第26話
僕は街の暗がりを選んで走っていた。
こんなところを誰かに見つけられれば、ちょっとした騒ぎになること請け合いだ。
なにせ、夜中に子供が街中をうろついているのだから。全裸で。
ニックが《陽の神》と対話してから三日。今日が《陽の神》が言っていた満月の夜だ。
ニックからは予め帰りが遅くなると言われていた。
ガイウスが眠るまで待っていたら、かなり遅い時間になってしまったけど、間に合うだろうか?
《夜の神》が言葉を下すというそのときに。
初めて通る《ザントクリフ》の街の北側は、確かにちょっとうらぶれた感じがした。
もの凄く惨めな、という感じではないけど、南側に比べると路地が狭くてさらに薄汚れていた。
隠れるには持って来いだけど、道に不案内な僕にとっては少し厄介。
いつ狭い路地から誰かが出てくるとも限らない。
幸い、僕は全裸にさえなればこの世界でも相当に夜目と耳が利く部類らしく、気配察知に関しては大概の人間には負けないだろう。
けれども、さすがに大通りを悠々と歩いて行くわけにはいかない。
迷路のような狭い路地を慎重に、それでもできるだけ足早に駆ける。
『おい、不良息子! 親不孝者め! 止めておけ!』
三日前から急に舌の滑りがよくなった《
いや、むしろ僕が会話を試みるようになったというべきか。
影の中に潜むこの《蛇》は声を出せば悪口しか言わないものだと思っていた。
けれども三日前、僕が寝たふりをしている間にニックが話しかけていたところをみると、どうも《蛇》は僕が寝ている間にニックと会話をしていたらしい。
それに《蛇》は、《陽の神》の声が響く前からその気配に反応を示していた。
あのとき、僕の影からほとばしっていたものは、害意や敵意と呼べるものだったはずだ。
――この《蛇》は、おそらくだけど、《陽の神》を知っている。
細い路地と大きな通りをふたつ隔てて、月明かりに照らされてそびえる大きな壁が見えた。城門からはだいぶ離れた場所を選んだ。
物陰で一度立ち止まり、耳を澄ます。たくさんのいろんな物音を僕の耳が拾って来る。
大丈夫だ。どの人の気配も遠い。
僕は一息に壁へと駆け寄り、そのまま石造りのそれへと取りついた。携えた剣の柄をがちりと刃で噛みしめる。
一度見上げて壁面に採り得るルートを確認し、指を掛ける。指で思い描いたルートを探し、足のポジションを確認しながら慎重に登る。
イルマは壁登りを握力と脚力、重心の移動なんかの身体操作の訓練として僕に課していたようだけど、今はストレートに役に立っていた。
順調に壁を登りきった僕は、外郭城壁の上の通路から、街の外の北側を見渡した。
こうして見ると、《ザントクリフ》の街はちょっと高くなった台地の上に建っているみたいだ。
緩やかな傾斜があって、その下には広い平野が広がっていた。
北の城門から出て、平野の真ん中から東へと流れる太い街道が一本。
ところどころから細い支道が伸びているその街道をずうっと目で追って行くと、北に東から西へと横切って流れる小川がある。
街道は小川にかけられた橋を通り越して、さらに伸び、黒々とした森に突き当たって、その手前で大きく二股に別れてる。
その森は深くなるほど、標高を上げているらしく、やがて黒々とした山に。さらにその奥にはもっと大きな山影。遠目には壁のようにも見える巨大で険しそうな山脈へと続いてる。
広い平野部は、街道の西側と東側では様子が違って見える。
街道の西側には現在、もりもり背の低い草が茂っていて、東側では西側とは違ってこの前見たときよりも背の高くなった麦が風に揺れていた。
広大な農地のただ中にぽつぽつ見える小さな建物の固まりは、農夫たちの春夏の家だろう。
その中には四つの柱に支えられただけの屋根の下、レンガの丸っこい構造物なんかもある。今は沈黙しているようだけれど、たぶん炭焼き小屋だ。
農地の北のほう、さっきの小川の向こう側、いくつか掘っ立て小屋のような木造家屋が集中しているところがきっと、ガイウスの言ってた開拓村だろう。
ところどころに切り株、重ねられた丸太。それらが点在する掘り返された土地が拡がってる。
開拓村のあるあたりから少し視線を北へ移してよく目を凝らすと、切り株とまばらになった木々の林の間に木製の柵が延々と立てられているのが見える。
傍らに大小の岩がうずたかく積み上げられたその柵の向こう側には、どこまでも広がっていそうな深い森があった。
《ザントクリフ》の北の森。
さらに目を皿のようにして、柵のあたりを注意深く観察する。
――いた。樹幹の隙間に鞍をつけられた馬が一頭。
手綱が柵に括られているみたいだ。
こんな時間に、あんなとこに乗騎を放置している人間なんて、そういないはず。
たぶん、ニックの馬だ。
距離はかなりあるけれど、走ればどのくらいだろうか?
いや、ここまで来たんだ。行くしかない。
『もう一度だけ言うぞ? やめておけ、オルレイウス。なにより、やつはお前さんの親だろうが。子なんてものは、親になされるがままにするものだろう?』
また剣を咥えて壁の外側へと足をかけると、なにかモンスターらしからぬことを《蛇》が言う。
なんだか呆れてしまう。
「……ほうひうなら、おあえよ。おあえあ、どこあえひっていう?」
剣の柄を噛みしめているせいで、うまく喋れない。
けれど、《蛇》には伝わったみたい。
『言葉と思考には気をつけろよ、オル。……お前さんの考えてることは、大方筒抜けだ。この《
「うん」
この《蛇》が無力なことは、小さなころにニックとイェマレン司祭様が保証している。
騒ぎ立てるのが精いっぱいで、ここ数年大人しかった《蛇》に今さらなにかできると言われたって、説得力なんて無い。
『……ああ、その通りだ。偉大な《
《蛇》はなんだか憐れっぽい声で僕に語りかけてくる。
やっぱり、できないのか。
僕は《蛇》の言うことを聞き流しながら、外郭の外側の地面へと足を下ろして剣を口から手へと持ち替えた。
『頼むよ、オル! お前にとっては長い時間、《
え? 泣き落とし?
プライドとか無いのか?
『矜持なんてものは、お前さんに抑えつけられて、あの野蛮なお前の母親に踏み潰されたときに消し飛んだ! ……さながら虫けらのように踏み潰された《
悲憤に彩られた《蛇》の声音。
僕は雑草を踏んで駆けながら、周囲に視線を走らせる。城外のどの家の灯りも落ちているけど、今夜は満月。
城門の守衛がこちらを見れば、僕の姿は丸見えだろう。
「確かに僕にもその気持ちはわかる。……でも、それとこれとは別」
『オル! 聴けよ、オル! あんなやつら、ほっとけばいい! 《
街道の本道を飛び越えて、麦の畑へ身を躍らせる。
こちらのほうが、背が高いからいくらか見えにくいはず。
「……『陽に恋い焦がれしものどもよ。我が手足は、お前たちを傷つけない。折れた背腹はより強く、踏まれた腕脚、元通り。夜露を吸って、逞しく。倒れてもなお、起き上がる。この身は、お前たちを阻まない。お前たちは、我が身を受け入れる。優しき
僕は自分の体に《植物魔法》の《隠匿魔法》をかける。
少し短文で効果は薄いかもしれないけれど、これで僕が触れた麦たちは僕の体を隠してくれるはずだ。
それに、この《魔法》のいいところは植物の生育を少しだけ助けるところ。僕が通った跡の麦はむしろ強い茎に育つだろう。
ただ、《呪文》が短いだけに効果時間に猶予はない。
僕は身を屈めて先を急ぐ。
――この三日ほど、《蛇》からあまり核心的な情報は引き出せてはいない。
ニックといつもなにを話していたのかについても、《蛇》が僕に教えることは他愛ないことばかり。
《陽の神》と《蛇》の関係は?
あるいは、《裸神》と《陽の神》との関係は?
そして、あの神様とニックの関係はなんなのか?
なにより知りたいそれらの疑問に《蛇》はことごとく口を噤んだ。
変にウソを吹き込まれるよりもよっぽど、まったく情報が無いというのは困る。
あの会話から察するに、ニックが単なる《陽の神》の崇拝者ではないことはわかる。
忙しいはずの《陽の神》がニックとの会話に短いながら時間を割いて、さらにはその願いを聞き届けた。
ニックが前に言っていたように、神託を授かれるのは神々に特別愛されている高位の《
マルクス伯父やニックの蔵書にもそういう記述は散見された。
ニックは《
神託を授かる資格はあるのかもしれない。
でも、神々がほかの神々を信仰者に紹介するなんておかしな話はどこにも載ってなかったはずだ。
だいたい、どの書籍にも《
その一種である《人馬》がまだいるとして、そんな危険な生き物がこの国に出没しているとして、《夜の女神》まで引っ張り出してニックはなにをするつもりなんだろう?
……ニックに直接問いただすことも考えなかったわけじゃない。
僕の父親、ニコラウスには秘密がある。
それは重々、承知している。
それでも、ニックは、僕が知る限り僕にウソをついたことは無かった。
息子の僕と妻のイルマを困らせるようなことをしたこともほぼ無かった。
今でも、ニックの心を疑っているわけじゃない。
でも、ニックは《陽の神》さえ騙した。
僕がまるで死んでいるように語っていたニック。
……僕は、生きている。
ニックとイルマに貰ったものを大事に抱えて、ちゃんと、生きている。
誰かに後ろ指をさされるようなことはしていないはずだ。
確かに、ときどき全裸にはなっているけれども。
僕にだって秘密はある。けれど、誰かに産まれたことを否定されたことは無かった。
でも、ニックはあのとき、僕が生きていることを否定するような……。
ニックが言ってくれたんだ。
僕が産まれて良かった、と。
僕は間違いなく、ニックとイルマの大事な子供だ、って。
――なのに、そう言ってくれたはずの、ニック自身がそれを隠す。
……僕には、この世界において、なにが正しいことなのかはっきりとはわからない。
それでも、僕は生きている。
それだけは、誰にも否定されたくは無かったことだ。
……僕は知りたいと思った。
なにがいけないのか。
なにがダメなのか。
その問いかけの回答は、きっと、僕が自分で掴まなければならない。
だから、僕は今、こうしているんだ。
僕の目に、草を食む馬の姿が映っていた。馬に駆け寄り、地面へと目を向ける。
浅く生えた下生えと根が混じった柔らかい土に、誰かの足跡が確かに刻まれていた。
それが、柵の向こう側へと続いている。
柵に手を掛けて静かに跳び越えた。
慎重に、ニックのものだと思われる足跡を辿っていく。
背の高い木立。森の中は木々の間が広くて歩き易かった。
《魔獣》の遠吠えが時折聞こえた。これもニックが教えてくれたことだ。
僕はニックが教えてくれたことに寄り添われて生きている。
少し離れたところに、いくらか開けた場所があった。
僕はそばの太い木に身を寄せる。
開けた場所、朽ちた倒木に腰掛けたニックが月の明かりを受けていた。
間に合ったみたいだ。
僕は息を潜めて、《夜の女神》の声が下るのを待った。
ニックも目を閉じてそのときを待っているみたいだ。
いくらかの時間が流れ、森の静かなざわめきの中、僕の耳はある音を拾う。
柔らかい土と木の葉を踏む音。速いリズムを刻んでいるその足音は、人間のものじゃない。
僕は音のするほうへと目を凝らした。
木々の影を透かして、それが見えた。
満月の明かりに輝く焦げ茶色の艶やかな毛並みの体躯。
細く伸びた四肢は地面に近づくほどにより細くなり、関節は前後の肢で食い違っている。
張った太ももと、あばらが浮いた腹。寝かしたS字を緩く描く背中の終わりに、長く揺れるふさふさの尾毛。
それは間違いなく、馬のそれ。
でも、馬とは決定的に違うことがひとつ。
馬でいう首の根元あたりから、もうひとつの体――背中が延びている。
逞しい人族の上半身。下半身の四肢とは違った、一対の腕。
小脇に抱えられた大弓ともう片手には棍棒。たてがみの生えた背中には
こけた頬には鬚が伸びて、それが口や顎の毛と合流して、喉元まで伸びていた。
灰色の眼球に打たれたとび色の瞳は、木立を透かして真っ直ぐにニックへと向けられている。
――《人馬》。
《夜の女神》の声ではなくて、一頭のそれが森の小さな広場にゆっくりと姿を現した。
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