第23話
「肌に違和感はないかい?」
「それが不思議なのですけど、全然突っ張るような感じがありませんね?」
歩調を緩めて僕の脚に合わせてくれるニックに、息を切らしながら僕は答えた。
僕はまだまだ成長期。体も大きくなっているのに、肌に刻まれたそれが僕に不快感を与えることは無かった。
「肌そのものに刻むというよりは、《
「でも、書き込まれているときは、確かに肌が痛んだように思いましたよ?」
「あの《
「……へー」
ニックはときどき、こういうコワいことを後出しで言ってくる。
僕に後悔はないけどインフォームド・コンセントという言葉をニックには学んで欲しい。
固い感触の石畳。その上を裸足で歩いている僕はきっと少数派だろう。
初めて自分の脚で歩くこの街。その中には、たくさんの人たちがいた。綿の服を着ている人たちが多い。農夫や職工だ。
この国では多くの農民が城壁の中と外の両方に家を持っている。春から夏の刈り入れまでは外の家で。麦を蒔いた後の冬には城壁の中へ。
空から見て様子を知っていたけど、やっぱり実際に歩く街は違う。初めて吸う空気は想像よりも埃っぽくて、ちょっとだけ咳き込んだ。
いろんな人が僕とニックと同じほうへ向かってざわめきを上げながら歩いて行く。
僕たちの目的はきっと一緒なんだろう。
みんな明るく笑いあっている。でも、心の中ではどうなのだろう?
そんなことに気をとられていたら横を歩く人の腰にぶつかってよろけた。転びそうになる。
「オル、私が運ぶよ?」
僕の後ろからニックが顔を覗き込むように、僕を庇うようにしてそう言った。
僕は首を横に振って応える。
「いえ、ニック。自分の脚で歩きたいのです」
「そうか」
僕はまた、しっかりと地面を踏みしめて進む。
足の裏が痛む。膝がガクガクする。人混みに目眩がするし、空気の悪さに窒息しそう。
近くで見る家並みの白い壁は薄汚れているし、赤いレンガの屋根もところどころ剥げ落ちていた。
遠くから見たときは迷路みたいで面白そうだと思った細い道や、王宮から真っ直ぐに延びる石畳のキレイな道。
実際に歩いてみると、煤や土埃が降り積もっていて、ところどころ溶け残る雪も黒ずんでいた。
馬車でならきっと十分かからない道のりだ。
でも、今日だけは自分の脚であそこまで行きたかった。
「オル。見えたよ」
ニックの言葉に僕は人の群れの底から、上を見上げた。
人々の肩越しに見える青い空の中に、高い壁がそびえていた。
こんなに高かったんだ。
「ニック、イルマはいますか?」
「ああ、いるよ」
僕は駆け出した。
人々のざわめきが喚声に変わっていた。
僕は声を上げる人々の脚や腰の間に体を滑り込ませて、前へ前へ進んでいく。
「すみません、通してください」
僕の上からニックのそんな声が聞こえた。
眼の前の人垣が割れた。
大きく開かれた城門。その左右に並ぶ騎士たち。
オレンジ色の派手な皮鎧に、真っ赤なマントに身を包んだイルマが城門の向こう側に立っていた。
馬の手綱を引いて、
「お母さん!」
イルマがこっちを見た。そして、マントを翻して歩み寄って来る。
イルマがその太い腕で僕の体を抱き上げた。
「イルマ! 僕はもう九つですよ……少し恥ずかしいです」
「オル、お母さんってもう一回呼んでくれたら降ろしてあげる」
「……お母さん、鎧が派手ですね?」
「この子ったら! ここまで自分の脚で歩いてきたの? 偉いわ!」
僕の顔に頬ずりしてから、イルマは僕を地面に降ろした。
「イルマ。きみには余計なお世話かもしれないけど、武運を祈っているよ」
「ニック。オルのことよろしくね」
鎧姿のイルマは初めて見たけど、ど派手だった。
板金鎧じゃなくて、胸甲のみ金属製の皮鎧なのは、きっとそのほうが動きやすいからなんだと思う。
そのイルマがしゃがんで僕を抱き寄せる。胸甲が硬くて少し痛い。
「オル、聴きなさい」
「なんですか、イルマ?」
「……あたしが帰ったときに少しでも鈍ってたら、おしおきよ」
僕にだけ聞かせるための小声。
少しだけ身震いした。
立ち上がって、ひとつ伸びをしたイルマが僕とニックに向かって笑いかけた。
「さあ、もう出征式だから」
――こうして、イルマは戦地へと赴いて行った。
《ラマティルトス大陸》の真北、《グリア諸王国連合軍》と《ギレヌミア人》との戦地を目指して。
イルマを送り出してから三日。
僕はいつものように書斎でニックの詩を聴いていた。でも、考えていたのは別のこと。
現在、僕の体にはニックと同じように《魔法》の《呪文》が入れられている。
描かれている《呪文》は三つ。すべて右手首から始まって、左手首で終わるのだけれど、実際の《呪文》の冒頭部分は僕の肩あたりにある。
肩から始まって、右腕へと流れ、右手首から左手首に跳んで、体をぐるりと何周もして背中とお尻の間の真ん中あたりで終わる。
両手首を合わせると《呪文》がつながる。そこに自分の《魔力》を導くと《魔法》の完成となる。
《魔導具》なんかも似たような原理で動いているらしい。
ただ《魔導具》の場合も、モンスターの素材――《魔材》と呼ばれる《魔力》がもともと通っている物でしか機能を発揮しないらしい。
つまり、《呪文》をいくら文字として刻んでも、刻んだものに《魔力》が無ければなにも起きない。
《魔導具》に使用者が《魔力》を流すのは、あくまで起動させるためだけだという。
そのあとは、《魔導具》自体の《魔力》を消費して《魔法》現象が発動するのだそうで。
ニック曰く、人間の肌に《呪文》を入れるという考え自体は古くからあったんだけど、それを可能にする血液を持つ《竜種》が絶滅してしまっているらしい。
それに、同一の《呪文》の効力は使用するたびに減衰していく。
固定化された《呪文》を肌に入れることは長い時間の経過とともに忌避され、忘れ去られるようになったそうだ。
……そもそも、この方法は《魔法使い》自身が自分の体を道具と見なすことによって成立している。
それがまともな発想かといえば、そんなことはないように思えた。
王宮でニックの部下の九人の《魔法使い》にも紹介されたけど、いいとこのお坊ちゃんっぽさが滲み出ているか、尊大に見えるかのどちらかだった。
この世界では《魔法使い》は貴族だ。尊い体と血統の人々。
彼らが《呪文》を肌に負おうと考えるとは思えなかった。
改めて《魔法》について考えてみる。けど、考えれば考えるほどドツボに嵌っていくような気がする。
――これまで学習した限りでは《魔法》を使用するにはいくつかの条件がある。
ひとつ、《魔導の素養》の有無。
ふたつ、十分な《魔力量》。
みっつ、十分な語彙。
よっつ、《呪文》の最後に必ず挿入する《
ひとつめの《魔導の素養》については、《魔力》に対する受動能力である感知と、能動能力である発語や筆記によって《魔力》を載せることに別れる。
筆記は基本的に《魔導具》の製作にしか使われない技術みたい。
これらの基礎的な段階を《魔導》と呼ぶそうだ。
ふたつめの《魔力量》については謎が多い。基本的に、どれだけの《魔力量》を有しているかは生来、決定されているらしいのだけど、稀に急激に変化する場合もあるらしい。
というか、先日のニックの話し方だと「《魔力量》を有している」という言い方も正確ではなさそう。
しかも、《魔力》はちゃんと回復する。だいたい、一晩ぐっすり寝れば大丈夫なのだから、なにかリセット機能的なものが人族の体にはあるんだろうか?
みっつめの十分な語彙については、そのままだ。《魔法》を使うためには言葉にする必要がある。しかも、同じ《呪文》は唱えるごとに威力が減衰していく。
これは一人の人間に限ったことではなくて、歴史上唱えられたことがある《呪文》は、使用される《魔力量》とは関係なく、威力が落ちていくらしい。
ただし、ちょっと並び替えたりするだけで大幅に威力が向上したりすることもあるみたい。これも謎と言えば謎。ちなみにこの語彙に関する技巧を《魔術》と呼ぶ。
よっつめの《呪文》の最後に必ず挿入しなければならない《離切の言葉》。これは神々の名前を唱えることが一般的みたい。
ニックにはそういうものだと教えられてきたけど、先日聴いた「肉体の《魔法》現象化」について調べていたら、ある本に《離切の言葉》についての解説が一緒に載っていた。
この《離切の言葉》を唱えずに完成されてない《呪文》に《魔力》を注ぎすぎると「肉体の《魔法》現象化」が起こるらしい。
……《離切の言葉》は無茶苦茶大事だった。
それがいつ発生したのかわからないけれども、おそらくは《魔法》技術が誕生したと同時にできたものなんだと思う。
その本の著者の推測によれば、自分の《魔力》を《魔法》に変換する際に、「お前は、私ではなくて○○様の《魔力》なんだよ」と言い聞かせているのではないか? ということだった。
つまり、《離切の言葉》とは、自分の《魔力》の帰属を『離して切る言葉』。そうすることで、神々の力を使用しているわけではないけど、神々に帰属を渡すことになる。
そうして、ひとつの《魔法》が完遂される。
僕はてっきり《魔法》現象を安定化するために必要なものなんだと思っていた。
だって直接的な表現が使えないから、神様の名前でも唱えないと正確な効果が期待できないような気がしてたから。
まさか、《魔力》に《魔法》にされないために唱えるものだとは思わなかった。
じゃあ、その《魔力》ってなに? 言い聞かせてあげないと術者から離れてくれない? 《魔力》そのものに理解力があるのか?
というか、術者まで《魔法》にしちゃうってどんな反抗期なんだろう? コワすぎる。
僕はずっと《魔力》とは『魂』のことだと考えていた。
だけどその仮定もよくよく考えてみれば妙な感じ。
《魔法》によって《魔力》は消費される。《魔力》が『魂』だとすれば、《魔法》を使うごとに『魂』が摩り減ってるということになる。
それはやっぱり不自然なことだ。
転生についてもどう説明をしていいのかわからない。
たとえば、この世界における転生とは《魔法》の使用によってなされているとか?
だったら《魔法使い》以外の『魂』は転生できないのか?
そもそも、『魂』を消費しているとすれば、人格は無事でいられるのだろうか?
使いすぎれば廃人になると言っても、廃人になるまでに『魂』を使って大丈夫なわけ?
だから、『魂』そのものというよりは『魂』からあふれ出るエネルギー的なものが《魔法》に使われているとみるべきだ……そう思ったのだけど。
どうやらそれも不正解だったようだし。
……以前、ニックは僕の前世には《魔力》が無かったんじゃないか、と言っていなかっただろうか。
僕が転生している以上、『魂』はあったわけだし。つまり、この世界にはあって、向こうの世界には無かったもの?
……うぅん? 転生そのものが《魔力》に関わっているのか?
それともなにか別の要素が?
ふと、ニックの奏でる
僕が頭を抱えながら前を見ると、ニックが苦笑している。
「……オル、だいぶ悩んでいるようだね?」
「ニック、いくつか質問したいのですが?」
ニックは
「ニックは以前、僕の前世に《魔力》は無かったんじゃないか、と言っていましたよね?」
「ああ、そうだね」
「それは、僕の前世の世界に、この世界の《魔力》と呼ばれるものに対応するものが存在しなかった、という理解でいいのでしょうか?」
「どういうことだい?」
「僕が転生したということは、こちらの世界で『魂』と呼ばれるものは向こうの世界にも存在したということです」
「うん、そうだね」
「向こうの世界には《魔法》に近い概念はあっても、それは一般的には存在しないと思われているものでした」
「ふむ」
「向こうの世界には、《魔法》の元となる《魔力》に近い概念もあったと思います。だけど、それとは根本的に違うということなのでしょうか?」
「ちなみに、きみの前世の世界の《
「そうですね。……超自然的な、霊的な、個物の理想的な姿だとか、あるいは大地や空に宿っていて、あまねく存在しているものだとか……」
「ふむ。オル自身はどう思う?」
「……うーん。……なんとも言えないような? 確かに少し違和感はあるのですけど……」
そこで、ふと、僕はあることに気がついた。
「この世界でも《魔力》というものをほかの言葉にしようとすること自体無意味なのではないでしょうか?」
「ほう……それは、つまり?」
「え?」
「どうした、オル? さあ、続きを。《
なに、この予想外の反応?
え、もしかして正解に近づいてるの?
僕をじっと見つめる紫色の瞳。僕は慎重に考えてみることにした。
……そう、そもそも名称というものは限定的なものではない。前世でも語の曖昧な使用が哲学を産んだとかそんな話もあった気がする。
ふつうに考えれば、創めに言葉あり、とはいかない。
曖昧さを含んだ現象や事物を名づけるというラベリングによって、統辞構造に組み込むということが言語における語彙の位置。
抽象化された概念に名前を与えて文法というシステムによって操作を可能にする。
だからこそ、有意味な文と、無意味な文というものが存在する。
でも、ニックの質問は「《
質問に答えるためには言葉にしなければならない。
それがもう、ちょっと撞着している気がする。
それは《魔力》というものに新しい名前をつけるようなものだ。
だって、この世界には《魔力》というものが既に存在している。たぶん名づけられる前から。
《魔力》がそう名づけられる前の名称を答える、という質問だと考えればいいのか?
ちょっと整理してみよう。《魔力》というのは、《魔法》の元になるエネルギーで、人族によって感知・操作できるもので、使用しても勝手に回復するもので。
そして《離切の言葉》を唱えなければ、術者の体さえ《魔法》現象に……。
「オル?」
そうだ。《離切の言葉》にはどうして神々の名を使うのだろう。
それはつまり、神々も《魔力》を持っているということ? でも、ニックは《祈り》を使ったときに現れた光の玉を、神々の力だと言った。
神々が使用する力と《魔力》は異なる。それでも、《離切の言葉》には神々の名を唱える。
そして、《祈り》にも《魔力》を込めるとニックは言った。神々に届くように。
――ああ、そうだった。
こっちの世界にあって、向こうの世界には絶対無かったもの。
地上さえもほっつき歩いているという神様。
え? でも、そんなまさか? だって彼らは実体を持っているのに……。
「オル?」
「……まさか、ニック? ……《魔力》とは神々だとか言わないでしょうね?」
――ニックがにっこりと笑う。
そして、僕の肩を叩いて喜びの声を上げた。
「よし、正解だ! オル!」
〓〓〓
〈――ルエルヴァ共和新歴百八年、ザントクリフ王国歴千四百六十五年、ヘカティアの月、三十夜
オルレイウスが早くも、伝統の問いに答えを出した。
ほぼ満点に近い回答だったが、少々正確さには欠ける。
まあ、《ドルイド》が数十年修行の後に答えを出すものだから、九つのオルにそれを求めるのは酷というものだろう。
あの問いの正答にはみっつある。
「神々が姿を成す前の大元」
「質問者に対する七日以上の沈黙」
「名づけられる前のもの」
つまり、言葉にできないもの、ということが正解となる。
オルはまあ、一番目に該当する。
少し甘かっただろうか?
まあ、構うまい。
あとはオルを《
ほかにも三名以上の《ドルイド》の教化と承認を受けるという方法があるが、これには時間がかかる。
それと、オルを《ドルイド》にするにはもうひとつ、問題がある。
《ドリアハトゥ》に伝わる詩編は、《
……どちらにしても、今はこの国を離れることはできない。
イルマが五十名の騎士を率いて出立してからまだ三日だ。
現在のこの国の戦力は騎士が三百ほどに、そのほかの成年男子が四千ほど。
一昨日、宮宰が鬼籍に入り、新たな宮宰に任じられたのはルード宮中伯だ。
しかし、昨日。冬の間、空にしていた開拓村の見回りから戻った者の報告を受けて、新宮宰は倒れてしまった。
開拓村が人の手によって荒らされた形跡があった、と。
それだけなら、飢民という可能性も十分にあったが、そこには大量の蹄の痕跡があったらしい。馬を引き連れた飢民などいない。
マルクスを中心に、貴族との会合は行われているが、巡回の強化ぐらいしかできることが無い。
マルクスは、一旦、開拓村を放棄することも視野に入れているようだが。
それが《
どちらが攻めてきたとしても、非常に厄介。
『おかしなもんだ。自分の巣が危ないってのに、ほかの巣を守るために出しゃばる』
《
だが、《ザントクリフ王国》は《グリア諸王国連合》に加盟して日が浅い。
それに、加盟に尽力してくれた《レルミー王国》からの出兵依頼だ。
断れば立つ瀬がない。
『そうやって、他に引きずりまわされているのは、《魔族戦争》のときから変わっていないらしい』
まるで、私を直接見知っているかのような口ぶり。
『お前さんのことは知らないさ』
じゃあ、誰ならば知っているというのか?
その問いかけに、やはりと言うべきか、《蛇》は沈黙した〉
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