第24話



 イルマを送り出してから早くも一年が過ぎようとしている。

 僕は数えで十歳になっていた。



 昨年の春。《連合軍》は北方で大々的な勝利を収めたらしい。

 だけど、戦争と言うものは一度や二度の戦いで終わるものじゃない。


 その後も大小の戦闘が繰り返されているらしい。

 イルマの手紙によれば、旧・《モリーナ王国》の首都周辺には、確かに万を超える《ギレヌミア人》氏族が集合していたようだ。

 ニックは、それはもの凄く珍しいことだと言っていた。



 本で収集した情報とガイウスに聴いた話を総合すると《ギレヌミア人》は人族の中で最強の民族らしい。

 馬に乗って戦い、春から冬の前まで移動を繰り返す。

 農耕は行うけど、大々的なものではなく、牧畜が中心の生活を行っているという。

 遊牧民族のようだ。


「坊ちゃんと違って、自ら望んで半裸になって闘う、野蛮極まりない民族が《ギレヌミア人》です」


 ガイウスはそう言っていたけど、僕としては耳が痛い。

 僕が本気で戦闘をしようと思ったら、全裸にならなくちゃいけない。半裸よりも全裸のほうが酷いだろう。

 しかし、他人のことは言えた義理じゃないけど、彼らは《純潔の神》の神罰を受けないのだろうか?


 そう尋ねた僕に、ガイウスは憤慨しながら答えた。


「あやつらは、篤く《純潔神》を奉っているのです。……ただし、彼らは《純潔神》の目を汚すことをなんとも考えておらん! 間違った教えを奉じておるのです」


 どうやら、《ギレヌミア人》は《純潔の神》を熱烈に信仰しているみたい。

 でも、彼らは《ルエルヴァ神官団》を受け入れたりしていない。

 つまり《神殿》も持たない。《ドルイド》はいくらかいるようだけど、《ドルイド》には《純潔の神》を崇める者はいない。


……だから、彼ら《ギレヌミア人》は《純潔の神》の神託を聴くことができないらしい。

 結果、《ギレヌミア人》は《純潔の神》が裸や半裸を嫌っているということを理解していない。


 《純潔の神》が《ギレヌミア人》のことをどう考えているかは、たぶん《神官》にしかわからない。

 僕の周囲では、イェマレン司祭様ぐらいだけど、できれば彼には会いたくない。

 だって、数度しか会ってないけど毎回睨まれるんだ。


 とりあえず、《ギレヌミア人》は神罰を受けていないようなので、《純潔の神》はもしかしたら信仰者には甘いのかもしれない。

 そこで僕も一生懸命に《純潔の神》に祈りを捧げることにした。

 ガイウスもそれに賛成してくれた。

 とりあえず、どうすればいいか尋ねると、できるだけ全裸にならないことと言われた。

 ほかにはと尋ねると、貞操をしっかりと守ることと、できる限り異性との接触を避けるべきだと言われた。


 ということで、僕は異性に近寄らないことにした。具体的にはクラウディアに。



 昨年の春からイルマはすべての大規模な戦闘に参加しているらしい。

 その様子は擬音の多い手紙によって知らされている以上に、尾ひれがついた形で僕の耳に届いていた。


 《戦豹パンテラ》が《ギレヌミア人》に夜襲をかけて、皆殺しにしたとか。一氏族を丸々全員虐殺したとか。投降した者を皆殺しにしたとか。

 自分の邪魔をした他国の軍隊を皆殺しにしたとか。

 なんでか、皆殺しが常にキーワードになっている。


 イルマの手紙によればそういう事実はなさそうのでちょっと安心している。


 マルクス伯父の元には詳細な戦勝報告書が届けられているらしく、ニックがそれをかいつまんで教えてくれた。



 緒戦、《グリア諸王国連合軍》十三万に対して、《ギレヌミア諸族》は八氏族合同軍一万二千。

 旧・《モリーナ王国》首都から一日ほどの距離。広大な森林地帯で《エルフ》が隠れ潜むとも言われる《バキニスの森》。その端を流れる《リエヌ河》を挟んで両軍は対峙した。


 兵力だけ聴くと、圧倒的に《連合軍》が有利に思えたけど、ニックによれば《ギレヌミア人》の頑強さを考えれば油断できる兵力差ではないらしい。

 《連合軍》は《リエヌ河》左岸に五つの陣地を築き上げる。春先ということもあり城壁の内側に留まらず周辺に散っていた《ギレヌミア人》も右岸へと集結した。


 決戦が約束された日、太陽が昇るころ。《連合軍》十三万のうち、千人という大規模な《魔術師部隊》が呪文詠唱に入ったところで、《ギレヌミア人》が渡河を開始。


 ちなみに、《ギレヌミア人》には《ドルイド》以外の《魔法使い》が存在しないそうだ。

 その数ももの凄く少ない。だから、《ギレヌミア人》との戦闘においては《魔法》を警戒する必要がない。


 《ギレヌミア人》が馬上から放つ投げ槍が、《魔術師部隊》とそれを護衛する《戦士》たちを襲う。

 彼らの投げ槍の有効射程は二百メートルを越えるらしく、それはときに下手な《魔法使い》の《魔法》の射程を凌ぐ。

 《技能スキル》には《投擲術系》というものがある。異様な射程距離はどうやら、それに由来するものらしい。


 万という槍が弧を描いて、陣地を築いたグリア兵の上に降り注ぐ光景を僕は想像した。

 《ギレヌミア人》の槍は五つの陣地のうち、《魔術師部隊》の大部分が駐屯するひとつの陣地へと集中した。

 陣地の防衛に当たっていた《戦士》数千、《魔法使い》の百人ほどが初撃で倒れた。


 呪文の詠唱に成功した《魔法使い》たちによって放たれたのは、《炎熱魔法》と《水流魔法》。

 ニックによれば、《水流魔法》は水の多い場所でなければ使えない《魔法》ではあるけれど、適した場所であれば高威力を発揮するらしい。


 それに、複数の《魔法使い》が同時に《水流魔法》を使用すれば、複雑な波濤が起きるのだそうだ。

 また、《炎熱魔法》という選択も悪くはないという。すぐに水で消されてしまうけど、それなりの威力の《炎熱魔法》は水蒸気を生む。

 それが《ギレヌミア人》の視界を奪い、彼らを溺れさせる手助けをしただろう、と。


 渦巻く河の流れは多くの《ギレヌミア人》を飲み込んだ。だが、彼らの被害はそれほど大きくなかったようだ。

 《ギレヌミア人》の乗騎の多くは流されても、彼らのほとんどは激流を泳ぎ切る。


 騎馬を喪った《ギレヌミア人》に、五つの陣地の坂を駆け下り、殺到する《戦士》と《騎士》たち。

 それを陣地から《弓兵》が射撃によって援護する。

 《ギレヌミア人》のうちいくらかは装備を水流に剥ぎ取られていた。しかし、素手でさえ応戦するのが彼らの特性。

 また、剣を持った《ギレヌミア人》は複数の《連合軍》兵士に囲まれながら、彼らをどんどん斬り伏せていった。


 恐るべきことにニックによれば、成年に達した《ギレヌミア人》は全員、《剣術系技能》の《あんまりみない技能マイナー・スキル》である《剣客》を有しているという。

 そして、数人にひとりの割合で《ふつうじゃない技能アンコモン・スキル》の《剣師》保持者がいるらしい。


 グリア諸国における《騎士》がふつうに保有しているのは《中級剣士》。手練れと呼ばれる《騎士》でも《上級剣士》止まりだというのだから、単独で挑んで勝てるわけがない。

 歩兵と騎兵合わせて九万人という大編成を、《ギレヌミア人》一万人が押し返す。

 馬の脚を素手でとって転ばせるほどの膂力。坂を駆け下ってきたグリア兵を真正面から受け止め、押し返すほどの脚力。

 そして、荒々しくも、的確にグリア兵を倒していく《剣術系技能》。


 《魔術師部隊》が《上昇魔法》によって味方の筋力を増強するが、元の身体能力に差があり過ぎる。

 《連合軍》の劣勢は揺るがしがたいものだと思われた。


 が。

 《ギレヌミア》の八氏族のうち中央のひとつに動揺が走った。

 《ザントクリフ王国》アガルディ侯爵が、氏族長のひとりを討ち取った。

 中央部分の《ギレヌミア》氏族が混乱を来すとほかの氏族にも動揺が伝播する。


 ゆっくりとそれでも確実に、戦況の優劣という天秤が《連合軍》へと傾いていく。


 もともと、《グリア人》とは異なって、連携という概念があまり発達していない《ギレヌミア人》だけど、それだけに個々の敗勢を嗅ぎ取る嗅覚は確かで、氏族長を喪った氏族は一目散に河に向かって駆けだした。

 その勢いに乗って《連合軍》は全ての《ギレヌミア人》を河へと追い落としにかかる。


 空いた中央へと遊撃部隊として雇われていた《冒険者》が突入し、ただでさえ寡兵の《ギレヌミア人》は分断され、包囲される。

 《ギレヌミア人》の左右の陣へ《魔法》と弓矢、投げ槍が撃ち込まれる。中央だけではなく、そちらの《ギレヌミア人》も確実に押し込まれていく。


 いくら強靭な肉体と熟練の《技能》を誇る《ギレヌミア人》といえども、スタミナは無限とはいかないらしい。戦闘時間が長くなれば、技のキレも落ちていき、圧倒的な数の差がものを言う。


 そして、とうとう雪崩を打ったような潰走が起こった。


 混乱の中、さらにひとりの氏族長が討ち取られたらしく、こうして緒戦は《連合軍》の圧勝のうちに終わった――


 しかし、それでも確認された死者の数は、《ギレヌミア人》が千弱に対して《連合軍》は数千人に上ったらしい。《連合軍》側の死者のほとんどが一撃で斃されていたそうだ。

 その数字だけ見れば、《連合軍》の敗戦と言っても過言じゃない。


 だけど重要なことは、《ギレヌミア人》の連帯が瓦解したということだとニックは解説してくれた。

 特に氏族長を喪った氏族は確実に脱落するそうだ。次の氏族長を選出するための内部抗争の時間が始まるはずだ、と。


 それにしても、圧倒的に不利な条件を覆す、練磨された《技能》と戦闘能力。押し包まれて潰走してもなお逃げ延びることが可能な強靭な肉体。


 《ギレヌミア人》の戦闘能力は噂に違わない。



 ところで、アガルディ侯爵・イルマはほんとうに大活躍している模様。

 だけど、手柄を上げたということは、イルマの手が血に染まったということでもある。

 ニックもそれを気にしているのか、愁いを帯びた表情で僕に戦況を語ってくれた。



 ちなみに、イルマが余所に行っていても、僕の《剣術》修行は続いている。

 あんまりやるとガイウスの心臓に悪そうだから、その時間はちょっとだけ短くなっているけど。


 出征する直前にイルマに耳打ちされたことを、僕は恐怖と共に思い返していた。


「あたしが帰ったときに少しでも鈍ってたら、おしおきよ」


 イルマが僕に対して本気で怒ったことは、たぶん無い。

 だから余計にコワい。できれば一生そんな目には遭いたくない。

 だから僕は今も一生懸命、訓練をしています母さんイルマ



……という感じで、僕の一日のスケジュールにはあんまり大きな変化は無い。

 ただ、その内容には大きな変化があった。

 まず、ガイウスの授業内容が《ギレヌミア人》と最近の街の情報に偏るようになった。

 次に、ニックの講義はイルマの手紙やマルクス伯父の元に届いた戦勝報告の解説に当てられることが多くなった。

 そして、三食のご飯の質が落ちた。


 作ってもらっておいて、そんなことは口にはできない。

 けど、事実だった。


 それともうひとつ。

 数日に一度、ニックと共に夜外出するようになった。



「さて、と。オル、それじゃあ今日も行こうか?」


 食後、ニックが竪琴リラを片手に持ってそう言った。


「はい、ニック」


 僕はニックの背中に付き従う。ガイウスは留守番だ。


 夜中に城から出ることは禁止されている。治安維持上の問題だそうだ。

 でも、僕らの場合はマルクス伯父からの許可が出されている。


 マルクス伯父から王宮の馬車をひとつ借りる。

 御者はニックだ。ニックは《操御術系》の《技能》も修めているらしい。

 僕はひとりで竪琴リラを預かって、二頭立ての箱のような車内の中にちんまり座った。

 座面にクッションが入れられた座席は座り心地が良すぎてちょっと落ち着かない。


 そうして、ニックはいつものように王宮城門の門衛に挨拶して、大通りを南下する。

 馬車の窓に下げられたブラインドを少しだけ上げて外の様子を眺める。


 千鳥足の酔っ払いが多い。綿の服に皮のベストの酔っ払いがひとり、「我がほうの大勝利なり!」って壁に向かって敬礼していた。


 街のほとんどは寝静まっているようだけど、王宮から南へと向かうこの大通りはそこそこに賑やかだ。

 ニックによれば、こちら側は「明るい社交場」らしい。北側はもう少しいじけたような人が多いそうだ。


 カタカタと鳴る車輪の音と、カツカツ言う蹄鉄の音で、外の人たちの会話はほとんど聞こえない。

 けれど誰もが浮かれているようだ。

 確かにニックの言うようにあんまり陰気な人はいない。


 僕たちは彼らを横目に、外郭城門へと向かう。南の大通りも城門近くまで来るとずいぶんと暗い。

 明かりは馬車の屋根、ニックの頭の上あたりに輝くそれだけだ。


 そのうちに僕らの進行方向、高いところに点っているふたつの灯りが現れた。ニックが馬車の速度を緩める。

 暗くて大きな一枚の壁。そこに輝くふたつの灯りは城門の左右の塔の窓から漏れるもの。

 正面には大きな城門が、太い丸太製の落とし格子門によって塞がれている。丸太格子の向こうには鋼鉄製の格子門が落ちているのがさらに見受けられた。

 塔の最下部、ぽっかり空いた穴からひとつの灯りが現れた。門の守衛さんだ。彼は城門と僕らの馬車の間に進み出る。


 ニックが馬車の速度をさらに落として、守衛の兵士の目の前で停めた。


「アガルディ侯にございますね?」

「アガルディ侯代理だ」

「承っております。少しお待ちください」


 守衛の兵士が塔に向かって手に持った灯りを振った。ランプの灯りが闇の中にぼんやりと大きな円を描く。

 ぎしりと、軋みを上げる格子門。それが上へと持ち上がり、城壁の内部へと収納されていく。

 内側と外側、二枚の格子門がキレイにその姿を隠すと、兵士が道を譲ってくれた。


「月が昇りきる前には帰還する」

「畏まりました」


 僕たちは兵士に見送られてこの街を出発した。後ろでまた格子門が落ちる重い響きがした。


 広い街道の上を南へ。窓から見える景色は伸び始めたばかりの背の低い麦の海。

 十分以上は続いたそれも消えて、馬車は分かれ道を右へと折れる。

 森の中を突っ切り細くなる街道。すでに《ザントクリフ》の街がある高台から標高はいくらか下がっているのに、さらに坂を下っていく。

 さらに倍ぐらいは馬車を走らせただろうか。僕の目に映るほの暗い木々の流れが次第に緩くなっていく。ニックが馬車の速度を落とし始めたんだ。


 そして馬車が停止した。たぶん、いつもの場所に着いたのだろう。


「さあ、着いたよ」


 僕は開かれた馬車の扉から竪琴リラを携えて降りた。僕の目の前に茂みを割ってぐねぐねと登っていく細い道があった。

 ここからは少し歩くことになる。


 この道の先に僕の練習場がある。この先の高台から見える山が的だ。

 禿山はげやまとニックが呼んでいるなんの変哲もない岩山。


「歩けるかい?」

「できる限りは自分の脚で歩きます」


 僕は心配そうなニックに竪琴リラを返して、さっさと先を歩き出した。この夜の《魔法》の練習の時間が、僕の今一番集中して臨んでいること。

 あっという間に灯りを持ったニックに追いつかれて追い抜かされるけど。



 数分後、高台の頂上から見えた禿山はここ数か月の僕の《魔法》によってめためたになっていた。

 ただでさえ禿げ上がって露出していた山肌がぼこぼこにへこんで、今にも崩れそうだった。

 でもこの近くに村落はないし、開拓する予定もないから好きにやっていいとニックからは言われていた。


「いちおう、今夜も《音魔法》を展開するから」


 そう言ってニックは竪琴リラに指を這わせる。

 詩を歌い続ける間、詩人の周辺の音をすべて消してしまう《音魔法》。ニックの場合、それはかなり広範囲に亘り、少々離れた禿山も効果範囲に入るらしい。


 竪琴リラの音色が夜の闇に広がっていく。

 《音魔法》で歌われるのは、四つ柱の知の神々のうち《未知の神》でもある《夜の神》と《魔法》についてを詩ったそれ。


「――未だ、知らざれしもの。ゆえに、《夜の神》の、悦びたまうこと。夜の《かま》、そこには、名も知れぬもの。知れぬゆえに、近きもの。神の御蔵に、ちかきもの……」


 僕はその声を聴きながら、掌を合わせ、両手首を内側で合わせた。

 掌の厚みのぶんだけ。《呪文》がつながるはずのそこにわずかな隙間ができる。


 僕は右肩のあたり、《呪文》の冒頭部分に《魔力》を導く。

 ゆっくりと読み上げるように語順を意識する。最初のうちはこうやって体に描かれた《呪文》に《魔力》を流すことに慣れていく。

 そのうちに、イメージの速度が言葉の流れを追い抜くようになる。そうして、手首でつながり損ねた《呪文》を呟きによって完成させる。


 ニックの詩が、遥か遠くの《魔獣》の吠える声と一緒に僕の耳に溶け込んでくる。



――《夜の女神》はみっつの顔を持つ。ひとつは月。ひとつは夜。そして、もうひとつは魔。

 名もなきものどもの混沌の《かま》。その前に立ち、彼女は《かま》をかき混ぜる。


 すべての種族はそこから好きなぶんだけ掬い取る。

 しかし、心しなければ。

 その水差しもまた無銘のものなのだ。


 《かま》の中身は憶えている。たくさん突っ込まれ、引き抜かれていったものを。

 自分の仲間を覚えている。だから、今度は取られない。

 だから、心しなければ。


 泥水の中に、乾いた泥の桶を入れ。

 熔けた鉄の中に、冷えた鉄の桶を入れる。


 臆病者は、桶を手放す。

 業突く張りは、ただれ。


 それが嫌なら、確かに綱を掴んでいろ。

 己の無銘を手放すな。

 融けて無くなりたくないのなら――



 そう、『名も知れぬもの』というのが《魔力》。

 《魔力量》とは、その《魔力》の大元である『夜のかま』から安定して拾って来れる《魔力》の量。

 だから、《魔力》は涸れるわけじゃなくて、もともと僕らが持っているものでもない。


 ニックはその《魔力》で満たされた『夜のかま』を、精神と魂の混沌、《魔力の海オド・マーレ》と呼ぶのだと教えてくれた。

 別に、そこに精神やら魂やらが詰め込まれているわけじゃない。

 そこに深入りすると、精神が混濁し、魂が肉体を忘れてしまうからそう呼ばれているそうだ。


 そして、《魔力》は記憶する・・・・し、感覚する・・・・

 どれだけのものが、どの《呪文》によって浚われていったのかを。

 だから、《夜の女神》の気まぐれなんかじゃなくて、そうして《呪文》の威力は減衰していく。


 《呪文》というものは、ひとつの安全装置なんだ。それは術者の肉体と精神を守るための。


 僕らが言葉を介して使っている《魔力》を掬って来るための器をなんと呼べばいいのだろうか?

 それはたぶん、精神や魂と呼ぶべきものじゃない。


 これ・・は、もう少しだけ、恐ろしい。



「……オル。終わったようだね? 目眩は?」

「少しだけ。……やっぱり、万全でも一番弱い《呪文》で三発が限度みたいです。特に最後に入れた《呪文》は消耗が激しいみたい」

「十分だと思うよ」


 僕とニックは並んで、月の明かり照らされた禿山を見た。


「ただし、使いどころには気をつけて」


 ニックの言葉に僕は深く頷いた。

 形が変わり、だいぶ背の低くなった禿山のシルエットを見ながら。



 〓〓〓



〈――ルエルヴァ共和新歴百九年、ザントクリフ王国歴千四百六十六年、エウラの月、十八夜


 オルは順調に、新しい方法・・に習熟している。

 だが、私たちを取り囲む事態は少々複雑になっていた。



「北の開拓村のひとつを放棄することにした」


 今日、マルクスにそう言われた。

 これで開拓村を放棄するのは今年に入って三つ目になる。


 理由は単純。夜襲を受けて食料を奪われるのだ。大方の人々は軽傷で逃げ帰ってくるし、死者も今のところいない。

 そして、逃げ帰って来た者が口を揃えて言うことは、《人馬ケンタウルス》を見たという言葉。



 昨年の春から、《人馬》による開拓村の略奪は続いた。

 頻度が増した晩春、マルクスは即座に開拓村の放棄と全面撤退を決定し、《騎士》や私を含めた部下たち《魔法使い》を派遣して、様子を見ることにした。

 襲撃してきた《人馬》はそれ以上この街どころか農地にさえ接近を試みることはなく、その気配は完全に途絶えた。そして、そのまま冬になった。


 《人馬》がこの土地を離れたと結論づけたマルクスは、晩冬になって開拓の再開を発令した。

 だが、初春。《人馬》による襲撃がまた始まった。



「どう思う?」


 北の森に《人馬》が棲みついたことは確かだ。

 しかし、挑んでいるにしても中途半端だ。初夏にも収穫時の襲撃を警戒し、私と部下の《魔法使い》、《騎士》たちが警備に当たったが、《人馬》は現れなかった。

 昨年来の夜襲も、死者を出さないように配慮しているふしさえある。


「余もそう思う。……交渉の余地があるのではないか?」


 私もマルクスの意見には賛成だった。しかし、大っぴらにはできない。

 なにせ《魔族戦争デモニマキア》の因縁がある。

 この国の貴族はともかく、《グリア諸王国連合》には知られるわけにはいかない。


 それに相手は《獣人セリアントロープ》の《人馬》だ。

 彼らの警戒心は強い。交渉をどのように開始すべきか、それが何よりも難関だった。


 それにしても、晩夏から冬の終わりまで大人しかったというのに、春を迎えてなぜこれほど頻繁に夜襲を繰り返すのかがわからない。


「……もうひとつ、気になることがある。依然、《ギレヌミア人》に領袖の影は無いと《レルミー王》から情報が入った」


 八氏族も集結して? では、彼らはどのように集合したというのだ?


「そなたの予測した通りだ。《ギレヌミア人》の捕虜によれば、《人馬》を追っているうちに他氏族の領域に入ったそうだ。そのまま行動を共にしているうちに冬を迎えてしまったので、《モリーナ王国》を襲撃した、と」


 《ギレヌミア人》らしいと言えばらしいが。

 《獣人セリアントロープ》は人族の敵だ。


 《魔族戦争デモニマキア》終焉時、駆け込みで当時残っていた全氏族で人族陣営に参加した《ギレヌミア人》にとっても同様。

 その参加理由が、《エルフ》や《ドワーフ》よりも、《魔獣モンストゥルム》を従えて最終攻勢を仕掛ける《魔族デモニア》や《獣人》のほうが手強そうだという、いかにもな理由だとしても。

 久しく見なかった強い獲物を発見して追い回すぐらいのことはするかもしれない。


 しかし、やはり腑に落ちなかった。

 集結した《ギレヌミア人》の数が多すぎる。


「そうだな。……少数、たとえば、数十の《人馬》の群れが《ギレヌミア》の領域を縦横に駆け回ったということも考えられるが、むしろ《人馬》の数がかなり多いと考えるべきではないだろうか?」


 マルクスの予想が事実なら、それは非常に厄介だと言わざるをえない。

 《獣人》は一般的に人族よりも強力だ。彼らに正面から戦闘を挑める人族は《ギレヌミア人》ぐらいだろう。


 しかし、マルクスの考えた通りだとしても、収穫時に《人馬》の襲撃がなかったことや最近の頻繁な夜襲には説明がつかない。


「それはそうだが……《人馬》の規模は別にしても、《モリーナ王国》に起こったことが、我が国に起こらぬとは限らない」


 この国の北の森の向こう側は、確かに《ギレヌミア》の活動領域だ。

 加えて、《人馬》が北方から逃れてきたというなら、それなりの数の《ギレヌミア》氏族がそれを追ってきている可能性はあった。


「《ギレヌミア》と《人馬》。片方だけでも荷が勝ち過ぎる……どちらか片方とだけでも結べる可能性はあるか?」


 それは少々難しい問いだった。

 判断を誤れば、どちらとも戦闘に発展する可能性があるのだから。


 《人馬》に関しては、ひとつだけ確実な手があると言えなくもない。

 だが、あれはできるならば使いたくない手段でもある。


 とりあえず、北の森の樹幹のいくつかに《獣人》の言葉を刻むことにした。

 内容は、「ザントクリフ王、マルクス・レックス・ザントクリフ・ユニウス・レイアが、《夜の女神》の名において交渉を望んでいる」というもの。


……うまく返答があること祈るばかりだ〉

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