第25話



 きしり、きしり。

 板がたわんで軋る音。僕は眠りの底から浮上した。

 まだ、部屋の中は暗い。胃袋が夜が明ける前だと僕に報せていた。


 音は誰かが一階と二階の間の階段を上っている音のようだ。

 足音をできる限り殺して、慎重に進む音。

 こんな時間、ガイウスもニックも眠っているはず。


 僕は《ピュート》の一件を思い出す。あのときも、いつのまにか《蛇》は僕らの家に侵入してきた。

 でも、今回は明らかに人間の足音。しかも、この家が建っているのは王城の壁の中だ。


 何者だろうか?

 僕は、静かに寝巻の毛皮のポンチョを脱いだ。


 僕の《福音ギフト》が発動する。

 体が生気を取り戻し、暗闇の中でも子供部屋の扉がはっきり見える。

 扉の外を歩く足音が耳元で鳴っているよう。一階のガイウスのものだと思われるいびきもしっかりと聞こえた。


 ニックの寝息が聞こえない?

 扉の向こう側にいるのは侵入者じゃなくてニックなのだろうか?

……それとも、ニックの寝息を止めた誰か。


 僕はするりとベッドから降りると、物音をできるだけさせないようにして、壁際に掛けられた剣を手に取った。

 扉の向こう側の足音はゆっくりと子供部屋の前を通り過ぎる。

 扉に駆け寄り、慎重に、細く開ける。


 ニックの後ろ姿。廊下を歩いていたのはニックだった。

 ほっとした。それと同時に疑問。


 こんな時間に、なにを?


 ニックは二階の奥の階段をさらに上っていく。その先は屋根裏部屋。

 小さな窓があるだけで、大した物も置いてない。


 ちょっと興味が湧いた。

 ニックがこんな時間に屋根裏部屋に行くなんてこと、僕が知る限り一度も無かった。

 僕は音を殺して、ニックが消えた屋根裏への階段に足を載せる。


「……高きにまします、詩の創り主にして、《天上レヌスの詩い手》」


 慎重に上る僕の耳には、ニックの囁きが拡声したように聞こえた。


 《天上の詩い手》は《陽の神》の尊名。

 《祈り》でも捧げているのだろうか?


 そう思って、屋根裏へと続く階段の一番上に手を突いて、ニックの姿を覗いてみる。

 僕の目に光が飛び込んで来た。でもすぐに目は順応する。


 小さな窓から差す光の中に、跪くニックの影が浮かび上がる。

 夜明けだ。考えてみれば、屋根裏の窓は東向きだった。


――いや、少し違う。

 確かに日の出を迎えているようだけど、これはそれだけじゃない。


「心静かな狩人の、技の成果を称える御身。推知と理知の、未来さきを眺める《予知の神》」


 ニックの言葉の一区切りごとに応じるように、屋根裏の小さな空間に蛍のような光の玉が増えていく。

 これはたぶん、単なる《祈り》では無い。


『――っ!』


 ふいに、僕の影が奮えた気がした。《ピュート》か?

 こんな反応、初めてだ。ここ数年はまったく口も利かなかったというのに、いったい?


「曙光とともに癒し育む《陽の神》よ。……我が声に応えたまえ……」


 小窓から光が溢れる。

 僕は思わずその光から逃れるように、階段へと身を隠した。

 頭上で、光輝が流れて際限なく膨らんでいる。



『――珍しいこともあるものだ……』


 反響するそれは、ニックの声じゃない。静かだけど威圧的。それでいて、少しお道化たような響き。

――まさか、ニックの《祈り》は神託を招くもの?


 じゃあ、声の主は……。



『百と九年ぶりかな? ニコラウス……』

「……このたびは、お応え頂き光栄に存じます。つきましては」

『そんな決まりきった謝辞はいい。あまりに連れないじゃないか、ニック……』


 なんか口調が軽い。あと、微妙に馴れ馴れしい。やっぱり僕の勘違いか?

 それにしても百と九年ぶり? なにを言ってるんだ?


「敬愛すべき神。《陽の神》、《アプィレスス》様。どうぞ、区々たる身の私の」

『――ニィィぃック! ああ! ニィィィぃックぅ!!』


 芝居がかった声。なにか少しだけイラっとする。

……というかほんとうに《陽の神》だったらしい。


『敬愛すべき? すべき・・・、だって?!』


 いかにも大げさに、神――《陽の神アプィレスス》だと思われる声の主は続ける。


『敬愛する――そうだろう? そう言い給え、ボクのニコラウス。……おや?』


 《陽の神》が疑問の声を上げる。

 毛羽立っていた。僕の影が、《ピュート》が。おそらくは既に失くしたはずの鱗を、影の中で逆立てていた。


『敵意――……かい?』


 まるでニンマリ笑った口元が想像できそうな声。

 《ピュート》の気配が悟られてしまった?


 どうするべき? 姿を現すべきなのか?

 だけど、僕の迷いとは関係なくニックの静かな声を耳がはっきりと拾う。


「さあ? ……あなたならば、知っているのでしょう? ……《予知の神》の、あなたならば……」


 ニックが絞り出した声は、今までに聴いたことのないほど低く、どす黒く。

 静かな怒りに震えていた。


『ニック! それは、ボクとしては心外極まりないことだっ!!』


 舞台上で歌うミュージカル俳優のような堂々とした。

 それでいて、どこまでも笑いを噛み殺しているような。


『きみの願いには、すべて応えてきたつもりだが……?』

「……要件を言おう、《アプィレスス》……いや、言う必要もあるまい」


 ニックは冷静に聞こえる低い声で、神との対話を打ち切ろうとする。


『非道いじゃないかっ! ――百九年ぶりの友との会話を楽しもうとは思わないのかぁっ?!』

「…………」

『……しょうがない。わかっているともニコラウス! ……《獣人セリアントロープ》の《人馬ケンタウルス》だろ?』

「……よく、ご存知で……」

『《獣人》の創造主たる、我が姉神に渡りをつけろ、と。……そういうことなんだろう?』

「……まさしく」


 《人馬ケンタウルス》出没の噂はなんとなくガイウスから聞かされていた。

 他愛ない街の噂に過ぎない。そうガイウスは言っていたけど、《陽の神》とニックの反応を聴く限り、どうやらそれは事実に近いみたい。

 《陽の神》の姉と言えば、双子の《夜の神》以外にはいない。《獣人》の創造者にして、三つの顔と姿を持つ《夜の女神》。

 渡りをつけるとはなんのことだろう? 紹介するということ?


 それにしても。

 ニックと《陽の神》はいったい、どういう関係なのだろうか?

 《陽の神》はニックを友と呼び、ニックは《陽の神》を嫌っているように思える。

 いや、嫌ってるなんて生易しいものじゃない。


 憎悪。……ニックの声にはその響きさえある。

 それに百九年ぶり?



『きみの言う通り、本来、《理知の神》たるボクに見通せないものはない。……たとえ、《既知の神》たる《義侠の神》の助力が失われているとしても、間違えない程度の粗大な予知はできるのだよ』

「……でしょうね」

『だが、ひとつおかしいのだ。ニコラウス』


 そこで、《陽の神》の語調が変化した。


「なにが?」

『……きみがボクのことを呼ぶのは、ほんとうならば《魔族戦争デモニマキア》以来、今日で二回目だったはずだ』

「どういう」

『なぁ、ニック』


 《陽の神》は、極めて感情の無い声で言った。



『きみの子はちゃんと、死産だったんだよな』



 僕は必死に息を殺す。



 〓〓〓



〈――ルエルヴァ共和新歴百九年、ザントクリフ王国歴千四百六十六年、ヴォルカリウスの月、十夜


 今日は珍しく、早朝にこの日記を記している。

 少々、肝の冷えるような思いもしたが、なんとか神託を乗り越えた。



 先日も、《人馬ケンタウルス》による開拓村への奪略があった。

 麦の刈り入れまでもあまり時間があるとも言えない。


 だが、マルクスが主導する《人馬》との交渉は、そのきっかけさえ掴めずにいた。

 《獣人セリアントロープ》のうちでも、もっとも足が速く、知性に富んだ《人馬》のねぐらを発見することは困難だった。

 また、よほど警戒しているのか、こちら側が接触しようとしても《人馬》は乗って来なかった。


 《獣人》は《魔族デモニア》とともに、多くの人族に忌まれる種族だ。

 そして、彼らもまた人族に比べ長命な種族だ。

 現在、《ザントクリフ》の北の森に潜む《人馬》の中にも、《魔族戦争デモニマキア》期を生き抜いた個体が多いだろう。


 歴戦の《人馬》たちは人族に対して警戒を怠るまい。

 ひょっとすると、彼らがこちらに配慮しているのは大きな軍勢を呼び寄せられることを懸念してのことなのかもしれない。


 《獣人》の言葉をいくつかの木に刻んで対話を試みたが、そのすべてに返答は無かった。

 ただ、こちらの伝言を読んだ証に、樹幹に刻まれた言葉ごと樹皮が削り取られていただけ。

 読んではいるが、交渉に応じる意志は無い。



「なんとかならぬか?」


 先日、渋い顔のマルクスにそう言われた。

 確かにこういう場合の、古い他種族との折衝も《ドルイド》が求められる役割ではある。

 だが、いかんせん相手が悪い。


 私が率先して顔を出せば、《人馬》との交渉は始まる前に頓挫することが目に見えていた。

 彼らは深く恨んでいるはずなのだ。

 だが現在、この国には私以外に《ドルイド》がいない。私がなんとかする以外にない。


 そうなると、もう私にできることはひとつだ。彼らの創造主・・・を通して、《人馬》を交渉の卓へと引きずり出すほかない。

 かといって長く生きている私も、《獣人》の創造者たる《夜の女神》に直接の伝手があるわけではない。あるわけがない。



……ある意味、私が持つ手札の中で、最強で最悪のカードを切る。

 《陽の神》による神託。私がかつてなによりも崇め、今は誰より憎んでさえいる神の手を借りること。


 あの神は私に大きな借りがある。

 私の呼びかけに応じることは確実だった。



 相変わらず、胸の悪くなるような声と言葉。

 私の嫌悪を見透かして、なおそれを愉しむ性質。


 私にもう少しだけ時があれば、こんなものを頼ることも無いというのに。


 だが、目的は果たされた。

 次の満月の夜、《夜の女神》が《ザントクリフ》の北の森の端に声を降されるという。


 次の満月は三日後だ。これならば十分に間に合う。



 そして、望外の情報がひとつ手に入った。

 やはり、《アプィレスス》はオルレイウスの存在を感知していない。


 《巨神族》による転生への介入。

 加えて、《魔族戦争》の開始を契機として、《既知の神》でもある《義侠の神》は《天上レヌス》の神々とは反目しているはず。

 つまり、《既知の神》たる《義侠の神》が司る《鑑定》によって示されたものが、《理知の神》たる《アプィレスス》の予知に影響を及ぼすことは無い。



……オルの存在によって、《アプィレスス》の権能にわずかながらひびが入っている。

 この事実がどのような結果をもたらすものか未だ知れないが、《アプィレスス》にオルレイウスの存在を知られてはならない。



 私は《アプィレスス》の「息子は死産だったか?」という問いに、答える。


 《魔力オド》のこもった声では、偽りは口にできない。

 かと言って、《魔力》のこもっていない声では《アプィレスス》には届かない。


 あのときは、あなた方神々を心底呪ったものだ。……私はそう口にした。

 私にふたたび希望を与えて、奪い去るのか、と。


……オルは産まれたばかりのとき、一度、完全に呼吸と心臓を止めた。

 私が口にしたのは、そのときの感情だった。



「きみは、その呪詛をボクにぶつけてくるはずだったのだが?」


 そう、言っためくらの《予知神》を、私はわざと嘲った。


 あなたはそれをきっと悦んだだろう、と。

 運命の残虐に打ちひしがれた私の呪いに、あなたは耳を傾けて悦んだはずだ、と。


……それは、この神の対応としてはもっとも順当なものだった。

 もし、オルレイウスを喪っていたならば、それがわかっていても私は呪詛を吐きかけただろうが。



「ああ、やはりきみは素晴らしい」


 《アプィレスス》の声は喜びに踊っていた。


「きみは、ボクの予知を独りで覆したわけだ」


 と。



……ほんとうに、鳥肌が立った。

 どちらにしろ、この神は悦ぶのだ。

 私の直接知る神は《アプィレスス》だけだが、神々というものは、およそ地を這うものに対してどこか狂っている。



 《アプィレスス》との対話を終えた私は、オルレイウスの部屋を覗いた。

 昨夜は特別寝相が悪かったと見え、ベッドが転げ落ちていたオル。

 寝巻は半分脱げて、へそまでめくれていた。


 私はオルの重くなった体を抱き上げて、ベッドへと寝かしつけ、寝巻を下までしっかり下げた。


 《ピュート》に軽く呼びかけてみたが、応答は無かった。

 まあ、いい。


 これで、ひとつ大きな山場を乗り越えた。

 もちろん、ほんとうの困難はこれからなのだろうが〉

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