……南方で最も数が多いルエルヴァ人は、我々と同じように王を戴いており、それは魔族である。ゆえに、本質的にルエルヴァ人の国と呼べるようなものは無く、ただ魔族に奉仕するルエルヴァ人がいるのみである……〉
この辺りは《海》にはまったく関連性が無いな。
ん?
待てよ。今なにかとってもおかしな……
「オル……ガイウス、ちょっと出て来てくれないか?」
ニックの冴えない、ちょっと間延びした声が玄関のほうから聞こえてきた。
もう帰宅したの? 早くないだろうか。今日は絶対になにかあると思ったのに。
僕は〈南方地誌〉のそのページに栞を挟むと、椅子から立ち上がった。
全裸になっていないとなんだか頭の働きまで少々悪くなっているような気がする。
あとで、裸になって読んでみよう。
……僕はこんなことで大丈夫なんだろうか?
「これは、これはっ!」
返事をして玄関に向かったガイウスの驚きの声。
ガイウスに少し遅れて玄関へと向かった僕の目が捉えたのは、なんだか今朝よりやつれた感じのニック。
そして、もうひとり。なんていう既視感。
「伯父上?」
ゆったりとしたクリーム色のワンピースのような膝丈の上着と、腰を締め上げるベルト。その下側の露出したスネには黒いズボン。
足首に相変わらず革製の細紐を巻き付けて、テカテカした光沢を放つ革製の靴。
前回、家に来たときと大きくは変わらない服装。
ただし、いくつか大きく違うことがある。
まず、腰のベルトに吊り下げられた剣。胸元で止められて、背中へと流された赤いマント。
そして、その頭の上には、大小の宝石がはめ込まれてくすんだ金色の輝きを放つ王冠。
「オルレイウス。今日、余は王としてここに来ておる。……正しく敬意を示すが良い」
「失礼いたしました、陛下」
僕とガイウスは並んで右膝を軽く折って、続いて左足を後ろへと引き、軽く頭を下げる。ガイウスはそのまま左足の膝を床に付ける。
利き手は胸へと持っていき、空いた手も握ったりはしない。
「マルクス・レックス・ザントクリフ・ユニウス・レイア陛下。ご来駕、光栄に存じます」
「よろしい。では行くぞ、オルレイウス! 父に従うが良い」
僕は思わずニックのほうをちら見する。何事? という意図を込めて。
よく見るとニックの後ろにもうひとりいる。
ひとりだけピカピカの全然使用感のなさそうな
たぶん、年齢はマルクス伯父と同じくらい。こちらは青いマントを羽織っている。
……確か、城で何度かすれ違ったことがある。
ウォード伯とかいう名前の、歴史ある貴族家の当主だ。
ニックが僕の視線に気づいたのか、口を開いた。
「オル、ウォード伯のことは知っているね? ……伯の領地が北の森一帯なんだ」
「……ウォード伯、こんにちは」
僕は軽く会釈した。伯はそれどころではないという感じで軽く片手を上げるにとどめる。
なんだろう。なんだか、僕を見る目が微妙に切なそうだ。
「ニコラウス。あとは道々教えてやるが良い」
そう言って、マルクス伯父は颯爽と歩き出す。
ウォード伯がそれに続く。
「ガイウス、ちょっと
なにがなんだかわからないという様子のガイウスにそう指図するニック。
そして、ニックに頷きかけられて僕も従った。
「実はね、この国の北の森に昨年から《人馬》が棲みついているんだ」
僕と共に馬車に乗り込んだニックがそう告げた。
僕とニックの馬車。騎乗したウォード伯と彼が率いる従士が五名。そして、マルクス伯父が乗る馬車と二頭の空馬を引いた護衛の《騎士》が五名ほど。さらに五名ほどの歩きの従者、それと二人の御者ですべて。
馬車の針路はどうやら、北の森らしいのだけど。
「はあ」
「おや? 驚かないんだね?」
「お、驚いていますけど……戦争、というわけではなさそうなので」
この陣容というにはあまりに頼りない兵力でなにをしようというのかがまったくわからない。
ニックはちょっと頭を抱えた。
「ああ、戦争ではないんだ。……実はね、北の森のあたり一帯はウォード伯の所領になっているんだ。まあ、今までは近郊にも出現する《魔獣》のねぐらがあって、ちょっとした危険地域だったんだけど、どうやらイルマが暇つぶしに《魔獣》を狩り尽したようでね。狩猟にも使えるようになったし、オルも知っていると思うけど、最近は開発が進んでる」
暇つぶしに狩り尽された《魔獣》のほうは溜まったものではないだろう。
しかし、イルマがたまにいなくなっていたのはそれだったのか。
「領主のウォード伯も喜んでいたんだ。《ザントクリフ王国》で初めての領邦を造る、って張り切っていたんだけど……《人馬》が現れて以来、落胆ぶりと憔悴ぶりがもの凄くてね」
ウォード伯が同行している理由は、マルクス伯父が自分の領地に行くからだろうか?
しかし、そのマルクス伯父の目的がわからない。
あと、どうして僕が連れ出されたのかもわからない。
「先日、ウォード伯は所領のうち北の森を王室に返還した。……昨年から胃痛が悪化しているらしいんだ。彼の所領はまだいくらかあるしね」
《魔獣》がいるよりも、《人馬》のほうが厄介だという判断なんだろうか?
それもそうか。人間並みの知性を持った《魔獣》みたいなものだから。
「……マルクス陛下は、イルマ……アガルディ侯へ北の森を授与されたいそうだ」
「は?」
「……加えて、《人馬》を穏便に追い出すことを望んでいる」
「え?」
どういうことなんだろう。
ニックはマルクス伯父に、あのアンリオスの剣幕を正確に伝えなかったんだろうか?
「……もともと、北の森の向こう側は《ギレヌミア人》の活動領域だ。この国との境界は曖昧で、北の森が辛うじて緩衝地域の役割を果たしている。ただ、近頃はその動きも活発になっているから、下手に刺激したく無いらしい……」
「む、むちゃくちゃじゃありませんか? 《人馬》に穏便に、って。だって彼らは人族よりも強いのでしょう?」
「……もっと無茶を言っているんだよ、オル。……北の森が返還された以上、王領としなければならないが、実際に住んでいるのは《人馬》だ。北の森を名実ともに《ザントクリフ王国》のものにしておくためには、《人馬》の首領を伯爵に叙するしかないな……とかなんとか」
なにを言っているんだろう、マルクス伯父は。
「そこで、当主のイルマがいない以上、私が代理ということになる。そして、オル。きみは次期当主だ」
「僕が求められることってなんですか?」
「……いいかい、オル。人族の国に、《人馬》の伯爵を誕生させるわけにもいかない。下手に余所様の耳に入れば、それこそ滅茶苦茶になる。それなら、まだ当家の領有地としたほうがいい」
「それは、まあ」
「今回の私たちの目的はズバリ、《人馬》と交渉して、穏便に立ち去ってもらうことだ」
……無理じゃないだろうか。
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